本来ならここで処刑されてもおかしくはなかったのですが、男に対して助命の嘆願(たんがん)があったことで奇跡的に命を永(なが)らえ、伊豆国(いずのくに、現在の静岡県東南部)に流罪(るざい)となりました。
罪人となった男は、それまでの都暮らしとは打って変わって、馬の世話や水汲(く)み、あるいは米づくりなどの日々の生活のほとんどを一人でこなさなければなりませんでした。始めのうちは辛かった毎日も、成長とともに慣れるに従って、都に居続けていれば絶対に体験することのできなかった、武士や庶民(しょみん)の本当の気持ち、なかでも土地制度の矛盾(むじゅん)によって苦しんでいる武士たちの「自ら耕(たがや)した土地は自らの手で所有したい」という切実な願いが、男自身にも手にとるように分かるようになっていました。
男が伊豆国に流されてから20年経ったある日、男の親戚(しんせき)が、かつて敵対した武家の棟梁を一緒に倒そうと声をかけてきました。男は最初のうちは事態を静観(せいかん)していましたが、やがて企(たくら)みが明らかになると、怒った武家の棟梁は、自己の政権に反対する勢力を皆殺しにすると宣言しました。
自分の生命の危機を知った男は、座(ざ)して死を待つよりはと覚悟を決め、舅(しゅうと、自分の妻の父のこと)である北条時政(ほうじょうときまさ)とともに挙兵(きょへい)しました。
その男の名は、源頼朝(みなもとのよりとも)といいました。




いつも有難うございます。
※昨日(11日)の昼頃から本日(12日)の正午頃にかけて、当方の「訪問者リスト」に不具合があり、皆様の足跡が当方の記録に残らない事態になりました。また、ブロともの皆様にも更新情報が届かなかったようです。以上、ご報告いたします。
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marihime こんにちは☆
テンプレート替えられましたね。
見やすくなりましたσ(゚ー^*)
昨日の記事更新のpingをされていなかったようで、ブロともの記事欄に載っていませんでした。
今日はちゃんと送られています^^
marihimeさんへ
黒田裕樹 > こんにちは☆
> テンプレート替えられましたね。
> 見やすくなりましたσ(゚ー^*)
有難うございます。ようやく新しいのを見つけることができました。
> 昨日の記事更新のpingをされていなかったようで、ブロともの記事欄に載っていませんでした。
> 今日はちゃんと送られています^^
昨日の午後から今朝にかけて、訪問者リストに不具合がありましたので、その関係かと思われます。ご迷惑をおかけしましたm(_ _)m
.
馬人 テンプレートが明るい色になってビックリしましたw
ピンクもいいですね~^^
>その男の名は、源頼朝といいました。
書きかたもなんとなく変わっているような…。
頼朝って、一人で庶民の生活をさせられたんですね!
武士一筋で育ったんだと勘違いしていました^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 > テンプレートが明るい色になってビックリしましたw
> ピンクもいいですね~^^
有難うございます(^^♪
一時的なものを除けば、久しぶりのテンプレ更新です。
> >その男の名は、源頼朝といいました。
> 書きかたもなんとなく変わっているような…。
そうですか?(^^ゞ
まぁ鎌倉時代の一番最初ですし、ドラマ仕立てもたまには良いかと思いましたからね。
> 頼朝って、一人で庶民の生活をさせられたんですね!
> 武士一筋で育ったんだと勘違いしていました^^;
現実には数人の付き人がいたと考えられますが、都での不自由ない生活とは雲泥の差ですからね。この経験が後になって役に立つことになるのです。
.
ぴーち こんばんは!
SEO対策にも十分対応出来るテンプレに替えられましたね^^
やはり、テンプレは軽い方が
全面開示時間も短縮出来て、良いですね^^
私などは、実用性よりも
ついつい、華美なタイプを選んでしまい、お友達に(開示が遅い!)と文句言われてしまう時があります^^;
まあ、テンプレの話題はここまで終わりにします(笑)
今日のお話は、とても良いお話ですね!
例え、逆境に遭っても、それを恨んだり、嘆いたりしないで、
これからの自分自身の人生の糧にしてしまおうと言う発想の転換、ポジティヴ精神。
見習いたいものです。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > SEO対策にも十分対応出来るテンプレに替えられましたね^^
> やはり、テンプレは軽い方が
> 全面開示時間も短縮出来て、良いですね^^
そうですね。前回のが気に入っていたので長い間使っていたのですが、ようやくシンプルな3カラムのテンプレに出会えましたので変更してみました(^^♪
> 私などは、実用性よりも
> ついつい、華美なタイプを選んでしまい、お友達に(開示が遅い!)と文句言われてしまう時があります^^;
> まあ、テンプレの話題はここまで終わりにします(笑)
テンプレの選択は人それぞれですし、個性があって良いのではと思うのですが、開示が遅いとやはり色々あるみたいですね(^^ゞ
> 今日のお話は、とても良いお話ですね!
> 例え、逆境に遭っても、それを恨んだり、嘆いたりしないで、
> これからの自分自身の人生の糧にしてしまおうと言う発想の転換、ポジティヴ精神。
> 見習いたいものです。
頼朝にとっては、流罪とされた時点で「人生が終わった」と感じたと思います。しかし、大人になる時期に様々な経験を積んだことで、都に居続ければ体験できなかった「プラス」のメンを吸収することができた。これが糧となってやがては大逆転への道を進むのですから、人生というのは本当に分からないものですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
テンプレート変えられたんですね、私は見やすくていいと思います。
源頼朝は子供頃の流罪でされたの知っていましたが
考えてみれば流罪された人間にいい生活なんてあるはずがありませんね。
皮肉にも流罪にしてしまった事で平家は自分達を滅ぼす最大の敵を成長させてしまったんですね。
頼朝と言えば弟の源義経との確執があって
義経を自殺に追い込んだと聞いた事がありますが
出来ればその辺の経緯も知れたらと思っています。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > こんばんわお邪魔します。
> テンプレート変えられたんですね、私は見やすくていいと思います。
お言葉有難うございます。見やすさがそのまま分かりやすさに通じればよいのですが。
> 源頼朝は子供頃の流罪でされたの知っていましたが
> 考えてみれば流罪された人間にいい生活なんてあるはずがありませんね。
> 皮肉にも流罪にしてしまった事で平家は自分達を滅ぼす最大の敵を成長させてしまったんですね。
そのとおりです。頼朝を生かしてしまったことが、結果として平家の滅亡を早めてしまったのですから、まさに痛恨の失敗だったといえるでしょう。
> 頼朝と言えば弟の源義経との確執があって
> 義経を自殺に追い込んだと聞いた事がありますが
> 出来ればその辺の経緯も知れたらと思っています。
今回の流れでも紹介しますが、義経にスポットを当てた部分なら、7月の歴史講座で紹介していますので、よろしければご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-149.html
.
miwa 源頼朝は島流しをされる事によって、庶民や武士の気持ちが体感出来たという事でしょうか。
これは「2代目が身上をつぶす」の
逆パターンですね。
>男は最初のうちは事態を静観(せいかん)していましたが、
意外でした。幼い頃から家臣に
「いつか父上の仇を」と教え込まれ、機会を受けて挙兵したものだとばかり思っていました。
miwaさんへ
黒田裕樹 > 源頼朝は島流しをされる事によって、庶民や武士の気持ちが体感出来たという事でしょうか。
> これは「2代目が身上をつぶす」の
> 逆パターンですね。
そうですね。身上をつぶすどころか、源氏を武家の棟梁にまで押し上げるのですから大したものです。ただ、その後が…。
> >男は最初のうちは事態を静観(せいかん)していましたが、
> 意外でした。幼い頃から家臣に
> 「いつか父上の仇を」と教え込まれ、機会を受けて挙兵したものだとばかり思っていました。
仇を討ちたくても、圧倒的な兵力差という現実の前には尻込みするのも仕方がなかった話です。ところが、立ち上がりたくなくても、向こうの方から仕掛けてくるのですから…歴史というのは本当に分かりませんね。
しかし、法皇を幽閉させるというような強引な手法は周囲の批判を受け、また武士でありながら摂関家と同じような政治を行ったことで、裏切られたと感じた武士の怒りや、マネをされたと憤慨(ふんがい)する貴族の怒りを買うなど、平氏政権に対する不満が次第に高くなっていきました。
後白河法皇の第二皇子にあたる以仁王(もちひとおう)もその一人でした。1180年、以仁王は平氏を倒して自らが新たな天皇として即位するという夢をかけて、源氏の長老であった源頼政(みなもとのよりまさ)とともに挙兵すると同時に、全国に平氏打倒の令旨(りょうじ、皇太子による命令書のこと。ただし、以仁王は皇太子ではないので、厳密には意味が異なります)を発しました。
以仁王による挙兵は、計画が事前にもれるなどによって失敗に終わり、以仁王も源頼政も敗死しましたが、令旨は全国の源氏に届けられ、源頼朝も叔父(おじ)の源行家(みなもとのゆきいえ)から受け取りましたが、平氏の圧倒的な軍事力と、流人(るにん)である自分に付き従う兵力がないことを考えて、態度を保留していました。
しかし、味方と思っていた源頼政の裏切りに激怒した清盛が、全国に散らばる源氏の残党勢力に対して追討命令を出したため、頼朝の身にも危険が迫りました。追いつめられた頼朝は、まさしく窮鼠(きゅうそ、追いつめられたネズミ)猫をかむ思いで打倒平氏に立ち上がったのでした。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
ちとご無沙汰している間に
テンプレートの変更をされたのですね。
お疲れ様です。
1週間後に控えた講座の準備も大変でしょうが
頑張って下さいな。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いつも励ましのお言葉有難うございます。
講座まであと一週間を切りましたが、なんとか仕上げて頑張りたいと思います。
.
ぴーち こんばんは!
窮鼠、猫を噛む。
確かに、追い詰められた
人間は、物凄い威力を発揮
する時がありますものね(^^A
「火事場の馬鹿力」じゃないですが(笑)
それにしても、前回の頼朝さんのお話に戻りますが、
元南アフリカ共和国の大統領をされていたネルソン・マンデラ氏の映画をふと、思い出してしまいました。。思慮深い方は、どんなに追い詰められても、どんなに苦境に絶たされても、(終身刑)決して屈しないものなんですね。どんな場所でも、必ず頭角を現して、指導者として、立ち上がり活躍する・・。
頼朝の四面楚歌後の行動が気になります^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 窮鼠、猫を噛む。
> 確かに、追い詰められた
> 人間は、物凄い威力を発揮
> する時がありますものね(^^A
> 「火事場の馬鹿力」じゃないですが(笑)
そうですね。追いつめられ、死を覚悟した人間には怖いものがないといいますし、失うものもなければ、全力で戦うことができます。一か八かの頼朝の賭けは成功するのでしょうか―。
> それにしても、前回の頼朝さんのお話に戻りますが、
> 元南アフリカ共和国の大統領をされていたネルソン・マンデラ氏の映画をふと、思い出してしまいました。。思慮深い方は、どんなに追い詰められても、どんなに苦境に絶たされても、(終身刑)決して屈しないものなんですね。どんな場所でも、必ず頭角を現して、指導者として、立ち上がり活躍する・・。
> 頼朝の四面楚歌後の行動が気になります^^
確かに頼朝にもマンデラ氏のようなところがあるのかもしれませんね。
立ち上がったときには四面楚歌ですが、その後の頼朝は…。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
前回は義経の質問にお答え頂きありがとうございました。
義経講座の分を拝見させて貰いました。
楽しく学ばせて貰いありがとうございました。
さて今回の感想ですが、義経の講座と合わせて見ると
やはり頼朝は政治家向きであって戦争はさほど強くないと思いましたね。
今回の「平氏打倒の令旨」も平家の矛先が
自分に向くまで保留にしていた事でさらにそう思うようになりました。
ただここでも頼朝は幸運な事に戦争の天才である弟
義経が味方にいたから勝てたと思います。
そして頼朝は歴史人物の中でも指折りの運を持っていた人間だと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 前回は義経の質問にお答え頂きありがとうございました。
> 義経講座の分を拝見させて貰いました。
> 楽しく学ばせて貰いありがとうございました。
ご丁寧なお言葉有難うございます。
お役に立てて何よりです。
> さて今回の感想ですが、義経の講座と合わせて見ると
> やはり頼朝は政治家向きであって戦争はさほど強くないと思いましたね。
>
> 今回の「平氏打倒の令旨」も平家の矛先が
> 自分に向くまで保留にしていた事でさらにそう思うようになりました。
>
> ただここでも頼朝は幸運な事に戦争の天才である弟
> 義経が味方にいたから勝てたと思います。
> そして頼朝は歴史人物の中でも指折りの運を持っていた人間だと思いますね。
ご指摘の件、私も同感です。
いずれ講座の中で持論を紹介していきますので、今後もよろしくお願いします。
ひさしぶり5
JJSG ほほ~。
JJSGさんへ
黒田裕樹 この回の更新は前回の頼朝中心から、全体の流れを中心に置き換えています。
ご理解いただけたようで何よりです。
1180年8月、源頼朝は妻の北条政子(ほうじょうまさこ)の父である北条時政(ほうじょうときまさ)らとともに伊豆で挙兵しましたが、緒戦(しょせん)こそ奇襲で勝利したものの、続く石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)では敵の挟(はさ)み撃(う)ちにあって追いつめられ、奇跡的に脱出して難を逃れました。この絶体絶命のピンチに頼朝を助けたとされるのが梶原景時(かじわらかげとき)であり、以後も頼朝の片腕となって活躍することになります。
一方、頼朝の挙兵に対して激怒した平清盛でしたが、石橋山の戦いの結果を聞くと安心したのか、それ以上頼朝を追討するのをためらってしまいました。その間に安房国(あわのくに、現在の千葉県南部)に逃れた頼朝は、再度挙兵して進軍するうちに東国の武士が続々と集結して、あっという間に数万の大軍にふくれ上がってしまいました。いわば平氏の油断が、頼朝の再起を可能にしてしまったのです。
1180年10月、頼朝は平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の軍勢と駿河国(するがのくに、現在の静岡県中東部)の富士川(ふじかわ)で激突して大勝しました。これを富士川の戦いといいます。戦いの後、頼朝は直ちに平氏を追いかけて都を目指さずに、鎌倉に入って足固めをしました。石橋山の戦いの敗北の経験から自分が戦争に向かないことを悟(さと)ったうえで、関東で自分の実力を蓄(たくわ)えようと考えたのです。尚、同年11月には鎌倉に軍事や警察組織をつかさどる侍所(さむらいどころ)を設置しています。
頼朝には、自分になぜ多数の武士が付き従っていたのかが、彼らとともに長年暮らして来たことで分かっていました。身分に関係なく、自分が開発した土地を堂々と所有できるような「武士のための政治」を実現することが自分の使命だと考え、だからこそ鎌倉を本拠地として体制を確立する必要があったのです。一方、頼朝との戦いに大敗した平氏には、この頃から過酷(かこく)ともいえる運命が待ち受けていたのでした。




いつも有難うございます。
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馬人 平氏の運命が気になります・・・。
負けた=地獄の日々という思い込みがありますがww
富士川の戦いの後、一度鎌倉に戻ったって・・・頭がいいですね´ω`
勢いで突入してしまう武士だと思っていましたがw
.
ぴーち こんばんは!
あ!し・・しまった!
2007番目でした(^^A
あ~~~ザンネ~ン!
悲しいわ~~(TT)
前後賞にもならなかったし(爆)
キリ番踏んだからと言って、
左のサイドカラム辺りに、キリ番組んだ方、ご紹介!なんていうコーナーは・・・無いですもんね(汗、汗)
今日は記事に関して、全く触れずに、失礼しましたm(__)m
それでも、さすがにハイペースでカウント数が順調に増えて行きますね!
応援凸
馬人さんへ
黒田裕樹 > 平氏の運命が気になります・・・。
> 負けた=地獄の日々という思い込みがありますがww
その思い込みは間違っていませんよ(^^♪
ただ、負けただけが原因でないところが何とも…(´・ω・`)
> 富士川の戦いの後、一度鎌倉に戻ったって・・・頭がいいですね´ω`
> 勢いで突入してしまう武士だと思っていましたがw
そのあたりが「政治家」たるゆえんだと思います。
この後、地固めをしたかしないかの差を嫌というほど思い知らさせる武将が登場しますから…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あ!し・・しまった!
> 2007番目でした(^^A
> あ~~~ザンネ~ン!
> 悲しいわ~~(TT)
> 前後賞にもならなかったし(爆)
> キリ番踏んだからと言って、
> 左のサイドカラム辺りに、キリ番組んだ方、ご紹介!なんていうコーナーは・・・無いですもんね(汗、汗)
私も帰宅したら既に20000HITを記録していたのでビックリしました。
これもひとえに皆様のお陰ですm(_ _)m
私もキリ番を踏まれた方を知りたいのですが、調べる方法ってあるんですかね?
> 今日は記事に関して、全く触れずに、失礼しましたm(__)m
> それでも、さすがにハイペースでカウント数が順調に増えて行きますね!
いえいえ、いつもコメント有難うございます。
今後も皆様のご期待に応えられるような内容を目指しますので、よろしくお願いします。
.
智里 20000HITおめでとうございます!!
これも黒田さんの分かりやすい歴史講座だから、この短期間でこれだけの方が訪れたんでしょうね。
これからも分かりやすい歴史講座を楽しみしてますね(*´▽`人)
吉宗、一気観しました~!
実に面白い!!
正直な話、吉宗って暴れん坊将軍しか印象が無かったので、全然知らない話ばかりでした(〃 ̄ω ̄〃ゞ
この講座を聞くと、次の田沼と松平はもっと気になりますね~。
次も楽しみにしてますね♪
智里さんへ
黒田裕樹 > 20000HITおめでとうございます!!
> これも黒田さんの分かりやすい歴史講座だから、この短期間でこれだけの方が訪れたんでしょうね。
> これからも分かりやすい歴史講座を楽しみしてますね(*´▽`人)
有難うございますm(_ _)m
開設以来わずか8ヶ月半でここまで来れるとは思いもよりませんでした。
これも皆様のお陰です。
> 吉宗、一気観しました~!
> 実に面白い!!
> 正直な話、吉宗って暴れん坊将軍しか印象が無かったので、全然知らない話ばかりでした(〃 ̄ω ̄〃ゞ
> この講座を聞くと、次の田沼と松平はもっと気になりますね~。
> 次も楽しみにしてますね♪
お喜びいただいて感謝しております。
次の田沼に向けて励みになりますね(^_^)v
.怒
オバrev 20000HITおめでとうございます(^^)/
私は20032でした(>_<)
清盛の傲りは、現在で言えば中国の習近平国家副主席と天皇陛下の会見を特例で実現させたM党幹事長のO氏(・・・オバrevではないですから(;^_^A )ですかね。
何とこれに関して、政治利用と批判した羽毛田信吾宮内庁長官に対して、どうしても言うなら辞表を提出した後にやるべきだと反論したとのことです。
これを傲りと言わずして、何を傲りというのかと思いました。
それは\(^_\)ソレハ(/_^)/コッチニオイトイテ、清盛も甘かったんですかね。
というか時代の流れの強さには逆らえなかったんでしょうね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今日の話を聞いていて
頼朝はもしかたした戦争が下手だったからこそ
平家もあなどってリスクを負ってでも
殺そうとしなかったのかもしれないと思いましたね。
そして負けた平家の過酷な運命が気になりますね。
次の講座も楽しみにしています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 20000HITおめでとうございます(^^)/
> 私は20032でした(>_<)
有難うございます。気がつけば、あっという間の20000HITでした。まさか年内に達成できるとは…。感謝の言葉にたえません。
> 清盛の傲りは、現在で言えば中国の習近平国家副主席と天皇陛下の会見を特例で実現させたM党幹事長のO氏(・・・オバrevではないですから(;^_^A )ですかね。
> 何とこれに関して、政治利用と批判した羽毛田信吾宮内庁長官に対して、どうしても言うなら辞表を提出した後にやるべきだと反論したとのことです。
> これを傲りと言わずして、何を傲りというのかと思いました。
強引な手法で周囲を黙らせて、数の力で勝負しようとする…。まさに平家そのものですね。
だとすると数年後には…オバrevさんのブログででも語りましょうか(笑)。
> それは\(^_\)ソレハ(/_^)/コッチニオイトイテ、清盛も甘かったんですかね。
> というか時代の流れの強さには逆らえなかったんでしょうね。
武士のパワーが世の中を動かし始めていましたからね。それに気づけなかった平氏は「お役御免」を地でいく運命をたどることになります。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今日の話を聞いていて
> 頼朝はもしかしたら戦争が下手だったからこそ
> 平家もあなどってリスクを負ってでも
> 殺そうとしなかったのかもしれないと思いましたね。
確かに考えられますね。戦争が下手なのも命を永らえる条件なのでしょうか。
まさに運命の皮肉です。
> そして負けた平家の過酷な運命が気になりますね。
> 次の講座も楽しみにしています。
平氏が落ちぶれていく原因というのは意外と知られていないようですので、腰を落ち着けてじっくりと考察できればと思っています。
どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰えます。また、不可抗力(ふかこうりょく、人間の力ではどうにも逆らえない力や事態のこと)な事態が起こったとしても、人々の恨みは時の政権に向けられます。平氏政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不運が襲うようになりました。
まず人材不足が平氏を悩ませました。清盛の長男で将来を期待されていた平重盛(たいらのしげもり)が、父に先立って1179年に42歳で亡くなり、娘婿(むすめむこ)にあたり、院政を行われるはずだった高倉上皇(たかくらじょうこう)も1181年1月に崩御されました。さらにその直後には清盛自身が病気になり、64歳でこの世を去ってしまったのです。
清盛の死後は三男の平宗盛(たいらのむねもり)が棟梁(とうりょう)となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平氏政権の将来に暗雲が立ち込め始めましたが、暗雲の原因は人材不足だけではありませんでした。




いつも有難うございます。
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MAHHYA そうですねー、後継者の資質が必ず明暗を分けますよね(>_<)
重盛が生きていたら、ずいぶんちがったのでしょうが…。
でも、時の運はもう平家を見放していたのかな???
.
monariz 最近日本でも後継者不足って問題になってますよねー。
「盛者必衰の理」が生まれたわけが分かります。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > そうですねー、後継者の資質が必ず明暗を分けますよね(>_<)
> 重盛が生きていたら、ずいぶんちがったのでしょうが…。
> でも、時の運はもう平家を見放していたのかな???
仰るとおり、後継者が存在していればまだ望みがあったかもしれませんが、「時の運はもう平家を見放していた」というのが何とも…。詳しくは明日(16日)以降の更新でご紹介します。
monarizさんへ
黒田裕樹 > 最近日本でも後継者不足って問題になってますよねー。
> 「盛者必衰の理」が生まれたわけが分かります。
畏(おそ)れ多いことですが、皇室の皆様方もそうですし、有望な後継者というのはなかなか存在するものではないですね。その一方で有力な政治家は…。
.
ぴーち こんばんは!
「急いては事を仕損ずる」
を実践してしまった訳ですね(^^A
何事も、焦ったり、急速に物事を推し進めようとする事に
良い結果は訪れないという
教訓になりそうなエピソードですね。
さてさて、他にどんな理由が
あったのでしょうか。。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「急いては事を仕損ずる」
> を実践してしまった訳ですね(^^A
> 何事も、焦ったり、急速に物事を推し進めようとする事に
> 良い結果は訪れないという
> 教訓になりそうなエピソードですね。
晩年の清盛は、権勢を恃(たの)んで強引な手法ばかりとることで自滅の道を歩みました。ある意味、現代の「誰かさん」を見るような思いがします。清盛は後白河法皇を幽閉しましたが、彼は…。歴史を知らぬ者は、歴史に抹殺される。今後の「誰かさん」の運命やいかに。
あ゛、これは平氏の話でしたね(^^ゞ
> さてさて、他にどんな理由が
> あったのでしょうか。。
ある意味「運命」といえましょうか。これも「誰かさん」の未来を暗示するようですね…。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
平家自身が招いたピンチとは言え
いつ時代も劣勢になると悪い事は続くものですね。
まさか宗盛自身も自分が
棟梁になるとは思ってなかったであろう上に
それが衰えていく平家を支える棟梁と言うのは
大変な苦労だったと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 平家自身が招いたピンチとは言え
> いつの時代も劣勢になると悪い事は続くものですね。
「貧すれば鈍す」といいますからね。いったん流れが悪くなると、なかなか止められないものです。
> まさか宗盛自身も自分が
> 棟梁になるとは思ってなかったであろう上に
> それが衰えていく平家を支える棟梁と言うのは
> 大変な苦労だったと思いますね。
器量不足の人間が、ましてや平氏という大所帯を任されたのですから、その苦労は私のような一般人には永久に分からないものがあったのは事実でしょう。また、そのような人間がまとめていくしかなかった平氏の今後の運命にも、どうしても暗い影が忍び寄ってきますね(´・ω・`)
.ひと
JJSG 歴史が物語る。
やはり、ヒトですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 歴史が物語る。
> やはり、ヒトですね。
本当にそうですね。どんなに優秀な組織であっても、人材がいなければ長続きしません。
優秀な人材だったとしても、組織全体がその人間の言いなりであれば同じことですが。
さらに平氏を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。1180年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次いだばかりか、この状態が数年も続くという騒ぎになりました。これを当時の年号から養和(ようわ)の大飢饉といいます。
仏敵になったのは火の勢いがたまたま強かったのが原因であり、ましてや大飢饉が平氏のせいなわけがありません。しかし、当時の人々は「飢饉は大仏を焼いたタタリであり、すべての原因は平氏にある」と固く信じており、平氏への恨みの声はますます高くなりました。
それでも、全国に拠点を持つ平氏の勢力はまだまだ健在であり、当面は平氏の天下が続くものと思われていましたが、すい星のように現れた源氏の若武者によって、1183年に平氏はついに都落ちを余儀(よぎ)なくされました。では、その若武者とは誰かといいますと…実は源頼朝やその兄弟ではありません。




いつも有難うございます。
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馬人 その平氏を討った若武者って、源頼朝だと思いました(゜Д゜;)
頼朝の兄弟以外にも凄い源氏の方がいたんですねぇ。
偶然が重なって平氏が責められるとなると、ちょっと可哀相…^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 > その平氏を討った若武者って、源頼朝だと思いました(゜Д゜;)
> 頼朝の兄弟以外にも凄い源氏の方がいたんですねぇ。
そうなんです。全国の源氏に以仁王の令旨が届けられていましたからね。
> 偶然が重なって平氏が責められるとなると、ちょっと可哀相…^^;
全くですね(´・ω・`)
悪いことは何でも時の政治のせいにされる…因果な商売です。
.実は
オバrev 政権が滅ぶ時って、運にも見放されるんですかね?
でもそれは運だけの問題ではなく、平氏にあらずば人にあらずという、おごりというか油断があったからこそでしょうね。
商売でも同じです。常にサービス向上を目指していかないといけないと思いました(;^_^A アセアセ…
源氏で真っ先に京に入った人・・・実は知ってま~す(#^.^#)
その人物がどうなるか、その背景が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 政権が滅ぶ時って、運にも見放されるんですかね?
> でもそれは運だけの問題ではなく、平氏にあらずば人にあらずという、おごりというか油断があったからこそでしょうね。
> 商売でも同じです。常にサービス向上を目指していかないといけないと思いました(;^_^A アセアセ…
仰るとおりだと思いますね。「ツキも実力のうち」という言葉は、平氏と頼朝とではっきりと明暗が分かれていますね。
> 源氏で真っ先に京に入った人・・・実は知ってま~す(#^.^#)
> その人物がどうなるか、その背景が楽しみです。
内緒にしていただいて有難うございます(^^♪
続きをどうぞお楽しみに!
.
monariz ひぇ?
平家を滅ぼしたのは源義経では?
あ、あのいとこの人か。あのいとこの人が京都から平家を追い出したんですね。分かります。
monarizさんへ
黒田裕樹 > ひぇ?
> 平家を滅ぼしたのは源義経では?
> あ、あのいとこの人か。あのいとこの人が京都から平家を追い出したんですね。分かります。
そのとおりです。明日まで内緒にしてくださいね(^^ゞ
管理人のみ閲覧できます
-
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
仏敵としてイメージ一番強いのは
一向宗を倒す為に寺を焼いた戦国時代の織田信長ですね。
しかしその信長も志なかばで倒れたので、今回の平氏の件といい
以外と仏様の目に見えない恨みの力が働いているのかと思いますね。
そして平氏を追い出したという源氏の若武者が気になりますね。
次回の講座も楽しみにしています。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 仏敵としてイメージ一番強いのは
> 一向宗を倒す為に寺を焼いた戦国時代の織田信長ですね。
> しかしその信長も志なかばで倒れたので、今回の平氏の件といい
> 以外と仏様の目に見えない恨みの力が働いているのかと思いますね。
そういう見方もありますね。仏敵への怨念は恐ろしいといったところでしょうか。
まさに「バチ当たり」というべきかもしれません。
> そして平氏を追い出したという源氏の若武者が気になりますね。
> 次回の講座も楽しみにしています。
有難うございます。いつもどおり、明日(17日)正午の更新となります。
だれだ?
JJSG 頼朝じゃないとすると、。。
誰だ!?
楽しみにしてます。
政治家向きの頼朝とは違って、義仲は1183年5月に越中国(えっちゅうのくに、現在の富山県)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で10万の大軍を率いた平氏を破るなどの戦上手でした。ちなみにこの戦いは倶利伽羅峠の戦いと呼ばれており、平氏の総大将は富士川の戦いで大敗した平維盛(たいらのこれもり)でした。こんなところにも平氏の人材不足がうかがえます。
倶利伽羅峠の戦いに勝って意気上がる義仲が京に迫ると、身の危険を感じた平氏は安徳天皇とともに都落ちをしましたが、この際に院政を行っていた後白河法皇を一緒にお連れ出来なかったことが、後々まで尾を引く結果となってしまいました。一方の義仲は勇躍(ゆうやく)京に入ったのですが、ここでとんでもない手違いがおきてしまいました。
準備らしい準備もせずに京まで向かったため、義仲の軍勢はいわゆる寄せ集めで、その日の食糧にもこと欠く有り様でした。そんな軍勢が、飢饉(ききん)の爪痕(つめあと)が残っているとはいえ、他国に比べれば裕福な京に入ったら、いったいどうなるでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
>他国に比べれば裕福な京に入ったら、いったいどうなるでしょうか?
そうですねぇ。
寄せ集めと言う事で、忠誠心に欠け、まとまりのない、自分勝手な行動に出る可能性がありますよね?
それにその日の食糧にこと欠いていたと言う事で、
強盗、ひったくりをしてまでも、奪い取ろうとする悪しき考えも、浮かんでくるんじゃないかと思います。
それにしても、やはり物事を推し進める際には用意は周到に。
「備えあれば、憂いなし」「備えなければ、憂いあり」ですね。。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですねぇ。
> 寄せ集めと言う事で、忠誠心に欠け、まとまりのない、自分勝手な行動に出る可能性がありますよね?
> それにその日の食糧にこと欠いていたと言う事で、
> 強盗、ひったくりをしてまでも、奪い取ろうとする悪しき考えも、浮かんでくるんじゃないかと思います。
ぴーちさんのお考えが正しいかどうかは明日(18日)分かりますが、果たしてどうでしょうか?
でも、寄せ集めは得てしてこういう結果になりますからね。
> それにしても、やはり物事を推し進める際には用意は周到に。
> 「備えあれば、憂いなし」「備えなければ、憂いあり」ですね。。
「思い立ったが吉日」とはいえ、やはり準備は大切ですよね。
講座の準備もしっかりしなければ…。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
義仲も戦上手だったが、その後の事が義経と同じで
詰めが甘い感じがする人ですね。
武士らしいと言えば武士らしいと思ってはいるんですが。
そして寄せ集めの軍勢が食料もなく
裕福な土地が入ったら略奪が起きて治安は乱れるでしょうね。
昔どこかの戦記もので食料もない大勢の捕虜を、一斉に敵軍の都に解放する事で
都を大混乱させる策を取った人がいるのを見た事がありますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 義仲も戦上手だったが、その後の事が義経と同じで
> 詰めが甘い感じがする人ですね。
> 武士らしいと言えば武士らしいと思ってはいるんですが。
猪武者といえば武士らしいですが、それだけでは勝てないのが戦の難しいところですね。
> そして寄せ集めの軍勢が食料もなく
> 裕福な土地が入ったら略奪が起きて治安は乱れるでしょうね。
> 昔どこかの戦記もので食料もない大勢の捕虜を、一斉に敵軍の都に解放する事で
> 都を大混乱させる策を取った人がいるのを見た事がありますね。
戦記ものの話はいかにも、という感じがしますね。こういった搦め手からの戦はなかなか厄介です。
どうなる?
JJSG こんばんは。
どうなる?
食い荒らす?食い散らす?
???
JJSGさんへ
黒田裕樹 > どうなる?
> 食い荒らす?食い散らす?
> ???
皆さん、それぞれお考えですね。
食いつめた人間が起こす行動といえば、やはり…でしょうからね。
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う~む
h.hamauzu こんにちは。
わが祖先である平氏の興亡を知るのは
結構感慨深いですね…
平氏をいぢめないで~
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 決して平氏をいじめている訳ではないです(´・ω・`)
京の人々は確かに平氏の横暴(おうぼう)を憎んでいましたが、その平氏ですら略奪行為はありませんでした。かくして義仲の評判は一気に落ちてしまいました。また義仲は安徳天皇が平氏とともに都落ちされた後に、天皇の後継をどうするかについて後白河法皇と争うなど、政治的にも上手くいきませんでした。
義仲の将来に不安を感じられた後白河法皇は密(ひそ)かに頼朝と連絡をとられて、頼朝の流罪(るざい)前の官位を回復させ、頼朝に義仲を討つようにうながされました。尚、官位の回復と同時に、頼朝は後白河法皇から東国での支配権を事実上認められました。それまで「反乱軍」扱いだった頼朝の勢力が、この段階で初めて朝廷から正式に認められたのです。これを寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ、寿永二年は1183年で、宣旨とは天皇の命令を伝える文書のこと)といいます。
頼朝は弟の源義経(みなもとのよしつね)らを義仲追討に向かわせました。一方、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山県西部)の水島(みずしま)で平氏の軍勢に大敗して追いつめられた義仲は、後白河法皇らを幽閉し、自分を無理やり征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じさせましたが、京まで攻め込んだ義経の軍勢にも大敗し、1184年1月に義仲は無念の最期を遂(と)げました。
尚、義仲はその出身地から別名を木曾義仲(きそよしなか)とも呼ばれています。




いつも有難うございます。
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monariz 僕としては「木曽義仲」の方がしっくりきます。
やっぱり復習は大切ですね、ところどころ抜けてましたー。
monarizさんへ
黒田裕樹 > 僕としては「木曽義仲」の方がしっくりきます。
通称の方が確かに有名ですからね。今回は「源氏」であることを間接的に証明するために本名を用いました。
> やっぱり復習は大切ですね、ところどころ抜けてましたー。
そのとおりですね。「知ってたつもり」ではなかなか実力がつかないものです。
これからも頑張って下さい!
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
義仲も平氏を討つ事に捕らわれ過ぎて
その先を見る事ができなかったんですね。
本人は平氏を討つ大義で出たつもりが
最後には敵とされ仲間である筈だった源氏に討たれてしまう。
半分は自業自得とはいえ少しかわいそうな最後だと
思ってしまいました。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 義仲も平氏を討つ事に捕らわれ過ぎて
> その先を見る事ができなかったんですね。
そうですね。平氏を討ったところで、頼朝のような「武士のための政治」を実現することができなければ、結局同じ運命をたどることになり、現実にそうなってしまいましたからね。
> 本人は平氏を討つ大義で出たつもりが
> 最後には敵とされ仲間である筈だった源氏に討たれてしまう。
> 半分は自業自得とはいえ少しかわいそうな最後だと
> 思ってしまいました。
義仲が「平氏を都落ちさせるためだけに生まれてきた武将」だとは言い過ぎでしょうか。しかし、歴史の結果をたどれば、そういわざるを得ないところが、歴史の冷徹さでもありますね。
.
紗那 なんか義仲さんが不運ですが・・・?
でも、よりともさんが朝廷に認められたので、よしとします。
上手くいかないときって、徹底的にうまくいかないもんなんですねぇ・・・
.
馬人 鎌倉時代の前後はややこしいです(・ω・;)
>あちこちの住民から食糧や財産などを略奪
そんなことをした人なんですか…
でも、そんな人でも最後に討たれたっていう人生が悲しいですorz
.
ケンシロウ こんにちは。
今年最後の講座に向けて
準備に追われている頃でしょうか?
今日は全国的に冷え込みましたが
おいらの自宅名古屋では雪がちらほら。
午後からの講座頑張って下さいな。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なんか義仲さんが不運ですが・・・?
確かにツキがないですね。
準備不足や根回し不足が最後まで響いていると思います。
> でも、よりともさんが朝廷に認められたので、よしとします。
これは大きかったですね。義仲だけでは不安だったので、頼朝にも声をかけられたわけですが、そもそも朝廷が自前の軍隊を持っていれば…。
> 上手くいかないときって、徹底的にうまくいかないもんなんですねぇ・・・
本当にそうですね。逆に、この後登場する武将のようについているときはとことん上手くいくものです。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 鎌倉時代の前後はややこしいです(・ω・;)
確かに、色んな人物が入れ代わり立ち代わり登場しますからね。
> >あちこちの住民から食糧や財産などを略奪
> そんなことをした人なんですか…
> でも、そんな人でも最後に討たれたっていう人生が悲しいですorz
哀れな末路は同情を誘いますね。
「死ねば仏」のたとえもあり、亡くなった人は丁重に扱うのが我が国の風習ですね。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 鎌倉時代の前後はややこしいです(・ω・;)
確かに、色んな人物が入れ代わり立ち代わり登場しますからね。
> >あちこちの住民から食糧や財産などを略奪
> そんなことをした人なんですか…
> でも、そんな人でも最後に討たれたっていう人生が悲しいですorz
哀れな末路には同情を誘いますね。
略奪を防げなかった義仲ですが、もっとしっかり準備ができていれば…。
治天の君(ちてんのきみ)の権威で後鳥羽天皇を即位させた後白河法皇でしたが、一つの大きな問題がありました。それは、天皇であることを証明する大事な三種の神器(さんしゅのじんぎ)が平氏によって持ち去られたことです。この事実が、やがて一つの大きな問題を引き起こすことになります。
また、後鳥羽天皇が即位されたことで、安徳天皇とともにお二人の天皇が同時期に存在されることになりました。すなわち、鎌倉時代の末期から室町時代の初期における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)と同じ状態になっていたのです。いや、南北ではなく東西朝時代(とうざいちょうじだい)というべきでしょうか。
さて、都落ちした平氏ですが、西国(さいごく)ではまだまだ力を持っており、追ってきた源義仲に大勝するなど、復権を虎視眈々(こしたんたん、じっと機会をねらっているさまのこと)と狙(ねら)っていました。瀬戸内海(せとないかい)がある西国では海戦が多く、強力な水軍を持っている平氏には大きな強みがありました。一方、東国の山育ちの人間が多い源氏は水軍を持っておらず、平氏と源氏との戦いは、当分の間は一進一退(いっしんいったい)を繰(く)り返すと思われていました。
ところが歴史の結果としては、平氏が都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのような結果になったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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monariz へー、東西朝の時代なんてあったんですねー。はじめて知りました。
早く滅亡したのは人望の差でしょうか。
.ふと思ったのですが。
晴雨堂ミカエル 平氏側に大宰府幕府を開く構想は無かったのでしょうか?
その気があれば安徳天皇を推戴したまま大宰府に武家政権を開き、儀礼上の百官を設置して内実は幕府として展開し、高麗や宋との貿易で経済力をつけて、再び京奪還の軍を起こすまで地盤を強化する手もあったように思います。またそれも不可能ではなかったと思えるのです。
次回の話が楽しみです。
どうして
JJSG どうして???
楽しみにしています。
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.水軍と言えば広島?
オバrev 黒田先生 歴史講座ご苦労様でした。
田沼意次と松平定信の改革を、どう解釈しておられるか大変楽しみです。
治天の君の権威というのは、現在のO幹事長の権威みたいなもんですか^_^;
広島県には、因島に水軍城があるし、近所には水軍の郷という和食のお店もあります。某島には村上という姓が多いし、水軍ゆかりの地かもしれません。
平家が瀬戸内海の合戦で敗れたというのは、水軍が裏切ったからではないでしょうか?広島のオバからみた意見です(^^)ジツハヨウワカラン
monarizさんへ
黒田裕樹 > へー、東西朝の時代なんてあったんですねー。はじめて知りました。
2年足らずしか存在していませんから目立たないんですが、同時期に天皇がお二人おられたのはまぎれもない事実ですからね。ひとつの盲点ではありますが。
> 早く滅亡したのは人望の差でしょうか。
平氏政権に対する憎しみがあったのも事実ですが、いくら周囲が憎んだとしても、それなりの実力があれば簡単には滅びません。だとすれば、その実力を脅かすだけの何らかの存在が必須なのですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 平氏側に大宰府幕府を開く構想は無かったのでしょうか?
> その気があれば安徳天皇を推戴したまま大宰府に武家政権を開き、儀礼上の百官を設置して内実は幕府として展開し、高麗や宋との貿易で経済力をつけて、再び京奪還の軍を起こすまで地盤を強化する手もあったように思います。またそれも不可能ではなかったと思えるのです。
理論的には十分可能性があったと思われます。ただ、貴族慣れした平氏に、頼朝のような「武士のための政治」が理解できていたか、ということがポイントになりそうです。
平氏の中に頼朝級の人材がいなければ、仮に幕府がつくれたとしても決して長続きはできなかったでしょう。武士の支持があって、初めて幕府としての存在が認知されるのですから。
また、この当時に「治天の君」たる後白河法皇が存在されたのも大きいと思います。後白河法皇が平氏の征夷大将軍をお認めにならなければ、おそらく幕府は朝廷のお墨付きを得られなかったと考えられるからです。これは、現実の世界における頼朝と後白河法皇との関係にも言える話ですが(いずれ講座で紹介します)。
> 次回の話が楽しみです。
有難うございます。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > どうして???
> 楽しみにしています。
有難うございます。平氏滅亡のカラクリについて、これから数日間検討してみますので、また是非お越し下さい。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座ご苦労様でした。
> 田沼意次と松平定信の改革を、どう解釈しておられるか大変楽しみです。
有難うございます。講座は無事終了しました。いずれ別記事で改めて紹介します。
> 治天の君の権威というのは、現在のO幹事長の権威みたいなもんですか^_^;
「天皇の父(または祖父)」としての「本物の権威」を後白河法皇はお持ちですが、O氏の場合はそれすらありませんからね。何ゆえに威張っているのかよく分かりません(´・ω・`)
> 広島県には、因島に水軍城があるし、近所には水軍の郷という和食のお店もあります。某島には村上という姓が多いし、水軍ゆかりの地かもしれません。
> 平家が瀬戸内海の合戦で敗れたというのは、水軍が裏切ったからではないでしょうか?広島のオバからみた意見です(^^)ジツハヨウワカラン
裏切りという面は確かにあったと思います。もっとも、裏切りというよりは「平氏と源氏、強い方に味方する」という感覚だったかもしれません。
この後の源平の戦いで平氏が勝利すれば、おそらく「裏切る」ことはなかったでしょうし、また平氏も「負けるはずがない」と思っていたことでしょう。
ところが、現実にはそんな状況が一気にくつがえされてしまうというのが恐ろしいところですね。では、それを可能にした源氏のマジックとは何でしょうか?
さて、都落ちからの復権を目指す平氏は一ノ谷(いちのたに、現在の兵庫県神戸市)に陣をかまえていました。山を背後に軍勢を構えた平氏は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面(きゅうしゃめん)で通常なら通れそうもない坂を騎馬ごと一気に下り、平氏の背後を奇襲しました。
不意をつかれた平氏は大混乱となり、一ノ谷を放棄して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得た、1184年2月に行われたこの戦(いくさ)は一ノ谷の戦いと呼ばれ、また義経が急坂を一気に下ったという奇襲は、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称えられました。
義経には、常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする天才的な戦術に関する能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平氏。このどうしようもないくらいの大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。




いつも有難うございます。
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JJSG こんにちは。
一の谷の戦いは、よく聴きます。
義経の戦術も。
無知の私が知っている、ということは、相当有名ですね(笑)
歴史を動かすのは、やはり、人、ということですね。
また、常識にとらわれない柔軟な発想ということも学ぶべきところですね。
.
shana 義経さん、登場ですかー。
しかし、この後に待ち受けていることを知っていると、なかなか手放しで喜べないのです。
やはり、人材は大事ですね。そう簡単に養成できるわけでもありませんし。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 一の谷の戦いは、よく聴きます。
> 義経の戦術も。
> 無知の私が知っている、ということは、相当有名ですね(笑)
いえいえ、義経といえば全国区ですからね。一の谷以降の流れは結構皆さんご存知かと思います。
> 歴史を動かすのは、やはり、人、ということですね。
> また、常識にとらわれない柔軟な発想ということも学ぶべきところですね。
時代の転換期では、オーソドックスな戦法よりも斬新な手法の方が重要なこともありますからね。そんな意味でも、義経は「時代の申し子」なのかもしれません。
.
ぴーち こんばんは!
1500時間振りにコメントさせていただきます!←(細かい事は、突っ込み無し!という事でw)
鵯越という言葉は、存じておりました!(何とか^^)
騎馬ごと、一気に・・というのは、通常の常識では確かに想定外の事だったでしょう。
よく、馬は怖がらないで
言う事を聞きましたよね。
何か、秘密があったのでしょうか・。
さぞ、敵さんは、驚かれた事でしょう~。(^^A
昨日はお疲れ様でした!
また、講座のご様子、楽しみに
しています。
では、私も今日の応援させてくださいね^^
また、お邪魔します。
shanaさんへ
黒田裕樹 > 義経さん、登場ですかー。
> しかし、この後に待ち受けていることを知っていると、なかなか手放しで喜べないのです。
確かにこの後の運命は…。
それだけに、この時点での彼の活躍が輝かしく思えますね。
> やはり、人材は大事ですね。そう簡単に養成できるわけでもありませんし。
そのとおりです、組織だけでなく、国にとっても優秀な人材育成は大切です。
「ゆ○り教育」などと言ってる場合ではないと思うのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 1500時間振りにコメントさせていただきます!←(細かい事は、突っ込み無し!という事でw)
…私もしばらくお伺いできませんでしたからね
> 鵯越という言葉は、存じておりました!(何とか^^)
> 騎馬ごと、一気に・・というのは、通常の常識では確かに想定外の事だったでしょう。
> よく、馬は怖がらないで
> 言う事を聞きましたよね。
> 何か、秘密があったのでしょうか・。
確かに人ばかりでなく、馬も怖気づきそうですよね。
よぼど馬術が巧みだったのでしょうか?
> さぞ、敵さんは、驚かれた事でしょう~。(^^A
想定外だったでしょうからね。統率が乱れてはどうしようもなかったことでしょう。
> 昨日はお疲れ様でした!
> また、講座のご様子、楽しみに
> しています。
有難うございます。
いずれ報告記事をアップしますね(^^♪
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
いよいよ義経登場ですね
そして頼朝やっぱり鎌倉にいてたんですね。
小学生の歴史の教科書では源頼朝が平氏を滅ばしたように書いてありましたが、実際に滅ぼしたのは義経なんですしそのように書いてあるのはどうかとちょっと想ってしまいました。
しかし義経は戦争の天才ですね
この時代の戦争は戦国時代や三国志と違って余り取り上げられないんで
義経の戦いをゲームなどで見れないのは少し残念だと想っていますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > いよいよ義経登場ですね
> そして頼朝やっぱり鎌倉にいてたんですね。
> 小学生の歴史の教科書では源頼朝が平氏を滅ばしたように書いてありましたが、実際に滅ぼしたのは義経なんですしそのように書いてあるのはどうかとちょっと想ってしまいました。
総指揮者が頼朝で、実際の戦争担当者は義経ですからね。紙数の都合とはいえ、そのあたりはやはりはっきり書いてほしいものです。
> しかし義経は戦争の天才ですね
> この時代の戦争は戦国時代や三国志と違って余り取り上げられないんで
> 義経の戦いをゲームなどで見れないのは少し残念だと想っていますね。
ゲームだとどうしてもオーソドックスな戦いになってしまいますからね。
義経の戦法を忠実に再現するのは難しいと思われますし。
屋島の北側には瀬戸内の海が広がっており、平氏は源氏が当然海を渡ってやって来るであろうと思い、待ち伏せして全滅させようと考えていましたが、ここでも義経が自慢のスピードで奇襲をかけてきました。
1185年2月、義経は嵐の中を少数精鋭(しょうすうせいえい、人数は少ないが優れた者だけをそろえること)の騎馬武者とともに荒海を馬ごと船出しました。通常なら難破(なんぱ)してもおかしくないのですが、ここでも歴史の神は義経に味方して、嵐を追い風に極めて短時間で上陸を果たすことが出来ました。
上陸した義経軍は、海岸伝いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所(ごしょ)を急襲しました。またしても不意をつかれた平氏は、安徳天皇をお守りするためにも逃げる以外に選択肢(せんたくし)がなく、結局屋島も放棄せざるを得なかったのです。尚、この戦(いくさ)は屋島の戦いと呼ばれています。
ちなみに、源氏の武者である那須与一(なすのよいち)が、平氏が所有する船に立てられた日の丸が描かれた扇を見事に射抜いたという平家物語(へいけものがたり)の有名なエピソードはこの際のものです。このエピソードこそが、後の平氏の運命を物語っていたように思われてなりません。




いつも有難うございます。
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オバrev 義経の意表を突く発想と実行力は、まさに戦の天才という言い方が相応しいですね。
1つ1つの戦いは、その集団のトップの力によって結果が大きく左右されるということを改めて感じます。
ところでトップと言えば、NHK坂の上の雲で日清戦争を放送していましたが、あの森林太郎(鴎外)がでてました。
日清・日露戦争では脚気による死者が多数でましたが、特に陸軍の被害は膨大だったそうです。この時の陸軍省医務局の中心人物が東大医学部卒のエリート軍医である森鴎外で、脚気に対して細菌説をとって、それまでの麦飯から白米に変え、それを貫いたそうです。
その結果、麦飯の時には収まっていた脚気が再び猛威をふるうことになったそうです。
やはりトップの考えは影響が大きいですよね。
で、現在の政治を見ていると、トップはいったい誰?国益考えてる??
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
義経の戦争は義経の講座で見させて貰いましたが、やっぱり義経は戦いの天才ですね。
そして相対する敵が戦の天才に運にも見放された平氏はもはや歴史の表舞台の退場を勧告されていたんだと思いますね。
那須与一の話は少し読んだ事がありますが、扇を打ち抜いたまではよかったのですが、その後が余りよくなかった気がしますね。
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義経
JJSG こんばんは。
義経って、すごいんですねぇ。
天才ですね。
この後の展開もわくわくします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 義経の意表を突く発想と実行力は、まさに戦の天才という言い方が相応しいですね。
> 1つ1つの戦いは、その集団のトップの力によって結果が大きく左右されるということを改めて感じます。
本当にそうですね。義経なくして平氏を討つことは不可能だったでしょう。逆に言えば、義経に対抗できるだけの人材が平氏にはいなかった、ということでもあります。
> ところでトップと言えば、NHK坂の上の雲で日清戦争を放送していましたが、あの森林太郎(鴎外)がでてました。
> 日清・日露戦争では脚気による死者が多数でましたが、特に陸軍の被害は膨大だったそうです。この時の陸軍省医務局の中心人物が東大医学部卒のエリート軍医である森鴎外で、脚気に対して細菌説をとって、それまでの麦飯から白米に変え、それを貫いたそうです。
> その結果、麦飯の時には収まっていた脚気が再び猛威をふるうことになったそうです。
> やはりトップの考えは影響が大きいですよね。
「知る人ぞ知る」話がようやく表舞台に出てきましたね。仰るとおり、森林太郎の影響は大きく、乃木将軍を間接的に苦しめることにもなりました。本当に残念な話です。
> で、現在の政治を見ていると、トップはいったい誰?国益考えてる??
…(^^ゞ
私もオバrevさんと同じ思いです。救国の英雄はいらっしゃるのでしょうか。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 義経の戦争は義経の講座で見させて貰いましたが、やっぱり義経は戦いの天才ですね。
> そして相対する敵が戦の天才に運にも見放された平氏はもはや歴史の表舞台の退場を勧告されていたんだと思いますね。
そうですね。平氏の役割は「武士による政権」の開拓であり、その役目が終われば退場となったのでしょう。だとすればその後の義経や源氏の運命も…。
> 那須与一の話は少し読んだ事がありますが、扇を打ち抜いたまではよかったのですが、その後が余りよくなかった気がしますね。
那須与一のエピソードはこの時の話だけが有名で、後はほとんど知られていませんからね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 義経って、すごいんですねぇ。
> 天才ですね。
> この後の展開もわくわくします。
有難うございます。義経の話にはまだ最後のエピソードが残っていますからね。
そして、その後の話も…。
一方の源氏は山育ちだったのが災(わざわ)いし、本格的な海戦は未だに経験がありませんでした。こうなると、さすがの義経も苦戦するかと思われたのですが、いざフタを開けてみれば、義経が世界の海戦史上でも例を見ない完勝で終わりました。1185年3月に行われたこの戦(いくさ)は壇ノ浦の戦いと呼ばれています。それにしても、なぜ義経は未経験の海戦で勝つことができたのでしょうか?
実は義経は、平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺すことによって、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は殺してはいけない、というよりそもそも戦いに参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な義経の柔軟な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。平氏側の武将も奮戦(ふんせん)して一時は義経を追いつめ、この際に義経が八艘(はっそう)飛びで難を逃れるという場面もありましたが、結局あれほどの栄華を誇った平氏もついに海の藻屑(もくず)と消え、義経は会心の大勝利を収めたのですが、皮肉なことに「平氏を滅亡させる」という役目を終えた義経には、この頃から既に破滅の兆(きざ)しが見えていたのでした。
尚、1180年の以仁王の挙兵から1185年までの平氏滅亡までの一連の戦いは、当時の年号から治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
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えめる 船を操縦する人をやっつけちゃったのかニャ。
眼の付け所がいいというか、
見方によっては卑怯というか……。
勝つためには、利用できるものは利用すべきってことかニャ。
.
ぴーち こんばんは!
う~ん。。勝つためなら、
どんな手段も選ばない。。
という事ですね~。
確かに、スポーツの世界なんかも、
「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦う事を誓います!」
なんて、宣言しますが、
内容は、勝つためには姑息な手段をいとわなかった選手こそが
最後まで勝ち残ったりして、あらゆる戦略、出来る限りの手練手管を考えたものが勝利するという
勝負の世界の怖さ(醜さ?)みたいなものをよく見せつけられますが、
まさに、義経の戦法も姑息な小技勝負だったんですね。
そう言えば、現役時代の「舞の海」も、技の百貨店と言われるくらいに、小技で相手を翻弄させていましたっけね^^
と、何故か相撲の話に脱線しちゃました(汗
応援凸
またお邪魔しますね^^
.時代を変える人は
オバrev それまでの常識を打ち破る作戦は、天才たる所以か、単なる卑怯者かは何とも言えませんが。、平氏としたら危機管理がなかったと思います。
時代を変える人と、変わった時代を熟成させていく人はタイプが違うんでしょうね。
どうしても、時代を変える人は、エネルギッシュだけども、敵が多いという気がします。
義経の今後はどうなるんでしょうか。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 船を操縦する人をやっつけちゃったのかニャ。
> 眼の付け所がいいというか、
> 見方によっては卑怯というか……。
> 勝つためには、利用できるものは利用すべきってことかニャ。
義経の場合は典型的な「勝利至上主義」といえるかもしれません。
確かに勝たないことには話になりませんが、そのしっぺ返しが全く別のところで起きるのですから、世の中というのは分からないものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> う~ん。。勝つためなら、
> どんな手段も選ばない。。
> という事ですね~。
> 確かに、スポーツの世界なんかも、
> 「スポーツマン精神に則り、正々堂々と戦う事を誓います!」
> なんて、宣言しますが、
> 内容は、勝つためには姑息な手段をいとわなかった選手こそが
> 最後まで勝ち残ったりして、あらゆる戦略、出来る限りの手練手管を考えたものが勝利するという
> 勝負の世界の怖さ(醜さ?)みたいなものをよく見せつけられますが、
> まさに、義経の戦法も姑息な小技勝負だったんですね。
勝つためには手段を選ばない、という考え方は一見卑怯ではありますが「それならどうやって勝てばいいんだ!」というのが義経の言い分でしょう。
観客のいるスポーツと違って、卑怯であっても「金返せ」という相手がいませんから(笑)、綺麗事を言っている場合ではない、というところでしょうか。
> そう言えば、現役時代の「舞の海」も、技の百貨店と言われるくらいに、小技で相手を翻弄させていましたっけね^^
> と、何故か相撲の話に脱線しちゃました(汗
いえいえ、私は相撲好きですから一向に構いませんよ(笑)。
舞の海の場合は小技で観客を喜ばせていますから、それはそれでいいのかもしれませんね(^^♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 > それまでの常識を打ち破る作戦は、天才たる所以か、単なる卑怯者かは何とも言えませんが。、平氏としたら危機管理がなかったと思います。
一ノ谷や屋島で何度も痛い目にあっているのですが…。
確かに危機管理や防衛能力に疑問符がつきますね。これも人材不足なのか、あるいは「貧すれば鈍す」というべきなのか…。
> 時代を変える人と、変わった時代を熟成させていく人はタイプが違うんでしょうね。
> どうしても、時代を変える人は、エネルギッシュだけども、敵が多いという気がします。
> 義経の今後はどうなるんでしょうか。
義経は典型的な「時代を変える人間」ですからね。こういうタイプの人間は、世の中が変わったら「役目を終えた」ことで歴史から退場させられてしまいがちです。義経の場合も…。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
いつの時代でも、いつも常識を破って活躍した人間は
その当初は卑怯者とされ後世で評価されるものですね。
しかしいつも常識破りの卑怯者呼ばわりされた人物は
生きて後世の評価を聞く事ができずに
無念のままに死んでいくのは少しかわいそうに思いますね。
ただそんな人達は周りの評価程度で
自分の信念を曲げない立派な人達だとは思っていますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > いつの時代でも、いつも常識を破って活躍した人間は
> その当初は卑怯者とされ後世で評価されるものですね。
> しかしいつも常識破りの卑怯者呼ばわりされた人物は
> 生きて後世の評価を聞く事ができずに
> 無念のままに死んでいくのは少しかわいそうに思いますね。
まさしくそのとおりです。今回の源義経のみならず、平清盛や織田信長、徳川綱吉に田沼意次なども皆が同じような一面がありますね。
> ただそんな人達は周りの評価程度で
> 自分の信念を曲げない立派な人達だとは思っていますね。
仰るとおりです。皆が自己の生涯を信念をもって生き抜きました。そのことを評価せずして、歴史を語るべきではないと思います。
.
MAHHYA 義経は戦いの天才と、呼ばれましたが、「意表を突く」というのは「約束事を破る」という側面もありますね。
もちろん、戦いというのは、それほど甘くないということなのでしょうが・・・。
平清盛の話を書きました。TBさせてくださいませm(_ _)m
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > 義経は戦いの天才と、呼ばれましたが、「意表を突く」というのは「約束事を破る」という側面もありますね。
> もちろん、戦いというのは、それほど甘くないということなのでしょうが・・・。
確かに義経の行為は「掟破り」であり、「卑怯者」呼ばわりされても致し方がないのですが、そこまで踏み込まなければ平氏を打ち破ることは不可能だったのでしょう。「勝てば官軍」というのは義経のための言葉なのかもしれませんね。
> 平清盛の話を書きました。TBさせてくださいませm(_ _)m
喜んでお受けします。こちらからも相互トラバを申し込みますね(^^♪
頼朝個人としては、父の源義朝の仇(かたき)である平氏が滅亡して嬉しくないはずがありません。しかし、彼は自分の利害よりも、武士全体の利益を優先し、そのための戦略(せんりゃく、戦争に勝つための総合的あるいは長期的な計略のこと)を考える政治家でもありました。
関東で力をつけて、平氏を滅亡寸前にまで追い込んだ頼朝でしたが、それはあくまで軍事力のみの結果であり、武士に土地の個人所有を認めさせるといった「武士のための政治」を行うにはまだまだ力不足でした。そこで頼朝は、形式化してはいたものの荘園などを監視する立場である朝廷との交渉によって目標を実現させようと考えており、その際の切り札となるのが三種の神器だったのです。
「治天の君」の権威で後鳥羽天皇をご即位させた後白河法皇でしたが、やはり三種の神器なしではまずいのでは、という後ろめたさを持っておられました。政治家であった頼朝はこの点に目をつけ、三種の神器を自らの手で取り返して後白河法皇に引き取らせることによって、武士側の要求を認めさせようと考えていたのでした。
このため、頼朝は義経に対して「平氏滅亡よりも三種の神器の奪回(だっかい)を優先させて、どんなことがあっても取り戻してこい」と厳命(げんめい)したに違いないのです。




いつも有難うございます。
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オバrev なるほど、頼朝はそういう戦略を考えていたんですね。
そういう戦略に沿って、その目的を達成するために戦術を練って戦うことが大事だったけど、義経には戦略が理解できてなかったんでしょうか。
でも今の鳩山内閣よりはましかな?
どうも内閣には戦略も戦術もなくて、党の幹事長の言いなりになっているように見えてしまいます。
まあ、それによる実際の結果が出てみないと何とも言えないデスカネ゙・・・
.
monariz おお、なるほど...
でも今三種の神器があるなら取り戻せたのではないでしょうか?
.
ぴーち こんばんは!
私も女性に不可欠な
「三種のアイテム」である
「気品のりんご」
「お色気パイン」
「知識のクルミ」
を手に入れたいものです(爆)
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、頼朝はそういう戦略を考えていたんですね。
> そういう戦略に沿って、その目的を達成するために戦術を練って戦うことが大事だったけど、義経には戦略が理解できてなかったんでしょうか。
一般的な軍人にありがちなのが「目先の勝負」にこだわりすぎる姿勢なんですね。勝ちすぎたゆえに相手の恨みを買ったり、手を広げすぎて自滅したり…。後者なんかは先の大戦での我が国の敗因の一つですよね(´・ω・`)
> でも今の鳩山内閣よりはましかな?
> どうも内閣には戦略も戦術もなくて、党の幹事長の言いなりになっているように見えてしまいます。
> まあ、それによる実際の結果が出てみないと何とも言えないデスカネ゙・・・
100日経って「結果を待て」といわれても「?」という気がしますが…。
特に現政権は前政権に対してあれだけ批判的だったのですから、それなりの自覚を持ってほしいものですね。
monarizさんへ
黒田裕樹 > おお、なるほど...
> でも今三種の神器があるなら取り戻せたのではないでしょうか?
現代の技術なら可能だったかもしれませんね。
ただ、剣というのは重いものですから沈みやすいでしょうし、何よりも三種の神器と一緒に海に飛び込まれたのは、いかに不意をつかれたからとはいえ、失策以外の何物でもないような気がします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 私も女性に不可欠な
> 「三種のアイテム」である
> 「気品のりんご」
> 「お色気パイン」
> 「知識のクルミ」
> を手に入れたいものです(爆)
「三種の神器」というのは色んな意味に派生されていますからね(笑)。
そういえば、私が生まれた頃は「カラーテレビ、クーラー、自動車」でしたっけ。
.頼朝の性格
車 寅三郎 「頼朝の冷淡な性格は、父義朝から受けついだ― というより平治の乱に破れ、逃避行中の義朝が、若い頼朝を盾にするような行為をとったから」。と某講座で聞きました。
事実、二人は別行動をとっています。そのあたりの史実は?
車 寅三郎さんへ
黒田裕樹 > 「頼朝の冷淡な性格は、父義朝から受けついだ― というより平治の乱に破れ、逃避行中の義朝が、若い頼朝を盾にするような行為をとったから」。と某講座で聞きました。
> 事実、二人は別行動をとっています。そのあたりの史実は?
頼朝が義朝と逃走中に、馬上で居眠りしている間にはぐれてしまうという話は聞いたことがありますが、寅三郎さんのお話は初耳ですね。
「頼朝の冷淡な性格」は、本人の資質よりも、義経に対する「仕打ち」が曲解されて伝わった可能性があると思います。義経びいきがら見れば、頼朝の行動が冷たく見えて仕方がないでしょうし。
ありゃまー!
JJSG ここまで戻って読んで、コメントしたのに、エラーで消えた。。。
くやしいです!(笑)
今日はこれだけにしときます。
眠いので。。。(><)
また明日、この続きから読みまーす。
JJSGさんへ
黒田裕樹 う~ん、それは残念ですね…(´・ω・`)
次回は無事にコメントができるように願っておりますm(_ _)m
神器のうち、勾玉(まがたま)と鏡は取り戻せましたが、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は海の底に沈んでしまって、ついに取り戻せなかったのです。これでは切り札として後白河法皇に武士の要求を認めさせるどころか、失態を問われることで頼朝の地位が危うくなる可能性すらありました。
頼朝は、軍事の天才である義経なら三種の神器を取り戻してくれると期待していただけに、義経に対してより一層激怒したわけですが、義経は平氏を滅亡させたことの方がよほど重要であると信じ込んでおり、頼朝がなぜ自分に激怒するのか分からないままでした。
これに加えて、義経はさらに致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇から検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当する役職のこと)への任官(にんかん)を勝手に受けてしまったのです。尚、任官後の義経は「九郎判官」(くろうほうがん)と呼ばれましたが、これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになります。
この義経の「朝廷からの任官を頼朝の許可なく勝手に受ける」という行為は、実は頼朝のそれまでの血のにじむような努力を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち (*´∀`)【☆・゜:*メリィクリスマス*:゜・☆】(´∀`*)
頼朝と義経の間の目的の違いや、意思の疎通が
益々、不運を呼んでしまったんですね~。
やはり、判ってくれるだろう。判るはず・・という見切り発車が、命取りだったのかもしれませんね。
話し合いは、大切ですね。
という件じゃないのかな?(笑)
それでは、今日は、ワインを持参して来たので、乾杯しましょうw
黒田さんの益々のご活躍を祝して♪(クリスマスのじゃないのかいw)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > (*´∀`)【☆・゜:*メリィクリスマス*:゜・☆】(´∀`*)
メリークリスマス!(^o^)丿
> 頼朝と義経の間の目的の違いや、意思の疎通が
> 益々、不運を呼んでしまったんですね~。
> やはり、判ってくれるだろう。判るはず・・という見切り発車が、命取りだったのかもしれませんね。
> 話し合いは、大切ですね。
> という件じゃないのかな?(笑)
いや、決してそんなことはありませんよ(^^ゞ
我が国の人々は本来は話し合って分かる人間同士。
ですが、この場合はあまりにも考えが違いすぎました…(´・ω・`)
歩み寄りができれば、もっと時代が変わっていたかもしれませんね。
> それでは、今日は、ワインを持参して来たので、乾杯しましょうw
> 黒田さんの益々のご活躍を祝して♪(クリスマスのじゃないのかいw)
クリスマスらしいですね(^^♪
私にとっては活躍を祈念して下さったほうが有難いです(^_^)v
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
戦の天才ではあったが政治に疎かった義経と
義経と正反対である頼朝とでは価値観の違いからくる
すれ違いは仕方なかったと思いますが
兄弟だからこそ争いあわずに協力して
新しい世を作って欲しかったですね。
いつの時代でも肉親がいがみ合うのは悲しい事ですからね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 戦の天才ではあったが政治に疎かった義経と
> 義経と正反対である頼朝とでは価値観の違いからくる
> すれ違いは仕方なかったと思いますが
> 兄弟だからこそ争いあわずに協力して
> 新しい世を作って欲しかったですね。
お互いに歩み寄る思いがあれば、という気持ちにもなりますが、そりが合わなかったのかもしれませんね。
> いつの時代でも肉親がいがみ合うのは悲しい事ですからね。
全くです。骨肉の争いほど虚しいものはありません。しかし、現実問題としては多いのが何とも…(´・ω・`)
.
紗那 あぁ、やはり武士が絡むこのあたりの話は全部知ってましたー。
「武士が絡むと」強いんですけどね!
文化史とかだめだめですorz
でも、最後の問いの理由が分かりません。次の記事の答えに期待します!
.
晴雨堂ミカエル 巷で義経=ジンギスカン説が流布されていますが、説得力を感じられない原因がこれです。どう考えても、義経はジンギスカンになりえる器ではない。
石坂浩二氏が頼朝を演じた大河ドラマ「草燃える」は同様の視点で描かれていますね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > あぁ、やはり武士が絡むこのあたりの話は全部知ってましたー。
> 「武士が絡むと」強いんですけどね!
> 文化史とかだめだめですorz
文化史も重要ですよ。
この頃からは「武士と絡ませる」ことも可能ですし。
> でも、最後の問いの理由が分かりません。次の記事の答えに期待します!
答えを載せましたが、いかがでしたか?(^^♪
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 巷で義経=ジンギスカン説が流布されていますが、説得力を感じられない原因がこれです。どう考えても、義経はジンギスカンになりえる器ではない。
そうですね。一方で「逆もまた真なり」です。
ジンギスカンのような残虐性を義経は持っていませんし。
> 石坂浩二氏が頼朝を演じた大河ドラマ「草燃える」は同様の視点で描かれていますね。
そうなんですか?
ぜひ見てみたいものです(^^♪
登場
JJSG こんにちは。
義経は軍事の天才であっても、政治には暗かったのですねぇ。
でも、頼朝も失敗を義経のせいにしていて、自分がもっとよく義経に説明しなかったことを反省すべきで。。。
とはいえ、難しい世の中なのかな。
さてさて、今の世の中でも、上司の許可を得ず、勝手なことしていては、戦略はうまく運びませんからねぇ。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 義経は軍事の天才であっても、政治には暗かったのですねぇ。
> でも、頼朝も失敗を義経のせいにしていて、自分がもっとよく義経に説明しなかったことを反省すべきで。。。
> とはいえ、難しい世の中なのかな。
お互いの長所と短所をうまく利用してここまで来ましたからね。平氏を倒したことで軍事性に重要さがさほどなくなったという事実もありますし、頼朝の考えが今ひとつ分からないところでもあります。
ただはっきりいえることは、義経の失敗による地位の低下は、長い目で見れば頼朝の幸運でもあった、ということです。
> さてさて、今の世の中でも、上司の許可を得ず、勝手なことしていては、戦略はうまく運びませんからねぇ。
そうですね。部下が勝手に独走しては、上司は責任が取れません。とはいえ、部下の優秀さを憎むあまり、何もさせずに飼い殺しにするのも大いに問題があると思います。
一方、官位というものは朝廷から授かるものですから、それを頼朝の承認もなく受け取るということは、頼朝の権威をまるつぶれにしてしまいかねない愚(おろ)かな行為なのです。それなのに、よりによって頼朝の実の弟である義経があっさりと朝廷から勝手に官位を受けてしまったのですから、頼朝にとってはたまったものではありませんでした。
現実に、この後多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けてしまいました。これらに対する頼朝の嘆(なげ)きや怒りは凄(すさ)まじいものであったと伝えられています。しかし義経は、三種の神器と同様に、自分が犯した大きなミスに全く気がついていませんでした。何しろ後に頼朝に送った手紙のなかで「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいです。
「政治家」の頼朝と「軍人」の義経とでは、考えがまるで異なるのはむしろ当然とも言えました。この二人の間を取り持つ優秀な人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通(そつう、とどこおりなく通じること)を欠かせて、ついには兄弟で対立するという結果を生んでしまったのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 私の時代、学校の授業では頼朝が征夷大将軍になって鎌倉時代がはじまり、幕府が都の朝廷に代わって国政を担う格好で説明されていました。
「あれ? 征夷大将軍でそんなに偉い? 役職名はどうみてもただの武官なのに?」「鎌倉時代に入って、天皇や朝廷は無くなったのかな?」といった疑問を持つ暇もなく暗記させられた子供たちが多い。後の時代で再び天皇やら朝廷やらが出てきて、訳がわからなくなって歴史が嫌になった級友もいました。
学校教育では、「征夷大将軍」とは何なのか、「幕府」とは何か、殆ど説明しませんからね。
大河ドラマ「草燃える」は当時の鎌倉と京の関係をかなり丁寧に描いていました。源平合戦モノの時代劇ではかなり貴重な存在ではないでしょうか。
平清盛が斃れて、石坂浩二扮する頼朝らは難敵が居なくなって大喜び、そこへ国広富之扮する義経が「父の敵が討てなくなったのに、そんなに嬉しいのか!」と怒鳴りだし、頼朝は軽蔑と嫌悪の顔で義経の顔を見る場面。
義経軍が壇ノ浦の合戦で平家の漕ぎ手を射かけ、平知盛が「おのれ!卑怯な!」と叫ぶ場面。他の時代劇と違って、あまり義経をカッコ良く描いていませんでした。
その他、頼朝が朝廷との交渉で軍事的権限が強大な「征夷大将軍」をとるため後白河法皇と駆け引きをする場面。
後白河法皇は征夷大将軍より位階が上の右大将を授けて懐柔、頼朝は右大将の権限で、法的には私的な関東地方政権を幕府として合法化する、といった描写がなかなか細かかったのが印象に残っています。
大がドラマの中ではあまり人気の無い作品でしたが、政治ドラマとしてはなかなか面白い一品です。
.
えめる 二人の考え方の違いが、はっきりとでてしまったのにゃね。
うーん。二人でもっと、話し合ったりする仲だったらよかったのにね。
気持ちを伝えるのは直接本人にいわないとわからないニャ。
あいつなら分かってくれると思っていたのに裏切られた、ってなっちゃう。
あうあうーだニャ。
.
佐佐木あつし 腰越状での義経のトホホぶりは
かなりうらさびしいモノがありますよね。
頼朝も苦労したんでしょうねー
ああいった暴れん坊の弟ってのは
スサノオ以来の伝統なんでしょうか?(爆)
徳川家光も弟には苦労しましたしねー
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに「将軍」や「幕府」についての本当の意味を教えてくれませんからね。
私の講座でも工夫しなければなりません(^^ゞ
「草燃える」全話見つかったらしいですね。
CSで来年放送されるらしいので楽しみです(^_^)v
えめるさんへ
黒田裕樹 兄弟といっても腹違いですし、離れて育ちましたから他人みたいなものだったでしょう。
加えて「兄弟なら分かってくれる」というかすかな思いすら伝わらないのであれば、逆に憎しみ出して「近親憎悪」が止まらなくなる。
現代でもありそうな話ですね(´・ω・`)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 腰越状での義経のトホホぶりは
> かなりうらさびしいモノがありますよね。
自分が何にも分かっていませんからね。
それで「私の思いを分かってくれ」と言われても…。
> 頼朝も苦労したんでしょうねー
> ああいった暴れん坊の弟ってのは
> スサノオ以来の伝統なんでしょうか?(爆)
ずいぶん昔の話ですね(笑)。
確かに「大人しい兄」「暴れん坊の弟」という図式は多いですね。
> 徳川家光も弟には苦労しましたしねー
忠長との確執も有名ですね。
近親憎悪というのはいつの時代も困ったものです(´・ω・`)
.
ぴーち こんばんは!
同じ親から生まれた兄弟でも、
命が、一人、一人違いますので、
考え方の相違、また、それまで学んで来た経験から、意見が対立してしまう事もありますよね。
よく会社の会議などで、意見がまとまらず自分の意見ばかりを押し通そうとする人が多く結局話しがまとまらずに、泣き別れしてしまう場合がありますが、面白い視点でその現象を考えた方がおりまして、血液型でその会議がまとまるか、まとまらないかの予想が付くんだそうです。
比較的自分の意見を押し通そうとする0型人間の多い会議は、まとまり辛いそうですね。
一番理想なのは、まんべんなく
それぞれ4つの血液型が揃っている場合・・。
それぞれの意見を、接着剤のようにくっつけて、癒合させようとする人が間に入る事で、意見が穏やかにまとまる場合が多いそうです。
今日のお話で、そんなエピソードを思い出しました^^
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 血液型とはまた素朴な考察ですね(^^ゞ
確かに「○型人間」でくくられそうな感じがしますから、仰るとおりな感じはします。
私の血液型は…ガタガタでしたっけ(笑)。
すみません、A型です。
A型らしいかな?
.まとめ役
オバrev どちらの言い分も一理あると思います。
でもこれだけ優秀な2人、それも兄弟で争うことになるとはねぇ。
色んなケースに当てはまると思うけど、まとめ役のような人の重要性を改めて思いました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > どちらの言い分も一理あると思います。
確かにそうですね。新しい時代で考える頼朝と、旧来の考えにこだわる義経。ただ、時代は「武士のための政治」の実現を目指した頼朝を選びましたね。
> でもこれだけ優秀な2人、それも兄弟で争うことになるとはねぇ。
> 色んなケースに当てはまると思うけど、まとめ役のような人の重要性を改めて思いました。
お互いの言い分の調整役がいれば、確かに対立はなかったかもしれませんね。
そうすれば、義経も時代の流れに沿った人生が送れたかも…。
そればかりでなく、頼朝によって自分の領地をすべて取り上げられ、暗殺までされかけた義経は、ついに頼朝との全面対決を決意しました。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)を強引にもらうと、九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに船出をしましたが、不運にも嵐にあって難破(なんぱ)してしまいました。
屋島の戦いで嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたときと比べて、何という違いでしょうか。これ以降、それまでの幸運から見放された義経には苦難の道が続くことになります。
精鋭の大半を失った義経は、わずかの手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って落ちのびました。尚、この逃亡の際において、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳」(かんじんちょう)の伝説が残されており、現代でも歌舞伎(かぶき)を通じて有名になっています。
一方、義経が没落していったのと対照的に、頼朝は後白河法皇による「大きなミス」につけ込むことで、「武士の悲願」を達成できる大きなチャンスがめぐってきました。




いつも有難うございます。
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イルカ なーーーー。
勧進帳!!
(って、前もこんなことコメした気がry)
弁慶の…飛び六法(??)がかっこよかった気がします←
イルカさんへ
黒田裕樹 > なーーーー。
> 勧進帳!!
> (って、前もこんなことコメした気がry)
そういえばありましたね(笑)。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-158.html
7月の義経講座ですね。あれからもう5ヶ月か…。
> 弁慶の…飛び六法(??)がかっこよかった気がします←
弁慶は勧進帳の事実上の主役ですからね。
見せ場がたっぷりだと、歌舞伎も盛り上がります。
久しぶりにコメントしてみます
スカイラインV35 「大きなミス」=「頼朝追討」の院宣で、
「武士の悲願」=義経追捕の為「守護・地頭の全国への設置」
ですかね(大雑把ですが)?
それにしても頼朝の政治家っぷりも中々のものなんですね。
それに比べて現代の政治屋は・・・
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。いつもご覧くださって有難うございますm(_ _)m
> 「大きなミス」=「頼朝追討」の院宣で、
> 「武士の悲願」=義経追捕の為「守護・地頭の全国への設置」
> ですかね(大雑把ですが)?
スカイラインV35さんのお考えが正しいかどうか、明日(27日)までお待ちくださいね(^^♪
> それにしても頼朝の政治家っぷりも中々のものなんですね。
> それに比べて現代の政治屋は・・・
個人の軍事力を高めるのではなく、戦争は軍人に任せて後始末をキッチリと行う。これぞ本当の政治家であり、「シビリアンコントロール」でもありますね。現代には彼のような政治家は存在しないのでしょうか…。
.
ぴーち こうして義経の人となりを
通して伺っていると、
義経という方は、戦に関しては、
秀でた才能を持っていたのでしょうけれど、どうも、我が道を行くとでも申しましょうか。
もっと、現代風に言うと「KY」
な方だったんじゃないかと思いました。
回りの空気や、人の気持ちの配慮に欠け、自分の行動でどうして頼朝が立腹しているのかさえ、想像しようとしない。
逆にどうして、自分はこんな目に遭わなきゃいけないんだと、
困惑する・・。
と。。。ここまで書かせていただくと、現代にも増えているタイプにもお見受けしましたが。。
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりの分析ができますね。
一つの道に秀でている人にありがちな特徴ですが、「自分こそ一番」という自負が、かえって自分の首を絞めてしまうような感じがします。
現代にもいそうですね。有能だけと使いにくい、といったような…。
能力は劣っても、接着剤のように周囲の環境になじむ人の方が、本当は有難いのかもしれませんね。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
義経は自分の目指す道が既に兄頼朝とは違う道になっている事を
もっと早くに気づくべきだったと思いますね。
兄弟である頼朝なら分かってくれるという想いを抱きすぎたのが
義経の最大の失敗だった思います。
しかしだからこそ今でも義経は人気があるんでしょうね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 義経は自分の目指す道が既に兄頼朝とは違う道になっている事を
> もっと早くに気づくべきだったと思いますね。
そうですね。がむしゃらに突っ走ること自体は決して悪くはないのですが、気がつくのが遅かったのか、あるいは気がつかないままだったのか、といったところでしょうか。
> 兄弟である頼朝なら分かってくれるという想いを抱きすぎたのが
> 義経の最大の失敗だった思います。
> しかしだからこそ今でも義経は人気があるんでしょうね。
義経が今でも人気があるのは、やはりその「悲劇性」でしょう。
でもその悲劇の原因を考えると、何ともいえない気持ちになりますね。
.
なみなみ こんばんは!
政権成立の過程で
必ずと言っていいほど、
戦争上手派と政治上手派で
揉め事がおこるのは必然なんでしょうか。。。
そして、ほとんどの場合、
負けるのは戦争上手派・・・
戦争上手はドコへ行った???
って感じであっさりやられてサヨウナラ;;
なんでなんでしょう?
この場合は兄弟なんで悲しいです。
義経が去った後の1185年11月、頼朝は舅(しゅうと、自分の妻の父のこと)である北条時政(ほうじょうときまさ)を筆頭とする大軍を京へ送り、後白河法皇に以下のように迫りました。
「法皇様の命令によって平氏滅亡に尽力したこの頼朝を、こともあろうに討てとはどういうおつもりですか?」
後白河法皇をはじめとする朝廷は恐怖に震(ふる)え上がり、頼朝をなだめるためにやむなく二つの権利を認めました。後世に名高い「守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置」です。
このうち守護は、設置当時は追捕使(ついぶし)といいました。後白河法皇に「義経追討」の院宣を出させることに成功した頼朝が、行方(ゆくえ)の分からない義経を捕まえるため、という名目で全国に追捕使を置くことによって、軍事・警察権を事実上握ることになりました。
また地頭とは公的に認められた土地の管理人ですが、任命権は(守護を含めて)頼朝側にあるために、武士が初めて自分の土地を公的に所有できる道を開くことになりました。この他にも、全国の土地から一反(いったん)ごとに五升(ごしょう)の米、すなわち収穫量全体の5%を兵糧米(ひょうろうまい)として徴収(ちょうしゅう)できる権利を獲得しました。これにより、公領や荘園にも武士の手が伸びることになり、将来の下地中分(したじちゅうぶん)や半済(はんぜい)につながっていくことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
守護・地頭という言葉は、確かに習った記憶はあります^^;
けれど、黒田さんの今日の記事で、それぞれの役割や、内容が
私の中で、それまで明解では無かったのですが、お蔭さまですっきりしました^^
ありがとうございます!
所で、野暮な質問かもしれませんが、この頃の「守護」は、現代にも存在する「駐在所」と同じような規模のものなのでしょうか。
それとも、もう少し規模が大きい、都道府県毎に存在する「警察本部」くらいに値するものなんでしょうか・・?
それとも、全く関係ない別物なのでしょうか。。?
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 守護・地頭という言葉は、確かに習った記憶はあります^^;
> けれど、黒田さんの今日の記事で、それぞれの役割や、内容が
> 私の中で、それまで明解では無かったのですが、お蔭さまですっきりしました^^
> ありがとうございます!
有難うございます!(^o^)丿
そうおっしゃっていただけると、記事にした甲斐があるというものです(^_^)v
鎌倉幕府の成立までに2週間以上かかっているというゆっくりとしたスピードですが、その分きめ細やかな説明ができているようで何よりです。
> 所で、野暮な質問かもしれませんが、この頃の「守護」は、現代にも存在する「駐在所」と同じような規模のものなのでしょうか。
> それとも、もう少し規模が大きい、都道府県毎に存在する「警察本部」くらいに値するものなんでしょうか・・?
> それとも、全く関係ない別物なのでしょうか。。?
守護は基本的に国ごとに置かれましたから、鎌倉時代の頃はどちらかといえば「警察本部」というべきでしょうか?
もっとも、時代が移るにつれて守護の役割が様変わりして、室町時代には権力が大きくなって大名化するのがややこしいですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
守護・地頭はなんとなく言葉では
覚えていましたが内容まではよく知らなかったので
勉強になりましたありがとうございます。
そして今回の記事では北条氏の名前も出てきていますね。
この時代の北条氏と言えば個人的に
北条政子と北条時宗を真っ先に思い付きますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 守護・地頭はなんとなく言葉では
> 覚えていましたが内容まではよく知らなかったので
> 勉強になりましたありがとうございます。
お言葉有難うございます。
言葉は覚えていても、内容となると覚えていない…。
昨今の歴史教育の典型的な悪弊(あくへい)を見る思いがしますね(´・ω・`)
> そして今回の記事では北条氏の名前も出てきていますね。
> この時代の北条氏と言えば個人的に
> 北条政子と北条時宗を真っ先に思い付きますね。
北条政子はしばらくしたら再び表舞台に出てきますね。
北条時宗といえばやはり元寇でしょうか。鎌倉時代の一つのクライマックスですね。
.大義名分
オバrev やはりまつりごとには大義名分が大事ですね。それがないと理屈で問われたときに返答できないです。
後白河法皇は、まんまと頼朝にしてやられましたね。
・・・しかし今の政局は、数が多けりゃ道理は引っ込むという感じで、大義名分うんぬんは通用しなくなってしまっているのようにも見えます(>_<)ザンネン
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やはりまつりごとには大義名分が大事ですね。それがないと理屈で問われたときに返答できないです。
> 後白河法皇は、まんまと頼朝にしてやられましたね。
大義名分を与えたり、相手にスキを与えてはいけないということですね。これも歴史に学ぶ教訓といったところでしょうか。
> ・・・しかし今の政局は、数が多けりゃ道理は引っ込むという感じで、大義名分うんぬんは通用しなくなってしまっているのようにも見えます(>_<)ザンネン
まさしくそのとおりですね。ただ、「数の論理」という無茶な話のきっかけをつくってしまったのは、選挙で選んだ国民の産物ともいえるわけでして、そのあたりを「歴史に学ぶ」べきかもしれません。もっとも、次があればの話ですが…。
.
紗那 あぁ、こういう流れで守護地頭が設置できたんですか。そりゃ、何も無いのに朝廷が認めるわけ無いですものねー。これで、合法的(?)に設置できたと。
農民にとっては苦しいでしょうね。調停にも武士にも年貢が要りますし。
.おはようございます^^
waravino 1春1000冬。waravinoです。
12/26から冬休み。ということで。
しばらく更新お休みします。
いつも。ご訪問・拍手など。
ありがとうございます^^
1/7以降には再開予定です。
こちらには。
いつものように訪問させていただきますので。
よろしくお願いします。
頼朝は冷徹漢のような気がしていましたが。
そういうことでもなかったようですね^^;
兄弟同士とは言え。頼朝の理想のためには。
義経を切らざるを得なかったのでしょう。
頼朝にとっても。断腸の思いだったのかもしれませんね。
世評では。そうではありませんが・・・
それでは。
よい年をお迎えください^^)/
.
ケンシロウ こんにちは。
年末の慌しい時期となりましたね。
5%の兵糧米は現在の消費税のようなものでしょうが
昔から権力のあるものが得をする仕組みは
変わらないって事ですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > あぁ、こういう流れで守護地頭が設置できたんですか。そりゃ、何も無いのに朝廷が認めるわけ無いですものねー。これで、合法的(?)に設置できたと。
そういうことです。相手のミスにつけ込んで合法的に権利を獲得するあたりがいかにも政治家ですよね。
> 農民にとっては苦しいでしょうね。朝廷にも武士にも年貢が要りますし。
収穫量の5%ですから大きな負担というわけではないんですが、今後は様々な手段を用いて朝廷や貴族の取り分を奪っていくんですよね。朝廷公認という「錦の御旗」に武力が加われば、まさに「鬼に金棒」といったところでしょうか。
秀衡の後を継いだ子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という言葉を真(ま)に受けて、1189年に義経を自害に追い込みましたが、その行為は同時に頼朝への切り札を自らの手で失ったことを意味していました。事実、待っていましたとばかりに同じ1189年7月、後白河法皇の院宣なしで頼朝は自(みずか)ら大軍を率いて泰衡を攻め、約100年続いた奥州藤原氏を滅亡させました。
自分に対抗する勢力をすべて滅ぼした頼朝は、1190年11月に自ら上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)を果たすと、後白河法皇と二人でトップ会談を行いました。この場で何が話されたかの記録は残っていませんが、事後の展開から、おそらく頼朝は自らを征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命するように後白河法皇に迫ったと考えられます。
なぜ頼朝は征夷大将軍という官職(かんしょく)を要求したのでしょうか。そこには「幕府」の誕生とも密接にかかわる、頼朝の最高傑作ともいうべき発想がありました。




いつも有難うございます。
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とまと いつもご訪問&温かいコメントをありがとうございますm(__)m
今年も、残すところあと数日となりました。
何かと、用事の多い年末ですが、お体にお気をつけて…
どうぞ、明るい年をお迎えください。
この一年の、感謝の気持ちを込めて、ぽち♪ ヾ(*´∀`*)ノ
記事とは関係のないコメントですので、読後は、管理人様のご判断で、削除くださいm(__)m
とまとさんへ
黒田裕樹 心のこもったお言葉ならびにポチ有難うございます(^o^)丿
削除するなんてとんでもないです。
とまとさんも良い年をお迎えくださいね(^_^)v
管理人のみ閲覧できます
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ロベルト・ジーコ・ロッシ 黒田 様
こんばんは。
ご無沙汰しております。
さて、頼朝ですが、日本史上最高の政治家だと非常に高く評価しています。
彼なくしては、武家社会の到来はなかったでしょう。
最も、頼朝は単なる神輿で実際は鎌倉幕府は北条親子の傑作だったのかもしれませんが。
ちなみに、ベスト3は、源頼朝、織田信長、伊藤博文です。
今後とも宜しくお願いします。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
いよいよ鎌倉時代に始まり間近になりましたね。
そして藤原氏はここで完全に歴史の舞台から姿を消したんですね
勉強になります。
そしていつも不思議に思うのは
頼朝も家康も征夷大将軍と武士の頂点と取ったものは
ほとんどこの役職を要求しているいのですが
それ程意味がある役職なのか気になる所ですね。
ロベルト・ジーコ・ロッシさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しております。
こちらこそ読み逃げばかりで申し訳ないですm(_ _)m
> さて、頼朝ですが、日本史上最高の政治家だと非常に高く評価しています。
> 彼なくしては、武家社会の到来はなかったでしょう。
> 最も、頼朝は単なる神輿で実際は鎌倉幕府は北条親子の傑作だったのかもしれませんが。
> ちなみに、ベスト3は、源頼朝、織田信長、伊藤博文です。
なるほど、ロベルト・ジーコ・ロッシさんにとっての歴史上の三大人物ですね。
私の場合は聖徳太子と…残りはいずれご紹介する機会があると思います。
頼朝に対する私の見解は、来月には発表できますので、今しばらくお待ち下さい。
> 今後とも宜しくお願いします。
有難うございます。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > いよいよ鎌倉時代に始まり間近になりましたね。
> そして藤原氏はここで完全に歴史の舞台から姿を消したんですね
> 勉強になります。
有難うございます。鎌倉幕府の成立が目前に迫ってきましたね。
確かに藤原氏などの朝廷が持っていたはずの政治の実権は風前の灯ですが、ダメを押したのが…。
> そしていつも不思議に思うのは
> 頼朝も家康も征夷大将軍と武士の頂点と取ったものは
> ほとんどこの役職を要求しているのですが
> それ程意味がある役職なのか気になる所ですね。
スポーツ猫さんもそう思われるんですね。
確かに「将軍=幕府」という図式はご存知でも「なぜ?」かは一般には知られていませんからね。
明日(29日)の更新で、おそらくその答えが出せると思いますよ(^^♪
こんばんは
スカイラインV35 征夷大将軍ですか。。。
最近でも、先の大戦での南方諸地域を占領した軍司令官や日本に君臨したマッカーサーなど、軍政を施行するため、本国から許可を得なくてもある程度総合的な権限を行使出来る存在として”将軍”と呼称される場合がありますが。。
明日のブログを拝見して考えを整理整頓したいと思います。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 さすがにスカイラインV35さんは鋭いですね。
本日(29日)の正午の更新までお待ちいただければ、ご自身のお考えがさらにまとまると思います。
気になる
JJSG 鎌倉幕府の誕生。
征夷大将軍というのは頼朝が最初でしたっけ?
続きが楽しみになってきました。
頼朝の思惑に気づかれた後白河法皇は、征夷大将軍の代わりに頼朝を右近衛大将(うこのえたいしょう)に任じられましたが、遠征のできない右近衛大将では頼朝は幕府を開けません。そこで頼朝は喜んで任官を受けたふりをすると、すぐに辞任しました。このあたりにも頼朝の「大物政治家」ぶりがうかがえます。
トップ会談から2年後の1192年3月に後白河法皇が66歳で崩御されると、頼朝が改めて朝廷に迫ったことによって、同1192年7月、頼朝はついに征夷大将軍に任じられました。この段階で、初めて鎌倉幕府(かまくらばくふ)が名実ともに成立したのです。そして、これ以降の時代は鎌倉時代(かまくらじだい)と呼ばれています。
ところで、最近の歴史教育では鎌倉時代がいつ成立したかということについて様々な説が出されているようですが、朝廷が頼朝を征夷大将軍に任命したことによって、鎌倉の軍事政権が初めて公認されたという幕府成立の事情を考えれば、やはり「いい国つくろう鎌倉幕府」の1192年こそが成立の年にふさわしいと私は思います。
頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、朝廷が政治の実権を失うと同時に、いよいよ「武士による政治」が本格的にスタートすることになったのですが、それと同時に、頂点を極めた一族の「役目」が終わっていたことが、当の本人には全く気がついていませんでした。
(※明日(30日)からは第8回歴史講座の内容を更新します)




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
幕府や征夷大将軍にはそんな意味があったんですね
勉強になりありがとうございました。
確かに武力を完全に掌握してしまえば強引ではありますが
国を支配をする事は不可能ではないですからね。
しかしそれと同時にやっぱり
今の時代と比べると恐ろしい時代だったと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 幕府や征夷大将軍にはそんな意味があったんですね
> 勉強になりありがとうございました。
いえいえ、ご理解いただけて何よりです。
> 確かに武力を完全に掌握してしまえば強引ではありますが
> 国を支配をする事は不可能ではないですからね。
> しかしそれと同時にやっぱり
> 今の時代と比べると恐ろしい時代だったと思いますね。
「力あるものが勝つ」という意味では武力至上主義は恐ろしいものがあるのは事実ですが、その一方で「大人しく従えば守ってやる」という心意気もあった時代だと思います。
今とどちらが良いかと言われればやはり今だとは思いますが…。
.
ぴーち こんばんは!
そうなんですか。。
私などは、全く疑いもなく、
鎌倉幕府は「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」だと思っていました(苦笑)
なんにでも通じる事だとは思いますが、余りにもその事を深く追求し、知り過ぎてしまうと、かえってそれが足かせになり、色々な知識、情報が邪魔する場合があるものですよね。
たまには、シンプルに
考える事も大切ナのかも知れませんね^^;
それでは昨日はコメント残せずに
ゴメンなさいね(><)
応援凸
また、お邪魔しま~す☆
ぴーちさんへ
黒田裕樹 歴史研究が進むことは良いことなんですが、最近はどうも物事を複雑に考えることが多すぎるような気がしますね。
鎌倉幕府の場合も、頼朝が東国の支配権を認められたり、守護や地頭が置かれたり、あるいは奥州藤原氏を滅ぼして敵対勢力がいなくなったりという「事実上」の出来事ばかりに目を取られて、それまで非合法的な存在だった幕府が朝廷から始めて公認された「征夷大将軍の就任」という歴史的な出来事を軽視しているような気がします。
政権をスタートさせようと思えば、一番大切なのはやはり「正当性」なのですから、どう考えても1192年が鎌倉時代の最初の年だと考えて問題ないと思うのですが、ぴーちさんの仰るように、シンプルに考えられないのが不思議ではありますね。
.
まり姫 こんばんは☆
コメントありがとうございました。
激動の年もあと2日ほどになりましたね。
来年はどんな年になるでしょうね~
黒田さんもよいお年をお迎えくださいませ。
まり姫さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございました。
毎年言っているような気がしますが(苦笑)、来年こそはいい一年であってほしいものですね。
.
miwa >そこで頼朝は喜んで任官を受けたふりをすると、すぐに辞任しました。
頼朝は武士と言うよりは
狡猾な政治家タイプですね。
兵士を滅ぼした立役者である、しかも弟でもある義経を討ち、
安泰は保証すると約束しながら藤原氏も滅ぼし、
その後も頭に描いた通りに事を進めていく。
きっちり絵が出来ていたから邪魔されたくなかったのでしょうね。
.腹の探り合い
オバrev 本日仕事納めで、先ほどまでバタバタしておりました。
鎌倉幕府設立に向けた、頼朝と後白河法皇の駆け引きは、どちらも譲らず、表だっては笑顔で会話しながら実は腹の探り合いですかね?
中々見応えありますね(;^_^A アセアセ…
幕府設立が色々説があるとは知りませんでした。でもやはり公認された年という先生の考えが納得しやすいです。
それにしても、盤石と思われた源氏政権が、あれだけ早くくずれるとは、いったい裏で何があったんでしょうか。楽しみです(^o^)・・・エェッ!もしかしてここでいったん中断ですかΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン イイトコナノニ
miwaさんへ
黒田裕樹 頼朝については仰るとおりだと私も思います。
自分の目標に向かって綿密に計画し、キッチリと結果を出す。そこには幸運もありましたが、歴史をつくる人間というのは、時として非情に、時として狡猾にならないとならないと、自分の目標を達成することができないのでしょう。
信長や秀吉、家康あたりもそうですね。
そして非情になれなかったがゆえに混乱をまとめきれなかったのが足利尊氏あたりでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 本日仕事納めで、先ほどまでバタバタしておりました。
お疲れ様でした。私は昨日でしたが、年内最後の日というのは慌しいものですね。
> 鎌倉幕府設立に向けた、頼朝と後白河法皇の駆け引きは、どちらも譲らず、表だっては笑顔で会話しながら実は腹の探り合いですかね?
> 中々見応えありますね(;^_^A アセアセ…
そのとおりだと思います。今回は一国の主権をかけた話し合いだったわけですが、考えてみれば国同士の外交でも全く一緒ですよね。○愛だのと言っている場合ではないと思うのですが…。
> 幕府設立が色々説があるとは知りませんでした。でもやはり公認された年という先生の考えが納得しやすいです。
以前は1192年で一致していたのに、いかに自由な論議が重要とはいえ、何ゆえに混乱させるようなことを言うのかが私には分からないです。まさか朝廷=天皇の権威をおとしめるために1192年を認めたくないわけではないと思うのですが…。
> それにしても、盤石と思われた源氏政権が、あれだけ早くくずれるとは、いったい裏で何があったんでしょうか。楽しみです(^o^)・・・エェッ!もしかしてここでいったん中断ですかΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン イイトコナノニ
スミマセン(´・ω・`)
19日の講座についても更新しなければいけませんし、年末年始の慌しさに加えて1月は業務多忙なので、復活は1月17日(予定)までしばらくお待ち下さいm(_ _)m
源氏政権は崩れましたが、武士の政権はそのままですよね。このあたりにヒントが隠されていると思いますよ(^^♪
鎌倉幕府の支配機構は、簡素で実務を重視したものでした。鎌倉には中央機関として、幕府と主従関係(しゅじゅうかんけい)を結んだ御家人(ごけにん)の統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)や、軍事・警察にあたる侍所(さむらいどころ)、一般政務や財政事務を行う政所(まんどころ、当初は公文所=くもんじょ)、裁判事務を担当する問注所(もんちゅうじょ)が置かれました。
侍所の初代別当(べっとう)には和田義盛(わだよしもり)が、政所の初代別当には大江広元(おおえのひろもと)が、問注所の初代執事(しつじ、別名を長官)には三善康信(みよしやすのぶ)がそれぞれ任命されました。また、幕府の出先機関(でさききかん)として京都の治安維持や西国の御家人の統轄を職務とする京都守護(きょうとしゅご)が、九州には鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)が、奥州には奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)が置かれました。なお、京都守護は後に六波羅探題(ろくはらたんだい)に組織が変わります。
地方には守護や地頭が置かれました。守護は原則として各国に一人ずつ配置され、主に東国出身の有力御家人が任命されました。守護は、平時には京都大番役(きょうとおおばんやく、皇居の警備を担当)の催促(さいそく)と謀叛人(むほんにん)や殺害人(さつがいにん)の追捕(ついぶ)といった大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)や、御家人を統率しての国内の治安の維持、あるいは警察権の行使の任務にあたり、戦時には軍を指揮しました。また、守護は国衙(こくが、国の役所のこと)の在庁官人(ざいちょうかんじん、地方の役人のこと)を支配し、地方行政官の役割も果たしました。
地頭は御家人の中から任命され、国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園において、年貢の徴収や納入、土地の管理や治安維持にあたりました。それまでの下司(げし)などの荘官(しょうかん)の多くが、新たに頼朝から任命された地頭となり、御家人たちの権利が広く保障されることによって、武士たちの悲願が達成されることになりましたが、幕府成立当時の地頭の設置範囲は、平家没官領(へいけもっかんりょう)を中心とする謀叛人の所領に限られていました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
鎌倉時代の頃になると、
学生時代に暗記した言葉が
沢山登場して来て、嬉しく思います(^0^
応援凸
.
紗那 全然知らない人がいっぱい出てきましたよ!
第二段落以降が、まったく知らない人・役職ばかり・・・・・・ 勉強しなければ!ですね。
そういえば、センター試験の問題が新聞に載ってたので、興味本位でやってみたら68点でした。いいのか悪いのか・・・・・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鎌倉時代の頃になると、
> 学生時代に暗記した言葉が
> 沢山登場して来て、嬉しく思います(^0^
それは良いことですね(^^♪
今回の講座でぴーちさんの知識がより深まれば、私にとっても幸いです(^_^)v
紗那さんへ
黒田裕樹 > 全然知らない人がいっぱい出てきましたよ!
> 第二段落以降が、まったく知らない人・役職ばかり・・・・・・ 勉強しなければ!ですね。
私の講座は高校日本史が基礎になっていますから、無理もない話かもしれません。
今回のことで紗那さんのやる気に火がつけば、私も嬉しいですね(^^♪
> そういえば、センター試験の問題が新聞に載ってたので、興味本位でやってみたら68点でした。いいのか悪いのか・・・・・・
今年のセンター試験については、大手予備校の平均点が60点前後ですから、中学生の紗那さんであれば健闘されてると思いますよ。
ここだけの話ですが、この歴史講座は、実は「センター試験のレベルに耐えられる内容」を目指しております。つまり、紗那さんが私の講座で日本史の理解が深まれば、本番では…。
鎌倉幕府の経済基盤としては、朝廷から頼朝に与えられた知行国(ちぎょうこく)である関東御分国(かんとうごぶんこく)や、頼朝が持っていた平家没官領(へいけもっかんりょう)を基本とする多数の荘園である関東御領(かんとうごりょう)などがありました。
御家人は、頼朝から先祖伝来の所領を保障されるという本領安堵(ほんりょうあんど)や、新たに所領を伴(ともな)う一定の権利を与えられるという新恩給与(しんおんきゅうよ)といった権利を与えられました。御家人は、こういった御恩(ごおん)に対する奉公(ほうこう)として、平時には自費で京都大番役や幕府の警護である鎌倉番役(かまくらばんやく)をつとめる一方、戦時には「いざ鎌倉」とばかりに生命を懸けて軍役(ぐんやく)につきました。
院政時代以降、各地に開発領主(かいはつりょうしゅ)として勢力を拡大してきた武士団のうち、特に東国を中心とする東国武士団(とうごくぶしだん)は、自己の所領を保障してくれた幕府の配下として新たに組織されました。東国は事実上幕府の支配地域となり、行政権や裁判権を幕府が握り、その他の地方であっても、国衙(こくが)の任務を守護を通じて幕府が吸収していきました。
このように、土地の給与を通じて、御恩と奉公の主従関係が成り立つ制度を封建制度(ほうけんせいど)といいます。また、当時の武士のように「自己の持つ一つの所領(=土地)のために命懸けで働く」ことを 「一所懸命」(いっしょけんめい)というようになり、「一生懸命」(いっしょうけんめい)にもつながっています。




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今度は鎌倉幕府の組織の講座なんですね。
今回も楽しく勉強できたらと思います。
「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今度は鎌倉幕府の組織の講座なんですね。
> 今回も楽しく勉強できたらと思います。
昨日(17日)から通常の講座に戻りましたが、明日(19日)からは政局の展開の話になるため、組織のご理解を深めていただいたほうが分かりやすい、という判断によるものです。
> 「一生懸命」って封建制度から生まれたんですね、こうやって言葉の語源を知るのは楽しくていいものです。
有難うございます。今回のような講座の場合は、どうしても事柄の羅列になってしまいがちなので、できるだけエピソードをからめられることができれば、と思っております。
疑問
オバrev 本当にもそこまで忠誠誓っていたのだろうか、以前から、何故そこまで奉公するのか疑問に思ってました。
土地の所有を認めてもらうことに対して、いざ鎌倉とばかりに奉公するというのは、よほど感謝しているとうことですよね。
ということは、それまでは、貴族や寺社などの荘園の小作人のような立場から、狭いながらも地主になり、しかもその土地で採れる米も自分のものになったということですかね?
確か武士の多くは元々農民だったような微かな記憶が・・・(;^_^A
しかし土地以外にも色々特権が与えられたからこそ、封建制度ができたような気もします。その特権っていったい何だろう(´・ω・`)?
何はともあれ、無茶苦茶大幅な構造改革を見事に実行した、頼朝の政治家としての力は凄いと思いますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 オバrevさんにとってのお答えになるかどうかは分かりませんが、私なりの見解を述べたいと思います。
守護や地頭の設置は、それまで一切の権利を認められてこなかった武士たちにとって、自分たちが初めて朝廷に公認された存在となったということです。
それまでは、極論すれば人間扱いすらされていなかったのですから、この違いは現代の我々からは想像できないほどに大きかったのではないかと考えられます。
次に、武士は朝廷や荘園の所有者などとは違って、強力な武力を持っています。自分たちの存在や権力を公認された武士は、今後武力を背景に様々な方法で朝廷や荘園の所有者に対して圧力をかけます。
その圧力に抗し切れずに、武士たちはこの後も様々な特権を与えられることになり、時間はかかりますが、豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)のように、やがては武士がすべての土地の所有者を確定させるほどの権力を持つようになります。
武士たちにとって、このような膨大(ぼうだい)な権力を持たせるきっかけをつくってくれた鎌倉幕府はまさしく「救いの神」だったことでしょう。一方、朝廷や荘園の所有者などにとっては「ひさしを貸して母屋を取られる」思いだったに違いありません。
当時の武士たちの思いや、その後の我が国の発展を考えれば、今回のパターンは我が国の国益に十分にかなったものですが、逆にいえば、このような「なしくずし」に相手の権力を認めるという行為は、文字どおり「千丈(せんじょう)の堤(つつみ)も蟻(あり)の穴より崩れる」ということも考えられ、国益を壊滅的に損なう結果にもなりかねないのが世の中の恐ろしいところです。
本当の歴史的経緯や、他国の悲惨な結果、あるいは今後の我が国に待ち受けるであろう過酷な運命を知らずして、上っ面の同情論だけで「ある勢力に憲法違反の疑いもある特権を易々と与える」行為が、本当に我が国のためになるのでしょうか。
1195年、頼朝は東大寺の再建供養(くよう)に出席した際に京へ向かい、娘を後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の妃(きさき)にしようとしました。頼朝にしてみれば、自分が朝廷の縁続きとなることで後ろめたさを解消するとともに、娘に皇子が生まれ、将来天皇に即位することがあれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えたのですが、これは絶対にやってはいけない「禁じ手」でした。
「自分の娘を天皇の妃として、生まれた皇子が天皇に即位して自分は外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となる」。これは平氏政権のやり方と全く同じです。ということは、源氏が貴族化する道を開くことになり、武士の権利が再び朝廷に奪われるかもしれない―。結果的に頼朝の思惑は失敗に終わりましたが、鎌倉の武士団からすれば、頼朝の行為は重大な裏切りであり、許すべからざるものでした。
その後の頼朝は、落馬事故が原因で1199年1月に死亡したことになっていますが、いかに戦争が不得意であったとはいえ、武家の棟梁(とうりょう)ともあろう者が生命に関わる落馬事故を起こすとは思えません。史料にも頼朝の死の前後の記載があやふやになっているなど、頼朝の詳しい死因は現在も分かっていません。
ただ、はっきりといえることは、頼朝の死後、源氏の運命は一気に暗転したという事実です。平氏の滅亡後に源義経が歴史の表舞台から退場したように、征夷大将軍となって幕府を開いた段階で、頼朝ならびに源氏の役割は終わりを告げていたのでした。




いつも有難うございます。
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馬人 頼朝さんも失敗はあったんですね。
(当たり前かw)
それにしても、落馬事件で死亡はどうしても引っかかります。
世間に公開してはいけない「何か」があると私は考えていますが…。
死因は未だに分からないんですね。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 頼朝さんも失敗はあったんですね。
> (当たり前かw)
完全な人間なんて存在しませんからね。
それにしても頼朝は最悪の選択をしてしまいました…。
> それにしても、落馬事件で死亡はどうしても引っかかります。
> 世間に公開してはいけない「何か」があると私は考えていますが…。
> 死因は未だに分からないんですね。
許されざる「裏切り行為」によって武士たちから見放された頼朝が、「御用済み」とばかりに始末された…とも思えそうですね。公式の歴史書に死因がはっきり書いていないのはどう考えても怪しいです。
こんばんは
スカイラインV35 義経は軍事的天才であった為に頼朝の本意が理解出来ず、頼朝は政治的天才であった為に御家人等の本意が理解出来ず、といった感じですかねぇ。
あまり知識はないのですが、ナポレオンにしても、何かしらそのような星の元に生まれた的な、歴史的な役割を果たす的な、天命のようなものを感じる歴史上の人物はいますね。感慨深いです。
そして、この後は北条氏の登場ですか。本姓っていうんですかね、(滅亡したはずの)平ですよね。後から考えると北条氏が一番利益を享受したように見えたりして、面白そうな所ですね。
.
ぴーち こんばんは!
ほほ・・っ。。
頼朝さん、そんな後ろめたさを感じながら、政治を行っていたとは、存じませんでした。
黒田さんの記事を読ませていただいていると、下手なドラマを鑑賞しているよりも、よりリアルにその当時の様子が浮かんで来るようです。
いつもありがとうございます^^
落馬事故という説で、隠ぺいされて
しまったんですね。
何か大きな力が働いたのでしょうか。そういえば、イギリス、元ダイアナ妃の死の真相も、うやむやのままにされて、葬られてしまっていますよね。
事件に関わったとされた人物は謎の死を遂げていたりと。。恐ろしいことです。
それでは、応援凸
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 義経は軍事的天才であった為に頼朝の本意が理解出来ず、頼朝は政治的天才であった為に御家人等の本意が理解出来ず、といった感じですかねぇ。
> あまり知識はないのですが、ナポレオンにしても、何かしらそのような星の元に生まれた的な、歴史的な役割を果たす的な、天命のようなものを感じる歴史上の人物はいますね。感慨深いです。
歴史上の人物の中で、一般的に天才と呼ばれる人は、一部の分野では超人的な能力を発揮できるのに対して、別の分野では一般人並みか、それ以下ということが良くありますね。まさに「天は二物を与えず」…。
> そして、この後は北条氏の登場ですか。本姓っていうんですかね、(滅亡したはずの)平ですよね。後から考えると北条氏が一番利益を享受したように見えたりして、面白そうな所ですね。
仰るとおりでして、平氏の「先祖がえり」が実現してしまうのですから、世の中というのは本当に分かりませんよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ほほ・・っ。。
> 頼朝さん、そんな後ろめたさを感じながら、政治を行っていたとは、存じませんでした。
> 黒田さんの記事を読ませていただいていると、下手なドラマを鑑賞しているよりも、よりリアルにその当時の様子が浮かんで来るようです。
> いつもありがとうございます^^
有難うございます。
歴史というのは流れが重要ですから、その筋書きをドラマ仕立てで著(あらわ)すことができれば、より理解が深まると常々思っております。
頼朝については、どれだけ武士仲間から棟梁と仰がれても、やはり昔日の「貴族時代」を忘れることができなかったのでしょう。
> 落馬事故という説で、隠ぺいされて
> しまったんですね。
> 何か大きな力が働いたのでしょうか。そういえば、イギリス、元ダイアナ妃の死の真相も、うやむやのままにされて、葬られてしまっていますよね。
> 事件に関わったとされた人物は謎の死を遂げていたりと。。恐ろしいことです。
確かに大きな力が働いているようですね。そして、その力は頼朝の息子たちにも…。
.
紗那 へぇ・・・・・・あれほどの人物の死因があやふやなんて、なにかあったと勘ぐりたくなりますね。
確かに、平氏とやり口が一緒では武士団にとっては、逆戻りですものね。確かに言い分も理解できる気がします。
てか、この後鳥羽天皇って承久の乱のあの人ですか?
紗那さんへ
黒田裕樹 > へぇ・・・・・・あれほどの人物の死因があやふやなんて、なにかあったと勘ぐりたくなりますね。
そうなんですよ。おそらくは公表できる様な死因ではなかったと考えられますよね。
> 確かに、平氏とやり口が一緒では武士団にとっては、逆戻りですものね。確かに言い分も理解できる気がします。
武士団からしてみれば、頼朝は最後の最後で裏切った許せない存在。だとすれば…ですね。
> てか、この後鳥羽天皇って承久の乱のあの人ですか?
そのとおりです。乱については、近日中に詳しく紹介しますよ。