新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が草薙の剣(くさなぎのつるぎ)でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承(でんしょう)から地名が付いたり、あるいは足利氏(あしかがし)や新田氏(にったし)のように、地名を自分の苗字(みょうじ)にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。そして、新たに名づけられた岐阜の地には、将来に向けての実験ともいえる数々の工夫がなされていったのです。




いつも有難うございます。
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サクラ 確かに、日本で支配者が地名を変えるってのは聞きませんね。
私は、信長には一定の常識が欠けていたんだと思います。
勿論それは悪く思われたりもしますが、私は、信長の欠け具合は良い欠け方だったと思いますよ。
信長の目からすれば、「こうすればよくなるのに、何故誰もやらないのか」という事が多かったんじゃないでしょうか。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 確かに、日本で支配者が地名を変えるってのは聞きませんね。
> 私は、信長には一定の常識が欠けていたんだと思います。
> 勿論それは悪く思われたりもしますが、私は、信長の欠け具合は良い欠け方だったと思いますよ。
> 信長の目からすれば、「こうすればよくなるのに、何故誰もやらないのか」という事が多かったんじゃないでしょうか。
世の中を新しくするには、仰るとおり良い意味での欠陥が必要なのかもしれませんね。
誰にも思いつかないことを実行するということは、裏を返せば一般常識に問題があるということでもありますから。
「コロンブスの卵」は常識を超えたところに存在するのでしょうね。
黒田裕樹さん
風早 りら 地名井ノ口を岐阜と改めたのですね
地名改名は信長が最初でしたか
知りませんでした
天下布武
乱暴のように聞こえる この言葉
当時は手段は それしかありせん
彼の「天下布武」成し遂げて
欲しかったです
ぴーち こんばんは!
岐阜の岐には「本道から枝分かれする道」
或いは「いき方が幾重にも分かれる」
という意味合いがありますが、将来へ向けての
幾重にも広がる工夫という意味をこの字に
込めたのでしょうか・・。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 地名井ノ口を岐阜と改めたのですね
> 地名改名は信長が最初でしたか
> 知りませんでした
自分の力で改名したのは信長が初めてです。
他の国と同じように権力者の力を誇示するのもあったでしょうが、自分の力で新しい世の中をつくるという意気込みも感じられますね。
> 天下布武
> 乱暴のように聞こえる この言葉
> 当時は手段は それしかありせん
> 彼の「天下布武」成し遂げて
> 欲しかったです
仰るとおり、戦国時代を終わらせるには武力で天下を統一する以外に方法がないですからね。
残念なのは、彼の手で成し遂げることができなかったことです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 岐阜の岐には「本道から枝分かれする道」
> 或いは「いき方が幾重にも分かれる」
> という意味合いがありますが、将来へ向けての
> 幾重にも広がる工夫という意味をこの字に
> 込めたのでしょうか・・。
岐阜の地名の由来には様々な説がありますが、仰るような意味のほかに、古代中国の周の文王が岐山より起こったという伝説から採ったとも考えられています。
いずれにせよ、信長らしい斬新な考えですね。そして、新たに名付けた岐阜の地で、信長は将来に向けての壮大な実験を行うのです。
すなわち、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽(あしがる)に至(いた)るまでに半(なか)ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、その家族を含めて少なくとも数万の人口が集中することになりますから、あっという間に岐阜は我が国有数の都市となりました。
人口が多ければ、衣食住において商売が常に成り立ちますから、常設(じょうせつ)の店舗(てんぽ)もすぐに定着しますし、信長は楽市・楽座の政策を行っていますから、多額の税を払う必要もありません。さらに、家臣が城下に定住しているということは領民の安全が保障(ほしょう)されるだけでなく、敵が攻めてきた場合にもすぐに戦えるという防衛上のメリットもありますから、まさに良いことづくめと言えますね。
信長のこうした天才的な発想によって、経済力も軍事力も高められていったのですが、その背景には「兵農分離(へいのうぶんり)」や「楽市・楽座」という柔軟(じゅうなん)な政策がありました。それにしても、信長はなぜこのような政策を思いついたのでしょうか。
実は、信長は「敵」ともいえる対象から、その長所と短所を学んでいたのです。




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Kei 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
~追伸
黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
これからもよろしくお願いいたします。Kei
Keiさんへ
黒田裕樹 > 信長は、ほんとに、頭の良い、賢い方だったのですね。私が小学校のころにただ丸暗記した信長の政策は、彼の頭脳の中で、きちんと計算されて行われたことだったのですね。今日も、お勉強させていただきありがとうございます。
素人目には行き当たりばったりであっても、裏ではしっかりと計算し尽くされている。
信長の天才的な発想とともに、その実行力は群を抜いていますね。歴史に名を残す人物というのはやはり素晴らしいです。
> ~追伸
> 黒田さんのブログ、リンクさせていただいてもよろしいですか?もしダメということであれば、おっしゃってくださいね。
> これからもよろしくお願いいたします。Kei
リンクは喜んでお受けしますし、こちらからも相互リンクさせていただきますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーち こんばんは!
ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ちょっと前ですが、孫子の兵法という本を読む機会があったんですが、その中に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という言葉がありましたが、信長も孫子のこの言葉を知っていたのでしょうかね?
> まずは敵をよく知ることこそが勝利する鍵であるのでしょうね。
敵を知ることが勝利につながることは、まさしく仰るとおりですね。
果たして信長はどんな敵から学んだのでしょうか?
次回(3日)をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 楽市・楽座
学校で勉強した事思いだしました
でも その時は興味が 湧きませんでした
黒田先生の講座で ワクワクしています
信長の頭脳は相当なものですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 楽市・楽座
> 学校で勉強した事思いだしました
> でも その時は興味が 湧きませんでした
> 黒田先生の講座で ワクワクしています
> 信長の頭脳は相当なものですね
有難うございます。
信長の知能の高さや頭の回転力は凄まじいものがあると思います。
加えて彼は学習能力がきわめて高かったとも考えられるのですが、そのあたりを次回(3日)の更新で明らかにしていきたいと思います。
忍耐力のある織田信長
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
織田信長は、スグにキレる短期なイメージを
持っていましたが、織田信長は、徳川家康に
勝るとも劣らない、『忍耐力』のヒトだったように思います。
① 美濃攻めに8年間掛っている。
しかも、その手法は、地味な調略。
② 石山本願寺との戦いには、10年間掛っている。
③ 決して、大きな戦いに勝っても、深追いしない。
◆長篠の戦い(1575年)→武田征伐(11582年)長篠の戦いの7年後に決着。
◆姉川の戦い(1570年)→小谷城の戦い(1573年)姉川の戦いの3年後に決着。
常に、織田信長は、長期戦を想定しています。
短期的な戦いでは、武田信玄、上杉謙信には
勝てないかもしれませんが、長期戦を制する
ことが、織田信長の根底にあったのですね。
それを実現させる施策が、兵農分離につながっているのでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長は「キレれば怖い」というイメージとは裏腹に、目標を達成するためには実に忍耐強く辛抱しています。
そして、このような兵法を実現させるためにも、仰るように「兵農分離」は欠かすことができません。
信長の発想は「必要は発明の母」の一面もありますね。