大胆な謀略(ぼうりゃく)や本人の戦上手(いくさじょうず)もあって、元就の一代で広大な領地を手に入れた毛利家でしたが、後を継いだ孫の毛利輝元(もうりてるもと)は凡庸(ぼんよう、すぐれた点もなく平凡なこと)な器量しか持っていませんでした。
輝元は関ヶ原の戦いの際に西軍の総大将に祭り上げられて大坂城(おおさかじょう、現在の大阪城)に入城しましたが、毛利家の一族の吉川広家(きっかわひろいえ)が家康の東軍に通じており、家康から事前に毛利家の本領安堵を約束されていた広家は、輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動きませんでした。
戦いの後に家康から大坂城の明け渡しを要求された輝元は、家臣の「大坂城に残って戦うべきだ」との声を無視し、本領安堵の約束を信じ切って大坂城を無傷で明け渡したのですが、その途端(とたん)に家康は毛利家の領地没収を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含(ふく)めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、すでに後の祭りでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
凡庸である事は決して悪いことでは
ないにせよ、藩主ともなる者は
凡庸であってはならないという好例のような
お話ですね。
ましてや、家康のような人(たぬきオヤジ?)
に掛かっては、木の葉一枚で簡単に騙されてしまいますね(^^A
正直や素直であることは大切な事ですが、
時には相手を少しだけ疑ってみることも
必要な時もあるということでしょうか。
輝元においては、やはり味方の意見を優先して
おくべきでしたね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 人の上に立つ者は、仰るとおり「お人よし」だけではやっていけない、ということですね。
ましてや家康が相手なのですから、元就クラスでないと対等にやっていけなかったでしょう。
輝元に優秀なブレーンがいればあるいは違った道になったかもしれませんが、小早川隆景が亡くなっていたのが痛かったですね。
黒田先生
風早 りら 毛利元就 輝元に対して
家康がとった 手段は当然の
ことだと思います
もし このままにしておいたら
いつか 家康を裏切ると思うのは
当然のことでしょう
家康のたくらみは仕方のないことで
それだけ 知恵があり 人を見抜く力が
あったのでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 毛利元就 輝元に対して
> 家康がとった 手段は当然の
> ことだと思います
> もし このままにしておいたら
> いつか 家康を裏切ると思うのは
> 当然のことでしょう
> 家康のたくらみは仕方のないことで
> それだけ 知恵があり 人を見抜く力が
> あったのでしょう
仰るとおり、食うか食われるかの戦国時代の流れが残っていたこの頃は、家康の手法は間違ってはいませんでした。現代の風習とは異なり、「だまされた方が悪い」世の中だったのです。
それでは、毛利家が助かる道はなかったのでしょうか?
次回(14日)の更新で考えてみたいと思います。
もし輝元が家臣の進言どおりに大坂城で戦っていれば、薩摩の島津家と同じように「毛利家恐るべし」と感じた家康によって本領が安堵された可能性もあったのですが、凡庸な輝元はそこまで頭が回らなかったのです。
この後も毛利家は、新たな城を交通の便の良くない山陰(さんいん)側の萩(はぎ)に築くことを強要されたり、幕府で普請(ふしん、土木工事のこと)が行われる際には自費で手伝わされたりするなど散々な目にあいましたが、毛利家の家臣たちは、自分たちの悲劇の原因を主君である輝元のせいにすることもできず、非情な処分を行った幕府を深く恨むようになっていきました。
時代が下るにつれて恨みは代々受け継がれ、太平の世の中が続く間も毛利家の長州藩では復讐(ふくしゅう)の機会を伺(うかが)いながら、江戸時代後期の19世紀に藩の財政の立て直しを行うことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の家臣たちは苦労が耐えなかったんですね。
> でも主君がそんな凡庸のタイプだと、お家断絶やらの最悪な状態からは免れるので、考えようによっては、身の危険からは遠ざかれたのではないかと思うのですが、武士の社会としての考えとしては、余りに情けない事でしょうかね(^^A
もともと120万石だったのが5分の2の37万石になったということは、収入が一気に4割になってしまったということですよね。おまけに一文にもならない労役まで課せられて、生活は相当苦しかったと思います。
ここまで貶(おとし)められると、身の危険から遠ざけられた喜びよりも、現状の苦しさを呪うばかりだったかもしれません。
でも、これほどの恨みがなければ、250年以上も復讐の機会をうかがうことは不可能だったかも…。歴史の流れは時として恐ろしくもあります。
黒田先生
風早 りら 家康という人は 本当に 頭がいいと
思いました
それが 子孫に受け継がれたなら
また 時代は大きく変わったでしょう
19世紀に藩の財政の立て直し
楽しみにしていますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康という人は 本当に 頭がいいと
> 思いました
> それが 子孫に受け継がれたなら
> また 時代は大きく変わったでしょう
> 19世紀に藩の財政の立て直し
> 楽しみにしていますね
確かに外様大名を思い通りに操る家康の策謀は見事の一言です。
設立当初の幕府がいかに優秀だったかがよく分かるエピソードです。
長州藩も薩摩藩同様、財政事情が悪化しつつありました。
幕末に活躍する藩は、いずれも同じような悩みを抱えて、なおかつ同じように問題を克服していったんですよね。
執念
オバrev 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 毛利輝元と言えば、それまでの山城から平地に築かれた名城広島城を建てた人物です。また祖父元就の「3本の矢」はサンフレッツェの名前の元になっていますし、2人とも広島では大変有名な歴史上の人物です。
> しかし、確かに関ヶ原以降の毛利家はその面影もない状況だったんですね。
一人の偉大な人物によって築き上げられた地位や名誉は、その後の一人の凡庸な人物によってすべてが失われてしまう…。平家並みの栄枯盛衰ですね(´・ω・`)
> ただ、何故あんな萩のような田舎(といっては失礼かもしれませんが)から、幕末~明治維新にかけて優秀な人材が次々と輩出されたのかが分かりました。
> それにしても、250年たってから恨みを晴らすとは・・・凄い執念ですね(^^;)
人間の感情のうち、特に憎しみは世代を超えて受け継がれますからね。それが執念と化してしまうあたりが、人間の業(ごう)の深さを実感します。
ぴーち こんばんは!
そうですか。
更に詳しい内情をお聞きすると
家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > そうですか。
> 更に詳しい内情をお聞きすると
> 家臣の心情も致し方ないと、納得することが出来ます。ありがとうございますm(__)m
> しかし、その家臣の中には主君に憎まれても
> 何とか知恵を貸そうと考えた者は誰もいなかったのでしょうか。
諸悪の根源(?)は大坂城を無傷で明け渡したことですから、その際に身体を張ってでも止める家臣がいなかったことが残念ですね(いたかもしれませんが)。
家臣の心情を思うと胸が詰まる話ですが、これは毛利家に限った話でもないところが時代の厳しさを感じます。
清風は敬親の期待に応え、薩摩の調所広郷と同様に藩の借金を長期にわたる返済方式によって整理した代わりに藩の特産物であった蝋(ろう)の専売を廃止して商人の自由な取引を認め、彼らからの運上金(うんじょうきん)、すなわち税金で藩の財政を活性化させました。
この他、領内の港であった下関(しものせき)に越荷方(こしにかた)を置いて、諸国の廻船(かいせん)によってもたらされる商品である越荷を抵当に入れて資金を貸し付けたり、あるいは越荷の委託販売(いたくはんばい)を行ったりして利益を収めました。
こうして財政の再建に成功した長州藩は、薩摩藩と同様に雄藩(ゆうはん)として幕末に名乗りを挙(あ)げますが、そのためには人材の育成が不可欠であり、やがてそれにふさわしい人物が登場することになります。
ところで、長州藩の財政再建に貢献した村田清風の業績を称(たた)え、その名を校名として採用した学校法人が存在することを皆さんはご存知でしょうか。大阪にある清風学園(せいふうがくえん)のことであり、私の母校である明星中学校・高等学校(めいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)とは至近距離(しきんきょり)にあります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
清風高校といえば、体操の池谷選手の母校だったように思います。
体操選手や、スポーツ関連に力を入れている高校なんでしょうか^^
私の所の県南にも同じ名前の高校がありますが、姉妹校ではない・・・のかしら(笑)
歴史上の重要人物が学校や大学の創始者となるパターンって多いのでしょうか。(私の知る限りでは数人しか存じませんが^^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 清風高校といえば、体操の池谷選手の母校だったように思います。
> 体操選手や、スポーツ関連に力を入れている高校なんでしょうか^^
> 私の所の県南にも同じ名前の高校がありますが、姉妹校ではない・・・のかしら(笑)
> 歴史上の重要人物が学校や大学の創始者となるパターンって多いのでしょうか。(私の知る限りでは数人しか存じませんが^^;)
そのとおり、池谷選手の母校です。ソウルとバルセロナで銅メダルを獲得しましたね。
大阪の清風高校の場合は創始者ではなく、村田清風の業績にあやかって名付けたのですが、ぴーちさんの近くの高校はどうでしょうか…?
松陰の試みは結果として失敗に終わり、自首した後に郷里(きょうり)の萩に送られた松陰は、やがて松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いて地元の武士や町人など、身分にかかわらず多くの塾生に対して教えました。
しかし、幕府の大老(たいろう)であった井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄(あんせいのたいごく)が始まると、松陰も幕府によって捕(とら)えられ、1859年に処刑されました。なお、彼の辞世(じせい、死に際して読む短歌や俳句などのこと)は以下のとおりです。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽(く)ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂(やまとだましい)」
松陰の身体は文字どおり刑場の露(つゆ)と消えましたが、その精神は塾生たちによって受け継がれ、長州藩における討幕の機運を高めることになったのでした。
(※下記の映像ですが、誤りがございます。吉田松陰の字は、正しくは「松陰」です。講義中に「松陰」と「松蔭」とを混同してしまったがゆえのミスでした。 謹んでお詫びのうえ、訂正いたします。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
井伊直弼が益々悪人に思えてくるエピソードですね(^^A
前回、「桜田門外の変」という映画を鑑賞した後ですので、憎悪さえ覚えてしまいそうです^^;
ところでまたまた脱線話で恐縮ですが
、尾形大作さんが歌った「吉田松陰」という歌が
ありましたね!
しかも作詞は先日他界された星野哲郎さんです。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND578/index.html
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 井伊直弼が益々悪人に思えてくるエピソードですね(^^A
> 前回、「桜田門外の変」という映画を鑑賞した後ですので、憎悪さえ覚えてしまいそうです^^;
井伊直弼には直弼なりの考えもあったのですが、確かにこれはやり過ぎですね。
講座の後半で詳しく検証してみたいと思います。
> ところでまたまた脱線話で恐縮ですが
> 、尾形大作さんが歌った「吉田松陰」という歌が
> ありましたね!
> しかも作詞は先日他界された星野哲郎さんです。
> http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND578/index.html
吉田松陰ほどの人物ですから、やはり歌謡にも残されているんですね(^^♪
- 松下村塾は近いので行ってみたことがありますが、こぢんまりとした一軒家でした。
いくら幕府に恨みを持っていた毛利の土地だったとは言え、あれほどの人材を輩出させた吉田松陰の力は凄いと思います。
一体松陰のどういう人間性、カリスマ性、教えがそうさせたんでしょうかね?
オバrev(?)さんへ
黒田裕樹 ホストが同じなので、たぶんオバrevさんだと思うのですが…(^^ゞ
> 松下村塾は近いので行ってみたことがありますが、こぢんまりとした一軒家でした。
> いくら幕府に恨みを持っていた毛利の土地だったとは言え、あれほどの人材を輩出させた吉田松陰の力は凄いと思います。
> 一体松陰のどういう人間性、カリスマ性、教えがそうさせたんでしょうかね?
吉田松陰は時代に選ばれ、時代によって若い命を散らしましたね。幕末という激動の時代だからこそ輝いたのだと思います。
松下村塾は本当に狭いんですよね。でもあの塾から我が国の歴史を変える志士が次々と誕生する…。まさに奇跡ですよね。
カリスマ性は確かにあったと思いますよ。あの高杉晋作が慕っていたんですからね(^^ゞ
失礼しました(^^ゞ
オバrev あ"~!何とHN抜けてました(^0^;)
と言うことは、○○さんや○○さんへのコメントもHN抜けていたな~ (ノд`)アチャー
それにしても松下村塾の塾生にとって松陰との出会いは、人生邂逅と言う言葉がピッタリですね。実に羨ましいです。
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 > あ"~!何とHN抜けてました(^0^;)
> と言うことは、○○さんや○○さんへのコメントもHN抜けていたな~ (ノд`)アチャー
どうぞお気になさらずに(^^♪
> それにしても松下村塾の塾生にとって松陰との出会いは、人生邂逅と言う言葉がピッタリですね。実に羨ましいです。
普通の人間が一生かかっても経験できない邂逅ですよね。まさに運命といえるでしょう。
吉田松陰の年齢。
晴雨堂ミカエル 時代劇では40代の俳優が演じる事が多い松陰ですが、松下村塾で活躍していた頃はまだ二十歳代後半の若造です。だいいち外国へ密航しようなどと冒険を考えるのは「若者」である証拠です。
黒田氏も「若い頃から学問に励んでいた」と表現されているところから、年齢をご存知でも松陰が「若者」というのは感覚的に違和感をお持ちのようですね。私なら「幼少の頃から」としますが。
時代劇や肖像画からの固定概念は根強い。
当時の平均寿命が短いからといって、当時の30前後が現代の40・50に相当するかのように誤解錯覚する事が多いですが、見た目の老け方はさほど現代とは変わりません。
ただ、乳幼児と初老(40歳)以降の死亡率が現代人より多く、今なら通院治療で治る病気や怪我でも死亡する事があったでしょうから、私たちより「人生の制限時間」を身近に感じていたでしょうけど。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 時代劇では40代の俳優が演じる事が多い松陰ですが、松下村塾で活躍していた頃はまだ二十歳代後半の若造です。だいいち外国へ密航しようなどと冒険を考えるのは「若者」である証拠です。
> 黒田氏も「若い頃から学問に励んでいた」と表現されているところから、年齢をご存知でも松陰が「若者」というのは感覚的に違和感をお持ちのようですね。私なら「幼少の頃から」としますが。
> 時代劇や肖像画からの固定概念は根強い。
松陰だけでなく、幕末の志士には確かに若者が多いですね。
ただ、現代の感覚における若者とは一味違うような気がします。
現代のように様々な理由で守られているのではなく、毎日が命がけの日々でしたから、人間の出来が違いますね。
松陰の肖像画は処刑前のものと伝えられてますが、筆舌に尽くしがたい実体験が、三十路前でありながら彼を老成させたのかもしれません。
> 当時の平均寿命が短いからといって、当時の30前後が現代の40・50に相当するかのように誤解錯覚する事が多いですが、見た目の老け方はさほど現代とは変わりません。
> ただ、乳幼児と初老(40歳)以降の死亡率が現代人より多く、今なら通院治療で治る病気や怪我でも死亡する事があったでしょうから、私たちより「人生の制限時間」を身近に感じていたでしょうけど。
寿命の短さや、いつ死ぬかもしれないという恐怖感が、当時の人々を突き動かしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、現代の感覚で歴史を見ないようにくれぐれも注意しなければいけません。
お言葉有難うございます。
なぜか、長州モノが少ないような気が。。
青田です。 黒田先生
青田です。
大河ドラマでも、長州を主人公にしたものは
非常に少なく、あまり、人気がありません。
(マスコミの意図的なモノも感じますが)
私の記憶では、『花神』『花燃ゆ』くらいです。
私は、日本の歴史的な役割という観点では
非常に大きいのに、幕末モノでも、『坂本龍馬』『勝海舟』『西郷隆盛』などは多いです。
これは、私の憶測(独り言)ですが、明治以降は、陸軍は、長州閥、海軍は、薩摩閥。
でした。
陸軍=悪というイメージで、東京裁判で、裁かれました。
そう考えると
悪=陸軍=長州
というイメージで、マスコミもあまり、イイ印象を持ってないから、大河ドラマなどでも、
あまり、取り上げられないではと考えてしまいます。
乃木将軍(長州)は、愚かな司令官のように描かれます。
私個人は、ボロボロになりながら、教育の力で、多くの優秀な人材を輩出した幕末長州は、大好きです。
ちなみに、
来年の大河ドラマは、『真田幸村』で
日本人の『真田幸村』人気は尋常ではありません。
籠城戦のスペシャリストという点では、たしかに優れていますが、
ビジョン、戦略という点では、あまり、評価しません。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう一面もありますよね。
戦略やビジョンよりも、判官贔屓という概念が強い印象もありますが…。
ところが、幕末の頃の水戸学は、主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室であり、また諸外国からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の考えが中心となっていました。
吉田松陰も水戸学を学んで大きな影響を受け、その松陰から学んだ塾生たちによって、長州藩の藩論もいつしか尊王攘夷論が中心となり、討幕へ向けての大きな推進力になりました。攘夷の機運が高まった長州藩では、幕府の攘夷決行の掛(か)け声に応じて1863年旧暦5月10日に下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を実際に行いました。これを長州藩外国船砲撃事件(ちょうしゅうはんがいこくせんほうげきじけん)といいます。
しかし、あまりに急進的な攘夷論は薩摩藩や会津藩(あいづはん)などから敬遠され、同年旧暦8月18日にはクーデターが起きて、三条実美(さんじょうさねとみ)らの公卿や長州藩などの急進派が京都を追われてしまいました。これを八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)といいます。




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ぴーち こんばんは!
余りに急な攘夷論は、確かに反感を持たれてしまうのは必須ですよね。
ただ、尊皇攘夷の精神というのは
ある程度大切なのではないかと思うのです。
鎖国をしていた260年間の間の日本はなんだかんだいっても、平和な時代でしたが、開国し外国との交流が盛んになった時から今日までの間、得るものも多かったでしょうけれど、それでも何か大切なものばかり失って来たように感じてなりません。
自国の安全はなるべく外国の庇護を受けずに自国で守っていこうという気持ち、日本人としての誇りとして持ちたいものだと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 余りに急な攘夷論は、確かに反感を持たれてしまうのは必須ですよね。
後先を考えずに「ただ打ち払えば良い」というのは明らかに乱暴ですからね。
何事も慎重に作戦を練らないといけません。
> ただ、尊皇攘夷の精神というのは
> ある程度大切なのではないかと思うのです。
> 鎖国をしていた260年間の間の日本はなんだかんだいっても、平和な時代でしたが、開国し外国との交流が盛んになった時から今日までの間、得るものも多かったでしょうけれど、それでも何か大切なものばかり失って来たように感じてなりません。
> 自国の安全はなるべく外国の庇護を受けずに自国で守っていこうという気持ち、日本人としての誇りとして持ちたいものだと思います。
仰るとおりです。
薩摩藩も長州藩も、この後は性急な攘夷論に走らずに現実的な路線を貫くわけですが、その理由は「歴史に学ぶ」ことでした。次回(18日)以降に詳しく探ってみたいと思います。
黒田先生
風早 りら 吉田松陰と言う方は 素晴らしい方の
ようですね
この方には かなり 興味があります
また 機会がありましたら
この方の お話をお聞かせ下さいね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 吉田松陰と言う方は 素晴らしい方の
> ようですね
> この方には かなり 興味があります
> また 機会がありましたら
> この方の お話をお聞かせ下さいね
吉田松陰という歴史上の人物だけで講座ができるほどですからね。
いずれはぜひとも挑戦したいと思います。
1864年に起きた池田屋事件(いけだやじけん)によって追いつめられた長州藩は、京都で薩摩・会津の両藩と激しく戦いましたが敗れ(これを禁門の変=きんもんのへん、または蛤御門の変=はまぐりごもんのへん、といいます)、その後の幕府による第一次長州征伐(だいいちじちょうしゅうせいばつ)によって、長州藩の藩論は保守的な思想が中心となりました。
そんな長州藩に追い打ちをかけるように、長州藩外国船砲撃事件への報復としてイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関を砲撃して占領(せんりょう)するという事件が起きました。これを四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)といいます。
まさにボロボロの状態となった長州藩ですが、砲撃事件によって武力による攘夷の不可能を悟(さと)った長州藩は外国から学びながら力を蓄(たくわ)える道を選択し、後に高杉晋作によって奇兵隊(きへいたい)が結成されると、藩論を再び討幕へと導くことに成功しました。
ちなみに、外国からの攻撃を受けて攘夷の方針を転換したところは、薩英戦争を経験した薩摩藩と同じ路線をたどっています。いつの世も、人間は実際に経験しないと本質が理解できないのが宿命なのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
最後の一節だけに反応して、恐縮ですが^^;
仰るとおり、自分が経験してみないと納得出来ないというのは世の常なんでしょうね。
親がいくら口で駄目だと説得しても、子供は自分でそれを経験してみないことには、判ろうとしないという所でしょうか(苦笑)
応援凸
なおまゆ 楽しく読ませて頂いています。
実は、私は長州人です。
明治維新では、長州の出番が多く、少し、自慢で少し、恥ずかしく思ってます。
長州藩の藩論を転回させた絵堂の戦いは、高杉晋作主導の小さな戦いでした。
彼は、きっと首脳部は経験しなければ分からないと読んでいたのでしょう。
わずかな兵で決起した高杉晋作の「確かな見通し」がなければ長州藩は、維新の中心に居なかったかもしれません。歴史のアヤを感じます。
黒田先生
風早 りら 高杉晋作によって奇兵隊結成されるまでの
由縁を 詳しく 学ぶことが 出来
大変 有意義な 日となりました
彼のことは 以前より 興味がありましたので
今夜は特に楽しく 勉強させて
頂きました
有難う御座います
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 最後の一節だけに反応して、恐縮ですが^^;
> 仰るとおり、自分が経験してみないと納得出来ないというのは世の常なんでしょうね。
> 親がいくら口で駄目だと説得しても、子供は自分でそれを経験してみないことには、判ろうとしないという所でしょうか(苦笑)
確かにそのとおりですね。
小さなケガならまだ大丈夫なんですが、大ケガしてからでは遅い…。
長州藩の苦労話が一つの教訓になってくれればよいのですが。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 楽しく読ませて頂いています。
> 実は、私は長州人です。
> 明治維新では、長州の出番が多く、少し、自慢で少し、恥ずかしく思ってます。
そうなんですね。
地元の活躍は喜ばしいことです。
> 長州藩の藩論を転回させた絵堂の戦いは、高杉晋作主導の小さな戦いでした。
> 彼は、きっと首脳部は経験しなければ分からないと読んでいたのでしょう。
> わずかな兵で決起した高杉晋作の「確かな見通し」がなければ長州藩は、維新の中心に居なかったかもしれません。歴史のアヤを感じます。
仰るとおり、高杉晋作の活躍がなければ現在の我が国の体制はあり得なかったでしょう。
幕末の人材の豊富さは、今更ながらものすごいものがありますね。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 高杉晋作によって奇兵隊結成されるまでの
> 由縁を 詳しく 学ぶことが 出来
> 大変 有意義な 日となりました
> 彼のことは 以前より 興味がありましたので
> 今夜は特に楽しく 勉強させて
> 頂きました
> 有難う御座います
こちらこそ有難うございます。
高杉晋作については、この講座であと一回出てきます。
今回のことも、次回のことも、いずれも我が国の歴史を形づくった「隠れた偉業」だったと思います。
恐るべし長州藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時代の長州藩は、あらゆる面で、特別だったと思います。
◆ 攘夷運動の中心だったのに、伊藤博文、井上馨らの若者を英国に密航させて、留学させる。
◆ 身分の低い人間が、中心的なリーダーになる。
伊藤博文は、足軽出身、山縣有朋は、中間の出身、久坂玄瑞は医者の息子、大村益次郎は医者
桂小五郎は、医者の息子。
リーダー核で、上士は、高杉晋作くらいです。
◆ 奇兵隊だけではなく、力士隊、遊撃隊などを
即席で創り、それが実際の戦いで、活躍できた。
◆ 第二次長州征伐(四境戦争)で、幕府軍15万VS長州藩5000で、長州藩が勝ってしまう。
いくら、平和ボケの幕府であっても15万
それにたいしても、いくら必死であっても、
元々武士ではない人間を即席の訓練で、兵士に
変えた長州藩。
どう考えても、奇跡としか考えられません。
長州立場で、考えると、ボロボロになりながら
常に逆転満塁ホームランの連続を繰り返していた気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 この当時の長州藩は、いわば「不運のどん底」と「幸運の女神」が同時であったと思われます。
その根にあるのは、記事で紹介したとおりの「徳川家に対する恨み」でしょう。
恨みは人を動かし、どんな不運をもはねのけて、最終的に奇跡の勝利を成し遂げる。
考えてみれば、背筋が寒くなるほど恐ろしいことですね。
復讐劇(西南戦争)
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
恨みと言えば、
西南戦争の時、政府軍の抜刀隊を
政府は、官軍に恨みのある会津藩出身の武士が
多く集めたという話を聞いたことがあります。
その政府軍の抜刀隊が、田原坂の戦いの勝敗を
決めました。
本当に未来は、どうなるか、わかりませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 本当にそうですね。
物事はどんな場面で功を奏したり、また裏目に出たりするか分かりません。
だからこそ、私たちは人生の教訓として歴史に学ばなければならないのです。
しかし、我が国の両派は外国からの支援は喜んで受けたものの、身に余(あま)る過剰(かじょう)な肩入れは断りました。幕府を、あるいは討幕派を倒す際に外国の力を頼り過ぎると、事後に外国からの法外な干渉を受ける可能性があることが分かっていたからです。
こうした諸外国との絶妙なバランス感覚が、幕府が倒れた後も我が国が西欧諸国の植民地になることなく、明治維新を迎えることができた大きな要因となりました。また、それ以前に実は我が国の領土が他国によって占領される危機があったのですが、高杉晋作によって回避(かいひ)されているという事実は意外と知られていません。
四国艦隊下関砲撃事件の後の交渉で、イギリスは関門海峡(かんもんかいきょう)の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、事実上の占領を意味する)を迫りましたが、晋作は粘(ねば)り強く交渉して、ついに撤回(てっかい)させることに成功しました。
もし晋作の功績がなかったら、彦島が中国における香港(ホンコン)のような存在になったばかりでなく、これをきっかけに我が国の植民地化が進んだ可能性も十分に考えられます。高杉晋作のまさに命がけの行動のおかげで、現在の私たちが存在しているといっても過言ではないでしょう。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
仰るとおり、外国に頼りきってしまうと
後々の様々な要求を呑まなければいけない羽目に
なりますものね。後がこわいですね(^^A
高杉晋作は、そんな重要な役割を担っていたのですか!
存じませんでした・というか、彦島という島の存在すら初めて聞きました(@@
お恥ずかしい事です

しかしながら、こういう地道な活動が後々大きな功績となりうるものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですよね。
> 仰るとおり、外国に頼りきってしまうと
> 後々の様々な要求を呑まなければいけない羽目に
> なりますものね。後がこわいですね(^^A
そのとおりです。
外国の過剰な援助は、その後の無茶な要求がからむことが多いですからね。
見返りを積極的に求めない外国なんて、お人よしの我が国ぐらいのものです。
> 高杉晋作は、そんな重要な役割を担っていたのですか!
> 存じませんでした・というか、彦島という島の存在すら初めて聞きました(@@
> お恥ずかしい事です

> しかしながら、こういう地道な活動が後々大きな功績となりうるものですね。
知らないところで我が国の危機を救ったというのはよくある話です。
そんなエピソードを地道に掘り起こして公表することで、先人の功績と私たちとの深いつながりを知ることも歴史教育にとって重要ですからね。
黒田先生
風早 りら 高杉晋作のお話
昨日より 期待していました
イギリスとの彼の賢い交渉
行動は 日本の誇りですね
素晴らしいと思います
明日 期待しています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 高杉晋作のお話
> 昨日より 期待していました
> イギリスとの彼の賢い交渉
> 行動は 日本の誇りですね
> 素晴らしいと思います
> 明日 期待しています
高杉晋作の命がけの行為が、結果として我が国を救いました。
また、そんな晋作の姿勢に畏(おそ)れたからこそ、相手国も身を引いたのでしょう。
毅然とした態度が外国相手には絶対に必要ですね。
関東の誠 戊辰戦争に対して英仏の代理戦争のような感じ方をしていました。また明治期に入った後、元新選組斎藤一の写真と言われる軍服はアメリカの北軍にそっくり、この流れの中、仰る通りバランス感覚を感じていました。 遡れば16~17世紀にかけての日本はカトリックとプロテスタントとの接し方も絶妙だったように思っています。
現代より歴史の中の日本の方が情報網が発達していたのでは?と言いたくなってしまう事実です。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 戊辰戦争に対して英仏の代理戦争のような感じ方をしていました。また明治期に入った後、元新選組斎藤一の写真と言われる軍服はアメリカの北軍にそっくり、この流れの中、仰る通りバランス感覚を感じていました。 遡れば16~17世紀にかけての日本はカトリックとプロテスタントとの接し方も絶妙だったように思っています。
> 現代より歴史の中の日本の方が情報網が発達していたのでは?と言いたくなってしまう事実です。
そうですね。
幕末の時期も、また16~17世紀の時期も、国民や為政者が「生きるか死ぬか」の瀬戸際に立たされていました。
それだけにバランス感覚も鋭くなっていたのでしょう。現代のような「平和ボケ」とは比較にならないと思います。
なおまゆ 今の日本にこそ高杉晋作のような交渉術が必要ですね。
彦島は、小さな島です。
下関と短い一本の橋で繋がっています。
古くは壇ノ浦の合戦の時、平家の基地だったところです。瀬戸内海の入り口に当たるので航海の要衝には違いありません。
でも住んでる人達は、島の重要性、歴史を知りません。若者は次々と島を出て行きます。
故郷に愛着を持つためにも歴史に学ぶことは重要ですよね。
黒田さんの講座を読むと、その気持ちが強まる一方です。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史の断絶が見えてくるエピソードですね。
見た目は小さな島でも、それがどれだけの大きな意味を持っているのか。
実際に暮らす人も、また周囲の人々もその意味を理解しなければ、やがては国土の喪失=民族の滅亡へとつながってしまうでしょう。
歴史の流れは重要です。
木戸孝允
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ドラマや小説では、『木戸孝允』は
あまり、カッコ良く描かれませんが
調べてみると、この『木戸孝允』は
凄い人物ですね。
今まで、知らなかったのですが
リベラルであり、人情家である彼が大好きです。
<リベラルな面>
三権分立、教育制度の改革、議会制民主制度
憲法設立の必要性、廃藩置県
は、彼の構想力です。
<人情家>
◆秩禄処分のよる士族の困窮を心配して反対していた。
◆地租改正による農民の暮らしの心配をしていた。
◆ 会津戦争の会津の武士のことも心配していた。
◆ 幕臣の函館戦争で、死んだ、中島三郎助を心配していた。
幕臣である中島三郎助が戦死した時、慟哭した。
高杉晋作、西郷隆盛が有名ですが、木戸孝允も
明治政府に必要な人物だったと思います。
ただ、明治政府の中で、精神的苦悩が絶えず、
病気がちだったようですが。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、木戸孝允はあまり目立ちませんが、新政府の様々な政策に関係しており、なくてはならない人物でした。それだけに若くして亡くなったことが、残された伊藤博文らにとって重圧になったと思われます。
長州藩の動きを警戒(けいかい)した幕府は同年に再び長州征伐の兵を起こしましたが(これを第二次長州征伐といいます)、薩長同盟の影響でその動きは鈍(にぶ)く、やがて当時の将軍である徳川家茂(とくがわいえもち)が急死すると、征伐は中止になりました。
自己に逆らう長州藩を征伐できなかったことで幕府の威信(いしん)はさらに低下し、翌年(1867年)の大政奉還への流れとつながるのですが、その大きなきっかけとなったのが先述した薩長同盟であり、これを実現させたのは土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎らが中心でした。
ではなぜ土佐藩が幕末の歴史の表舞台に登場することになったのでしょうか。実は、この流れも関ヶ原の戦いが由来(ゆらい)となっているのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
黒田さんの過去記事を数件拝見させていただきました・・・が・・。どうも、いまひとつ
判りませんでした(^^A
土佐藩=長宗我部氏。
土佐藩に何か関が原の戦いで
特別な決まりごとでも
あったのでしょうか・・?
まあ、私が自力で答えまで辿り着けるまでは
3年くらい掛かってしまいそうなので
このへんで引っ込むことにします(苦笑)
応援でお
ぴーちさんへ
黒田裕樹 これは申し訳ないですm(_ _)m
次回(21日)から土佐藩に関する記事が始まりますので、そちらをご参照いただければ幸いです。
またぜひお越し下さい(^^♪
オバrev う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、関ヶ原の戦い由来となると、土佐というと地理的に言って多分西軍で参加したでしょうから、その後の待遇は当然悪い。
> 薩長と同じくその恨みからじゃあないですか?
なるほど、土佐は西軍に参加していた、ということですね。
そのこと自体は正解ですが、関ヶ原当時に土佐を支配していたのはどこの家か、ということがカギを握ると思いますよ(^^♪
明日(21日)の更新をお楽しみに!
黒田先生
風早 りら 坂本龍馬と中岡慎太郎
今や 大河ドラマで 大人気ですが
この時代は もっと スーパーヒーロー
だったんでしょうね
本物のカッコ良さを感じます
現代にも 早く 表れて欲しいですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 坂本龍馬と中岡慎太郎
> 今や 大河ドラマで 大人気ですが
> この時代は もっと スーパーヒーロー
> だったんでしょうね
> 本物のカッコ良さを感じます
> 現代にも 早く 表れて欲しいですね
そうですね。
国益のために動いた彼らのような本物のヒーローが現代に現れてほしいですし、もし現れれば、私たちは温かい目で応援したいと思います。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
今晩は
青田です。
よく、薩摩と長州が犬猿の仲と言われますが、
これは、八月十八日の政変からなのでしょうか。
というのも、八月十八日の政変の起こった原因として、
朝廷内の公家が長州派が大多数を占めていたことが、面白くない薩摩が、会津と組んで、起こしたことということは、それ以前から、薩摩と長州が
仲が悪かった気がします。
なぜ、仲が悪かったのか、いつから、仲が悪かったのか知りたいです。
というのも、共に、関ヶ原の負け組であり、西国の雄藩同士なら、もう少し、仲が良くても、おかしくない気がするからです。
しかも、
薩摩の西郷隆盛も、島津斉彬の下で、いろいろな藩の人間(水戸藩など)と交流がありました。
そして、西郷隆盛が島流しに合っている間に長州の桂小五郎が、いろいろな藩の人間と交流がありました。(水戸藩など)
当初、薩摩藩も攘夷論を持っていたのであれば、両者が朝廷内の権力争いを起こしたことがどうも
納得できません。
青田さんへ
黒田裕樹 薩摩藩と長州藩との仲が決定的に悪化したのは仰るとおり八月十八日の政変~禁門の変からの流れですが、両者の姿勢が「公武合体派で幕府を援けながら政治に実権を握る」「幕府を倒して新たな枠組みで政治の実権を握る」と真っ二つに分かれていましたから、犬猿の仲になるのは必至の情勢だったといえますね。
薩摩藩が武力倒幕に傾くのは西郷隆盛が藩内の実権を握ってからであり、この劇的な変化には薩英戦争の敗北における「攘夷が不可能」と悟ったことや、第一次長州征伐の成功による幕府の増徴など複雑な要件が絡み合っています。
従って、薩長同盟の流れが確定するまではそれぞれの藩が独自の動きを見せながら反目し合っていたことになりまね。