しかし、妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってからは、信長の人格が大きく変化していったと考えられるのです。例えば、浅井長政を滅ぼした後に、父の浅井久政(あざいひさまさ)や朝倉義景(あさくらよしかげ)とともにそのドクロを漆塗(うるしぬ)りにして金粉(きんぷん)をまぶした薄濃(はくだみ)にして、それらを肴(さかな)に酒を飲んだ、という記録が残っています。
先述の比叡山延暦寺の焼討ちや一向一揆に対する皆殺しも、結果的には仕方がなかったとはいえ、信長の「敵に対しては容赦(ようしゃ)なく牙(きば)をむく」考えの延長線上にあったことは否定できないでしょう。
こうした信長の姿勢は、自らを神としただけでなく、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著(けんちょ)に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西(ここんとうざい)の絶対的な権力者の誰しもが陥(おちい)りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長もはまってしまったのです。




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ぴーち こんばんは!
若い頃の信長の性格の話は
当然の如く、初めて伺いました。
若い頃は人を疑うことを知らずに
正義感の強い真っ直ぐな性格だったのですね。
信頼していた者からの裏切りで
人を信頼できなくなってしまったのですね。
「可愛さ余って、憎さ百倍」
余りに純粋過ぎたり、感受性が強すぎたり
する性格は、正常な人間関係が築かれている
うちはよいでしょうけれど、何かの拍子に
捻じ曲げられた時は、その勢いも
きっと凄まじいエネルギーで相手を攻撃する刃と化すのでしょうね。
良くはわかりませんが、確かに世の独裁者と呼ばれている人たちの
性格は何処か頑なであり、ストイックでも
あるように感じます。何かの恨みを晴らすかの様にも感じます。
応援凸
黒田先生
風早 りら 「 妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってから 」
人は自分の信用した人からの裏切りは
悲しいものです
それが 憎しみへとなり
その後誰のことも信用出来なくなったのでしょう
残念です
ぴーちさんへ
黒田裕樹 信長は天才であるがゆえに、感受性も人一倍強かったのでしょうね。
だからこそ「信じていた者に対する裏切り」に対するショックは大きく、仰るとおり凄まじいエネルギーと化したと思われます。
このあたり、確かに世の独裁者と同じ匂いがしますね。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 妹の婿で絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってから 」
> 人は自分の信用した人からの裏切りは
> 悲しいものです
> それが 憎しみへとなり
> その後誰のことも信用出来なくなったのでしょう
> 残念です
確かに仰るとおりですね。
裏切りはいつの世も悲しいものです。
だからこそ、人間は信頼に応えなくてはなりません。
松永久秀
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、織田信長の家臣の甘さとして、
驚くべきことは、松永久秀にたいする、扱いです。
松永久秀は、3度信長を裏切り、3度目も
織田信長は
『平蜘蛛』の茶釜を差し出せば、命を助けると
まで言いました。(結局、久秀は、茶釜を砕いて、爆死しましたが)
松永久秀と言えば
◆ 足利義輝を殺害する。
◆ 奈良の大仏を焼き払う。
などの、当時の倫理観からしても、かなり、
ヤバイ人物です。織田信長は
そういう過去のある松永久秀を家臣にし、しかも
裏切りも許しています。
これは、私の想像ですが、織田信長は、心の底では、人を信じたかったのではないでしょうか。
だからこそ、明智光秀が、まさか、裏切るとは
思わず、自分の遊軍として、手元に置いていたと
思います。
(やはり、毛利元就と比べると、人間にたいして、甘いですね。)
青田さんへ
黒田裕樹 松永久秀の場合は、信長の優しさとともに天下に名高い茶器を求めたという背景がありそうですね。
いずれにせよ、青田さんには何度も同じことの繰り返しになりますが、信長の甘さだと思います。
その中の一人に、重臣の明智光秀がいました。皇室などの旧来の権威や秩序を重視していたとされる光秀にとっては、自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度に、心の中で次第に反感が高まっていました。
そして、そんな光秀の不満が一気に爆発する日がやってきました。きっかけとなったのは信長による四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)攻めでした。信長は元親と当初は同盟を結んでいたのですが、元親が四国統一を実現しようとすると次第に反目(はんもく)するようになり、1582年には信長の子の織田信孝(おだのぶたか)に元親を滅ぼすべく出陣させようとしました。
しかし、信長と元親との間を取り持ったのは他ならぬ光秀であり、しかも光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁(とつ)いで、その間に跡継(あとつ)ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。こうした背景もあって、信長の四国攻めによって立場を失った光秀は絶望し、それまで自分の心に抱えていた爆弾(ばくだん)に火がついて、信長を本能寺の変で滅ぼしたのです。時に1582年旧暦6月1日の深夜であり、信長は波乱に満ちた49歳の生涯を閉じたのでした。




いつも有難うございます。
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mochimochi 本当に人間の思惑って複雑ですね~。
改めた考えさせられます。。。
話は変わりますが、このサイトはとても勉強になります。
ありがとうございます。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 本当に人間の思惑って複雑ですね~。
> 改めた考えさせられます。。。
そうですよね。いろんな人間の思惑が重なりあうところに社会が存在し、思惑によって人間の一生が左右されてしまう…。考えてみれば恐ろしくもありますね。
> 話は変わりますが、このサイトはとても勉強になります。
> ありがとうございます。
こちらこそ、お褒めのお言葉有難うございます。
これからもぜひご覧下さい。
黒田裕樹さん
風早 りら 佐久間信盛や林通勝を突然追放した件は
私も納得がいきません
この頃から 信長は かなり変わっていったと思います
誰のことも 信じることが 出来ず
可愛そうな気さえします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 佐久間信盛や林通勝を突然追放した件は
> 私も納得がいきません
> この頃から 信長は かなり変わっていったと思います
> 誰のことも 信じることが 出来ず
> 可愛そうな気さえします
「独裁者ほど孤独な人間はいない」とよく言われますが、信長もその一人だったのでしょうね。
裏切られた無念がやがて人間不信となり、誰も信じられなくなっていく。
権威を高めるために自らを神格化したことが、彼の孤独に拍車をかけてしまったのでしょう。
確かに哀れではあります。
ぴーち こんばんは!
残らず殺害する・・
そういう手法は、イランのフセイン政権やら、
中国なども日本では覚せい剤所持くらいの違法では数年刑期を終えたら、出所出来てしまうものを、中国では死刑に処されてしまう程、厳しいもがあるので、日本よりも中国のほうが国民感情は
爆発すれば規模が大きいように思います。
(ましてや、人口も多いですし)
独裁政治特有の末路を信長も辿ってしまったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 残らず殺害する・・
> そういう手法は、イラクのフセイン政権やら、
> 中国なども日本では覚せい剤所持くらいの違法では数年刑期を終えたら、出所出来てしまうものを、中国では死刑に処されてしまう程、厳しいもがあるので、日本よりも中国のほうが国民感情は
> 爆発すれば規模が大きいように思います。
> (ましてや、人口も多いですし)
> 独裁政治特有の末路を信長も辿ってしまったのですね。
そうですね。無理が通れば道理が引っ込む。
残らず殺害するという無茶を繰り返すという独裁者特有の感情が、彼の人生の幕を引いてしまったとも考えられます。
もっとも、これは世界各国の独裁者に共通して言えることですね。
現代の我が国に独裁者はいるのでしょうか…。
バテレン?
日の本の子 いつもご教授ありがとうございます。
質問ですが、光秀が焼き打ちするのにバテレンが
加担していたという話を何かで読んだんですが如何でしょうか?当時、焼け跡に骨も残らないのは焼夷弾が
使用されたとありました。この頃から信長にも日本侵略を企む手が伸びていたのでしょうか?
日の本の子さんへ
黒田裕樹 > いつもご教授ありがとうございます。
> 質問ですが、光秀が焼き打ちするのにバテレンが
> 加担していたという話を何かで読んだんですが如何でしょうか?当時、焼け跡に骨も残らないのは焼夷弾が
> 使用されたとありました。この頃から信長にも日本侵略を企む手が伸びていたのでしょうか?
こちらこそ、いつもご訪問下さって有難うございます。
本能寺の変には様々な説があり、仰るようなカトリックの宣教師がからんでいたというのもありますね。
ただ、私は以前の歴史講座(第4回)でも取り上げたように、光秀の単独行為と考えております。
焼け跡に骨も残らなかった理由については、本能寺の地下には火薬庫があり、信長がそこに火をつけたために木っ端みじんになってしまったのではないかという説があります。鉄砲伝来の際に中継者となった種子島氏と本能寺には法華宗という共通事項があり、そこからのつながりではないかと考えられています。