幕府が成立した17世紀前半の世界では、キリスト教のカトリックを信仰したヨーロッパ諸国による世界各地の植民地化が進んでおり、我が国も例外ではありませんでした。このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国との国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清国(しんこく)や李氏朝鮮(りしちょうせん)など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士が健在という強大な武力があったからこそでした。
しかし、制限貿易を始めてから平和が長年続くうちに、我が国では武力よりも学問が重視されるとともに、制限貿易の意味が履(は)き違(ちが)えられて、諸外国との交渉を一切行わないという鎖国(さこく)が当たり前と考えられるようになってしまいました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
少し記事から反れてしまい恐縮ですが、
日本はアジア諸国との縁は昔から切っても
切れないものがあったのですね。
今でこそ、日本で流行したものを中国は
真似をしているというニュースが飛び交っていますが、昔の日本も考えてみれば、中国から
伝来したものを取り入れて(悪くいえば、
真似)発展させて来ました。どちらにも加勢する事無く、客観視してみると、日本と中国は
どっちもどっちなんだと思えて来てしまうのです。ただ最近の中国側の模倣に関しては、
著作権など金銭的なものが絡んでくるので、
そこら辺りの事を考えると、余りに露骨で
模倣は行わないほうがよいのではないかとも思いますね。まあ、何をいった所で改善してくれる
相手ではなさそうですが^^;
制度貿易の件ですが、一度制定された制度も、世の中の変化に応じて
常に見直し、検討していかなければ、時代錯誤として見なされてしまいますものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
一度決めた制限貿易の制度を、1ミリたりとて変えることをしないという方がおかしいです。
世の中の流れは激しく動いていますから、それこそ「時代遅れ」といわれても仕方がないことになりますし、何よりも為政者として国民を守る義務があるのですから。
しかし、結果として幕府にはそれが理解できなかった。
それゆえに次回(26日)に紹介する悲劇が起きてしまうのです。
しかし、我が国を動かしていた幕府は平和をむさぼり続け、開国を勧告する勢力が国内外で現れてももみ消し、また学問が重視されたことでいつしか幕府自身の武力も著(いちじる)しく低下していました。このような外国にとっては絶好の、そして我が国にとっては最悪のタイミングでペリーが黒船を率(ひき)いて浦賀にやって来たのです。
黒船の来航に幕府は大慌(おおあわ)てとなり、今後の対策が練られましたが、長年の平和が続いたこともあって、幕府単独で外国との交渉をまとめる能力がすでに残っていませんでした。幕府はやむを得ず諸藩(しょはん)に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。
なぜなら、諸藩の意見を重視するという行為は、幕府の政策に対して口出しすることを事実上認めることだからです。こうした悪(あ)しき前例を作ってしまったことや、その後の外国との交渉に関してすべてが後手(ごて)に回り、結果として不平等条約を押し付けられてしまったこと、さらには諸外国との貿易に対して何の準備もしていなかったことで庶民(しょみん)の暮(く)らしが大きく混乱するなど、年を追うごとに幕府の威信は低下していきました。




いつも有難うございます。
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なおまゆ 幕府が諸藩に意見を求めたのは、本当に失敗だったと思います。尤も、老中などの上位職の人達には何の解決も出来なかったでしょう。
しかし、人材を登用する絶好のチャンスでした。危機の中に活路を見い出すことが出来ないのは、組織の衰退ですよね。
仰るとおり、幕府にとって最悪のタイミングで黒船が来たと思います。もう2年の猶予があれば、幕府も内部改革できたかもしれません。後の祭りですが・・・。
幕府主導で近代化できる可能性もあったと思います。あれほどの血を流さず、人材を失わず、何事かが成し得たと思えば残念でなりません。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 幕府が諸藩に意見を求めたのは、本当に失敗だったと思います。尤も、老中などの上位職の人達には何の解決も出来なかったでしょう。
> しかし、人材を登用する絶好のチャンスでした。危機の中に活路を見い出すことが出来ないのは、組織の衰退ですよね。
いくら上の組織がダメであっても、幕末に勝海舟などが出てくるわけですから、仰るとおり人材が枯渇していたわけではないと思います。疎市区のタガが緩んでいたのが致命的だったのでしょう。
> 仰るとおり、幕府にとって最悪のタイミングで黒船が来たと思います。もう2年の猶予があれば、幕府も内部改革できたかもしれません。後の祭りですが・・・。
> 幕府主導で近代化できる可能性もあったと思います。あれほどの血を流さず、人材を失わず、何事かが成し得たと思えば残念でなりません。
仰るとおりでして、明治維新の成否は別にして幕府主体の改革ができれば、我が国の近代化は全く違った方向になっていたかもしれませんね。少なくともあれほどの血は流れなかったでしょう。
ぴーち こんにちは!
今回の講座は反響が大きかったようですね!
是非感動の涙を誘う素晴らしい講座の内容を
楽しみにしていますね^^
ところで記事の件についてですが、
今まさにこの時代と似たような状況をまた向かえている日本ですが、一度この様な失敗を
経験しているのですから、この次は
その失敗を教訓に同じ過ちを繰り返さないように
したいものですが、どうなる事でしょう。。
政治家の皆さんは、失敗から学んでいるのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回の講座は反響が大きかったようですね!
> 是非感動の涙を誘う素晴らしい講座の内容を
> 楽しみにしていますね^^
有難うございますm(_ _)m
新年早々から更新開始ですのでご期待下さいね(^_^)v
> ところで記事の件についてですが、
> 今まさにこの時代と似たような状況をまた向かえている日本ですが、一度この様な失敗を
> 経験しているのですから、この次は
> その失敗を教訓に同じ過ちを繰り返さないように
> したいものですが、どうなる事でしょう。。
> 政治家の皆さんは、失敗から学んでいるのでしょうか・・。
ぴーちさんの不安が国民全体の不安と言って差し支えないでしょうね。
歴史に学ばない人間は、間違いなく過去と同じような失敗をしてしまいます。
その責任が本人のみならともかく、私たち国民にまで及んでしまうことは勘弁してほしいですね(´・ω・`)
黒田裕樹さん
風早 りら 海に囲まれて安全な国家
これは 私の私見ですが 海に囲まれて
いたことが かえって 災いして
諸外国の 事が理解出来ず
不平等条約まで いってしまったのだと
思えます 油断大敵のことわざ 思いだしました
瑞穂 本当に、いつ拝見させていただきましても先生の文章は読みやすくて私にとっては嬉しいです♪
大ファンですよ♪
歴史って、本当に面白いですよね~。
ここはからは持論ですが、今までの歴史って、言ってしまえば書物や伝聞によって、後世に残ってきたもの(情報?)の集成だと思うのですよ。
生き物が弱肉強食なように、歴史上に残る情報もまた然り。
様々な時系列を、このように俯瞰できる機会を持てたことは私にとってとても有意義です♪
日本史って、私が思っている以上に奥が深いんだなぁって再確認も出来ますし♪
今や日本も同じような危機に立たされていると思います。
一国民が、歴史に名を残すような偉業を達成することはとても難しいと思いますが、過去に確かに存在した、名も無き憂国の気持ちを持った祖先のように、我々に出来ることをしていけたら理想だと思います。
歴史に於いて名前は重要ですが、根本は、やはり一人一人の想いだと信じてます~。
きっと、歴史に名を残した人たちもそういう気持ちだったのだと勝手に思ってます♪
長文失礼いたしましたっ。
これからも、歴史のお話楽しみにしています♪
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 海に囲まれて安全な国家
> これは 私の私見ですが 海に囲まれて
> いたことが かえって 災いして
> 諸外国の 事が理解出来ず
> 不平等条約まで いってしまったのだと
> 思えます 油断大敵のことわざ 思いだしました
仰るとおりだと私も思います。
安全であることは、同時に無知でもあるということですからね。
国民がそうであったとしても、為政者までが一緒では困ります。
油断はいつの世も人間の道を誤らせますね。
瑞穂さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
瑞穂さんのお考え、私もそのとおりだと思います。
史上に残る有名人だけが世の中を動かしているのではなく、当時の名もなき人々の総意が我が国ばかりでなく世界を動かしてきました。
そして同時に、名もなき人々に「出来ることをさせた」人物や出来事も存在しています。
歴史は一握りの人物のものではなく一般大衆のものであり、同時にその一般大衆を導いていくあらゆる力が歴史を動かしているんですよね。
これが歴史上の大きな流れを生んで、今日の私たちに至っている。そこがロマンでもあるわけです。
今後ともよろしくお願いします。
しかし、この当時清国に出兵したイギリスやフランスが、返す刀で我が国へ侵略する可能性も十分考えられ、両国の動きに先手を打つためには、たとえ不平等であってもアメリカと条約を急いで結ぶ必要があったのです。それなのに攘夷派は「諸外国など追い出せばよい」と口先では威勢(いせい)のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのかという深刻な問題に対しては、口をつぐんで答えようともしませんでした。
こうした攘夷派の動きを抑えるため、直弼は1858年から59年にかけて、攘夷派の大名や幕臣、あるいは公卿や諸藩の志士らを一斉に弾圧(だんあつ)しました。いわゆる安政の大獄のことです。直弼にとっては幕府の威信を守るための当然の行為だったのですが、吉田松陰や橋本左内(はしもとさない)といった有能な人間を問答無用で処刑してしまったのは、さすがにやり過ぎでした。
結果として多くの人間の恨みを買った直弼は、1860年旧暦3月3日、春にしては珍しい大雪の日に江戸城へ向かう最中に襲われ、斬殺(ざんさつ)されました。この桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)によって幕府の権威はさらに低下してしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
井伊直弼の判断は当時の日本の立場から
考えれば、致し方なかったのかも知れません。
もしも、ペリーの開国の申し出を拒んだとしたら、諸外国から遅かれ早かれ日本は侵略され、何処かの国の属国として惨めな今日を送っていたかもしれませんし。
例えば現時点で日本が外国から攻撃された場合、日本の防衛力は1週間くらいだと言われています。(直接日本本土を攻撃されたら、もっと短いでしょうけれど)しかもアメリカの援護が必ずあるという前提で戦わなければ、すぐに敗戦してしまうでしょう。
日本の防衛力はアジア諸国から比べれば、今の所高いと思います。けれどどんなに性能がよい戦闘機やミサイルを所持していてもこれまで平和に過ごしてきた民族がそれを上手く使いこなせるかどうかです。日頃実践訓練している国には、とても敵うものではありません。日本はアメリカという用心棒をずっと味方につけておきたいというのは、当然の考えでもあります。ただ、今の所
アメリカは日本よりも違う国に関心があるようで・・・(^^A
幕末の時代もそれまでずっと平和で
すごして来た民族のへんな自信と外国から急襲されるという事の実感の無さが攘夷派の口先だけの
言動に繋がってしまったように思いました。
井伊直弼も余りに極端な行動や、勝手な判断を
強行しなければ、殺されずに済んだのでは・
長々とまとまりのないコメントにて失礼しましたm(_)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るように、現代の我が国にもあてはまる深刻な問題でもありますね。
それだけに井伊直弼の苦しい胸の内も分かるような気がします。
ただ、彼はあまりにも性急に処罰をしてしまいました。
吉田松陰や橋本左内などは、攘夷派と言えども我が国のために多大な貢献をしてくれたはずです。
せめて長期間の牢屋暮らしなどで生かしておくべきでした。
直弼の幕府思いも、結果として滅亡を早めてしまったのが皮肉ではありますね。
サクラ 桜田門外の変は、外国の後ろ盾があって成功した、とも言われてますね。
絵巻物に、舶来の短銃が描かれていたとか。
私が読んだ本では、陰謀だの何だの仰々しいことが書かれてましたが、そのへんはどうなんでしょう?
しかし、条約の締結には天子の許しがなければならなかったんですか。
実権が武士に移って以来、朝廷の力は(権現だけあっても)弱かったと思っていたのですが。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 桜田門外の変は、外国の後ろ盾があって成功した、とも言われてますね。
> 絵巻物に、舶来の短銃が描かれていたとか。
> 私が読んだ本では、陰謀だの何だの仰々しいことが書かれてましたが、そのへんはどうなんでしょう?
確かにその可能性はあると思います。
曲がりなりにも幕府の事実上の最高権力者を堂々と暗殺したのですから、何がしかの大きな力が働いたかもしれません。
> しかし、条約の締結には天子の許しがなければならなかったんですか。
> 実権が武士に移って以来、朝廷の力は(権現だけあっても)弱かったと思っていたのですが。
本当は勅許なんて不要なんですよ。
ところがこの頃までに幕府公認の朱子学の影響で、幕府よりも朝廷の方が上位であるという思想が当然となっていましたから、いつのまにか勅許が得られないと条約を結べないようになっていたのです。何たる皮肉…。
黒田先生
風早 りら 井伊直弼が安政の大獄によって 吉田松陰を処刑してしまった事は
日本にとって大変な消失だったと思います
吉田松陰が生存していたら
明治になってどれだけの功績を上げてくれたかと思うと残念です
余談になりますが 先日 映画「桜田門外の変」を見てきました
以前はあまり見なかった時代劇が 最近は好きになりました
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 井伊直弼が安政の大獄によって 吉田松陰を処刑してしまった事は
> 日本にとって大変な消失だったと思います
> 吉田松陰が生存していたら
> 明治になってどれだけの功績を上げてくれたかと思うと残念です
> 余談になりますが 先日 映画「桜田門外の変」を見てきました
> 以前はあまり見なかった時代劇が 最近は好きになりました
> ありがとうございます
仰るとおりです。
吉田松陰の消失で、我が国はどれだけ損をしていることか…。
彼の弟子たちがそれぞれ活躍しているとはいえ、やはり本家本元の活躍ぶりを見たかったです。
どうして受牢だけでとどめなかったのか…。残念です。
時代劇がお気に召したようですね。
今年は時代劇映画の当たり年といわれています。
我が国の伝統の復権は嬉しい限りですね。
なおまゆ 幕府は朝廷に政権を委ねられていたのに、勅許を求めるという矛盾に気づかなかったのでしょうか?
自らが広めた学問に縛られ、「平和ボケ」してしまったのでしょう。今の日本に良く似ていますよね。
吉田松陰先生の死は本当に早すぎました。彼を評価しない歴史家もいますが、彼の率直な勇気は、正しく先駆者の物でした。
今の時代にも松陰先生のような方が必要です。痛切にそう思います。行動する人が如何に少ないか・・・。政治家とは行動する人と思うのですが保身と失言と言い訳ばかりでうんざりします。
黒田さんの語る歴史を読むたびに、「歴史に学ばない」愚かな政治家に失望しています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 幕府は朝廷に政権を委ねられていたのに、勅許を求めるという矛盾に気づかなかったのでしょうか?
> 自らが広めた学問に縛られ、「平和ボケ」してしまったのでしょう。今の日本に良く似ていますよね。
私も同意見です。国民の安全保障よりも優先する存在があるという段階で、為政者としての資質が疑われますね。
> 吉田松陰先生の死は本当に早すぎました。彼を評価しない歴史家もいますが、彼の率直な勇気は、正しく先駆者の物でした。
> 今の時代にも松陰先生のような方が必要です。痛切にそう思います。行動する人が如何に少ないか・・・。政治家とは行動する人と思うのですが保身と失言と言い訳ばかりでうんざりします。
特に今年は政治家の失言が多い一年でした。昨年までとは違い、失政といってもおかしくない中での失言ですから、国民の不満はより高まっていますね。後半から集中して行われた、数千人による一般市民のデモがそれを象徴していると思います。
> 黒田さんの語る歴史を読むたびに、「歴史に学ばない」愚かな政治家に失望しています。
お言葉恐縮です。私にとっても、今年ほど「歴史に学ぼうとしない姿勢がどのような影響をもたらすか」ということを痛感した一年はなかったと思っております。
桜田門外の変
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
DVDで、『桜田門外の変』を観ました。
観ての感想ですが
① 桜田門外の変から、わずか8年後に
明治維新になっていたという事実。
ということは、その8年間に
薩英戦争、8月14日の政変、四国艦隊砲撃事件
池田屋事件、長州征伐、薩長同盟、大政奉還
鳥羽伏見の戦い
があったということですね。
時間の密度の濃さにただただ、驚きです。
② 桜田門外の変
に関わった人間は、全員、斬首になりました。
不思議に思ったのは、
同じように過激派だった長州の桂小五郎、高杉晋作もかなり、ヤバイ状況だったのに
生き伸びたのに、尊王攘夷の本家本元の
水戸藩が完全にそのパワーをなくしたことでした。
やはり、これが、分家といえども、
徳川家の水戸藩と長州藩との違いだったのかもしれませんね。
つまり、水戸藩は、尊王攘夷運動の中心地ではあったが、
徳川家そのものが憎いわけではなく、
逆に、長州藩は、尊王攘夷+徳川家への恨み
の違いです。
この両者の違いが、桂小五郎、高杉晋作を藩が
捕えるような状況でも、探索が甘くなり
結局は、藩の中枢に帰り咲くということに
なった気がします。
それにしても、明治維新になって、水戸藩出身で
要職についた人間がほとんどいないのも
悲劇性を感じます。
③ 井伊直弼を暗殺した水戸浪士は、薩摩藩の
挙兵をあてにしていました。
しかし、島津斉彬が死に、それが実現されないことで、絶望します。
それにたいして、長州藩は、自分の藩だけで
攘夷を実行したり、禁門の変を起こします。
ちなみに、後の明治の元勲
伊藤博文は、高杉晋作が功山寺で、決起した時
力士隊を連れて、一番に馳せ参じています。
この時の長州藩は、イイ意味でも、悪い意味でも
凄いですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、尊王攘夷といえども徳川家一門である水戸藩と、徳川家に恨み骨髄の長州藩とでは役者が違い過ぎましたね。時代が倒幕に流れるにつれて、その差は歴然となっていきました。
とはいえ、幕末にふさわしい水戸家出身の将軍慶喜が誕生したことで、歴史の神様は水戸藩に静かな幕引きを用意しましたし、多士済々の長州藩も歴史をつくるに値する存在でしたね。
しかし、幕府の安泰(あんたい)を目指した公武合体は、将軍が天皇の義理の弟という立場になったことで「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」という図式が成立してしまい、逆効果となってしまいました。また、京都にはそれまでに京都所司代(きょうとしょしだい)という役職が存在していたのに、なぜわざわざ京都守護職という別の役職を設けなければならなかったのでしょうか。
実は、長年平和が続いたことによって所司代などの幕府の従来の役職が官僚化(かんりょうか)してしまい、武力の組織としては役に立たなくなってしまっていたのです。だからこそ京都守護職が必要となり、また守護職によって保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組が京都において活躍することになったのでした。幕府による「平和ボケ」はこんなところにまで影響を及ぼしていたのです。
その後の幕府は強硬な攘夷派であった長州藩を倒して一時は名誉を回復したものの、討幕の流れはどうすることもできず、ついに1867年に最後の将軍の徳川慶喜が大政奉還を行ったのですが、その後も先述したような流れを受けて、結局幕府は討幕軍と戦うことになりました。




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ぴーち こんばんは!
孝明天皇が女帝であったのなら、この図式はまた
違っていた・・という事になるのでしょうか?
新撰組が平和ボケから誕生したというのは、初めて知りました^^
現代にもそんな勇士が国民から誕生する気配は・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 孝明天皇が女帝であったのなら、この図式はまた
> 違っていた・・という事になるのでしょうか?
難しいですね…。男性天皇であったからこそ、崩御されるまで強い指導力を発揮されたとも思えますし。
それにしても、劣勢に立たされると人間はやることなすことがことごとく裏目に出ますね。
> 新撰組が平和ボケから誕生したというのは、初めて知りました^^
> 現代にもそんな勇士が国民から誕生する気配は・・
平和ボケは組織をとことん腐らせてしまいますね(´・ω・`)
果たして現代にも同じようなことが起きるでしょうか。期待したいような、空恐ろしいような…。
本来の意味に崩れた幕府。
晴雨堂ミカエル 鎖国の意味が長い年月の間に変質したように、征夷大将軍の本来の意味が忘れ去られ、幕末になって再びクローズアップされて押し潰されるのは面白い現象です。
まさに夷が黒船で押し寄せている時に、夷を討たねばならない国軍最高司令官が動けない、本来は征夷司令部たる幕府が戦えない。
現代にも対外的には国家元首、内輪では象徴天皇、対外的には国軍、内輪では自衛隊といった建前と誤魔化しの制度が日本の矛盾です。
本来の意味を忘れた憲法論議が続いています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 鎖国の意味が長い年月の間に変質したように、征夷大将軍の本来の意味が忘れ去られ、幕末になって再びクローズアップされて押し潰されるのは面白い現象です。
そうですね。物事というのは時代によって本質するものではありますが、ここまで幕府の意味が変質するようになるとは、歴史というのは面白く、また恐ろしいものです。
> まさに夷が黒船で押し寄せている時に、夷を討たねばならない国軍最高司令官が動けない、本来は征夷司令部たる幕府が戦えない。
> 現代にも対外的には国家元首、内輪では象徴天皇、対外的には国軍、内輪では自衛隊といった建前と誤魔化しの制度が日本の矛盾です。
> 本来の意味を忘れた憲法論議が続いています。
難しい問題ですね。
現状を変えたくないという姿勢はいつの世も同じだとは思いますが、今回のように歴史の結果を見れば、そのままでは良くないはずなのですが…。
黒田裕樹さん
風早 りら 「平和ボケ」のお言葉に
今の日本の今を見るかのようです
そのことに 早く 政府に気づいて欲しいと
現代に照らしあわせて 考えました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「平和ボケ」のお言葉に
> 今の日本の今を見るかのようです
> そのことに 早く 政府に気づいて欲しいと
> 現代に照らしあわせて 考えました
現代の「平和ボケ」については、仰るとおり今回の講座に通じるものがありますね。
わざわざ別の役職を設けるという無駄については、同じようなものが現代にもきっと存在するはずです。
歴史は、繰り返すのか
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
黒田先生は、田沼意次が、開国のチャンスがあり、
蝦夷調査に行かせたと言っていました。
その流れを、停止して、幕末に不平等な条約を結んだとおっしゃっていました。
それにたいして、地方の藩から、不平が起こって
倒幕運動につながった。
これも、現代に当てはまりますね。
S氏が千閣諸島を買おうとしたり、調査しようと
したのに、その流れを止めてしまい、
結局、外国との関係を悪化させ、日本に不利な条件で、国際関係が構築されている。
地域政党が、活発化して、日本を変えようとしている。
※ 江戸幕府の平和ボケで、使いものにならない軍隊と現代の憲法9条まで、似ているから、
ぞっとします。
これから、現代の日本が、どうなるかは、わかりませんが
どちらにしろ、今の日本人の行動が将来の日本の方向を決めることだけは、はっきりしていますね。
後世の日本人から、『あの世代が日本を駄目にした。』と歴史の教科書に載らないようにだけは、
したいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
気づいただけでもまだマシかもしれませんが…。
いわゆる「錦の御旗」のことです。朝廷の軍隊であることを示す錦の御旗を相手に戦う幕府軍は「朝敵(ちょうてき)」となることを意味しますから、その影響は確かに大きかったのですが、慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に許されないことだったのです。
なぜ慶喜はそこまで弱気になってしまったのでしょうか。将軍になる前の慶喜は御三卿(ごさんきょう)の一橋家の当主でしたが、実は御三家の水戸藩から養子に入っていました。
水戸藩といえば先述した水戸学が発達しており、徳川家でありながら皇室を重視する学問を、慶喜自身も幼い頃から身に付けていました。つまり、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ自らが朝敵になることが認められなかったのです。
慶喜はそれまで立てこもっていた大坂城から密かに船で江戸へと向かうと、上野の寛永寺(かんえいじ)で自ら謹慎(きんしん)しました。その後、勝海舟と西郷隆盛との会見を経て慶喜は駿府(すんぷ、現在の静岡)へと移動し、徳川政権は名実ともに幕を下ろしたのでした。




いつも有難うございます。
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紗那 戦いにおいては、精神的な攻撃というのは時に物理的な攻撃を圧倒することもありますよね
この場合は、倒幕軍の作戦勝ちというところでしょうね
倒幕軍は、慶喜の生まれなどを理解した上でこの作戦を使ったんですか?
ぴーち こんばんは!
慶喜は水戸藩の養子であったのですか。
やはり幼少から身につけた学問は絶対的な
ものだったのですね。
その教えに反旗を翻してまでも・・という事はこの時代は絶対許されないことだったのでしょうか。それとも将軍という立場だったからですか?
それとも慶喜の性格上の問題だったのでしょうか。。
質問ばかり並べてしまい、失礼しましたm(__)m
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦いにおいては、精神的な攻撃というのは時に物理的な攻撃を圧倒することもありますよね
> この場合は、倒幕軍の作戦勝ちというところでしょうね
> 倒幕軍は、慶喜の生まれなどを理解した上でこの作戦を使ったんですか?
錦の御旗の効力は圧倒的でしたね。
慶喜の出自を知っていたかどうかの確証については聞いたことがないですが、可能性として十分にあったと思います。ただ、深夜にお忍びで大坂城を脱出するまでとは思わなかったかもしれませんが(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 慶喜は水戸藩の養子であったのですか。
> やはり幼少から身につけた学問は絶対的な
> ものだったのですね。
> その教えに反旗を翻してまでも・・という事はこの時代は絶対許されないことだったのでしょうか。それとも将軍という立場だったからですか?
教えに反するという立場もあったでしょうし、将軍だからこそ、幕府が朝敵となって滅亡すると硫黄危機を避けたかったのかもしれませんね。
> それとも慶喜の性格上の問題だったのでしょうか。。
> 質問ばかり並べてしまい、失礼しましたm(__)m
水戸学を身につけていたことによって、習い性となるの如く慶喜の哲学となっていたかもしれませんね。
いえいえ、質問大いに結構ですよ(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 慶喜が たやすく 逃げてしまったことには
以前より 疑問でした
これで やっと 理解出来ました
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 慶喜が たやすく 逃げてしまったことには
> 以前より 疑問でした
> これで やっと 理解出来ました
> 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
慶喜の「血筋」が、こんなところにまで影響を与えているんですよね。