後に同じような悩(なや)みを抱(かか)えることになった豊臣秀吉や徳川家康は、関白(かんぱく)や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで朝廷の後ろ盾を利用しましたが、信長は既存の権威におもねることなく、破天荒(はてんこう、誰もが成し得なかったことをすること。「豪快で大胆な様子」という意味は間違いです)なことを思いつきました。
それは自分自身が「神」となって人々の信仰の対象となることで、既存の権威を打ち破ろうとしたことです。それまでの我が国では、菅原道真(すがわらのみちざね)のように死後に神として祀(まつ)られることはあっても、生前に「自らを神として祀れ」と宣言したのは信長が初めてでした。
「信長=神」という図式は、初めてお聞きの皆様には耳を疑う話かもしれませんが、実は間接的な証拠(しょうこ)があります。それは信長によって建てられた、前代未聞(ぜんだいみもん)の構造(こうぞう)で知られる安土城(あづちじょう)です。




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ぴーち こんばんは!
信長=神宣言までしたのですか!(@@
へえーへえーへえーへえー・・・(ちょっと懐かしい事をいってしまいました^^;)
破天荒というイメージはありましたが、
そこまで大胆だったとは思いませんでした^^;
まあ、今の時代も宗教を笠に「自分は神」だと
平然と宣言している方もいらっしゃいますが
信長の時代は、斬新なアイディア?だったのかも知れませんね(汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 信長=神宣言までしたのですか!(@@
> へえーへえーへえーへえー・・・(ちょっと懐かしい事をいってしまいました^^;)
これはまた懐かしいですね(^^ゞ
20へぇーまでいくのは至難の業でしたが(笑)。
> 破天荒というイメージはありましたが、
> そこまで大胆だったとは思いませんでした^^;
> まあ、今の時代も宗教を笠に「自分は神」だと
> 平然と宣言している方もいらっしゃいますが
> 信長の時代は、斬新なアイディア?だったのかも知れませんね(汗)
自らの権威を高めるためにはやむを得ない手段だったと思われますが、どれにしても誰もが思いつかないことですからね。
次回(8日)でその証拠を探っていきたいと思います。
:黒田裕樹さん
風早 りら 信長ファンの私が 唯一 彼への不満は
自分を神格化しようとしたことです
安土城の天守閣に それを 示しているはずです
明日 楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長ファンの私が 唯一 彼への不満は
> 自分を神格化しようとしたことです
> 安土城の天守閣に それを 示しているはずです
> 明日 楽しみにしています
権威付けのためには仕方がなかったとはいえ、自らを神と称する手法には疑問や不満を感じるのは無理もないと思われます。
次回(8日)の更新でその目的や理由、そして効果を明らかにしたいですね。
歴史のif
青田です。 こんばんは
黒田先生
青田です。
信長=神
の図式は、知っていましたが、
信長が正親町天皇にたいして、軍事パレードをした後、
朝廷が信長への懐柔策として、安土城に使者を
送り、『関白、右大臣、征夷大将軍のどれでも
好きな官位を与える』という使者を信長は、追い返しましたが、
もし、信長が、全部の官職を得ていたとしたら、
どうなっていたでしょうね。
破天荒な信長なら、有り得た気がします。
そうなると、信長亡き後の織田信忠への政権交代も円滑だったし、
天皇を超える権威者にならなければ、明智光秀も
朝廷との交渉役として重宝され、本能寺の変もなかったように思います。
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 信長が朝廷の懐柔策に一切従わなかったのは、いずれの地位にしても「朝廷に選ばれた」という存在でしかなかったからだと思います。
自分が神であるということは、天皇ですら自分をコントロールできないということでもありました。正親町天皇の御前での軍事パレードは典型的なデモだったのでしょう。
おそらくは自分を「生き神」として崇拝させ、信忠はその子として存在させることで織田家の天下を維持しようという腹積もりだったと思われます。
そして、皇室を崇拝していたと思われる光秀にはそれが許せなかったのではないでしょうか。
安土城の天守閣(てんしゅかく)は、他の城とは違って「天主」と呼ばれていました。これは当時のキリスト教の別名であった「天主教」にもつながり、天主に存在する信長は神の生まれ変わりであると考えることもできます。
また、信長が完成した安土城に入城するのは1579年の旧暦5月11日ですが、この日は信長の誕生日であると考えられており(12日説もあります)、誕生日を祝して入城するという姿勢は、イエス=キリスト生誕の日であるクリスマス(12月25日)を祝う習慣ともつながっています。
さらに、安土城の上層(じょうそう)には釈迦如来(しゃかにょらい)の図が描かれていたと伝えられており、その上の「天主」に存在する信長こそが、あらゆる仏や神を超えるものとして信仰の対象にしたとも考えられているのです。




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サクラ 確か安土城内には寺院があって、そこに信長自身を祀らせたという話を聞いたことがあります。
何でも、信長の誕生日には地元民を参拝させたとか。
こういう信仰で、はたして信長に権威がついたものでしょうか?
むしろ新興宗教と同じですから、多くの人に嫌がられたのではないかと思いますが。
フロイスもキリスト教的立場から嫌悪感を示していますし。
ぴーち こんばんは!
安土城は、和洋折衷様式だったのですか。
神や仏を一緒くたに祭っていたのですね。
なるほど。。。
いっその事、どちらか一つに統一した
方が救われたかも知れません。
どうしても二大勢力同士、一つの城の中で対立、喧嘩の元になりますからね。
消失した原因の一因はそこにもあったのかも
知れませんね(^^A
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 確か安土城内には寺院があって、そこに信長自身を祀らせたという話を聞いたことがあります。
> 何でも、信長の誕生日には地元民を参拝させたとか。
> こういう信仰で、はたして信長に権威がついたものでしょうか?
> むしろ新興宗教と同じですから、多くの人に嫌がられたのではないかと思いますが。
> フロイスもキリスト教的立場から嫌悪感を示していますし。
そうですね。今まで誰もが経験したことがないですから反発も強そうですが、「生き神様」のその後の流れを作ったという貢献は大きいですね。その恩恵(?)にあすかった人間がすぐに現れますし(笑)。
フロイスの場合は同じ「一神教」の立場として同類を認めることができなかったゆえに、過剰に反応した可能性があると思いますよ。
mochimochi ”自分を神として祭らせた”というエピソードは初めて知りました。
特殊な新興宗教ですね。
この方法以外無かったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 安土城は、和洋折衷様式だったのですか。
> 神や仏を一緒くたに祭っていたのですね。
> なるほど。。。
> いっその事、どちらか一つに統一した
> 方が救われたかも知れません。
> どうしても二大勢力同士、一つの城の中で対立、喧嘩の元になりますからね。
> 消失した原因の一因はそこにもあったのかも
> 知れませんね(^^A
そうですね。「神や仏を超える」という意味で安土城内に置いてあったのでしょうが、違う種類の御守を一緒くたにしたように、確かに喧嘩したのかもしれませんね(^^ゞ
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > ”自分を神として祭らせた”というエピソードは初めて知りました。
> 特殊な新興宗教ですね。
> この方法以外無かったのでしょうか?
既存の権威が当てにできない以上は、これ以外に方法がなかったのかもしれませんね。
もっとも彼が開拓者になったことで、この後すぐに「生き神様」が現れて、こちらは定着するようになるのが我が国らしいところだとも言えます。
黒田裕樹さん
風早 りら 「仏や神を超えるものとして信仰の対象 」
やはりこの部分に対しては
信長の考えに抵抗を感じざるをえません
ただ この発掘調査や復元図などでその全容が明ら
かになってきているなら 天守閣の復元を切に 望みます
そういった事に税金を使うことには
異論はありません
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「仏や神を超えるものとして信仰の対象」
> やはりこの部分に対しては
> 信長の考えに抵抗を感じざるをえません
一般の人間が嫌悪感を抱くのは無理もありません。
ただ、已むに已まれぬ事情も考慮出来るのも一つの考えだとは思います。
> ただ この発掘調査や復元図などでその全容が明ら
> かになってきているなら 天守閣の復元を切に 望みます
> そういった事に税金を使うことには
> 異論はありません
そうですよね。
一律に税金の無駄遣いと決めつけるのではなく、いわゆる「生き金」はどんどん使うべきでしょう。
安土城
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、安土に城を築くということにたいして
地理的な要衝に目をつけたことに驚きます。
京都まで、半日で行ける。
北陸道・山陰道・東海道に通じている。
どこを押さえるのがイイかを考える力では
信長は、天才ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、交通の要所である安土に目を付けた信長の発想は素晴らしいと思います。
しかし、安土には致命的な欠陥がありました。
それは「海に面していない」ということです。
将来、南蛮貿易などで利益を上げようと思えば海に面した城でなければ役に立ちません。
ではどこに城を築けばよいのでしょうか?
その答えは秀吉によって受け継がれていますね。
皆さんは、徳川家康が現在どこで眠っているかご存知でしょうか。もちろん栃木県日光市(とちぎけんにっこうし)にある日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)ですね。東照宮において家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られているのですが、これは、家康が死の直前に「自分を日光に権現として祀るように」と遺言(ゆいごん)したのがそもそもの由来(ゆらい)です。
つまり、東照大権現として祀られるのは家康自身の意思によるものなのです。しかも、権現とは神の化身(けしん、仮の姿という意味)という意味ですから、まさに家康を現人神(あらひとがみ)、すなわち「生き神様」として祀っていることになります。
信長が「自分を神として祀る」ことは確かに破天荒なことでしたが、これがきっかけとなって、家康が同じように「権現様」と祀られても何の違和感(いわかん)もなかったことが、信長の考えが結果として人々に受けいれられた間接的な証拠とはならないでしょうか。
ところで、既存の権威を超えるために「自らが神になる」と宣言した信長でしたが、絶対的な権力を持つ為政者(いせいしゃ、政治を実行する者のこと)が自らを神格化することは、同時に「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的(どくさいてき)で危険な思想を持つことにもつながっていました。そして、その考えの末(すえ)に待っていたのが本能寺の変だったのです。




いつも有難うございます。
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mochimochi 信長のアイデアがベースになっていたのですね。
家康の神の化身のことも初耳です。
ただ、前にテレビで家康は死後も江戸を守るために江戸の方向を見る角度で葬られたと聞いたことあります。
その時は単純に”あぁ、すごいな”と思っただけでしたが。。。
信長の遺言ってどんな物だったのでしょう?
やっぱり日本の繁栄を願ったのでしょうかね?無念な死に方でしたけど。。。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 信長のアイデアがベースになっていたのですね。
> 家康の神の化身のことも初耳です。
> ただ、前にテレビで家康は死後も江戸を守るために江戸の方向を見る角度で葬られたと聞いたことあります。
> その時は単純に”あぁ、すごいな”と思っただけでしたが。。。
家康の考えは、実は深いところにあったんですね。生き神として江戸を見続けるという発想は、信長の考えを引き継がなければそう簡単には思いつかないことでしょう。
> 信長の遺言ってどんな物だったのでしょう?
> やっぱり日本の繁栄を願ったのでしょうかね?無念な死に方でしたけど。。。
史実によれば、光秀に襲われた際に「是非に及ばず」と言っているようですね。
様々な解釈がなされているようですが、一般的には「事ここに至ってはどうしようもない」という意味ではないかと考えられているようです。
ぴーち こんばんは!
現人神と言えば、昭和天皇も戦時中はそう崇められた一人でもありましたね。
しかし、独裁者というのは、いつの世もどの国にも出現するのですね^^;
応援凸
なおまゆ こちらでもブログをしてらしたんですね。
seesaaで読ませてもらってましたが、私もこちらに引っ越して参りました。あひるの代理人です。
こちらでは少し違ったアプローチで歴史を見ようと思ってます。
相変わらず冴えた視点と文章で嬉しくなります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現人神と言えば、昭和天皇も戦時中はそう崇められた一人でもありましたね。
> しかし、独裁者というのは、いつの世もどの国にも出現するのですね^^;
仰るとおりで、独裁者というのはいつの世にも存在します。21世紀の東アジアの島国にも「38人」いるかもしれませんが(^^ゞ
昭和天皇については祭り上げられたことが果たして本当に良かったのか、見解が分かれるところですね。
私の講座でも検討してみたいです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > こちらでもブログをしてらしたんですね。
> seesaaで読ませてもらってましたが、私もこちらに引っ越して参りました。あひるの代理人です。
> こちらでは少し違ったアプローチで歴史を見ようと思ってます。
> 相変わらず冴えた視点と文章で嬉しくなります。
お久しぶりです。同じFC2同士で、今まで以上にブログ上での交流ができることを嬉しく思います。
なおまゆさんの歴史観も、大いに参考にさせていただきたいですね。
黒田先生
風早 りら 「 東照大権現として祀られる家康 」
やはり それには 抵抗があります
いよいよ 「 本能寺の変 」
信長が 「 是非に及ばず 」
と言ったのは 真実か 知りたいです
最後 能を舞ったとかも言われてますが
詳しく 是非 最後の 話 お聞きしたいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「 東照大権現として祀られる家康 」
> やはり それには 抵抗があります
> いよいよ 「 本能寺の変 」
> 信長が 「 是非に及ばず 」
> と言ったのは 真実か 知りたいです
> 最後 能を舞ったとかも言われてますが
> 詳しく 是非 最後の 話 お聞きしたいです
残念ながら、今回は本能寺の変そのものを紹介することはないんですよ。
申し訳ないです。
ただ、本能寺の変に至るいきさつは非常に重要だと思いますので、ぜひご覧いただければと思います。
家康の権現様は、天下を取った分長く続いて、しっかり定着してしまっていますね。