現代における宗教に対する印象といえば、特に仏教に関しては「お坊さんが有難いお経(きょう)を読む」という平和なイメージしかありませんが、これが定着したのは江戸時代(えどじだい)以降のことであり、それ以前、特に戦国の世では自分の身を守るためにそれぞれの宗教勢力が僧兵(そうへい)などの武力を持っていました。
特に京都などの有力な布教地(ふきょうち)においては、要所ごとに関所を置いて通行税を徴収(ちょうしゅう)したり、あるいは座(ざ)を設けて商売を許可するために税金を集めたりすることによって莫大(ばくだい)な権益(けんえき)が存在したため、宗教同士の勢力争いによって、血で血を洗う戦いが繰(く)り広げられました。
これらの権益を維持するために各宗教勢力は軍事力を強化しましたが、軍事力の強化は多額の資金力を必要とするため、布教地に対する税を増やして利益を上げれば、今度はその権益を守るために武力を強化する―。この繰り返しによって、いつのまにか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体と化してしまったのです。
こうした宗教勢力同士の争いで泣かされ続けたのは、家を焼かれたりして生命の危険にさらされた無数の庶民(しょみん)でした。彼らは、もはや人々の暮(く)らしに大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいと切望(せつぼう)するようになりました。




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サクラ どんな伝統宗教にも、現在のカルトのような、うんざりさせられる時期ってあったりしますよね。
特に名僧の人生を見てみると、怖いと思うほど他宗教の批判やぶつかり合いが激しいですし。
特にこの時代の仏教は、ネガティヴなイメージが大きいです。
サクラさんへ
黒田裕樹 > どんな伝統宗教にも、現在のカルトのような、うんざりさせられる時期ってあったりしますよね。
> 特に名僧の人生を見てみると、怖いと思うほど他宗教の批判やぶつかり合いが激しいですし。
> 特にこの時代の仏教は、ネガティヴなイメージが大きいです。
宗教の宿命ともいえる他派への排他的な性質と、権益とが重なったことで、この当時の宗教には仰るとおりネガティヴなイメージが定着してしまっていますね。
そして、そのイメージは今後の信長との争いを通じて見れば、残念ながら本当のことであると言わざるを得ないようです。
ぴーち こんばんは!
よく人間の煩悩である「三毒」という要素に
「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」というのがありますが(私、実際には漢字では書けそうにありませんがw)
三毒が元々備わっている人間が宗教という
馬の手綱を取れば、自分の思い通りに采配してみたい。宗教という名前を借りてお金儲けが出来るのではないか。。などいう欲が絡み、結局、最初は人々を救済したい。人々の悪しき行いを正していきたいという純然たる思いが失われてしまい、横道へ馬車は逸れていってしまうんでしょうね。
結局それらの欲にまみれずに、最後まで最初の思いが脈々と受け継がれてきた宗教こそが、今の私たちを救うことが出来る唯一無二の存在になってくれそうな気がします。それを見つけられた人間こそが次世代を担っていく使命を与えられるのでしょうが・・さて。
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら 信長が 宗教を武力で 弾圧したように
言われることが 多いようですが
今日のお話を聞くと
信長も武力で 対抗するしかなかったのだと
思います
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時の宗教勢力は人間の救済よりも仰るような三毒にまみれてしまっていたのかもしれませんね。
乱世であればあるほど人々は宗教へと走りますから、その需要が仇になったとも言えます。
それにしても、ここまで毒が回ると元に戻すのは至難の業ですよね。
果たして信長はどのような手段で…おっと、先走り過ぎましたね(^^ゞ
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長が 宗教を武力で 弾圧したように
> 言われることが 多いようですが
> 今日のお話を聞くと
> 信長も武力で 対抗するしかなかったのだと
> 思います
仰るとおりですね。
この後の信長と宗教勢力との戦いは、今一度この講座で紹介することになりますので、またぜひご覧ください。
この当時の戦国大名の兵力の大半は、実は地元の農民兵でした。彼らは家族を故郷に人質同然に残していることもあって、命がけで戦ったために強かったのですが、初夏や初秋のような農繁期(のうはんき)には農作業に専念させる必要があったために、農民兵には「一年中戦うことができない」という大きな弱点がありました。
上洛を目指そうとすれは、必然的に長期間兵力を温存しなければいけませんが、農民兵が主体ではそれが不可能でした。しかし、資金力を利用して兵を雇(やと)えば一年中戦えるため、長期間にわたる兵力の温存が可能となるのです。現実に宗教勢力は布教地である都市を中心に常に武力を蓄(たくわ)えていました。
これを見た信長は「資金力さえあれば兵を常駐(じょうちゅう)できる」ことに気が付いて、他の大名よりもいち早く兵農分離に成功しました。しかし、兵力を維持するための膨大(ぼうだい)な資金力を確保するにはどうすればいいのでしょうか。ここで信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想を思いついたのです。




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ぴーち こんばんは!
2つ目の逆の発想ですか・・
何でしょう・・
思いつきませんでした(^^A
明日の答えを楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 2つ目の逆の発想ですか・・
> 何でしょう・・
> 思いつきませんでした(^^A
> 明日の答えを楽しみにしています^^
そうでしたか(^^ゞ
ではヒントをひとつ。
逆の発想ということは、宗教勢力が行ったことと反対のことをするということですよね。
彼らががんじがらめの規制をかけているとすれば、信長は…ということです(^^♪
また明日(5日)のお越しをお待ちしております!
黒田裕樹さん
風早 りら 「信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想」
かなり 考えてみまたが思い浮かびません
明日のお答 楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「信長は二つ目として、宗教勢力とは逆の発想」
> かなり 考えてみまたが思い浮かびません
> 明日のお答 楽しみにしています
はい、明日(5日)にはお答えいたします。
「逆の発想」。後から聞けば「そんなことか」と思えますが、実際に思い付くのはそう簡単ではありません。
天才の信長ならではだと思います。
このような流れがあって、信長が支配した領地内においては楽市・楽座が行われるようになりました。商業が盛んになる町は自然と経済力が高まりますので、宗教勢力に比べて大幅(おおはば)な減税を行っても、逆に信長の領地における収入が増えるという結果をもたらしました。
しかし、信長の政策はそれまでの権益の恩恵を受けていた宗教勢力にとっては大きな迷惑であり、上洛した信長が自己の武力を背景に宗教勢力に対して権益の放棄(ほうき)と武装解除(ぶそうかいじょ)を迫(せま)ってもこれに反対し、信長が妹の婿(むこ)である浅井長政(あざいながまさ)の裏切りによって危機に陥(おちい)った際などに、信長を滅(ほろ)ぼそうと画策(かくさく)しました。
生命を狙われて激怒した信長は、自衛の意味も込めて比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼討(やきう)ちし、また一向一揆(いっこういっき)の勢力を、女子供に至るまで皆殺(みなごろ)しとしたのです。




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mochimochi 自分にとっても庶民にとっても良いことを明確に知っていたから大胆なことができたのですね。
今の政治家もそうであってほしいです。
ぴーち こんばんは!
人が集まれば、確かに経済力が高まり
収益が上がる事は確かです。
宗教勢力からすれば、信長は目の上のタンコブ。
言わば、「商売仇」として当然の如く憎まれてしまったんですね。
金という欲に駆られた人間は相手の命をも
奪い去る狂気を秘めているものですが、
その狂気のどんな小さな芽も摘み取って
しまおうと信長は考えたのですね。
情けを掛けた
途端、自分の命を奪おうとする人間に
一生狙われることを恐れたのかもしれませんね。
応援凸
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 自分にとっても庶民にとっても良いことを明確に知っていたから大胆なことができたのですね。
> 今の政治家もそうであってほしいです。
私もそう思います。
庶民が困っていること、あるいは望んでいるものを瞬時に理解できる為政者が人気が高いのは当然ですからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつの世も商売敵は狙われますからね。
信長の場合も、(武力で脅しているとはいえ)当初は話し合いで解決しようとしたのに、先に手を出されてかつ生命まで奪われようとしたのですから、怒って当然ですよね。
そして、相手の生命を奪うのであれば、報復させないためにも皆殺しにするという方法も、当時の状況からすれば理解できなくもないです。
このあたりは、次回(6日)の更新で明らかにしたいと思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 比叡山延暦寺の信長の武力行使
非難されることも多いので
先生のように それまでの 経緯を
こうして 詳細に 分かりやすく
説明して下さる方がいらして嬉しいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 比叡山延暦寺の信長の武力行使
> 非難されることも多いので
> 先生のように それまでの 経緯を
> こうして 詳細に 分かりやすく
> 説明して下さる方がいらして嬉しいです
有難うございます。
延暦寺の焼き討ちなどの信長の虐殺行為の真実については、次回(6日)の更新で改めて説明させていただきます。
私たちが気づいていない一つの「幸福」にも触れるつもりですのでご期待下さい!
楽市楽座
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は中学の時、
『なぜ、楽市楽座で、減税をしたら、経済力が大きく』なるのか、不思議でした。
というのも、普通の大名の発想なら、領民・商人に重い税金を取るほうが、税収があがると考えたからです。
ただ、黒田先生の講座を受けて、わかったのですが、減税をしても、人口が増えれば、税収が増えるのですね。
大阪のH市長が『平成の織田信長』として、
関西を経済特区にし、平成の楽市楽座を
関西に創ってくれるとイイですね。
というのも、今の日本は
◆ 世界一法人税が高い国。
◆ 消費税も上がる。
(生活必需品にも同率で)
ですから、今の日本の政府は、織田信長時代の宗教勢力を彷彿させます。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るような市長が実現するかどうかはともかく、景気回復の施策として信長ほど優れた教材はないでしょうね。
ただ、信長と同じように抵抗勢力の壁は厚いかもしれませんが…。
さて、信長による宗教勢力への反撃は、それまでの「神様や仏様に逆らえばバチが当たる」という考えを打ち破るものでもあったために、現代も含めて余計に他人から曲解(きょっかい)される傾向にあるようですが、私たちがさらに誤解していることがあります。実は、信長は宗教そのものを決して弾圧(だんあつ)していないのです。
現実問題として、信長は比叡山延暦寺の焼討ち後に天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していませんし、また一向宗(いっこうしゅう)が1580年に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を退去した後にも、今後の布教は自由であると認めています。要するに、信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入(かいにゅう)しようとした宗教勢力の解体だったのでした。
信長が宗教と政治とのかかわりを徹底的に否定したことによって、現代に生きる私たちは政教分離(せいきょうぶんり)が当然の世の中で暮らすことができるだけでなく、他国のような原理主義者による自爆テロリストも我が国には存在しません。私たちは信長から素晴らしい「贈り物」をプレゼントされているのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入しようとした宗教勢力の解体だったのでした」
「政教分離」
「信長から素晴らしい「贈り物」
私が常よりの考えです
大きな 拍手 先生に贈りたいです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「信長が行ったのは武力や資金力によって巨大な権益を持っていたのみならず、我が国の政治に介入しようとした宗教勢力の解体だったのでした」
> 「政教分離」
> 「信長から素晴らしい「贈り物」
> 私が常よりの考えです
> 大きな 拍手 先生に贈りたいです
お考えが一致したのは私もうれしい限りです。
信長の功績は計り知れないですね。
紗那 信長が宗教そのものを弾圧しなかった証拠に、キリスト教を受け入れているというのもあるのですよね。まぁ、貿易とかを狙ったとも思えるのですが
でも、思ってたよりも信長は寛容だったのですね!
紗那さんへ
黒田裕樹 > 信長が宗教そのものを弾圧しなかった証拠に、キリスト教を受け入れているというのもあるのですよね。まぁ、貿易とかを狙ったとも思えるのですが
仰るとおりですね。
キリスト教(=カトリック)は信長の生存中は我が国に対して牙をむくことがなかった、つまり政治に介入することがなかったので信長は認めていました。カトリックの野望が表沙汰になるのは秀吉の時代からです。
> でも、思ってたよりも信長は寛容だったのですね!
これも皆さんが誤解していることですね。ある事件が起きるまでは、信長は実は非常に寛容な武将だったんですよ。それが事件をきっかけに性格が変わり、さらにあることが引き金となって…おっと、先走ってはいけませんね(^^ゞ
mochimochi 現代の人も信長から学べることはたくさんあると思います。
当時の家臣達は彼から色々学んだのでしょうか?
それとも、信長が余りにも卓越してたために引いてしまったのでしょうか?
家臣の中で一番彼から学んだ人は誰ですか?
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 現代の人も信長から学べることはたくさんあると思います。
私もそう思います。
国民の安全を保障するとともに経済力を高める、そして我が国の平和に逆らう勢力は有無を言わさず処断する…。現代の政治家にも見習ってほしいですよね。
> 当時の家臣達は彼から色々学んだのでしょうか?
> それとも、信長が余りにも卓越してたために引いてしまったのでしょうか?
> 家臣の中で一番彼から学んだ人は誰ですか?
結果的に一番学んだのは秀吉で、信長と秀吉の両者から学んだのが家康といえるでしょう。
家康と信長との関係については講座の後半で紹介することになると思います。
ぴーち こんばんは!
本日、自分のPCが不調の為、娘の不慣れなPCを使用中にて、お返事が出来ずに申し訳ありません。
明日中に回復出来れば、良いのですが^^;
今日はこれにて失礼させていただきます。応援は済みです♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 本日、自分のPCが不調の為、娘の不慣れなPCを使用中にて、お返事が出来ずに申し訳ありません。
> 明日中に回復出来れば、良いのですが^^;
> 今日はこれにて失礼させていただきます。応援は済みです♪
わざわざ有難うございます。
PCのご回復、私も祈っておりますm(_ _)m
オバrev 歴史を一断面で断定すると大きな誤解を招きますね。
一つの決断には、さらにそこに至る歴史があり、また時代背景があるんだということがよく分かります。
信長が政教分離できてなかったら、秀吉や家康でもできなかったんじゃないでしょうか。
それにしても、日本人離れした天才だと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 歴史を一断面で断定すると大きな誤解を招きますね。
> 一つの決断には、さらにそこに至る歴史があり、また時代背景があるんだということがよく分かります。
全くもってそのとおりです。
いつもの繰り返しになりますが、歴史を理解するには大きな流れでとらえることが不可欠ですからね。
どこかの政治家のような「どちらかが一方的に加害者だ!」という見方はあり得ないのです。
> 信長が政教分離できてなかったら、秀吉や家康でもできなかったんじゃないでしょうか。
> それにしても、日本人離れした天才だと思います。
天才の信長だからこそ成し得たことであり、秀吉や家康が独自にはできなかったでしょう。
そうなると、我が国と宗教とのかかわりがどう変化していったか分かりませんね。