え? 主人公?
確かに主役がいなければ話になりませんが、主人公が活躍するためには絶対に必要な人々がいますよね。
そう、悪役です。悪役が物語などの世界の中で憎々(にくにく)しげに振舞(ふるま)えば振舞うほど、最後の場面での主人公の大活躍に、私たちは溜飲(りゅういん)を下げることができます。
数多くの歴史上の人物の中には、いわゆる「悪役」扱いされている人々も結構います。しかし、そのうちのほとんどは、私たちが悪役と一方的に決め付けていることが多いのも現実です。以前に紹介した徳川綱吉(とくがわつなよし)も、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)が誤解されたことによって「犬公方」(いぬくぼう)という有難くもない名前をつけられてしまいました。
そして、その綱吉と同じくらい、あるいはそれ以上に「誤解」されたがゆえに、江戸時代きっての「悪役」というレッテルを貼られてしまった人物こそが、今回紹介する田沼意次(たぬまおきつぐ)なのです。




いつも有難うございます。
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しらさぎ こんにちわ。
いつも、記事拝見させていただいております。
あと、今年も残す所1日半となりました。いつも、読み逃げで、失礼しております。
来る年も、日本歴史を、もう一度僕たちに伝えていっていってぐださい。
先生の御多幸をお祈りしております。
しらさぎさんへ
黒田裕樹 > いつも、記事拝見させていただいております。
有難うございます。
> あと、今年も残す所1日半となりました。いつも、読み逃げで、失礼しております。
> 来る年も、日本歴史を、もう一度僕たちに伝えていっていってぐださい。
> 先生の御多幸をお祈りしております。
ご丁寧なお言葉、感謝します。
来年もブログの更新に励みますので、こちらこそよろしくお願いします。
なお、年末年始も欠かさず更新を続けます。
歴史学者の怠慢?
オバrev 田沼意次と言えば、賄賂で私腹を肥やしたというイメージしかありません。
その前後の改革は3大改革と呼ばれているのに、田沼意次の改革には名前さえありません。
歴史学者が十分な検証もせずにいたためという疑いを持ちますが、どうなんでしょうか。
.
ぴーち こんばんは!
動画はまた後ほど拝見させてくあださいね^^(どうも、パソコンの調子が悪くて今は拝見することが出来ませんTT)
仰る通り、悪役がいかにも憎々しげに演じるからこそ、主人公がより際立つというものですよね。
それと、恥ずかしながら、
「溜飲を下げる」という言葉を初めて伺いましたよ^^;
すごい表現もあるものですね~!
田沼意次。。名前は存じておりましたが、直接お会いしたことが無いので、詳しくは知りません。(当たり前ですね爆)
どんな展開になるのでしょうか。。また、楽しみにお邪魔させてくださいね!
では、応援凸
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今回は田沼意次ですね。
この方に関しては前にも言ったかと思われますが
賄賂で政治を乱したというイメージの人物なので
本当はどんな事をした人物だったのか興味がありますね。
次回が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 三大改革といっても「幕府側の改革」であり、また幕府側の立場としては(後に紹介しますが)幕府公認の学問や宗教に反した政治を否定したいという固定観念があったことで、徳川綱吉や田沼意次の政治が不当な扱いを受けてきたんです。
そして、歴史学者が幕府による「洗脳」から目覚めることなく、先入観で同じような研究を長い間行ってきた、といったところでしょうか。
もっとも、戦後に入ってからは、洗脳を受けなかった、あるいは脱出した歴史学者によって、綱吉や意次の政治も少しずつ見直されているようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画はまた後ほど拝見させてくださいね^^(どうも、パソコンの調子が悪くて今は拝見することが出来ませんTT)
もちろん、いつでもご覧になれますから大丈夫ですよ(^^♪
> 仰る通り、悪役がいかにも憎々しげに演じるからこそ、主人公がより際立つというものですよね。
> それと、恥ずかしながら、
> 「溜飲を下げる」という言葉を初めて伺いましたよ^^;
> すごい表現もあるものですね~!
確かに悪役の活躍(?)がなければ、私たちは溜飲を下げてスッキリすることができませんからね。表現的には仰るとおり結構凄いかもしれません(^^ゞ
> 田沼意次。。名前は存じておりましたが、直接お会いしたことが無いので、詳しくは知りません。(当たり前ですね爆)
> どんな展開になるのでしょうか。。また、楽しみにお邪魔させてくださいね!
> では、応援凸
私もお会いしてみたかった歴史上の人物の一人ですね(笑)。
これから約2週間半かけてじっくりと進めていきますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今回は田沼意次ですね。
> この方に関しては前にも言ったかと思われますが
> 賄賂で政治を乱したというイメージの人物なので
> 本当はどんな事をした人物だったのか興味がありますね。
> 次回が楽しみです。
お言葉有難うございます。
スポーツ猫さんが抱いているイメージが、通常の歴史教育を受けてこられた皆様の多数のお考えだと思います。これからの展開にご期待いただければ幸いです。
.
ケンシロウ こんにちは。
今年は色々お世話になりました。
先生の今年のご活躍には
おいらなりに励まされました。
良いお年をお迎え下され。
.
佐佐木あつし ついに来ましたね。田沼意次!
従来のイメージをどう先生が払しょくされるのか期待バリバリです。
北方問題、松前藩、アイヌなどのキーワードも大きいテーマだとは思いますが、楽しみに拝見させていただきます。
田沼意次という人物ほど、時代劇で悪役扱いされている人物はいないでしょう。その理由はズバリ「賄賂政治」(わいろせいじ)と呼ばれた彼の一連の政策です。賄賂によって特定商人と結託(けったく)し、私腹(しふく)を肥(こ)やすという政治の腐敗(ふはい)によって、名もなき庶民(しょみん)が苦しめられる、というのが典型的なパターンです。
そんな折に、まさに「正義の味方」として現れる人物がいます。彼こそが松平定信(まつだいらさだのぶ)であり、定信は正義の力で意次を江戸幕府から追放することに成功する(ドラマによっては意次が殺されることもあります)と、以後は定信による「寛政の改革」(かんせいのかいかく)によって江戸の庶民に平和が訪れるというストーリーがほとんどなのですが、この話って、本当のことなのでしょうか?
綱吉の場合もそうですが、私たちは意識的につくられたイメージを頭から信じ込んで疑わなかったり、あるいは始めから結論を意識したうえで行動を起こしたりすることが良くあります。時と場合にもよりますが、こうした固定観念(こていかんねん)や先入観(せんにゅうかん)にこだわっていては、歴史の実像をつかむのは難しいといわざるを得ません。
今回の講座では、田沼意次と松平定信のそれぞれの実像に迫(せま)ることによって、二人のうちどちらが本当の悪役、いや「悪人」なのかを考えてみたいと思います。




いつも有難うございます。
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智里 え~!!
田沼意次って悪代官様じゃ無かったの!?
本当はどうなの?
すごい気になるわ(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
もしかして、いままでの概念を覆す講座だったのか!!
黒田さん、今年1年大変お世話になりました。
来年もひとつヨロシクお願いします。
あと少しですが、良い年を迎えてくださいね。
.
安眠癒しグマ 本年はどうも有難うございました。
来年もよろしくお願いいたします。
黒田さんのより一層のご活躍お祈りしております☆
智里さんへ
黒田裕樹 > え~!!
> 田沼意次って悪代官様じゃ無かったの!?
> 本当はどうなの?
> すごい気になるわ(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
> もしかして、いままでの概念を覆す講座だったのか!!
そうかもしれませんよ( ̄ー ̄)ニヤリ
年始から1月の上旬にかけては、驚きの連続になるかも!?
> 黒田さん、今年1年大変お世話になりました。
> 来年もひとつヨロシクお願いします。
> あと少しですが、良い年を迎えてくださいね。
有難うございます。智里さんも良い年をお迎え下さいm(_ _)m
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > 本年はどうも有難うございました。
> 来年もよろしくお願いいたします。
> 黒田さんのより一層のご活躍お祈りしております☆
お言葉有難うございます。
安眠癒しグマさんも良い年をお迎え下さい。
来年も素晴らしい一年でありますように…。
.
ta-ta いつも訪問ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。コメントできるほど知識がないのですが、楽しみにブログ読ませていただいています
ta-taさんへ
黒田裕樹 ご訪問ならびにお言葉有難うございます。
こんなブログではありますが、来年もよろしくお願いいたします。
.
ぴーち こんばんは!
そうですよね。
下手な固定観念や、先入観は
知識を吸収しようとする気持ちの妨げになりますね。
私のように、歴史の記憶喪失状態のようなタイプの方が、逆に何の先入観もなく、覚える事が出来るので、良いのかもなんて・・・良い方に考えてみたりします(笑)
それでは、今年は大変お世話になりました^^
来年の目標は、リアル黒田さんの講座に参加させていただくことです★
是非、東京講座が成功されますよう、心よりお祈りしております♪
それでは、良いお年をお迎えくださいね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですよね。
> 下手な固定観念や、先入観は
> 知識を吸収しようとする気持ちの妨げになりますね。
> 私のように、歴史の記憶喪失状態のようなタイプの方が、逆に何の先入観もなく、覚える事が出来るので、良いのかもなんて・・・良い方に考えてみたりします(笑)
思い込みそのものは決して悪いことではありませんが、時と場合によりますよね。
私の講座が、ぴーちさんにとっての新たな知識の吸収の手助けとなれるのであれば、こんなにうれしいことはありません(^^♪
> それでは、今年は大変お世話になりました^^
> 来年の目標は、リアル黒田さんの講座に参加させていただくことです★
> 是非、東京講座が成功されますよう、心よりお祈りしております♪
> それでは、良いお年をお迎えくださいね!
> 応援凸
気がつけば1ヶ月半後ですからね。
是非とも今回の講座を成功させて、東京で継続的に行えればと私も願っております。
ぴーちさんもよいお年をお迎え下さいm(_ _)m
.
こえめ 先入観、固定観念。これらをはずしてみると、
新しい事実が見えてくるのね。
そうですよね。根っからの悪人なんて、いないんです。
みんな親から生まれて、人の中で育ってきたんですものね。
どんなビックリの実像か、楽しみにしていまーす。
今年はこの講座と出会えて、物の見方が広がったように思います。
ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い致します。
こえめさんへ
黒田裕樹 > 先入観、固定観念。これらをはずしてみると、
> 新しい事実が見えてくるのね。
そのとおりです。私たちは自分で真実を見極める習慣を身につけないと、知らず知らずのうちにニセの情報をつかまされている可能性も否定できません。何事も自分の目で確かめることの重要性を実感しますね。
> そうですよね。根っからの悪人なんて、いないんです。
> みんな親から生まれて、人の中で育ってきたんですものね。
> どんなビックリの実像か、楽しみにしていまーす。
「田沼=悪人」説の「虚像」をどう打ち破っていくかですが、そのためには真実の裏付けがカギを握ることになるでしょう。もちろんその逆も…ですね。
> 今年はこの講座と出会えて、物の見方が広がったように思います。
> ありがとうございました。
> 来年もどうぞよろしくお願い致します。
丁寧なお言葉、有難うございます。
こちらこそよろしくお願いいたします。
意次は若い頃から後に第9代将軍となる吉宗の子の徳川家重(とくがわいえしげ)の小姓(こしょう、身の回りの世話をする役目のこと)として抜擢(ばってき)され、家重の信頼を受けるとともに、実力を買われて出世していきました。1751年には将軍である家重の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任し、1758年には1万石の大名となりました。
家重は1760年に隠居して、子の徳川家治(とくがわいえはる)が第10代将軍に就任しますが、家重が「意次は優秀な人物だから引き続き用いるように」と家治に勧めたこともあって、意次は家治からも厚い信頼を受けました。
そして、1767年には正式に側用人(そばようにん)となり、1772年には老中(ろうじゅう)を兼任するまで出世を重ねたのみならず、石高(こくだか)も最終的には5万7,000石にまで増え、遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の相良(さがら)に新たに相良城(さがらじょう)を築くまでに至(いた)りました。意次が全盛期の頃の時代は「田沼時代」(たぬまじだい)と文字どおりに呼ばれています。
意次がここまで出世できたのは、二人の将軍に可愛がられたこともありますが、やはり意次自身の能力が極めて高かったのが主な原因でしょう。では、その意次の実力とはどのようなものなのでしょうか?




いつも有難うございます。
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miwa 明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します^^
>やはり意次自身の能力が極めて高かった
そうでしょうねー。そして信頼できる人物だったからこそ出世出来たのでしょうね。
すごいww足軽からの大出世ですね!!
戦国時代なら分かりますが、江戸時代でもこんな事が可能だったのですね。驚き。
.
ケンシロウ こんにちは。
おめでとうございます。
何時も記事と異なるコメントで
ほんと申し訳ないです。
も少し早く訪問出来ていれば
↓の記事でバッチリご挨拶のタイミングだったのに。
今年もこんな感じで出遅れそうなおいらですw
ほいじゃ今年もヨロシクです。
miwaさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
> そうでしょうねー。そして信頼できる人物だったからこそ出世出来たのでしょうね。
> すごいww足軽からの大出世ですね!!
> 戦国時代なら分かりますが、江戸時代でもこんな事が可能だったのですね。驚き。
戦国時代は主に武力での出世でしたが、平和な時代であっても世の中が変革を求めているときに、政府や国民のニーズに合った政治を実行できる人物が出世するのは至極当然のことだと思います。
意次の「ニーズに合った政治」については、この後じっくりと紹介していくことになりますので、よろしくお願いします。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
コメントを下さって感謝していますよ(^_^)v
今年もよろしくお願いしますm(_ _)m
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いします。
田沼意次も低い身分から登ってきた
人だった事にびっくりしましたね。
決して親の七光りだけで政治をしていたのでは
ない事が分かって勉強になりました。
ありがとうございます。
リンクの件ですが
私の方はいつでもOKで
私の方は黒田先生のブログのリンクを既に貼っているので
不備があれば仰って下さい。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 明けましておめでとうございます。
> 昨年は大変お世話になりました。
> 本年もよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
> 田沼意次も低い身分から登ってきた
> 人だった事にびっくりしましたね。
> 決して親の七光りだけで政治をしていたのでは
> ない事が分かって勉強になりました。
> ありがとうございます。
「親の七光り」でも立派な政治ができる人物も確かに存在しますが、意次のように身分の低かった人物が実力を買われて出世した方が確実に政治ができますね。実力がなければ出世できませんから。
> リンクの件ですが
> 私の方はいつでもOKで
> 私の方は黒田先生のブログのリンクを既に貼っているので
> 不備があれば仰って下さい。
有難うございます。今後ともよろしくお願いします。
.
なみなみ あけましておめでとうございます!
田沼意次、楽しみです!
他の人たちとはまったく違う日本を
見ていたのではないでしょうか。
意次を重用した二人の将軍は、
お目が高いですね。
なみなみさんへ
黒田裕樹 > あけましておめでとうございます!
明けましておめでとうございます(^_^)v
> 田沼意次、楽しみです!
> 他の人たちとはまったく違う日本を
> 見ていたのではないでしょうか。
> 意次を重用した二人の将軍は、
> お目が高いですね。
そのとおりです。意次=悪役説の影響で、二人とも「バカ殿」扱いされていますが、意次の実力を見抜いた家重、父の言うことに従ったのみならず全幅の信頼を寄せた家治とも、有能な将軍であったことは間違いありません。お上が支えてこその意次の政治ですからね。
.
こえめ 歴史に疎いので田沼意次ってどんな人か、
イマイチよく分からない私です。
でも、二人の将軍に取り立てられたということは、
確かにかなり有能だったわけですよねー。羨ましー^・ρ・^
お城も建てちゃったなんて。回りも認める人材だったということですよね。
わあ、歴史の謎解き、次回も楽しみにしていまーすッ!
こえめさんへ
黒田裕樹 > 歴史に疎いので田沼意次ってどんな人か、
> イマイチよく分からない私です。
> でも、二人の将軍に取り立てられたということは、
> 確かにかなり有能だったわけですよねー。羨ましー^・ρ・^
> お城も建てちゃったなんて。回りも認める人材だったということですよね。
今回の場合は、意次に関する先入観がないほうがすんなりと理解できるかもしれませんね。
城を建ててよいというのは有能な証拠でもありますよ(^_^)v
> わあ、歴史の謎解き、次回も楽しみにしていまーすッ!
明日(2日)からいよいよ意次の具体的な政治の話に入りますので、ご期待くださいね(^^♪
実は、当時の江戸幕府では賄賂を取ることはむしろ当たり前という感覚がありました。なぜなら、賄賂を取ればそれだけ、賄賂を贈ってくる側の諸大名や商人の勢力を削(そ)ぐことができるからです。従って、幕府の権力を保つためという口実のもとに、意次以外の幕閣(ばっかく、幕府の首脳のこと)も積極的に賄賂を受け取っていたのが現実の姿でした。
加えて、そもそも有力な政治家に対して金品を贈ることは、現代の法律で認められた「政治献金」も含めて、昔も今もある意味当然の感覚ですし、当時の幕閣の中で、意次に一番実力があると誰しもが思ったからこそ、彼に賄賂を贈っていたとも考えられます。
ちなみに、清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく、後ろ暗いところのないこと)で知られる松平定信も、幕閣入りを目指して意次にしきりに賄賂を贈っていたのは有名な話です。




いつも有難うございます。
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こえめ 「賄賂」の意味が今と違ったていたとは、目からウロコのお話でした。
今の感覚で歴史をみる危険性があること、よく分かりました。
文化は生き物。変化していますものねッ。
世界中の歴史も、新しい解釈で書き換えられているんでしょう?
人間の視野が狭いことは、常に頭の隅に入れておくことが必要だなって思いました。
私達が知っていると思っていること、正しいとされていること。
絶対の価値じゃないってことニャね。
あ。猫が出ちゃった(笑)
.
スズメ あけましておめでとうございます。
いつも、読んでぽち!にて失礼しています。
今年もよろしくお願い致します。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
当時の時代では「賄賂」が悪い事と思われていなかったばかりか
松平定信も田沼意次に「賄賂」をやっていたのは本当に吃驚しました。
現代の常識では信じられないような事ですが。
今日もまた一つ勉強させて貰いありがとうございました。
.明けましておめでとうございます。
オバrev なるほど、確かに賄賂が悪だという先入観がありますね。政治献金と考えればまた見方が違ってきます。
これは現代もありますからね。むしろ現代の方がもっと賄賂っぽいかもしれません。
知り合いの設計会社社長が施主から依頼を受けて、基本構想を決めて行政手続きを行って、さあ具体的な設計に入ろうとしたところで、某大物議員からその施主に「設計はこの業者を使ってくれ」という横やりが入ることがあったそうです(^^;
諦めるしかなかったそうです。
.
ふぃる 明けましておめでとうございます^^
今年こそは、黒田先生の歴史講座を聞きに行きたいと思います。
教科書には無い、心引き込まれる歴史をぜひ
子どもにも聞かせたいです^^
今年もよろしくお願いします。
.
HANA子 明けましておめでとうございます!
以前からおうかがいだけはしていたのですが、遅ればせながら初めてコメントさせていただきます
わたしは歴史好きを自称しているのですけど、
なんとも“好き”の枠から脱してないなぁと頭をかきかき毎回拝読してます
もっぱら近現代史ばかりのわたしは、中々中世以前・・・江戸時代や鎌倉時代には顔が向かないのですけど、こちらの記事を読んでてとても興味をひかれてきました
ブログ、講座ともにがんばってください^^
こえめさんへ
黒田裕樹 > 「賄賂」の意味が今と違ったていたとは、目からウロコのお話でした。
> 今の感覚で歴史をみる危険性があること、よく分かりました。
> 文化は生き物。変化していますものねッ。
そのとおりです。
現代の価値観で過去の物事を見極めることは非常に危険なんです。
例えば忠臣蔵なども、現代に当てはめれば単なる「集団による虐殺事件」になってしまいますし。
> 世界中の歴史も、新しい解釈で書き換えられているんでしょう?
> 人間の視野が狭いことは、常に頭の隅に入れておくことが必要だなって思いました。
> 私達が知っていると思っていること、正しいとされていること。
> 絶対の価値じゃないってことニャね。
> あ。猫が出ちゃった(笑)
日本史に限らず、世界史も「勝者が書く歴史」ということで見直す必要がありますね。
例えば、過去に「インディアン」と言われて不当な扱いを受けたアメリカの原住民も、最近では「ネイティヴアメリカン」と呼称するのが当然となっているように。
過去と現在との価値観の違いを意識したうえで歴史を見ないと、我々はとんでもない勘違いをしてしまいかねないということです。
ところで、最後の一言は聞かなかったことにしておきますね(笑)。
スズメさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
こちらこそいつも「読み逃げ」ばかりで恐縮です。
今年の更新も楽しみにしております。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 当時の時代では「賄賂」が悪い事と思われていなかったばかりか
> 松平定信も田沼意次に「賄賂」をやっていたのは本当に吃驚しました。
> 現代の常識では信じられないような事ですが。
江戸時代のような封建社会では、将来は敵になりそうな勢力をつぶすことも重要な役割でした。今回の話は、このような「当時の常識」が分かっていないと、本当の歴史を理解することができないという一つの例だと思います。
松平定信については、まだまだ私たちが目くらましされていることが今後もどんどん出てくることになりますので、今後もお付き合いいただければ幸いです。
> 今日もまた一つ勉強させて貰いありがとうございました。
今日も励ましのお言葉を有難うございますm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、確かに賄賂が悪だという先入観がありますね。政治献金と考えればまた見方が違ってきます。
> これは現代もありますからね。むしろ現代の方がもっと賄賂っぽいかもしれません。
そのとおりです。実力があると認めた政治家であるからこそ、便宜をはかってもらいたくて競って献金しようとするのが自然な流れですよね。「クリーン」を強調するのは、実は己の実力がないことを天下に知らしめていることでもあります。
> 知り合いの設計会社社長が施主から依頼を受けて、基本構想を決めて行政手続きを行って、さあ具体的な設計に入ろうとしたところで、某大物議員からその施主に「設計はこの業者を使ってくれ」という横やりが入ることがあったそうです(^^;
> 諦めるしかなかったそうです。
生々しい話ですが、それが現実なんですよね(´・ω・`)
あまり子供たちには話したくないですが、こういう現実を知ったうえで、将来どうするのかということを考えさせるのも一つの教育かもしれません。
重農主義だけではもはや幕府政治が機能しないということを悟(さと)った意次は、やがて政治の実権を握ると、現実的な重商主義(じゅうしょうしゅぎ)に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行していったのでした。
意次がまず行ったのは、一年間の予算の編成でした。現代では当たり前の予算制度ですが、江戸幕府においては、それまでは必要な際に幕府の金蔵(かねぐら)から金銀を引き出していたのです。このようないわゆるドンブリ勘定(かんじょう)を続けていては、いつまで経っても経費削減はできません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく、思い切った手段を実行する―。意次の 「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 私が意次を評価する点がまさにこれです。賄賂にまみれて腐敗政治をやっていたなんて、とんでもない事です。
現代の政治に例えたら、松平定信は中国四人組の文化大革命のような暴挙でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 私が意次を評価する点がまさにこれです。賄賂にまみれて腐敗政治をやっていたなんて、とんでもない事です。
仰るとおりです。物事の表面だけをとらえて非難するのではなく、実績を見極めたうえで評価をしてほしいものです。
> 現代の政治に例えたら、松平定信は中国四人組の文化大革命のような暴挙でしょう。
なかなか厳しいご意見ですね。
私も似たような評価を後日下すことになると思います。
.どこで学んだ?
オバrev なんと、意次は1年間の予算編成を初めてとりいれたんですか。
しかも、将軍家や大奥の予算を削減していったなんて。
重商主義や規制緩和などもいったい、いつ、どこでこういう経済学を学んだんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なんと、意次は1年間の予算編成を初めてとりいれたんですか。
> しかも、将軍家や大奥の予算を削減していったなんて。
これも知られていない事実ですね。
自分の予算を減らされても意次を出世させる、家治の太っ腹も凄いです。
> 重商主義や規制緩和などもいったい、いつ、どこでこういう経済学を学んだんでしょうか。
重農主義の限界を悟った頃から、独学で学んでいったのかもしれませんね。
あるいは、もともと頭脳のある人と思われますから、負の教訓から逆算して身につけたのかもしれません。
.
こえめ なんとなんと!
人民のためにいいことをしていたんですねっ。
そういう政策を打ち出して、将軍様に認めさせちゃうなんて、
凄腕ですねー。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
1年間の予算案を組んだのも
田沼意次が最初だったんですね
今日もまたひとつ勉強させて貰いました。
そしてこの田沼意次講座を拝見していて
私の中の田沼意次の印象がかなり変わりましたね。
田沼意次は現代の歴史教育の方針で
誤解された一人かもしれないと考えるようになりましたね。
こえめさんへ
黒田裕樹 > なんとなんと!
> 人民のためにいいことをしていたんですねっ。
> そういう政策を打ち出して、将軍様に認めさせちゃうなんて、
> 凄腕ですねー。
そのとおりですね。
民政部門は据え置きにして、一番カネがかかってしかも削減しにくい「奥向き」の費用を容赦なく下げ、しかもそれを将軍に認めさせる。
現代の政治家にも聞かせてやりたいエピソードですね(^_^)v
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 1年間の予算案を組んだのも
> 田沼意次が最初だったんですね
> 今日もまたひとつ勉強させて貰いました。
おカネが有り余っていれば、予算を組む必要はありません。
しかしこの頃の幕府は緊縮財政。にもかかわらず意次の時代まで予算の概念がないのがむしろ不思議ですよね。
意次の実行力の高さがうかがえるエピソードでもあります。
> そしてこの田沼意次講座を拝見していて
> 私の中の田沼意次の印象がかなり変わりましたね。
> 田沼意次は現代の歴史教育の方針で
> 誤解された一人かもしれないと考えるようになりましたね。
そうですね。
実は意次は江戸時代から嫌われていました。
その理由については今後紹介します。
「意次の印象」については、次回以降でさらに変化するかもしれませんよ(^^♪
.
紗那 なんとなく学校の先生の話とか授業内容でいい人っぽいイメージを漠然と抱いてましたが、ここまで先見の明を持っている人とは思いませんでした!
というより、予算を組んでいないことのほうが驚きです。今まで何をやってたんでしょうね?時の将軍様たちは。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なんとなく学校の先生の話とか授業内容でいい人っぽいイメージを漠然と抱いてましたが、ここまで先見の明を持っている人とは思いませんでした!
そうですね。でもこれはまだほんの序の口ですよ(笑)。
これから意次の「本当の政治」が始まります(^o^)丿
> というより、予算を組んでいないことのほうが驚きです。今まで何をやってたんでしょうね?時の将軍様たちは。
綱吉や吉宗も予算という概念までには気がつかなかったというところでしょうか。気がついていたとしても、意次のような本格的なものにまでは至っていなかったのかもしれませんね。
田沼時代の頃までには、物品ごとに仕入れから販売までの独自のルートが確立されており、複数の同業の商人によって運営されていました。意次は、これら物品のルートごとに税を、すなわち物品ごとに流通税(りゅうつうぜい)をかけることで、「儒教と商行為」の影響を和らげようとしたのです。
こうした発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と条件付きで税を支払うことに応じました。こうして幕府と商人たちとの思惑が一致したことによって、営業の独占権を与えられた株仲間(かぶなかま)が幕府の公認を受けることになりました。
株仲間が扱(あつか)った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみどんや)、大坂(現在の大阪)では二十四組問屋が結成されました。また、彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって幕府財政も潤(うるお)い、商業の繁栄(はんえい)は景気を上向かせる要素にもなりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この時代に営業の独占権が認められたんですね。
株仲間という言葉は、記憶にありましたが、こういうことだったんですね!
現代の独占禁止法との関わりは
あるのでしょうか?
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時代に営業の独占権が認められたんですね。
> 株仲間という言葉は、記憶にありましたが、こういうことだったんですね!
> 現代の独占禁止法との関わりは
> あるのでしょうか?
この頃は「独占禁止法」の概念はどちらかといえば薄かったと思われます。
田沼時代には、商人から税を集めることのメリットを重視していました。
株仲間は後に解散させられますが、その場合も「物価が下がらない元凶」とされたのが主な理由ですね。
.まいった!
オバrev すべてをうまくまとめた田沼意次の柔軟な思考にはまいった!ですね。
この流通税って、今の消費税と同じようなものですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > すべてをうまくまとめた田沼意次の柔軟な思考にはまいった!ですね。
本当にそうですね。取れるところから極力問題が出ないように取る。現代の政治家や官僚も、もっと頭をひねってほしいものです。
> この流通税って、今の消費税と同じようなものですか?
現代でいえば、財産や権利の取得、移転などに対して課される税のことで、印紙税や自動車重量税、登録免許税、不動産取得税、有価証券取引税などに相当しますね。
東日本では小判のような金貨が中心の「金遣い」(きんづかい)で、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」(ぎんづかい)であり、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で量をはかって通用させる方法を採用していました。このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は1765年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は、1772年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱(しゅ)という金の単位をもつ銀貨を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになりました。なお、南鐐とは上質の銀という意味です。




いつも有難うございます。
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とまと 今更ですが…あけましておめでとうございます(笑
年末・年始には、ご丁寧な挨拶を頂き、ありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いしますm(__)m
東西で、通貨の主流が、金と銀に分かれていたんですねぇ。
しかも、単位も違っていたなんて…
これを頭に入れておけば、時代小説を読む時、一段と理解が深まりそうです。
いつも、為になる記事をありがとうございますm(__)m
ぽち♪
とまとさんへ
黒田裕樹 > 今更ですが…あけましておめでとうございます(笑
> 年末・年始には、ご丁寧な挨拶を頂き、ありがとうございます。
> 本年もどうぞよろしくお願いしますm(__)m
明けましておめでとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
> 東西で、通貨の主流が、金と銀に分かれていたんですねぇ。
> しかも、単位も違っていたなんて…
> これを頭に入れておけば、時代小説を読む時、一段と理解が深まりそうです。
> いつも、為になる記事をありがとうございますm(__)m
> ぽち♪
そうですよね。一国で通貨の主流が分かれているなんてそうありませんから、歴史上の盲点といえるかもしれません。それだけに意次の執念が感じられる政策でもあります。
お役に立てて何よりです(^_^)v
明けましておめでとうございます
スカイラインV35 今年もよろしくお願いします。
南鐐弐朱銀は江戸では銀座でつくっていたようですね。銀座の”座”が、織田信長の楽市・楽座の、あの”座”と同じ意味合い(同業者組合)だというのは、今調べて初めて知りました。(汗)
合併等で名称の変わる自治体も多いですが、歴史ある地名は残して貰いたいですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いします。
> 南鐐弐朱銀は江戸では銀座でつくっていたようですね。銀座の”座”が、織田信長の楽市・楽座の、あの”座”と同じ意味合い(同業者組合)だというのは、今調べて初めて知りました。(汗)
こんなところにも歴史のつながりがあるんですよね。銀貨を独占的に鋳造する組合だから銀座。特に東京の人には知っていただきたい知識ですね。
> 合併等で名称の変わる自治体も多いですが、歴史ある地名は残して貰いたいですね。
私もそう思います。お役所主義で伝統を破壊する行為は、歴史の軽視にもつながりますからね。
.
ぴーち こんばんは!
なんと!東西で通貨が違っていたとは、目から鱗がポロポロ・・・(@@
ちなみに、東日本の金貨は、佐渡の金山が近かった為?何て言う推測は
多分、的外れでしょうね(笑)
東京、銀座が銀と名のつくのだから、
東が「銀」でも良かったのでは・・
こちらも、すみません。お馬鹿な疑問ばかり抱いてしまいました^^;
それでは、応援凸
また、お邪魔します!
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
昔は同じ日本国内での通貨単位が違っていたんですね。
始めて知って勉強になりました。
そしてここでも
田沼意次は頑張っていたんですね。
講座が進めば進む程に意次の印象が変わっていきますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なんと!東西で通貨が違っていたとは、目から鱗がポロポロ・・・(@@
> ちなみに、東日本の金貨は、佐渡の金山が近かった為?何て言う推測は
> 多分、的外れでしょうね(笑)
> 東京、銀座が銀と名のつくのだから、
> 東が「銀」でも良かったのでは・・
> こちらも、すみません。お馬鹿な疑問ばかり抱いてしまいました^^;
なるほど、そういうお考えもありますね。
金はやはり最高の価値のある金属ですから、昔から伝統的に使われている関係で、江戸幕府も最高貨幣として採用したと考えられます。
銀座では西日本で使う銀も鋳造していたんですよ。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 昔は同じ日本国内での通貨単位が違っていたんですね。
> 始めて知って勉強になりました。
今からすれば奇妙な話ですが、通貨の完全な統一は明治以降なんですよね。意次の時代に統一できていれば…。
> そしてここでも
> 田沼意次は頑張っていたんですね。
> 講座が進めば進む程に意次の印象が変わっていきますね。
そうですね。意次の政治はまだ続きますよ(^_^)v
.
紗妃ママ あけましておめでとうございます!
今年も しっかりと勉強させていただきます!
同じ国内でも お金ってちがったんですか~
外国ですね!大学のときに友達が 東京に行くにはパスポートがいるんよと言ってたのは 昔だったらあながち嘘でもないか。
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 > あけましておめでとうございます!
> 今年も しっかりと勉強させていただきます!
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いしますね(^o^)丿
> 同じ国内でも お金ってちがったんですか~
> 外国ですね!大学のときに友達が 東京に行くにはパスポートがいるんよと言ってたのは 昔だったらあながち嘘でもないか。
仰るような感覚ですね。
パスポートに近い道中手形が必要なうえに、両替もしておかなければならない。
まさに外国で出かけるのと同じですが、少なくとも両替の手間だけは省きたいですよね。
意次はそのあたりをしっかりと考えていたというわけです。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路(すいろ)を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば、江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも1786年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨(がいか)の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅(どう)や、海産物(かいさんぶつ)としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった俵物(たわらもの)を使用しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今までの政治はどちらかと言うと
「重農主義」が主流だった為に「重商主義」の効果が様々な所出ていますね。
田沼意次は教科書ではほとんど書かれていない人物ですが
かなり現代社会に近づく革新的な事をやっていますね。
.
ぴーち こんばんは!
利根川は、私の住んでいる地域にも関わる重要な河川ですが、意次が水路を開拓していたとは、存じませんでした!
けれど、自然の猛威の前では、人間の力は無力に等しいですね(^^A
過去の歴史の中でも、自然の力によって、計画倒れしてしまったお話が
多い様ですね。
意次は、こんなに大活躍した人物だとは思っていませんでしたので、
これからのお話も気になります^^
それでは、応援凸
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今までの政治はどちらかと言うと
> 「重農主義」が主流だった為に「重商主義」の効果が様々な所出ていますね。
そうですね。意次の数少ない重農主義の印旛沼干拓事業も、商品流通の活性化という重商主義も兼ねていますので、より顕著です。返す返すも大洪水による失敗が惜しまれますね。
> 田沼意次は教科書ではほとんど書かれていない人物ですが
> かなり現代社会に近づく革新的な事をやっていますね。
意次の事業についてはそれとなくは記しているものの、どれだけ革新的かつ開明的であったかが明らかにされていないのが残念ですね。明日(7日)が一番画期的かもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 利根川は、私の住んでいる地域にも関わる重要な河川ですが、意次が水路を開拓していたとは、存じませんでした!
> けれど、自然の猛威の前では、人間の力は無力に等しいですね(^^A
> 過去の歴史の中でも、自然の力によって、計画倒れしてしまったお話が
> 多い様ですね。
江戸時代には意次を含めて少なくとも三度の事業が進められたのですが、いずれも失敗しています。それだけ難工事だったのでしょうね。
> 意次は、こんなに大活躍した人物だとは思っていませんでしたので、
> これからのお話も気になります^^
意次の凄いところは、江戸時代にも関わらず、内政のみに目を向けていないところですね。今回の貿易もそうですし、その他にも…。
.
えめる 意次のおかげで、世の中を良くする方法を色々試せたわけですね。
近代化の祖?のような人だったのかな~?
この時は上手く行かなかった政策も、
あとあとの参考になったりしたはずですもんね。
こういう実行力、どこから沸いて出たんでしょう?
テツジン意次だニャなー。すごいっ!
本当にすごい人って、裏方的な存在だったりしますよねっ。
えめるさんへ
黒田裕樹 今まで紹介した意次の政策は、現代にもつながる創造力や実行力を伴っていますよね。
確かに失敗もありますが、後世の政治家がこの時の経験を生かして実現していることもありますし(明治時代の北海道の屯田兵など)。
このまま意次の時代が続けば、我が国はもっと近代化を早く実現できたかもしれません。
その意味でも、仰るとおり「近代化の祖」といえるでしょう。
表舞台で光り輝く人の裏では、必ず「縁の下の力持ち」が存在しますね。
聖徳太子における小野妹子や、徳川綱吉に対する荻原重秀などもそうですし。もし意次の改革が成功していれば、当時の将軍であった徳川家治が脚光を浴びたかもしれませんね。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画しました。1785年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地で暮らすアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの人々の生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も視野に入れていました。これは、それまで松前藩がアイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支える鮭(さけ)や毛皮などをとって来なくなるからという身勝手な理由で農民化を禁止していたのと全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし いつも楽しく拝見してます。
先生の講座は一人のキャラクターを通して歴史を見るので一貫性があり
読んでいても小気味よく、また楽しく歴史を感じられます。その分先生のいかにわかりやすくするかという苦心が伝わってきました。
これからもがんばってください。
.
ぴーち こんばんは!
意次の齎した政策のお陰で
広大な北海道の土地を利用した
美味しいじゃがいもなどの農産物が今でもいただけるんだと思うと、
感謝したい気分になります。
まあ、実際的には意次の思惑は、
もっと違う次元のもので、先を見越したものだった様ですね。
ロシアとは、北方領土返還問題で
揉めている昨今ですが、意次だったら、どんなブルドーザー政策を
打ち出すのかしら。。
ちょっと想像してみたくなりました^^
それでは、応援凸
.
HANA子 しばらくご無沙汰していました
歴史を学んでていつも思うのが、歴史はかならずどこかでつながっているってことです
田沼さんの頃のロシアはエカテリーナ二世と重なりますね
啓蒙君主である辺り、田沼さんと通じるところもあるのかも?
後の日露の戦いに至る道程がすでに見え隠れしていて、それに対して田沼さんの辺境統治が為されていたということに凄く感じ入るものがありました
また拝見しに来ますね^^
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
通常の更新のように時代の流れを様々な人物を通してとらえるのも一つの方法ですが、今回のように一人の人物だと確かに一貫性がありますね。
分かりやすさについては、やはり教師としての一年間の経験が大きいと思います。高校生にどうやって歴史を理解させるかという命題に取り組んでいるうちに、自然と身につけられたと実感しておりますし。
先生も益々のご活躍を願っております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治時代における北海道の開拓は意次の先見の明があればこそですからね。
アイヌへの政策も、交易重視の副産物だったという見方もできますが、人道的な発想がなければ、そもそも考えもつかなかったことでしょう。
北方領土問題ですか(^^ゞ
意次であれば、そもそも戦争にならないように協商の立場を取ることができたかもしれませんし、不幸な事態になったとしても、必ずや何らかの進展を見出そうと積極的な対策を行いそうですね。それこそが、綺麗事だけが政治でないと理解している人間の強みでもあります。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
田沼意次も開国の一環といえる政策を行っていたんですね。
吉宗もそうですが、優秀な政治家にはもう鎖国は限界だともう感じていたんでしょうね。
北海道開拓を考え、アイヌの独立をうながしたも意次だったんですね。
本当に幅広い活躍をしている人ですね。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > しばらくご無沙汰していました
いえいえ、お越し下さって有難うございますm(_ _)m
> 歴史を学んでていつも思うのが、歴史はかならずどこかでつながっているってことです
> 田沼さんの頃のロシアはエカテリーナ二世と重なりますね
> 啓蒙君主である辺り、田沼さんと通じるところもあるのかも?
なるほど、「上からの改革」としては似通っているところがありますね。ただ、皇帝であったエカテリーナ二世よりも、己の実力で老中にまで成り上がった意次の方がより世情に通じた政治を行えたとも考えられますね。
> 後の日露の戦いに至る道程がすでに見え隠れしていて、それに対して田沼さんの辺境統治が為されていたということに凄く感じ入るものがありました
さすがに近現代史がお得意のHANA子さんですね。
明治時代に北海道の本格的な開拓がなかったら、今頃はロシア(ソ連)の統治下に置かれていたかもしれません。そんな事態を阻んだのも、18世紀末という早い段階での、意次の開明的な政策といえますからね。
> また拝見しに来ますね^^
有難うございます。こちらもHANA子さんのブログへ参りますね(^^♪
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 田沼意次も開国の一環といえる政策を行っていたんですね。
> 吉宗もそうですが、優秀な政治家にはもう鎖国は限界だともう感じていたんでしょうね。
キリスト教(カトリック)対策としての「鎖国状態」でしたが、意次の頃には150年近く経っていますからね。通常の政治家なら、海外の変化に敏感になるのはむしろ当然のことだと思います。だからこその漢訳洋書の解禁であり、それを十二分に生かした意次の政治なんですね。
> 北海道開拓を考え、アイヌの独立をうながしたのも意次だったんですね。
> 本当に幅広い活躍をしている人ですね。
意次による内政・外交問題の積極的な取り組みや、それらにまつわる人道的色彩の濃い政策、どれをとっても一流以上の政治家といえるでしょう。
それだけに意次の失脚という歴史の結末が信じられなくなりますね。
意次公の感涙が見える
kikuzi 黒田先生の御話は分かりやすいですね。
意次公の無念も少しは晴らされたのかな、と思います。
あの世で、意次公が感激のあまり涙している姿が、目に浮かびました。
私も『天下最強馬鹿伝説』というブログをやっています。
今は記紀を元に書いているのですが、人に分かってもらうように、そして、楽しんでもらえるように書くのって大変なんだと、日々痛感しております。
私も歴史の教員免許を持っておりますが、黒田先生には敵いませんな。
これからも御体御自愛の程、恙無くおもしろい話をお聞かせ下さい。
応援しております。
kikuziさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生の御話は分かりやすいですね。
> 意次公の無念も少しは晴らされたのかな、と思います。
> あの世で、意次公が感激のあまり涙している姿が、目に浮かびました。
過分なるお言葉、有難うございます。
過去に実績を残しながら、誤解または曲解されて汚名を着せられている人物は多いですが、田沼意次の場合は極め付きですからね。
> 私も『天下最強馬鹿伝説』というブログをやっています。
> 今は記紀を元に書いているのですが、人に分かってもらうように、そして、楽しんでもらえるように書くのって大変なんだと、日々痛感しております。
ブログを拝見しました。しっかりしたスタンスをお持ちでうらやましく思います。
私も日々勉強の身です。
> 私も歴史の教員免許を持っておりますが、黒田先生には敵いませんな。
いえいえ、とんでもないことです。私も教師としての実績は一年しか持っておりません。
星の数ほどいらっしゃる名教師を目指して、まずは現場に復帰したいと切に願っております。
> これからも御体御自愛の程、恙無くおもしろい話をお聞かせ下さい。
> 応援しております。
こちらこそよろしくお願いいたします。
また、西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)を訳した解体新書(かいたいしんしょ)が、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成した(1774年)のも田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠(きょしょう)の一人であり、また画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
このように、画期的かつ斬新(ざんしん)な政治を行ったことで、経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、これらの政策の展開を苦々(にがにが)しい思いで見ている人々がいました。商人の力を借りることは恥(はじ)であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめる旧来(きゅうらい)の身分の高い人々でした。
そして、彼らの筆頭格といえる人物こそが、白河藩(しらかわはん、現在の福島県)の藩主である松平定信でした。定信は嫉妬の他にも、激しい憎悪(ぞうお)の目で意次を見ていました。そこには、意次と定信をめぐる抜き差しならない因縁(いんねん)が存在していたのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 意次に対する定信の憎悪、ふと思い出した事があります。
意次と定信ほどではありませんが、直弼と斉昭の確執もかなり厳しいものですね。
名君と讃えられている一方で、下の方も盛んで、あくまで俗説ですが嫁いじりはするは、将軍家の大奥にまで触手を伸ばすは、厄介な存在。しかしカリスマ性は大きくて旗本大名の精神的支柱でもあり、幕府の責任者にとっては嫌な奴だったことでしょう。
これも俗説ですが、彦根藩は当時から牛肉を密かに将軍家へ「精力剤」として献上、それが水戸藩にも贈られていたらしいですが、直弼の代で牛肉の贈呈を打ち切り、これに斉昭が激怒。
幕府最高の権限を持ちながらあくまで家来筋の直弼にとって、幕政に責任は無いが主君筋の権威を背景にやりたい放題の斉昭の存在は、頭痛の種だったことでしょう。
定信になるともっと厄介ですね。意次は身の危険も感じたのではないかと想像します。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 徳川斉昭はあと一歩で水戸藩の後継になりそこなるところでしたからね。
幕府に対して含むところもあったのではないかと思います。その後、自分の息子を後の将軍後継にすえることに成功しましたが、それが幕府崩壊の幕を開けることになろうとは―。
相続問題がこじれると、ろくなことがありませんね。
そして、「あの人」も同じような運命をたどることに…。
.
馬人 お久しぶりですーっ^^*
田沼時代、確かに文化が栄えていましたね!
良い文化だと思うのですが、その中でも嫉妬や憎悪の目が向いていたのですか。
所詮、人間だから嫉妬はしょうがない・・・のかな?w
馬人さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりですーっ^^*
お久しぶりです。復活おめでとうございます(^o^)丿
> 田沼時代、確かに文化が栄えていましたね!
> 良い文化だと思うのですが、その中でも嫉妬や憎悪の目が向いていたのですか。
> 所詮、人間だから嫉妬はしょうがない・・・のかな?w
嫉妬をしない人間なんてこの世に存在しませんが、嫉妬をし過ぎるのも問題ですね。
これに憎悪がからむともっとややこしいことになるから困ったものです。
今回の場合も…(´・ω・`)
.
ぴーち こんばんは!
そういえば、蕪村は私の住んでいる市に縁が深いということを昔、習ったことがあります。
確か、蕪村という名前を初めて名乗った事で有名だったかしら。・
ちょっと記憶が曖昧ですみません^^;
意次の件は、まさに「出る杭は、打たれる」ですね。
抜き差しならない因縁が気になりますね(^^9
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そういえば、蕪村は私の住んでいる市に縁が深いということを昔、習ったことがあります。
> 確か、蕪村という名前を初めて名乗った事で有名だったかしら。・
> ちょっと記憶が曖昧ですみません^^;
仰るとおり、蕪村を初めて名乗ったときにはぴーちさんの地元になじみが深いですね。ちなみに蕪村が生まれたのは私が住む区の隣なんですよ(^^♪
> 意次の件は、まさに「出る杭は、打たれる」ですね。
> 抜き差しならない因縁が気になりますね(^^9
いよいよ定信の登場です。果たしてどうなることやら…。
.
オバrev 田沼意次の才能は素晴らしいですね。現代にも蘇って欲しい人材です。
でも1代で下からのし上がって来た人間は、やはり敵も多いだろうし、特に従来の特権階級の人間から見れば優秀であることは分かっていても、面白くないと思うものなんでしょうね。その気持ちも何となく分かります。
しかしそういう人間は多くいたと思いますが、松平定信には抜き差しならない因縁が存在していたって、いったいどういう因縁だったんですかね・・・これは明日のお楽しみ?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 田沼意次の才能は素晴らしいですね。現代にも蘇って欲しい人材です。
聖徳太子もそうですし、現代にも存在してほしい歴史上の人物は多いですよね。
> でも1代で下からのし上がって来た人間は、やはり敵も多いだろうし、特に従来の特権階級の人間から見れば優秀であることは分かっていても、面白くないと思うものなんでしょうね。その気持ちも何となく分かります。
私も理解はできますが、自分達の都合で国民の生活をメチャメチャにしてしまうのはどうも…。あれ? これって昔のことだけでしょうか?
> しかしそういう人間は多くいたと思いますが、松平定信には抜き差しならない因縁が存在していたって、いったいどういう因縁だったんですかね・・・これは明日のお楽しみ?
ハイ、お楽しみです(笑)。
明日からは意次と定信に関する話がしばらく続きますよ。
定信にしてみれば、世が世なら自分が田安家の当主となったのみならず、次の将軍にもなれたかもしれない。そう思うと自分の運命が恨めしいし、自分をそういう立場に追い込んだのは、時の権力者である意次に違いないと、いつしか定信は意次を殺してやりたいと思うまで深く恨むようなりました。ただし、実際に意次がこれらの出来事に関わったとされる明確な証拠は何もなく、定信の邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)の可能性もあります。
そんな折、意次に悲劇が訪れます。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、1784年に江戸城内で襲(おそ)われて殺されてしまったのです。この事件に関しては、当時のオランダ商館長のティチングが興味ある書物を残しています。書物には「幕府の高官(こうかん)数名が意知暗殺に関与している」と記されていますが、当時の幕府高官の一人は松平定信です。
また、ティチングは息子の意知が殺された理由について「父親の意次は高齢であるから間もなく死ぬであろうが、息子の意知が父親の後を継いで改革を続行する時間は十分にある。ならば息子を殺せば父親にとっては大きなショックであり、改革も鈍(にぶ)るであろう。それゆえに息子のほうを殺すことに決定したと思われる」と書いています。ティチングの推測が仮に正しいとすれば、あまりの生々(なまなま)しさに言葉もありません。
ところで、意知が暗殺された後に加害者は切腹しましたが、世間は加害者を「世直し大明神」と呼んで称(たた)えました。実は田沼時代の政権末期には、意次は庶民から大きな反発を受けていたのです。なぜそんなことになったのでしょうか。賄賂の横行(おうこう)によって政治が腐敗(ふはい)したからだと思いがちですが、意次のせいにするにはあまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由でした。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル あの時期の定信の施政方針は明らかに地域エゴそのもの、中学時代に社会科教諭がその行いを先見性のある善政と授業で述べたことに不快感と疑念を抱いたものです。
.
shana あうあう……
定信さん、むごい事をする人です!まぁ、証拠がある訳でもないということで、一概にはいえそうにも無いですが。
しかし、結局自然現象が、時の権力者を失脚させてる気がします。現代でも変わらない傾向なきもしますが。
PS:第12回の3月27日なら、参加できるかもしれませんー。受験終わってますし。
.
馬人 老中同士にそんないさかいがあったとは!
それも、恨んでいた意次本人を殺害するのではなく
あえて息子を殺害するなんてタチの悪いお方です…。
寛政の改革をした松平定信=良い人
という観念が一気に崩れ落ちましたw
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > あの時期の定信の施政方針は明らかに地域エゴそのもの、中学時代に社会科教諭がその行いを先見性のある善政と授業で述べたことに不快感と疑念を抱いたものです。
仰るとおりと思います。それだけに教師の力量が問われる分野でもありますね。
詳細については、この3連休で紹介することになります。
shanaさんへ
黒田裕樹 > 定信さん、むごい事をする人です!まぁ、証拠がある訳でもないということで、一概にはいえそうにも無いですが。
確かに証拠はありませんが、仮に暗殺事件に加担していなかったとしても、意知が斬殺された際に、定信が心から哀悼の気持ちを持つことが出来なければ、結局はむごいことに変わりはないですね。
> しかし、結局自然現象が、時の権力者を失脚させてる気がします。現代でも変わらない傾向なきもしますが。
いくら地政学的や科学的に証明できたとしても、人間が真っ先に考えることは、基本的には変わらないのかもしれませんね。悪政を行っているものならともかく、綱吉や意次の場合は不運だったとしか言いようがありません。
> PS:第12回の3月27日なら、参加できるかもしれませんー。受験終わってますし。
それは楽しみですね。まずは受験を頑張って下さいね(^_^)v
馬人さんへ
黒田裕樹 > 老中同士にそんないさかいがあったとは!
> それも、恨んでいた意次本人を殺害するのではなく
> あえて息子を殺害するなんてタチの悪いお方です…。
意知が殺害された当時、定信はまだ老中になっていませんでしたが、「吉宗の孫」という看板によってそれなりの影響力を持っていました。そんな中での、しかも息子を先に殺すという巧妙な事件ですから、後々に定信が老中になれたという事実も考えれば、疑いの眼差しが向けられるのも仕方がないと思われます。
> 寛政の改革をした松平定信=良い人
> という観念が一気に崩れ落ちましたw
馬人さんのお気持ちも良く分かります。
しかし、「定信=良い人」の概念については、これから紹介する事実によってさらに木っ端微塵(こっぱみじん)に崩壊する恐れがありますので(笑)、覚悟(?)しておいて下さい(^^ゞ
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
松平定信は田沼意次と逆の政治を取ったイメージがある人ですが
政治以前に人しても反発し合っていたんですね。
定信も意次ではその息子を殺して上手くやる当たりが
したたかで政治家らしさを醸し出してますね。
.
HANA子 歴史はもちろん過去の記録であるわけですから、当然受け取るイメージによる先入観によって実際と異なる印象をもつことがあるわけですよね
学び始めの頃は清廉で開明的でまさに人類の光! 的なイメージを抱いていたフランス革命も、フタを開けてみれば革命側に限ってでさえ主導権争いに血道を開く、粛清に次ぐ粛清の泥仕合etcでとてもガックリきた・・・
賄賂政治の田沼と清廉な定信のイメージの崩れ行く様子に、そんなことを思い出していました
先入観をもたずに立ち向かうこと
歴史を学ぶ大原則ですね
.
オバrev 松平定信って、吉宗の孫で、しかも兄が病弱という状況でありながら養子に出されたというのはどうも偶然とは思えません。
それと田沼意次の実績は素晴らしかったけど評価が低かったのは、自然災害だけでなく、そもそも庶民にはそれがあまり知られてなかったのではないかと思いますが、どうなんでしょうか。
.
けん爺ちゃん おはようございます(^△^)
オランダ商館長の意見は
我が国の歴史を知る上で重要な資料ですよね。
ペリーが来ることを1年前から幕府に通告していたり、
逆に日本の情報を収集し、他国へ発信する役割を担ったり…
意知の暗殺に幕府高官が関与したという考察も、非常に真実味を帯びた見解のような気がします。
えげつないやり方ですね…(--;)
定信は、なぜ白河藩へ養子に出されちゃったんですかねぇ?(´`)
この飢饉は当時の年号から天明の大飢饉(てんめいのだいききん)と呼ばれ、1782年から88年まで長く続きました。なお、浅間山と同じ年の1783年にはアイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つになったとともに、北半球全体が冷害(れいがい)になったことで、1789年に起きたフランス革命の遠因(えんいん)にまでなったと考えられています。
いずれにせよ、天明の大飢饉によって、東北地方を中心におびただしい数の餓死者(がししゃ)が出てしまいました。また、飢饉によって年貢(ねんぐ)が払えない農民による一揆(いっき)や、都市部での米の売り惜しみに対する打ちこわし(=天明の打ちこわし)が多発しました。当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
ただ、意次も飢饉に際して何もしなかったわけではありません。飢饉による被害をできるだけ小さくするために、凶作(きょうさく)の地域で米の買い占めや売り惜しみをしないように命令したのですが、よりによって大名の中でこの命令を簡単に破り、買い占めに走った人物が現れてしまいました。実は、その大名こそが松平定信なのです。




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
昔は天災の責任さえも政治家が取らなければならなかったのは本当に大変ですね。
しかし民衆が大変な中で
意次が民衆を守る為に取った政策さえ私利私欲の為に平気で邪魔する定信は人としては最低だと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 昔は天災の責任さえも政治家が取らなければならなかったのは本当に大変ですね。
私もそう思います。自然現象に対する解明が進んだ現代においても問題視されることもありますし、政治家は厳しい稼業ですよね。
> しかし民衆が大変な中で
> 意次が民衆を守る為に取った政策さえ私利私欲の為に平気で邪魔する定信は人としては最低だと思いますね。
これもその通りです。詳細については明日(11日)明らかにしますが、興奮のあまり絶叫してしまっております(^^ゞ
.
ぴーち 先ほど急に自分のブログから
締め出されてしまいまして(苦笑)
仕方が無いので、検索からお邪魔しました(笑)
6年も飢饉に見舞われてしまったんですね。自然の前では、いつの時代も人間は無力ですね。
よく新しい土地に家屋などを建てるときに「地鎮祭」などを行いますが、
これも、その土地の自然に人間が手を加える事の許しを請う慣わしでしょうが、宗派はいづれにせよ、人は自然に対して、敬意を払っていく気持ちをいつの日も大切にしたいものですね!
それにしても、何でもかんでも
政治の責任にされてしまうのも、酷でしたね(^^A
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先ほど急に自分のブログから
> 締め出されてしまいまして(苦笑)
> 仕方が無いので、検索からお邪魔しました(笑)
私もぴーちさんのブログに入れません(´・ω・`)
どうやらblog61全体が入れなくなってしまっているようですよ。
FC2さんにはしっかりしてもらわないと…。
> 6年も飢饉に見舞われてしまったんですね。自然の前では、いつの時代も人間は無力ですね。
> よく新しい土地に家屋などを建てるときに「地鎮祭」などを行いますが、
> これも、その土地の自然に人間が手を加える事の許しを請う慣わしでしょうが、宗派はいづれにせよ、人は自然に対して、敬意を払っていく気持ちをいつの日も大切にしたいものですね!
自然は時として人間に牙をむいて襲い掛かりますからね。
敬意を払う気持ちは本当に大切だと実感します。
> それにしても、何でもかんでも
> 政治の責任にされてしまうのも、酷でしたね(^^A
全くその通りです。息子を殺されるのみならず、意次にとってはまさに「泣きっ面に蜂」ですよね。
.
オバrev 冷害の原因はそんな遠くの国にもあったんですね~、驚きです。
悪いことが起こるのは、何かその原因があるはずだと考えたんでしょうか?
当然その原因が分かろうハズもないでしょうから、政治にぶつけたんでしょうね。
それにしても松平定信は何という姑息な人間なんでしょうね。こんな人間が改革やってもうまくいかんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 冷害の原因はそんな遠くの国にもあったんですね~、驚きです。
そうなんです。世界的な異常気象だったんですね。フランスでは革命まで起きましたから、余程の冷害だったのでしょう。
> 悪いことが起こるのは、何かその原因があるはずだと考えたんでしょうか?
> 当然その原因が分かろうハズもないでしょうから、政治にぶつけたんでしょうね。
当時は「悪いことが起きるのは政治家の徳がないからだ」という考えがまかり通っていました。従って、原因を突き止めることなく、すべて政治家のせいと決め付けていたのです。
> それにしても松平定信は何という姑息な人間なんでしょうね。こんな人間が改革やってもうまくいかんでしょうね。
そのあたりについては、今後の講座で明らかにしていくことになりますので、お楽しみに(?)。
天明の大飢饉
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
天明の大飢饉について、高校の時、日本史の先生が授業で、話したことを思いだいました。
「天明の大飢饉は、
天災ではなく、人災だった。
なぜなら、死んだのは、全員、農民だけで
武士は、誰も死ななかった。」と語っていました。
これって、本当のことなんでしょうか。
天明の大飢饉で、死んだ武士、庶民は、いなかったか、もしくは、非常に少なかったのでしょうか。
ただ、この日本史の先生が言っていることが
正しくなくても
松平定信が米を買い占めたりせず、被害の少ない
西日本から、米の流通がもっと、促進できていれば、被害を最小限になった気がします。
今回の東北沖地震についても、地震そのものは
天災ですが、その後原発事故、その後の政府の対応、支援の遅さを考えると、人災の要素も大きい気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 人災の件は、松平定信の信じられない「飢饉対策」などがありますからね。
武士の餓死者がゼロとまでは行かなくても少なかったのは事実ですが、そもそも武士の人口が全体の1割もいないのですから、農民と比べればゼロに近いのはむしろ当然ですね。
言わば白河藩の成果が他藩の犠牲のうえに成り立っているという信じられない図式となっており、このような「自分だけ助かれば良い」という発想の人間は、名君どころか、人のうえに立つべき人物にふさわしいとはとても思えません。そんな人間が絶対的な権力を握ってしまったらどうなるのか、想像するだけでも恐ろしいのですが、実際にそうなってしまったのでした。
1786年に将軍家治が死去すると、定信はその間隙(かんげき)をぬって意次の老中罷免(ひめん、職務をやめさせること)に成功し、翌1787年には自身が老中になり、世にいう寛政の改革(かんせいのかいかく)を始めるのですが、その際に、意次に対して常識では考えられない「意趣返し」(いしゅがえし)を行いました。
1788年に意次が失意のうちに亡くなると、定信は田沼家を1万石に減らしたうえで陸奥国(むつのくに、現在の福島県)へ無理やり移し、無主となった相良城を、石垣ひとつに至るまで徹底的に破壊したのです。城というものは一度建てられたら公有財産になりますから、普通はそんな無駄なことはしませんし、そもそも取り壊す費用も馬鹿になりません。それなのに、敢(あ)えてこんな暴挙(ぼうきょ)をした理由があるとすれば、相良城が意次自身による建築だったからだとしか考えられません。
なぜ定信はそこまで「意次憎し」に凝(こ)り固まっていたのでしょうか。実は、定信は熱心な朱子学者(しゅしがくしゃ)、つまり儒教の信徒(しんと)でもありました。定信は祖父の吉宗同様、ネチネチとした陰湿(いんしつ)で粘着質(ねんちゃくしつ)な性格を持っていたのです。




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佐佐木あつし >祖父の吉宗同様、ネチネチとした陰湿(いんしつ)で粘着質(ねんちゃくしつ)な性格を持っていたのです。
まるで映像が浮かんでくるようでメッチャ笑ってしまいました(爆)
そのあたりも、やはり御家柄というか。祖法何でしょうか?
家康の方広寺の嫌がらせを思い出しました。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > まるで映像が浮かんでくるようでメッチャ笑ってしまいました(爆)
そうですか(^^ゞ
漫画家の先生にそう仰っていただけるのは光栄です。
> そのあたりも、やはり御家柄というか。祖法何でしょうか?
> 家康の方広寺の嫌がらせを思い出しました。
ありましたねぇ(笑)。
確かに、儒教の呪縛以前に血筋かもしれませんね。
.
ぴーち こんばんは!
昨日は、ご不便をお掛けしまして
すみませんでしたm(__)m
でも、お返事をあの後、ご確認していただけた様で、安堵しております。
それにしても、定信のお話を伺っていると「蜘蛛の糸」を思い出してしまいました。
憎しみや、恨みに固執した人間は
怖いですね。視野が狭くなり、
正常な思考能力さへも失ってしまうものですね。
人を恨み続けるというのも、エネルギーの居ることですから、もう少し
視野を広げて大らかな性格だったらもっと人の為になるような方向へ
偉業を達せられた方だったのではないでしょうかね?
それでは、応援凸
出かけてまいりま~すw
.
馬人 あぁ…。
米を買い占められたから餓死したって、
松平さんは学校で一人はいる「自分のことしか考えない人」を拡大したような人ですね。
人のことを考えず米を買い占めるなんて酷いです!
こんな歴史を聞かされると、どうして人権というものがこの時代は創られていなかったのか疑問に思い、
松平さんの行いが残念でもあります…。
って、松平さんは私のイメージと違って悪者ですね^^;
.
彩音 こんばんは(^∀^)
ブログ訪問ありがとうございます!!
ずっと読んでて下さったなんて感激です(T∀T)
松平定信とか田沼意次らへんは
昔授業でやった覚えはあるんですが
具体的にどんな事をしたかとかが全然頭に入ってなかったんです(;ω;)
でも今回の記事でスムーズに頭に入りました!!
定信の性格がめちゃめちゃ分かりやすかったですww
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昨日は、ご不便をお掛けしまして
> すみませんでしたm(__)m
> でも、お返事をあの後、ご確認していただけた様で、安堵しております。
日付が変わった頃には回復していましたね。
一体あの不具合は何だったのでしょうか…(´・ω・`)
> それにしても、定信のお話を伺っていると「蜘蛛の糸」を思い出してしまいました。
> 憎しみや、恨みに固執した人間は
> 怖いですね。視野が狭くなり、
> 正常な思考能力さへも失ってしまうものですね。
> 人を恨み続けるというのも、エネルギーの居ることですから、もう少し
> 視野を広げて大らかな性格だったらもっと人の為になるような方向へ
> 偉業を達せられた方だったのではないでしょうかね?
いやしくも人の上に立とうとする人間は、最低でも視野を広く、また正常な思考能力を持ってもらいたいものです。
自分の判断が一国の運命すら左右するというのに、「自分さえよければ良い」という考えしかなければどうしようもありません。
そんなどうしようもない人間が天下を取ったときから、国の悲劇が始まってしまうのです。
馬人さんへ
黒田裕樹 > あぁ…。
> 米を買い占められたから餓死したって、
> 松平さんは学校で一人はいる「自分のことしか考えない人」を拡大したような人ですね。
確かにいますよね(苦笑)。
クラス全体でバランスが取れているというべきなのか…。
> 人のことを考えず米を買い占めるなんて酷いです!
> こんな歴史を聞かされると、どうして人権というものがこの時代は創られていなかったのか疑問に思い、
> 松平さんの行いが残念でもあります…。
人権という概念が希薄だった時代ですからね。
たとえあったとしても、定信のように「自分の人権が大切」という人間が政治を行えばどうしようもないですが。
> って、松平さんは私のイメージと違って悪者ですね^^;
明日(12日)以降の更新で、おそらくは「悪者」のイメージがさらに拡大する恐れがあります(^^ゞ
彩音さんへ
黒田裕樹 > こんばんは(^∀^)
> ブログ訪問ありがとうございます!!
> ずっと読んでて下さったなんて感激です(T∀T)
同じカープファンのよしみもありましたからね(笑)。
復活されて何よりです(^o^)丿
> 松平定信とか田沼意次らへんは
> 昔授業でやった覚えはあるんですが
> 具体的にどんな事をしたかとかが全然頭に入ってなかったんです(;ω;)
> でも今回の記事でスムーズに頭に入りました!!
> 定信の性格がめちゃめちゃ分かりやすかったですww
それは良かったです(^_^)v
定信ほど分かりやすい性格の人間は、ある意味珍しいですよね(^^ゞ
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
ここまで来ると定信の「意次憎し」も呆れてしまいますね。
そもそも私は「寛政の改革」が
それほど成功したイメージはもっていませんが
意次の色を消す為の改革の意味合いも強かったと思うので
うまくいかないのも納得だと思ってしまいましたね。
.
えめる わあー、定信ッたら陰険なやつニャー。
今まで思っていた公明正大な人物像と、まるっきり逆ニャねーッ!
逆恨み・勘違い・嫉妬深い……はうぅ。なんて奴ニャ。
歴史の主だった記録は、勝者によって書かれている、だから事実と違う、歪んだ話になっちゃうのニャね?
なんだか前にも、天災をその人のせいにされたって話がありましたけど。
誰だっけ?
あ??^*▽*^??ネコの記憶力なんて、この程度。済みませぬ。
1791年、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が我が国における海岸防備の必要性を説いた海国兵談(かいこくへいだん)を著(あらわ)しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに海国兵談を発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥(けっかん)だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
ちなみに、定信は海国兵談の他にも政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令を出版統制令(しゅっぱんとうせいれい)といいます。
また、定信は自らが学んできた幕府公式の学問である朱子学を、幕府ゆかりの湯島聖堂(ゆしませいどう)で学ぶ唯一の学問とし、それ以外の学問を学ぶことを禁止しました。これを寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)といいます。寛政異学の禁によって、諸藩(しょはん)も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学(らんがく)が衰退(すいたい)する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策(ぐさく)ぶりです。




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えめる 定信は、醜い嫉妬や身勝手な恨みの心に負けてしまったダメダメ将軍様だったのニャね?
意次が下地を作った、世のため人のためになる善い政策も、
文化としての人々の心のゆとりも、一国として世界と交わるチャンスさえ、
そのせまーい心がダメにしてしまったのニャね。
一生、本当の穏やかな心には、なれずに終わってしまったんでしょうか?
だとしたら、可哀相なお人ニャね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
憎しみや嫉妬で上まで登った人間の行う政治が
どんなものになるかの見本を見事に現してますね。
今とは比べ物にならない程
権力争いが激しい時代なので
こういった人物が上に立つのも仕方ない事しれませんが
この人の下を付いて行く事になった民衆はいろいろ苦労したと思いますね。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 定信は、醜い嫉妬や身勝手な恨みの心に負けてしまったダメダメ将軍様だったのニャね?
嫉妬や恨みがつのると、確かに人間がダメになりますね。
定信なんかは典型的な感じがします。
> 意次が下地を作った、世のため人のためになる善い政策も、
> 文化としての人々の心のゆとりも、一国として世界と交わるチャンスさえ、
> そのせまーい心がダメにしてしまったのニャね。
そのとおりです。定信がダメにしたことは、幕府のみならず、国民全体を不幸にしてしまうあたりがひどい話ですよね(´・ω・`)
> 一生、本当の穏やかな心には、なれずに終わってしまったんでしょうか?
> だとしたら、可哀相なお人ニャね。
はた目から見れば可哀想ですが、本人は「自分が正しい」と死ぬまで思い込んでいたふしがありますね。肝がすわっているというか何というか…。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 憎しみや嫉妬で上まで登った人間の行う政治が
> どんなものになるかの見本を見事に現してますね。
全くです。
自身の意趣返しやうさ晴らししか考えていない。こんな人間に政治は任せられません。
> 今とは比べ物にならない程
> 権力争いが激しい時代なので
> こういった人物が上に立つのも仕方ない事しれませんが
> この人の下を付いて行く事になった民衆はいろいろ苦労したと思いますね。
後々の影響を考えれば、現代に生きる我々にも影響を与えていますよね。
国家百年の計を誤るとどうなるかという見本にもなっているような気がします。
.
ぴーち 人を呪わば、穴二つ・・
結局、相手を恨めば、自分もやがて
同じ様な運命を辿らなければ、ならない訳ですものね。
それにしても、冒頭の部分の蝦夷地開発の打ち切りの件ですが、
現代でも、八ッ場ダム建設中止に揺らいでいる状況に、似ているように
感じました。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人を呪わば、穴二つ・・
> 結局、相手を恨めば、自分もやがて
> 同じ様な運命を辿らなければ、ならない訳ですものね。
そういうことですね。
人を冷たく追い出した人間は、やがて自分も同じような目にあう…。
ただ、定信の残された人生が長かっただけの差なんですけどね。
> それにしても、冒頭の部分の蝦夷地開発の打ち切りの件ですが、
> 現代でも、八ッ場ダム建設中止に揺らいでいる状況に、似ているように
> 感じました。
なるほど、確かに進みつつある計画を問答無用で中止するあたりはそんな感じがしますね。
民主的な現代と違って、この時代はある意味やりたい放題なのかもしれません。
こんばんは
スカイラインV35 定信には今までは漠然と良いイメージのほうが強かったのですが、そうではないんですね。今で言えば、ある種の朱子学か徳川家の祖法の理想主義者か原理主義者みたいな感じだったんですかね。それにしても現在でも気を付けないと、会社や、そして政府でも形を変えて、この種の人間はいるかもしれませんね。。。
ところで私はブログのマナーというか作法を良く知らなかったのですが、黒田先生の歴史講座のリンクを張らせて頂きました。これからもよろしくお願いします。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 定信には今までは漠然と良いイメージのほうが強かったのですが、そうではないんですね。今で言えば、ある種の朱子学か徳川家の祖法の理想主義者か原理主義者みたいな感じだったんですかね。それにしても現在でも気を付けないと、会社や、そして政府でも形を変えて、この種の人間はいるかもしれませんね。。。
仰るとおり、定信は朱子学の理想主義をとことんまで極めた原理主義者の傾向が見られますね。それゆえに自分に逆らう者、自分が許さない者は何があっても容赦はしない。
確かに現代にもいそうなタイプですね。
> ところで私はブログのマナーというか作法を良く知らなかったのですが、黒田先生の歴史講座のリンクを張らせて頂きました。これからもよろしくお願いします。
リンク有難うございます。私からもリンクさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
理想主義と自己満足は紙一重。
晴雨堂ミカエル 私が意次を高く評価するのは、現実主義の実務派で、目的意識がハッキリしていて達成の為の段取りを組み立て実行して行く能力でした。
それに比べて定信は、理想主義と呼べば聞こえは良い。善い政策もあるにはあります。が、その根底は自己満足です。
むかし某市民運動に参加した時、団体の運営を維持させるため財源を問題にしたら守銭奴よばわりされた事がありました。
彼ら彼女らは有志の寄付で全額賄うつもりでいて、運営資金のことは全く考えていなかったし考えることは卑しいことと思っていました。
案の定、私を守銭奴呼ばわりした人たちは運動が本格的に動き出した頃にサッサと抜けられた。私と対立して抜けたと聞こえの良い事を言いふらしていましたが、実態は花火を打ち上げておきながら責任を私に押し付けて逃げた、ということです。
こういった体験は一度や二度ではありません。だから定信型の人間には嫌悪しか感じません。
何が目的なのか、それを実現させるためにはどうすれば良いのか、これが基本です。
定信の場合は天下国家の安寧が目的であり実現させねばならぬ職責であって、朱子学は単なる手段・道具に過ぎません。それが目的になってしまています。
定信型の人間は左右いろんな政治勢力に存在して、せっかくの主義主張を矮小化させていきます。
右翼の定信人間は頑迷な男尊女卑軍国主義暴力集団のイメージを増幅させるし、左翼の定信人間は幼稚な世間知らずの身勝手集団と化す。
困ったものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ご経験に基づいた貴重なお話を有難うございました。
> 何が目的なのか、それを実現させるためにはどうすれば良いのか、これが基本です。
本当にそうですね。私も目標を定めていろいろと行動しているつもりですが、定信のようにならないように注意をしなければなりません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく、現実には不可能な米本位制(こめほんいせい)を続けるということですから、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の生活に苦しむ日々でしかありません。だとすれば、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるわけです。かくして、後の天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に、再び同じような法令である人返しの法(ひとがえしのほう)を出す結果になってしまいました。
結局、定信は「儒教と商行為」の呪縛にがんじがらめにされている自分に気づくことなく、商業を徹底的に排除(はいじょ)し、農業を奨励(しょうれい)する自らの思想を貫き通しました。その背景には「商人など不要だ。国には政治家と農民だけがいればいい」という極端な理想主義者としての本質がうかがえるのですが、実は20世紀の海外においても、定信とほぼ同じ考えを持つ政治家が存在しました。皆さんは誰かご存知ですか?
それはカンボジアのポル・ポトです。ポル・ポトは定信と同じく「国には政治家と農民だけがいればいい」という思想を持っており、そのために商人や教師、あるいは医者などのいわゆるインテリ層を次々と虐殺(ぎゃくさつ)しました。この結果、人口800万人の国で約200万人がこの世から消えたとされています。ポル・ポトのように国民を虐殺したわけではありませんが、思想的には一致することから、定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル まったくその通りです。なまじ吉宗の改革が一応の格好がついたせいで、定信は幻を観たのでしょう。
天明の大飢饉当時は意次への不当な悪評と定信の不当な好評は仕方がないとしても、200年以上経った現代では歴史家界も正当に評価してもらいたいものです。
いまなお黒田氏や私の見解は主流ではなく、時代劇や学校教科書で不当な評価が続いているのはケシカラン事です。
ご心配いただきありがとうございました。.
まり姫 こんにちは☆
事故後には温かいコメントありがとうございました。
まだ完全ではありませんが一言御礼の挨拶にお邪魔しました^^
.
イルカ お久しぶりです^^
ポル・ポト…。
なんかもう覚えてしまったようです笑
あーここらへんの改革、ごちゃごちゃになりやすいですorz
.こんばんは!
なみなみ コレが絶対正しい!
ってヘンに正論を主張する人って、
ソレ、お前だけのルールやろ!!
って、突っ込み入れたい人多いですけど、
定信はまさにその典型ですね!
自分のルールの中でしか生きられない
かわいそうな人です。
でも、そういう人ってなぜか
組織内政治が上手いw
そして、自分の考えと違う人を
どんどん排除していきますよね!
自分は間違ってない!
という自負心があるので強いのでしょうか。。。
なんにせよ、こんなのに負けた意次は
悔しかったでしょうねー!
意次から見れば、何にもわかってない
ぼんくらなんですから。
でも、そんなぼんくらに敗れざるをえない自分・・・どんな思いだったんでしょう?
.
ぴーち こんばんは!
ご存知の通り、私は歴史上の出来事を比較して、判断するだけの知識は持ち合わせてはいませんが、
人間一人の考えることには、必ず
偏見や、偏りがあるものですので、それを我が物顔に牛耳り、自分の思い通りに物事を展開しようとすると、
必ず、歪が生じるものですよね。
本来、人が人の存在を否定したり、
ましてや、殺害する権利はあるはずもなく、それを正当化する教えというものが存在するのなら、それこそ、非難されるべき考えだと思いますね。
しかし、理不尽な理由付けで
人は平気で、人を殺めて来たものですね。
殺される者にも、殺されるだけの納得がいく理由があれば、浮かばれましょうに。。
定信には、思い切り天罰が下されるような気がしますね。(先の結果を全く知らない発言ですがw)
それでは、応援凸
.初耳です
オバrev 広島県南部にも雪が降っています。今日は寒さで目が覚めました(>_<)
しかし、視野の狭い原理主義的なやり方ってのは息苦しくなりますね。
>定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。
これは初耳です。よほど定信が嫌いだった人が呼び始めたんじゃないでしょうか。
実は以前ポル・ポト派の虐殺を体験し、ベトナムに逃げてから日本にやってきて、広島の工場で働きながら勉強していた若者の話を聞いたことがあります。
1年間で、風呂には一度も入れず、裸足のうえ、同じ1着のシャツとズボンを着て過ごしていたらしいです。虐殺については相当残虐だったようです。
.
橘 満柚子 ポルポトって初めて聞きました!!
のびのびとした正月を過ごせましたw
今年の目標達成できるように
頑張りますね!
これからもよろしくお願いします♪
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 「元祖ポル・ポト」とは、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が仰られたのですが、まさにピッタリだと思います。
一度不当な評価を下されると、名誉が回復されるまでに相当の時間がかかりますね。逆に定信の表面上の評価ばかりが誉めそやされる…。歴史の捏造の罪は本当に深いです。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 事故後には温かいコメントありがとうございました。
> まだ完全ではありませんが一言御礼の挨拶にお邪魔しました^^
大変でしたね。
まずはご回復しつつあるようで何よりです。
また急に寒さが強くなってまいりましたので、くれぐれもご自愛下さい。
イルカさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです^^
お久しぶりです(^o^)丿
元気に勉強されてますか?
> ポル・ポト…。
> なんかもう覚えてしまったようです笑
それは何よりです(笑)。
世界史の近現代史では重要な人物ですから、覚えていて損はないですよ。
> あーここらへんの改革、ごちゃごちゃになりやすいですorz
今回の私の講座がお役に立てれば幸いです(^_^)v
定信は吉宗同様に庶民に倹約令(けんやくれい)を強制させました。このこと自体は町人文化の衰退を招くなど、経済的には失政でしたが、町での費用を節約させる一方で、浮いた分の7割を積み立てさせ、飢饉の際などの非常時用の資金としました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また定信は、現代の刑務所の原点ともつながる職業訓練施設である石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しました。もっとも、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳」(おにへいはんかちょう)で有名な火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
定信の倹約令は大名や旗本にも求められましたが、いくら倹約に励んでも、彼らの借金は増える一方でした。そこで定信は、幕府の旗本や御家人(ごけにん)の救済のために棄捐令(きえんれい)を出して、武士に金を貸していた札差(ふださし)からの借金を帳消しにしました。しかし、棄捐令はいわゆる徳政令(とくせいれい)と同じですから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的(ばっぽんてき)な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、効果があったとはいいがたい面もありました。




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.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
刑務所の原点である「石川島人足寄場」には定信のイメージあいまって何となく似合っている政策だと思ってしまいましたね。
しかし定信の政策もかつての吉宗の政策をなぞる程度のレベルに終わったと思うので、根本的に解決にはなりませんでしたね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 刑務所の原点である「石川島人足寄場」には定信のイメージあいまって何となく似合っている政策だと思ってしまいましたね。
刑務所と定信…懲罰的なところが確かにイメージにあっているような感じがしますね(^^ゞ
> しかし定信の政策もかつての吉宗の政策をなぞる程度のレベルに終わったと思うので、根本的に解決にはなりませんでしたね。
そのとおりだと思います。吉宗のような善政面がほとんど見られない点で、定信の「改革」のレベルが知れようというものですね。
.
オバrev なるほど、確かに理にかなったいい政策だと思います。
まあ、何を重視するかによって政策も違うし、光があれば陰ができる訳で、全体を見て、そのバランスを考えながらやっていくのは、実際は難しいんでしょうね。
だからこそ広い視野ときちんとした理念が重要だと思います。今の政治にも言えることですか・・・
それにしても陰の部分が多い寛政の改革ですが、意次は評価されず、定信が評価されているのは何故なんだろう?
この答えはまだ後ですか^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まあ、何を重視するかによって政策も違うし、光があれば陰ができる訳で、全体を見て、そのバランスを考えながらやっていくのは、実際は難しいんでしょうね。
> だからこそ広い視野ときちんとした理念が重要だと思います。今の政治にも言えることですか・・・
私もそう思います。広い視野を持てれば、バランスが取れた良い政策ができるのですが、一部の人間の利害関係を重視するあまり、国民全体の目線の政治がいつまで経ってもできないんですよね。
> それにしても陰の部分が多い寛政の改革ですが、意次は評価されず、定信が評価されているのは何故なんだろう?
> この答えはまだ後ですか^^;
すみません(^^ゞ
お気づきのとおり、最後の回での謎解きとなりました。
寛政の改革の当時に在位されておられた第119代の光格天皇(こうかくてんのう)は、閑院宮家(かんいんのみやけ)から天皇にご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって摂関家より下となり、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっていました。このため、天皇は父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
この一件によって光格天皇が気分を害されるなど、これ以降の朝幕関係(ちょうばくかんけい)は微妙となり、また幕府への信頼が低下することによって天皇の権威(けんい)が高まり、幕末における討幕運動(とうばくうんどう)への遠因(えんいん)ともなってしまいました。尊号一件における定信の行動が、結果として幕府の運命を暗転させてしまったのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまったのでした。
第11代将軍である徳川家斉の実父は御三卿(ごさんきょう)の一橋治済(ひとつばしはるさだ)でした。家斉は親孝行の思いから、父の治済に対して前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて1793年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は幕を閉じました。尚、定信の失脚後も老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが寛政の遺老(かんせいのいろう)として幕政を行っています。




いつも有難うございます。
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紗妃ママ どの時代もご機嫌取りってあるんですね~
大変。
.遊び
オバrev 機械であれば、杓子定規にきちっとやることは理想的かもしれませんが、人間となるとやはり遊びが必要だと思います。
これは車にも当てはまりそうで、最近の車はエコや機能ばかりで、遊び心がなくて面白くないです。
しかし改めて思いましたが、歴史ってのはある人間の感情によっても大きく動くものなんですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
礼儀を逸し、礼儀に報いを受ける
今回の定信の話はそんな印象を受けましたね。
「寛政の遺老」は初めて知りましたね。
また一つ勉強になりましたね
ありがとうございます。
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 > どの時代もご機嫌取りってあるんですね~
> 大変。
そうですね。上司のご機嫌を取ることで政権を維持することも可能なのですが、あちらが立たずばこちらが立たず…。定信もしくじったものです(´・ω・`)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 機械であれば、杓子定規にきちっとやることは理想的かもしれませんが、人間となるとやはり遊びが必要だと思います。
> これは車にも当てはまりそうで、最近の車はエコや機能ばかりで、遊び心がなくて面白くないです。
機能性重視は確かに効率がいいのですが、仰るとおり景気を刺激するとは思えないんですよね。気持ちに余裕ができてこその文化なのですから。
> しかし改めて思いましたが、歴史ってのはある人間の感情によっても大きく動くものなんですね。
為政者の胸三寸でどうにでも世の中が動いてしまう…。
今の私たちも歴史を見ているのかもしれませんね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > こんばんわお邪魔します。
> 礼儀を逸し、礼儀に報いを受ける
> 今回の定信の話はそんな印象を受けましたね。
朝廷への無礼が幕府政権の維持につながるとでも思ったのでしょうか。あるいは別の思惑でもあったのか…。いずれにせよ、朝廷を粗末にする人間の末路は哀れなものです。
> 「寛政の遺老」は初めて知りましたね。
> また一つ勉強になりましたね
> ありがとうございます。
高校の日本史で出てくるのですが、地味なのであまり有名ではないですよね。ただ、「寛政の遺老」の時期があったればこそ、相変わらず家斉は政治をさせてもらえなかったんです。時間が余った家斉にできたことといえば…というワケなんですよね(^^ゞ
一方、田沼時代には天候不順による飢饉はあったものの、商業を発展させることで景気を上向かせて文化が栄えるきっかけとなったり、我が国の自主的な開国の道をつくったりするなど、開明的な政治を行いました。
こうした結果を見れば、果たしてどちらが「名君」で、どちらが「悪人」なのかいうまでもないと考えられますが、意次が失脚後にすぐ亡くなったのに対して、定信が老中を辞めた後も白河藩主として30年以上も生き続けて多くの著作を残し、その中で田沼時代を徹底的に批判したこともあって、定信によってつくられた意次の「悪人像」が後世にまで残ってしまうことになりました。
綱吉の時と同じような「歴史の捏造」(ねつぞう)に、私たちはまたしても目くらまされ続けてきたのです。私たちはこうした捏造に二度とだまされないようにするためにも、歴史を学ぶ際や、また現代を生きる際にも、時として巧妙(こうみょう)に隠された真実を明らかにして、正しい歴史や堂々とした思いを後世に伝えていきたいものですね。
最後に、一時は田沼時代を激しく憎んだものの、定信の政治によって「目を覚ました」庶民が、当時を懐かしんでつくった狂歌(きょうか、日常を題材に洒落=しゃれや風刺=ふうしを盛り込んだ短歌のこと)を紹介しましょう。
「白河の清きに魚(うお)のすみかねて
もとの濁(にご)りの田沼こひしき」
(第8回歴史講座の記事はこれで終了です。)




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
毎度お馴染みのコメントで申し訳ないですが
講座まであと1週間ですね。
今年は東京でも講座を開かれるようですので
合わせて頑張って下さいな。
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ぴーち こんばんは!
まさに定信は「憎まれっ子、世にはばかる」ですね。
最後の狂歌も風刺が効いてます。
川柳という呼び方とは、また、違うんですね。
川柳は、大好物のぴーちですw(性格、歪んでいるせいかしら(爆)
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今回の講座と意次と定信の印象がかなり変わりましたね。
「白河の清きに魚(うお)のすみかねてもとの濁(にご)りの田沼こひしき」
この狂歌が意次と定信を的確に評価していると思われ、やはり現在の歴史の授業の教え方は広く浅いものだと感じさせられますね。
.歴史的事実
オバrev >正しい歴史や堂々とした思いを後世に伝えていきたいものですね。
全く同感です。
恣意的なバイアスのかかった歴史ではなく、事実をしっかり伝えてもらいたいです。
良い悪いの判断はそれからのことであり、事実が伝えられないと、あるいは歴史に対する信頼がなくなるとその判断すらできません。
現代を生きている我々ですが、それは先祖が脈々と引き継いでくれた歴史の上に生きていると思います。
その感謝の思いや、今の我々を認識し誇りを持って生きていくためにも、歴史的事実を学ぶ意味は大きいと思います。
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HANA子 >「白河の清きに魚(うお)のすみかねてもとの濁(にご)りの田沼こひしき」
これらのお話を踏まえた上で読んでみると、なんだか一層思うところが増える歌ですね
後の幕末の時代にもつながる一連の事件などなど、持論の「歴史は連続していて、必ずどこかにつながっている」をますます実感しました
やっぱり歴史は面白いなぁ
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miwa >正しい歴史や堂々とした思いを後世に伝えていきたいものですね。
本当におっしゃる通りです。
人間は愚かで同じ間違いを何度も繰り返します。
現代に生きる人間も過去の歴史に学ばなければなりません。
>「白河の清きに魚(うお)のすみかねてもとの濁(にご)りの田沼こひしき」
それでもやはり、痛い思いをして初めて気づくのでしょうね。
今も昔も変りなし。。。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 毎度お馴染みのコメントで申し訳ないですが
> 講座まであと1週間ですね。
> 今年は東京でも講座を開かれるようですので
> 合わせて頑張って下さいな。
いつものお言葉、有難うございますm(_ _)m
業務多忙で体調も崩しがちですが、講座の日までには回復させて頑張りたいと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まさに定信は「憎まれっ子、世にはばかる」ですね。
だからこそ長生きするんですよねぇ…。
> 最後の狂歌も風刺が効いてます。
> 川柳という呼び方とは、また、違うんですね。
> 川柳は、大好物のぴーちですw(性格、歪んでいるせいかしら(爆)
最後のお言葉は違うと思いますが…(^^ゞ
川柳が「五・七・五」の俳句(当時は俳諧=はいかい)と同じ形式なのに対して、狂歌は「五・七・五・七・七」で、短歌と同じ形式という違いがあるんです。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今回の講座と意次と定信の印象がかなり変わりましたね。
そう仰っていただければ、講座を行った人間としては有難いです(^^♪
> 「白河の清きに魚(うお)のすみかねてもとの濁(にご)りの田沼こひしき」
> この狂歌が意次と定信を的確に評価していると思われ、やはり現在の歴史の授業の教え方は広く浅いものだと感じさせられますね。
「出来事」という名の結果しか教えていませんからね。意次と定信の関係についても、以前からの善悪方式が全く変わっていないですし。同じ言葉で恐縮ですが、そんな勉強で歴史が面白いはずがないんですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 恣意的なバイアスのかかった歴史ではなく、事実をしっかり伝えてもらいたいです。
> 良い悪いの判断はそれからのことであり、事実が伝えられないと、あるいは歴史に対する信頼がなくなるとその判断すらできません。
同感です。善悪の判断を決めるのは個人個人であり、教え手の個人的な好き嫌いの感情や、特定の思想のみを押し付けるなどで歪んだ事実を教え込まれるのは勘弁願いたいものです。
「教育は中立」なんですから。どこかの組合の親玉は堂々と正反対のことを言っているようですが…。
> 現代を生きている我々ですが、それは先祖が脈々と引き継いでくれた歴史の上に生きていると思います。
> その感謝の思いや、今の我々を認識し誇りを持って生きていくためにも、歴史的事実を学ぶ意味は大きいと思います。
誇りを失った人間に未来はありません。我が国の長い歴史を自分たちの世代で失わないためにも、しっかりした歴史的事実を皆さんに学んでいただけるよう、私も頑張らないといけません。