約260年間続いた江戸時代は様々な時代区分がなされていますが、その中でもっとも華やかさが伝えられている時代といえば、17世紀後半から末期にかけての元禄時代(げんろくじだい)でしょう。では、元禄時代の頃でもっとも有名な歴史上の人物といえば、皆さんは誰の名を思い浮かべますか?
やはり水戸黄門(みとこうもん)こと徳川光圀(とくがわみつくに)ではないでしょうか。始まってから40年が経過した今でも人気を集めるテレビ時代劇の主人公として有名な徳川光圀は、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の代名詞とされ、世直しの神様として現代でも絶大な人気を誇っていますね。
ところで、ドラマにおける黄門様の引き立て役としてよく出てくるのが、当時の第5代将軍であった徳川綱吉(とくがわつなよし)です。ドラマの中の綱吉は、時には黄門様の足を引っ張ったり、あるいは黄門様の言いなりになったりするなど、どちらかといえば頼りない将軍として紹介されることが多いですね。
水戸黄門以外でも、綱吉は赤穂浪士(あこうろうし)による仇討ちとして有名な忠臣蔵(ちゅうしんぐら)等の様々な小説や映画、あるいはTVドラマで紹介されていますが、そのほとんどで時代を読めなかった暗君(あんくん)扱いされており、中には精神面で問題があるような扱いすらされていることもあります。
為政者(いせいしゃ)として時代の頂点に立っていた綱吉に対して、なぜこのような偏(かたよ)った扱いがなされているのでしょうか。そのカギを握るのは、綱吉の没後300年が経過している現代においても尚、私たちが誤解している「政策」です。




いつも有難うございます。
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三友亭主人gatayan 綱吉以降に、新井白石やら吉宗やらの改革に時期がやってきましたよね。
改革遂行のためには、前政権には悪者になってもらわなければならない・・・
・・・と個人的には勝手に考えたりしていますが・・・
とまと どうしても、良い将軍だったとは思えない印象でした。
その原因は・・・政策だったのですね。
今後の記事を、楽しみにしておりますm(__)m
ぽち。
温かいコメントをありがとうございます(^O^)
marihime 黒田さんこんにちは☆
面白く拝見させていただきました。
綱吉の位牌が小さかったということまでは知りませんでした。
私の考えてたことに近いので余計に面白かったですよσ(゚ー^*)
映像は五回まで拝見させていただきました。
ポチ
佐佐木あつし とっても楽しい授業でした。
もったいないので映像は区切り区切りで
見させていただこうと思ってます。
何十年振りかの授業です。
じっと、聞き入っていました。
パソコンを前に、しかし、
昔の授業のようにノートを取らない分
ストーリーが頭に入ってきて
その分、理解度が大きくなった気がしました。
少しづつ楽しんで拝見させていただきます。
三友亭主人gatayanさんへ
黒田裕樹 現政権を引き立てるために前政権を必要以上におとしめることは、大陸ではよくある話ですね。江戸時代には儒学が幕府の正式な学問となっていたこともあって、大陸の影響を受けた政治が主流となっていましたから、仰ることは一理あると思います。
ただ、それだけで綱吉がここまで悪者扱いされるとも思えないので、やはりそれ以外にも理由があると考えた方が良いかもしれません。今回の講座で詳しく探ってみたいと思います。
とまとさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも有難うございます。
「良い将軍とは思えない」。ごもっともと思います。その理由について、これからじっくりと探ってみたいと思いますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
marihimeさんへ
黒田裕樹 marihimeさんと近い考えですか。それは光栄ですね(^^♪
続きをお楽しみに!(^o^)丿
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 ご丁寧な、心のこもったお言葉有難うございます。
綱吉に関する講座、並びに映像はこれからも続きますので、どうぞお楽しみ下さい。
綱吉の行った政策の中でもっとも有名なのは、いうまでもなく「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)でしょう。1685年に出され始めたこの法令は、当初は犬などの動物を大切にせよという内容であったのが次第にエスカレートし、一説によれば数十万人の罪人を出したとされています。
生類憐みの令が出されたそもそもの由来は、綱吉が後継ぎにと考えていた我が子を幼年のうちに亡くした悲しみを乗り越え、再び男子を授かるようにと、綱吉の母の桂昌院(けいしょういん)が懇意(こんい)にしていた僧の隆光(りゅうこう)から勧めがあり、綱吉が十二支の戌年(いぬどし)生まれであったことから特に犬を大切にするようになったといわれています。
このため、生類憐みの令でも犬が特に重要視され、後には江戸の中野に巨大な犬小屋が幕府によって建てられ、江戸じゅうの約8万頭の犬が集められました。犬小屋の運営費には、現在の貨幣価値で年間約200億円の巨費が使われています。こうした極端な政策を行ったことにより、綱吉は「犬公方」(いぬくぼう)という有難くもない別名で人々から非難を浴びるようになってしまいました。
また生類憐みの令以外にも、綱吉は側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)を寵愛(ちょうあい、特別に大事にして愛すること)して彼に政治の一切を任せたことにより、吉保による偏った賄賂(わいろ)政治の横行(おうこう)を招いたり、また綱吉の治世(ちせい)の間に貨幣の価値を落としたことで幕府が不正な利益を上げたばかりか、物価が高騰(こうとう)して庶民(しょみん)に大きな迷惑をかけたりしたことなどが一般的に知られています。
これらのことがすべて真実だとすれば、現代の私たちでも綱吉の政策には大きな疑問を感じざるを得ませんが、綱吉は本当に庶民に大迷惑をかけた「暗君」であり、彼の治世は「暗黒時代」といって差し支えないのでしょうか?
綱吉の真実を探るためにも、まずは彼が将軍になるまでの道のりをたどっていきたいと思います。




いつも有難うございます。
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イルカ えぇーー。
綱吉って戌年だったんですか…。
てっきり犬が好きだったのかと…。
miwa あーー。いい所で。。。
そこから先が知りたいのにww
やはり最悪の将軍様に思えるのですけれど、ここから巻き返しはあるのでしょうか?
イルカさんへ
黒田裕樹 そう、戌年なんですよ(笑)。
ただ、綱吉が戌年だから犬を特に大事にしたのは間違いないようですが、それだけが理由ではないんですよ。このあたりも含めて考察してみますね(^_^)v
miwaさんへ
黒田裕樹 > あーー。いい所で。。。
> そこから先が知りたいのにww
じらしてしまってすみません(笑)。
> やはり最悪の将軍様に思えるのですけれど、ここから巻き返しはあるのでしょうか?
はい、ありますよ。ヒントを簡単に言えば、我々は大きな勘違いをしているんです。
ショウゴ いつも楽しく拝見させて頂いています。
今回の綱吉はとても面白くなってきそうなのでわくわくしています。
早く続きが読みたいです^^
ショウゴさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
綱吉に関する講座は一日2回(6時と18時)の更新となりまして、比較的早く進むかと思いますので、今後もよろしくお願いします。
きりこみ
JJSG こんにちは。
結果だけ見れば、暗君なのでしょうけど、さて、歴史にメスを入れて切り込んでいくと、どうなるのか!?
楽しみにしてます。
JJSGさんへ
黒田裕樹 そうですね。表面だけを眺めて満足するのではなく、その内情に鋭く切り込んでこそ、歴史の本当の姿が見えてきます。どうぞご期待下さい!
管理人のみ閲覧できます
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UUU こんにちは
これから、日本史が全然わからないので。
このブログさんで勉強しにきます!
勝手なのですがリンクさせていただきました。
もしよかったら相互リンクお願いします。
てきとーなブログ
http://uuu2454.blog104.fc2.com/
徳川綱吉は1646年、第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の四男として生まれました。1651年に家光が死んで、子の徳川家綱(とくがわいえつな)が第4代将軍になると、綱吉は将軍の弟として上野国(こうずけのくに、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。
しかし1680年、家綱が子をなさぬままに重病となってしまいました。家綱の弟のうち、成人したのは家光の三男の徳川綱重(とくがわつなしげ)と四男の綱吉だけでしたが、綱重は2年前の1678年に死去し、綱重の子である徳川綱豊(とくがわつなとよ)がまだ若かったので、綱吉が将軍後継に一番近いと考えられていました。
ところが、時の大老(たいろう)であった酒井忠清(さかいただきよ)が、こともあろうに朝廷から宮将軍を招いて第5代将軍にすると宣言しました。この計画は、当時の老中(ろうじゅう)の堀田正俊(ほったまさとし)によって阻止(そし)され、綱吉が無事に将軍職を継ぐことになったのですが、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
鎌倉幕府における北条氏(ほうじょうし)の執権(しっけん)と同じ路線をたどろうとした酒井忠清の野望という見方も確かにありますが、実は綱吉には将軍職として「ふさわしくない」と考えられたという一面も存在していました。それは一体何だったのでしょうか?
間接的な「証拠」が愛知県に今でも残されています。




いつも有難うございます。
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オバrev えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
> 家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
酒井忠清が全盛期の頃には、世の中が平和になって将軍自体の権力が薄れたことで、徳川家が完全に「飾り物」扱いになっていたんですね。こうなると古(いにしえ)の源氏と北条氏の関係と同様に、忠清ら幕閣が事実上の支配者になろうとしたと考えられます。
但し、鎌倉幕府と決定的に違うところは、徳川家にはれっきとした家康直系の後継者がいたことです。
愛知県岡崎市にある大樹寺(たいじゅじ)は、徳川家の菩提寺(ぼだいじ)としても有名であり、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌(いはい)が安置されていますが、このうち位牌については、各将軍の臨終(りんじゅう)の際の身長に合わせてつくられたとされています。
綱吉の位牌も当然安置されていますが、その長さが実は約124cmしかないのです。幼年で亡くなった第7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)を除けば、際立って低い数字です。
綱吉の悪政で庶民が迷惑を受けたから、嫌がらせでワザと低くしたとも考えられそうですが、徳川家ゆかりの寺がそんな曲がった考えで位牌をつくるわけがありません。有力な説として考えられるのは、綱吉が低身長症(ていしんちょうしょう)を患(わずら)っていた、ということです。
低身長症は成長ホルモンが正常に分泌(ぶんぴつ)されなくなることで身長が伸びなくなる病気であり、現代でも患っている人々がおられます。ただ、低身長症自体は身長が低いことを除けばそれ以外は健康体であることも多く、日常生活に何ら差し支えることはありません。
当然将軍職のような激務もこなせるはずなのですが、厳しい身分による制限のあった江戸時代は、現代では決してあってはならない「差別が当然」の世の中でもありました。従って、綱吉の低身長が「将軍としてふさわしくない」と一方的に決め付けられた可能性が高いのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昨日は動画を拝見出来ませんでしたので、
とりあえず、黒田さんのブログにUPしている動画を
今日は一気に鑑賞させていただきました^^
綱吉に関しての様々な謎の部分が次第に明確になって来て、楽しく拝見させていただきました♪
ありがとうござます!
確かに現代でも「低身長症」でお悩みの方はいらっしゃいますものね。。
それでも、身長が低いくらいなら、まだしも、五体不満足でもしっかりとご活躍している方も
いらっしゃいますものね。
綱吉の今後の展開も、楽しみにまた、
勉強させてくださいね^^
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お忙しい中、ご覧下さって有難うございます!(^o^)丿
お言葉、ごもっともだと思います。現代でも様々なハンデを乗り越えてご活躍の方がたくさんおられるだけに、当時の世相の偏りが残念でならないですね。
綱吉に関する謎については、これからますます明らかになると思いますので、どうぞご期待下さい!(^_^)v
こみー こんばんわー☆
久しぶりです(^_^;)
・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
では、失礼します~。
MAHHYA 今では、「障害者団体」が、騒ぎ出しそうな差別が、昔は平気で行われていたんですね・・・。
人権なんて、第二次世界大戦後、何十年かの歴史しかないもの・・・。
それでも、人間ってどこかに「差別意識」を持ってしまうものなのかも・・・と、思うことがあります。
低身長でも、別にいいじゃないか!!と、言いたいですね(>_<)
赤岡町とさを いつも訪問ありがとうございます
ゆっくり拝見する機会が少ないのですが
また折々遊びにきます
こみーさんへ
黒田裕樹 > こんばんわー☆
> 久しぶりです(^_^;)
どうもお久しぶりです(^o^)丿
> ・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
> ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
> そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
歴史が面白くなるきっかけというのはいろいろありますよね。
たとえどんなことがあったとしても、立派に与えられた地位をまっとうできる。
それもまた人間なんですよね。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 江戸時代のような固定された身分社会では、差別がむしろ当たり前でした。そんな中でハンディキャップがあったというのは本当に大変だったと思います。
綱吉に対する我々の眼を曇らせているのも、いわれなき差別の幻なのかもしれませんね。
赤岡町とさをさんへ
黒田裕樹 こちらこそご訪問有難うございます。
とまとさんのブログでのご活躍は素晴らしかったですね(^_^)v
また是非お越し下さいm(_ _)m
おばか
JJSG 身長が高ければ将軍が務まるわけでもあるまいし。。。
お馬鹿な考えだなぁ。。。と。
JJSGさんへ
黒田裕樹 全くその通りだと思います。
一人の人間を、その一面だけでしか評価できないようなことがあってはならないのですから。
徳川家の正当な後継者でありながら、危うく将軍になり損ねそうになった綱吉ですが、ピンチはチャンスでもありました。堀田正俊を除けば自分を将軍後継に推さなかった人間ばかりが政権についているわけですから、遠慮することなく自分の思いどおりの政治をすることができたのです。
綱吉は将軍に就任すると、功労のあった堀田正俊を大老にする一方で、それまで大老だった酒井忠清や、他の老中を全員辞めさせました。また、酒井忠清の裁量で決着していた越後国(えちごのくに、現在の新潟県の本州部分)の高田藩のお家騒動を調べ直し、結果として高田藩を取り潰して関係者を厳罰に処しました。
綱吉が次々と打ち出す厳しい姿勢に、幕閣(ばっかく)も御三家(ごさんけ)も震え上がりました。こうして周囲を自分の実力で黙らせた綱吉は、自己の理想に燃えた政治を展開していくのです。
そのバックボーンは儒学(じゅがく)であり、キーワードは「忠孝」(ちゅうこう)でした。
なぜなら、江戸幕府を創設した徳川家康(とくがわいえやす)以来の「負の遺産」が、約80年経っても厳然(げんぜん)と残っていたからです。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
綱吉が何代将軍なのか一生懸命思い出してみましたが
おいらのショボイメモリは壊れておりました。
ただ家光の息子だったような記憶が・・・。
そうなると15代続いた徳川将軍の中では
古い方だということしか浮かばない。
┐(´д`)┌ヤレヤレ 年は取りたくないですw
淀君
オバrev 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
淀君の怨念では?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 綱吉は第5代将軍ですよ。家光の息子であることは正解です。
詳しくはこちらの記事をご覧下さいね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-270.html
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
そうですね。役に立たない存在であるのなら仕方ないのかもしれませんが、粛清じみたことをやりすぎると、後が恐いような気もします。
> 家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
> 淀君の怨念では?
少し時代が古すぎるようですね(^^ゞ
次回の記事以降で明らかになりますよ。
「徳川家康によって戦国時代は完全に終わり、江戸時代の平和な世の中がやって来ました」。歴史の勉強で必ずと言っていいほど聞かされる一節ですね。表面上は確かにそのとおりですが、綱吉の治世を迎えるまでの現実は、必ずしもそうではありませんでした。
そもそも戦国時代というのは「下剋上」(げこくじょう)の名の下に「力あるものが勝つ」という世の中でした。極論すれば「人を殺せば出世する」時代でもあり、戦国武将から一般庶民に至るまで、出世を夢見て争いごとが絶えませんでした。
人々の意識がそのような殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)になっているなかで、徳川家がやって来て「これからは平和な世の中だからおとなしくしなさい」と言われたところで、誰が額面どおりに受け取るというのでしょうか。
身分社会に固定されて出世の望みが絶たれた人たちは、その腹いせとばかりに集団で着飾って町を練り歩き、気に入らないことがあれば周囲の人々に容赦なく当たり散らしました。旗本は「旗本奴」(はたもとやっこ)、町人は「町奴」(まちやっこ)と呼ばれたいわゆる「傾き者」(かぶきもの)の抗争によって、町には放火や辻斬りが横行していたのです。
殺伐とした雰囲気は道徳心の低下ももたらしました。子供が生まれても生活に困れば捨てたり、あるいは間引(まび)くことが多く、人間や牛馬が病気になれば、まだ動けるうちから山野に追放して死なせたりすることがよくありました。
また、この当時は町の衛生状態も最悪でした。江戸の人々はゴミを平気で周囲に散らかし、時には江戸城のお堀にまでゴミがたまる有様でした。また野ざらしにされた死んだ牛馬を野犬が食べ、その野犬が人々に噛(か)み付くなど、犬などが町中で病原菌をまき散らすことによって、疫病(えきびょう)がたびたび発生していました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
汚れていて、異臭が酷かったようですが
現代の整備された環境になるまでは、
何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
応援凸です^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
ご都合の宜しいときで十分ですよ(^^♪
> 18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
> 汚れていて、異臭が酷かったようですが
> 現代の整備された環境になるまでは、
> 何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
そうですね。現在のような綺麗な環境というのは、従前では考えられないでしょうね。環境が良くなった分、伝染病は減りましたが、人間はかえって弱くなったような気がしますね。
そうなんですかぁ
JJSG こんばんは。
家康が世の中をうまいこと治めたと思っていましたが。。。。
違っていたのかぁ。
歴史の教科書も、いいかげんなもんですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 教科書は紙面が限られていますから、どうしても全体的に薄めに表現せざるを得ないんですよね。その分各時代の「本質」までにはなかなか突っ込めないのが実情です。
とはいえ、型どおりの授業さえ済ませておけばよい、というのでは歴史の先生失格です。歴史が面白くなるのも、つまらなくなるのも先生次第ですから、私も特に気をつけているつもりではあります。
こうした「戦国の遺風」が原因と見られる数々の問題に対して、真正面から取り組んでいったのが時の為政者(いせいしゃ)であった綱吉だったのです。綱吉は、まず武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めさせるために、1683年に武家諸法度(ぶけしょはっと)を改訂して、冒頭(ぼうとう)の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝(ちゅうこう)の道」に改めました。
それまでは弓馬、すなわち武芸に励むことこそが武士の心得とされていたのが、忠孝の道、すなわち人として生きる道や道徳に励むことこそが重要であるという意識の変革をはかったのです。綱吉自身が若い頃から学んだ儒学に基づいた、新たな社会秩序の制定でもありました。
さらに綱吉は、武士ばかりでなく町人に対しても「忠孝の道」を定着させようとしました。そのためには何をなすべきなのか。考え抜いた綱吉の結論が、武家諸法度のように法令によって庶民に道徳心を身につけさせることでした。
こうして1685年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出され、以後約20年間に渡って次々と新しい法令が出されました。
世にいう「生類憐みの令」の始まりです。




いつも有難うございます。
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紗那 ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
やはり勉強になるです。
かすやぶひ こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。。
でも、こうして詳しくお話を伺っていると
それまでの歴史上に存在する「悪法」と呼ばれる
法も、その時代に制定されなければいけないそれなりの理由があったのかもしれないと思うと、それまでの固定観念が
覆されそうですね^^;
生まれるべくして、生まれた法。。
なるほど。。奥が深いです。
それと同時に事実というのは、どうして、こうも
歪められてしまうものかと、不思議な感じがしますね~。。よく何十人かが輪になって、最初の出題者が、最初の人に口伝えで、ある一文を耳打ちし、その一文が全部の人に回され、一巡した頃には、最初の内容と
微妙に違っていたり、時には正反対の答えが戻って来てしまうと言ったゲームを思い出してしまいました^^
(お判りになりましたか?w説明が下手ですみません)
あ、それと、
動画のカメラの位置が、少し前方になりましたでしょうか?とても、お顔が良く拝見出るし、黒板の字も見えやすくなりました^^
それでは、応援凸
管理人のみ閲覧できます
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紗那さんへ
黒田裕樹 > ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
> なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
誤解させる材料がそろいすぎていますからねぇ…。無理もないと思います。
> やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
エスカレートしたのは事実ですが、そうしないとなかなか定着しなかったという一面もありますからね。一概には言えないのかもしれません。
> ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
> やはり勉強になるです。
有難うございます。歴史の教師である以上は、教科書に書かれていないような「真実」を伝えることも大事ですからね。
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 > こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
イメージが先行しているところが、綱吉公の不幸なところでもありますね。もっとも、そうなってしまったのには、綱吉公にはどうすることもできない理由があったのですが…。
> しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
> 位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
間接的な証拠というのも重要ですね。事実を見るだけではなく、事実から考察することも歴史の楽しみの一つです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「悪法」といえども「法」であるうえに、当時と現代の善悪観の違いや、当時の複雑な事情も考慮しないと、今回のような歴史の「落とし穴」にはまってしまいますね。仰るように「生まれるべくして、生まれた法」というのもこの世には存在しますから。
伝言ゲームのことですね。確かに、自分の本当の思いが他人に正しく伝わらないことはままありますね。
今回の会場は、場所そのものは同じですが教室が変わったんですよね。その影響もあって一から設定し直したことが奏功しているのかもしれません。ご覧いただき有難うございますm(_ _)m
そうでしたか
JJSG こんばんは。
忠孝の道
忠は、主人への忠義。
孝は、親孝行。
だと思っていますが、人として生きる道、道徳に励むことですか。。。
この忠孝の意味の捉え方だけで、綱吉のやろうとしていたことの理解、ニュアンスが変わってきますね。
とはいえ、これまでの講義で、とりあえず、綱吉はお馬鹿将軍ではないことがわかってきました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 儒学に精通していた綱吉だからこそ気づいたのかもしれませんが、忠も孝も日本人にとっては道徳の道へとつながると思います。
記事でも書きましたが、生類憐みの令は、綱吉にとっては自己の理想を実現するための切り札でもありました。これだけのことを考えられる綱吉が愚かなわけがありませんよね。
生類憐みの令は、そういう名前の法令が出されたわけではありません。約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その種類は広い範囲にわたっており、犬に関するものは33件と、全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には、鳥類などを口にしてはいけないという食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは事実です。しかし、法令の底辺にあったのは、まぎれもなく「動物愛護」から「人命尊重」へとつながる確固たる綱吉の意思でした。
例えば犬に関する様々な法令には、先述した野犬化による病原菌のまき散らしを防ぐとともに、人々を襲うようになる前に保護しようという考えがありました。同じく先述した病気になった牛馬をきちんと療養させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
中野の巨大な犬小屋ですが、これは「いくら禁令を出しても捨て犬などの行為が後を絶たないため、幕府でまとめて保護をする」という考えから造られた「野犬化防止施設」でもありました。しかも犬小屋の運営費用は幕府が出す一方で、エサ代は飼い主から出させているのです。
飼っていた犬や猫を捨ててしまうことで野生化し、問題になることは現代でもありますね。それを公費で養う一方で、飼い主にも相応の負担をさせているのですから、綱吉の考え方は結果として現代よりもよっぽど進んでいるといえると思います。




いつも有難うございます。
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JJSG ものすごいたくさん、細かい法律を作ったんですね。
細か過ぎて、理解されなかったのでは、とも思いますが、根底には、ちゃんと考えがあったのですね。
とはいえ、やっぱり細か過ぎて、理解されなかったんだろうなぁ。。。
政治、法律とは難しいものです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 135もある法令は、確かに日常生活の細かいことまで書いてありました。
自らの理想の実現という大きな理想はありましたが、仰るとおり細か過ぎるがゆえに、趣旨が理解されぬままに時間だけがむなしく過ぎていったところが見受けられます。
政治や法律の難しさや限界といったところでしょうか。ただ、長年続いた法令によって、確実に変化していったものもあったのです。
h.hamauzu こんばんは!
天下の悪法のように習った一人です。
黒田先生がここで書いてあるようなことは、
学校の先生方は、もちろんご存知なんでしょうね…?
教えることが多すぎて、深く掘り下げることが出来ないのも有るでしょうが、
果たしてそれだけでしょうか…?
いろいろと勘ぐりたくなりますね…
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 他の先生方にはそれぞれの教え方もありますので、私がとやかく言うべき立場ではないのですが、仰るとおり教えることが多くなると、どうしても表面上のみを取り上げてしまうことになりがちな点があると思います。
浜渦さんのように「勘ぐられない」ように、普段からの努力は欠かさないようにすべきではあると思います(もちろん私を含めて)。
では、生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したという話はどう説明できるのでしょうか。実は、これも真っ赤なウソなのです。
生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間で69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。加えて69件のうち死罪になったのがわずか13件しかなく、流罪(るざい)も12件のみという、伝説を信じ込んできた人々には耳を疑いたくなる現実もあります。
さらに、生類憐みの令を勧めたとされる僧の隆光ですが、隆光が綱吉と面会したのは1686年ですから、それ以前の1685年に発布された生類憐みの令に関係しているはずがないですし、柳沢吉保もこの頃には身分が低く、政治に直接関係する立場ではありませんでした。従って、この二人もある意味「いわれなき罪」を着せられているといえます。
ここまで生類憐みの令に関する真実を追究してきましたが、それよりももっと重要なことに私たちは目を向けなければなりません。何だと思いますか?
それは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。




いつも有難うございます。
先述したように、生類憐みの令以前の江戸時代の社会は、戦国の遺風の影響で殺伐とした雰囲気が残っていました。町では些細(ささい)なことから喧嘩が起きるだけでなく放火や辻斬りが横行し、病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、ゴミは散らかし放題で、動物も役に立たなければ捨てられるというひどい有様でした。
そんな風習が、生類憐みの令によって綺麗さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありました。しかし、年月の経過とともに骨の髄(ずい)にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要だったのも事実なのです。
例えば、戦国時代の武将であった織田信長(おだのぶなが)の領地では、たとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶ「一銭斬り」というとんでもない法令がありました。しかし、この法令があったお陰で、信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長による無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方がよほどマシだと思いませんか?
江戸時代には長屋の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと言われていますが、初期はむしろ全く逆でした。それが綱吉の出した法令によって180度転換し、生命を大切にするとともに、相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、それが現代にまで続いているのです。
ここまで生類憐みの令について色々と述べてきましたが、法令だけで人々の意識を完全に、それも良い方へ変えてしまうなんて、本当に凄いことなんですよ。
しかし、人間は「空気のように当たり前」のことであれば、その原因を忘れてしまうことがよくあります。いずれ別の機会で紹介しますが、織田信長が政教分離(せいきょうぶんり、政治と宗教とを分けて互いに干渉することを禁止すること)を果たしたのと同様に、綱吉の奇跡ともいえる法令による人々の意識の大変革も、歴史の流れの中で忘れ去られてしまっているのです。




いつも有難うございます。
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なみなみ こんばんは。
歴史は一部分だけをつまみとって
どうこう言ってはダメですね。
流れと背景をきちんと把握しないとダメだって
のがよくわかる例だと思いました。
生類憐みの令も、
今の価値判断基準で見ると奇異に映りますが、
当時の世相を鑑みるとある程度理解が出来るんですねー!
今回も、勉強になりました!
marihime 黒田さんこんばんは☆
よく講座で採り上げてくれましたね。
私の調べてたことがそっくり話されていて嬉しく思います。
この後が面白くなりそうで期待してますよ。
そろそろ吉宗が紀州で牙を剥いている時代と重なりそうですね。
ポチ
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スカイラインV35 最近、初心に帰って歴史を学ぼうと思って、NHKの”高校講座 日本史”をインターネットで視たりもしているのですが、その中で確かに”生類憐みの令”は捨て子や病人など弱者の保護や、野犬対策などの(戦国時代の遺風を改める的な)意味も含まれていると出ていました(10/24以前の放送だったのですが、営業妨害になるかと思いコメントは控えていました..)。
それにしても”天下の悪法”と言われていたのに(何百年もかかったとはいえ)時代は変わったのですね。という事は政治とは厳しいもので、ポピュリズムだけではダメという事だと思いました。
えめる どんな事柄も、見る角度を変えるとまったく別の姿が浮かび上がってくる……。
うーん。政治家のお偉いさん達、世の中のオリコウな人たち。いや、みんなだニャ。
歴史、勉強しなおしたらいいと思った。って、いつも言ってる気がする。
歴史って、面白いニャね(^^
歴史が面白いと思えるニャンて、先生のおかげニャ。
物覚えの極端に悪いおねこより。にゃは。
ふぃる 歴史の苦手な息子の為に
ここでのブログで得た知識を息子に披露しようと
時々見せてもらってましたが
私が思ってた生類憐みの令とは全く違ってて
この法令は良かったんだと思いました。
それに約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件って
数字が驚きです!
テレビや歴史の小説などは、すごく多くの人が
処罰や死刑をされてると思ってました。
驚きでしたのでコメントさせて頂きました^^
なみなみさんへ
黒田裕樹 全く仰るとおりです。時代背景や流れが理解できない歴史教育は、単なる暗記科目になってしまいますから、覚えたとしてもすぐに忘れるし、一面からしか歴史を見ないがゆえに、偏った考えが身についてしまいます。
また、一見訳の分からない制度であっても、それを現代の価値観で見るのでなく、当時の事情をよく理解しないと、まさに「木に竹をつぐ」おかしな知識しか得られない。
生類憐みの令が我々に残した課題は、実はとてつもなく大きなものかもしれませんね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 marihimeさんのお考えとほぼ一致しているとは光栄です(^_^)v
この後はしばらくは生類憐みの令から離れて、綱吉の「もう一つの顔」について取り上げる予定ですので、こちらもご期待下さいね(^o^)丿
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 そうですか。NHKでも綱吉の功績が見直されているのは嬉しい限りですね。コメントに関するご配慮、感謝いたしますm(_ _)m
ポピュリズムは一時は庶民の喝采を呼ぶものの、衆愚政治の温床となりがちですから、長い目で見れば、やはり「良薬は口に苦し」という厳しい姿勢も必要ですよね。人間としてのしつけや尊厳と一緒だと思います。
えめるさんへ
黒田裕樹 「自分が偉い人間だ」と思っている人間ほど、実は「世間知らずの歴史知らず」なんですよね。どこかの国のトップがそうであるかのように(笑)。
歴史に関するお言葉、光栄です。でもえめるさんがそう思えるのは、えめるさんご自身が歴史を学ぶ姿勢を完全に自分のものにされつつあるからこそですよ。私はそのきっかけをつくったのに過ぎません。
さて、綱吉の功績は生類憐みの令だけではありません。綱吉によって「悪政」とされている他の事項についても考察してみましょう。
まず柳沢吉保による「政治の私物化」ですが、これは全くの誤りです。吉保の立場はあくまで側用人であり、老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことがその主な業務でした。実は、このシステムは綱吉自身が考えたことなのです。
家康の独断によって始まった江戸時代の政治でしたが、第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)以後は老中が意見をまとめて将軍に決裁を依頼し、将軍が事実上何の意見も述べずに承認するという形式が続きました。聖徳太子(しょうとくたいし)による「話し合いの精神」というわけではないですが、世の中が平和な頃は家柄や身分で政治を行ってもそれほど大きな問題にはならなかったからです。
しかし、世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しいものでないと政治を任せられません。たとえ身分が低い者であっても、優秀であれば登用したいのですが、従来の「話し合い」による身分秩序ではどうにもなりません。そこで綱吉は、大老の堀田正俊が暗殺された後に、老中のうえに側用人を置いて、彼をワンクッションとして将軍自身の意見が通るようにシステムを一新したのです。
このような天才的なシステムを発想できるというのも、綱吉の素晴らしい一面ですね。さて「世の中が変革している」と先ほど書きましたが、綱吉の治世の間には、少なくとも2つの改革が必要でした。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革でしたが、もう一つとは何だったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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JJSG 政治、統治として、自分の意見をしっかり反映できるようにワンクッション置くアイデアはすばらしいですね。
さて、もうひとつとはなんだろな???
先生、わかりません!!
JJSGさんへ
黒田裕樹 「話し合いの精神」を重視する関係で、独裁者を嫌う傾向が我が国にありますから、ワンクッションを置くという綱吉の発想は私も素晴らしいと思います。
江戸時代の初期に盛んに行われた事業の一つに新田開発(しんでんかいはつ)がありました。世の中が平和になったことで人口が増加し、大勢の人を食べさせるために新たな開墾(かいこん)が必要になったからです。それ以外にも人々の暮らしの向上のために多くの道路や橋などが造られました。これらのいわゆる公共事業の資金には農民からの税が充(あ)てられ、当時は収穫の70%が税となる「七公三民」が当たり前でした。
しかし、新田開発が限界に達して、公共事業も一段落すると、それまでの多額の納税が不要となり、税率が少しずつ下がっていきました。一説によれば、綱吉政権の末期には「三公七民」状態であったとされています。農民や庶民の暮らしが向上したことで、それまでは生活に余裕のなかった自給自足の生活から、消費経済、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していきました。
世の中が減税となれば、人々の暮らしに余裕が生まれます。余裕のある暮らしの中から、多くの人々は「遊び」を求めるようになり、そのニーズに応える形で様々な「文化」が生まれます。冒頭で述べた元禄文化も、このような状況から生まれ、栄えたのでした。
景気が良くなってモノが売れれば、それに見合うだけの貨幣も必要になりますが、実はこの頃、江戸幕府の所有金銀は底をついていました。オランダや中国との貿易で我が国から輸出できる目ぼしいものがなかったことで、幕府は所有の金銀を惜しげもなく支払いに使っていましたが、やがて金山や銀山からの発掘量が激減してしまい、貨幣を発行しようにも金銀が不足するという有様になっていたのです。
こうした非常事態に、綱吉は経済に詳しかった荻原重秀(おぎわらしげひで)を抜擢(ばってき)して、彼に経済対策を一任しました。重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率(がんゆうりつ)を従来の84%から57%に落とすことで貨幣の量を増やし、従来の小判と同じ一両として引き換えることで、含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながるという、まさに一石二鳥(いっせきにちょう)の策で乗り切りました。なお、この時に発行された小判を元禄小判(げんろくこばん)といいます。




いつも有難うございます。
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JJSG 新田開発でしたかぁ。
しかしながら、経済も発展して、文化も発展して、いろいろとやったんですねぇ。
すばらしい将軍なのに。。。
なんで、お馬鹿将軍になっちゃうのかなぁ。。。
ぴーち こんばんは!
金の含有量を減らすとは、合理的な策を考えだしましたね^^
最近の経済危機にも、確かに
素材の容量はそのまま、でも、含有率を低下させた
物が商品化されて、出回っているものが多いですね。
やはり、危機的状況の時は、それなりの対処が必要になって来ますね。
それでは、只今、お留守中だろうと思いますが、
応援させてくださいw
トップで国は変わる
オバrev ひょとして、黄金を産出する国、ジパングと呼ばれていたのはこの頃ですかね?
日本も昔は、現在の南アフリカのような国だったのかもしれませんね。
噂によると、ドル安の中、中国始め各国は金保有率を高めていますが、日本は敗戦国のため、金保有率が制限されているそうです。今やっとDDPの2%?
しかし、実は表に出ない金を、徳川幕府以来保有しているという噂もあるけど、真実は分かりません(^^;)
いずれにしてもトップの考えで国の状態は大きく変わると言うことは確かですね。
こんばんは
安眠癒しグマ いつも勉強させていただいております。
私の地域では今インフルエンザが流行っています。
私も今日の夕方からゾクゾクします><
黒田さんも気をつけてくださいね。
ポチ♪
miwa 綱吉さん今まで誤解していて本当にごめんなさい。
と言いたいですね。
過去の話とは言え、この日本で政治経済を担う座にいる方が
政治的手腕を振るう話を聞くのはとても癒されます。
Good Job!
オバrev 2ndコメになりますが、綱吉はやり手ですね。
金の含有量を落とすとは、金本位制を半分破棄するようなものですが、アイデアとしては素晴らしいです。お見事です。
しかし江戸時代ってのは、大きな戦争のない時代で、現代と共通するところは大いにあるんじゃないでしょうか。
marihime 黒田さんこんばんは☆
一言だけ書かせてもらいますね。
柳沢吉保はただの側用人ではなかったと思っています。
綱吉の評判を落としたのも柳沢吉保が大きく関わっていると思います。
側用人から大老になり、大名にまでのしあがったのは吉宗の腰巾着大岡忠相の息子大岡忠高の2人だけです。
私は綱吉の政策をゆがめたのは大老の地位を利用した柳沢吉保じゃないかと思うのですが?
JJSGさんへ
黒田裕樹 治安が良くなって、生きていく余裕ができれば、自然と生活のレベルの向上を目指すものですからね。その手助けをするのが政治の役目であれば、綱吉の政策は理にかなったものといえるでしょう。
> なんで、お馬鹿将軍になっちゃうのかなぁ。。。
いずれは明らかにしますが、もう少しお待ち下さいm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 質を下げた商品というのは一般的に敬遠される傾向がありますが、値段のことを考えれば受け入れるのもひとつの選択肢ですよね。
ましてや貨幣は本来は質や量とは無縁のものですから(これについては次回の更新で明らかにします)、経済の危機に対して現実的かつ柔軟な対応ができると思います。
先ほど帰ってまいりました(笑)。お気遣い、有難うございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 何度もコメント下さって有難うございます。まとめてコメ返させていただきますね(^^♪
「黄金の国ジパング」と呼ばれていたのはマルコ=ポーロの時代ですから、13世紀の頃からですね。ただ、戦国時代後期から江戸時代前期にかけては、海外からもたらされた鉱山技術の進歩もあって、我が国が有数の金銀産出国であったのは事実です。しかし、資源はやはり限りあるものですから、綱吉の時代には残念ながら枯渇してしまったのです。
「金本位制の半分破棄」とのお言葉、さすがはオバrevさんですね(^_^)v
これに関しては綱吉のアイディアというよりも、彼によって見出された荻原重秀の功績でしょう。彼の真意については、次回以降の更新で明らかにします。
確かに江戸時代は幕末まで大きな混乱はなかったですから、現代と共通する要素がありますね。ただ、今の状況は綱吉の時代というよりも、どちらかといえば「黒船来航前夜」の雰囲気が漂っているような気がします(´・ω・`)
ところで、小判の質が下がったことで物価が上昇する、いわゆるインフレーションによって庶民が大迷惑を受けたという説が残っていますが、実はこれも誤りです。
この時代のインフレの主な原因は、むしろ物資の供給不足にありました。好景気で急増する都市人口に対応できるだけの物資がなかなかそろわなかったのです。また、仮にインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金も一緒に上がりますから、庶民のダメージは大きくなかったどころか、全体の金回りが良くなったことによって生活の余裕がさらに生まれ、元禄文化が栄えたもう一つの原因となったのです。
なお、貨幣の価値が下がったことに対する幕閣からの批判に対して、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と述べています。瓦礫を紙切れに換えれば、私たちが使用する紙幣と同じですよね。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という考えを、20世紀の経済学者であるイギリスのケインズよりも200年以上も早く先取りした重秀の先見の明(せんけんのめい)には、ただただ脱帽するばかりです。
このように、綱吉が次々と打ち出した多くの政策は、人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改め、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらし、また思い切った人材登用は、様々な問題にも即座に対応できる政治体制を作り上げました。




いつも有難うございます。
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紗那 うわー・・・
なんかめちゃくちゃ誤解してました!
ほんと申し訳ない感たっぷりです。
貨幣の質→インフレって学校で習った気がするのに・・・!
ちょっと学校の先生にこの内容テストしてみますっ!
確かに、政府の信用っていうのは今と同じ考えですねー。これはもう、僕の尊敬する歴史上の人物に投入決定です!
聞けば聞くほど
JJSG こんにちは。
聞けば聞くほど、素晴らしい政策をした将軍ですね。
そして、実行力があり、判断力もあり、斬新で大胆で、思い切りがよくて、発想力もあって。。。
いいことづくし。
今のところ。。。
紗那さんへ
黒田裕樹 綱吉公に関しては、確かに「誤解のオンパレード」というところがありますね。
インフレーションと一口に言っても、我が国のかつての高度経済成長期(昭和30~40年代)がそうであったように、物価と一緒に収入も上がれば、景気を刺激して良い効果を生むこともあるんです。ただ、景気が悪化しているのにインフレーションになると(これをスタグフレーションといいます)、これは本当に厄介ですが。
「政府の信用」で貨幣を発行する、という考えが完全に定着したのは20世紀になってからです。それまでは金本位制が世界の主流でしたからね。この考えに200年以上も前にケインズの理論に到達する経済官僚が我が国に存在していたという事実は本当に凄いと思います。
JJSGさんへ
黒田裕樹 綱吉公は、現代の視点から考えれば、確かに「いいことづくし」の将軍です。
ところが、治世中の評価はどうだったのか…。少し先走りましたが、いずれ紹介します。
馬人 どうも訪問ありがとうございます!
元禄文化あたりは授業で習っている真っ最中なので興味深いです^^
歴史は苦手なのでこういうブログを発見して助かりました。
インフレーションって、元禄文化が栄えたひとつの出来事なんですね…!
逆の説を言っている先生に説明しなければw
もしよろしければ相互リンクをお願いできますか?
馬人さんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます(^o^)丿
ちょうど学んでおられる箇所でしたか。それは良かったです。
「インフレ=悪」という図式が頭の中で完成されていると、元禄小判への改鋳がどうしてもマイナスの印象しか頭に浮かばないのですが、真相は上記のとおりです。他の方のコメントにも書きましたが、昭和30~40年代における我が国の高度成長と流れがそっくりそのまま同じですからね。好景気が続いた時代には「昭和元禄」という言葉が使われたくらいですし。
相互リンクの件、大歓迎です。これからもよろしくお願いしますm(_ _)m
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インフレの力
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
現在、デフレ不況で、増税という流れになっていますが、
そんな時、綱吉の政策のインフレ政策を思い出しました。
政府は、税金と社会保障の一体化で、税金を
上げないといけないと言っています。
国民もそうかなと思っていますが、
今の政府って、徳川吉宗が、儒教と商行為の呪縛にかかっていたのと同じように
北欧型の社会にする=増税という表面的なことしか考えていない気がします。
この前、北欧のデンマークの本を読みました。
デンマークは、所得税は50%、消費税は25%です。
政治家は、それで、日本の消費税は、低すぎると言っているのですが、
デンマークは、その代わり、インフレの国で
物価も高いですが、給与も高いです。だから
国民は、納得しています。
これって、黒田先生が綱吉のインフレ政策で
物価も上がっているけど、給与も上がっているから、庶民は、困ってなかったというのと同じですよね。
しかも、綱吉は、年貢の率を下げました。
今でいう減税です。
もしかしたら、今の政府って、綱吉よりも、
ど素人かもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、経済のイロハを分かっていませんね。
分かっていないというよりも、わざとやっているとしか…。
まさか国民をなめているとでも?
ここまで振り返ると、綱吉はどう考えても「名君」であり、これまでの悪評が信じられなくなりますよね。では、なぜ綱吉は現代に至るまで「暗君」であると「誤解」され続けているのでしょうか?
原因の一つとしては、生類憐みの令による当時の庶民や武士からの不評があったのは確かです。長い目で見れば国民の意識を劇的に転換する大事業であったとしても、当事者にとってはそれまで当たり前だったことが出来なくなったり、それまで食べられたものが禁止されたりすることで、不満があったことは疑いありません。
しかし、悪評の原因がそれだけとはどうしても考えられません。生類憐みの令とは無関係なはずの柳沢吉保や、貨幣改鋳で幕府の危機を救った荻原重秀までもが同じように悪評にさらされている現実を考えれば、綱吉を暗君とする原因の根はもっと深いものと考えなければならないようです。
では、その原因の根本とは何なのでしょうか?
実は、綱吉に原因を求めるにはあまりにも酷(こく)な「アクシデント」が立て続けに起きていたのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!酷なアクシデントですか(@@
何でしょう・・・・
例えば、どんなに美男美女でも、運と華が無いと
俳優や、モデルになれないと言われますが、素材は
良くても運が味方をしてくれない時は、スポットライトは
当たらなどころか、弾かれてしまう場合もあるわけで・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 素材は良くても運が味方をしてくれない時は、スポットライトは当たらないどころか、弾かれてしまう場合もあるわけで・・
そのとおりです。綱吉公も素晴らしい政治をして下さったのですが…。
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はは
JJSG じらしますねぇ(笑)
JJSGさんへ
黒田裕樹 いえ、そういうつもりはないのですが…(汗)。
明日の更新以降ではっきりすると思います。
馬人 アクシデントですか^^;
うーん。気になります。
「生類憐みの令」以外で何があるのか…。
相互リンクの件ありがとうございます!^^
えめる うぅ~ん。怪しい感じニャ。
だれかが綱吉を貶めようとしているんでしょうかニャ。
いつの世も、裏でワルい奴が糸を引いていて……。
あー、次回が待ち遠しいニャ。
歴史の再評価で、今までの常識が覆されていきますね。
発明家と呼ばれた人たちも、裏を返せば
人の発見成果を横取りした、ずるい人だったり。
もうびっくらこ。
世の中の価値観も少しずつ変化するときなのかなーなんて思いました。
馬人さんへ
黒田裕樹 「生類憐みの令」はまだ綱吉自身に原因があるといえますが、アクシデントの方は…。
詳しくは明日(2日)の更新をご覧下さい。
こちらこそ有難うございます(^^♪
えめるさんへ
黒田裕樹 > だれかが綱吉を貶めようとしているんでしょうかニャ。
> いつの世も、裏でワルい奴が糸を引いていて……。
それも確かにありますが、明日(2日)紹介するのはある意味「防ぎようがない」というのか…。
> 歴史の再評価で、今までの常識が覆されていきますね。
> 発明家と呼ばれた人たちも、裏を返せば
> 人の発見成果を横取りした、ずるい人だったり。
> もうびっくらこ。
> 世の中の価値観も少しずつ変化するときなのかなーなんて思いました。
私もそう思います。もともと人間の一生が「100%」の善悪でしか評価できないというのが無理がありますからね。「悪人」扱いされた人々の名誉回復につながるのであれば、価値観の変化も歓迎すべきではないでしょうか。
1698年9月6日(但し旧暦。以下同様)午前、江戸城近くの商家から出た火が、折からの強い風にあおられて北上し、江戸全体の約3分の1を焼け野原にするという大惨事となりました。しかもこの時、上野の寛永寺(かんえいじ)に建立(こんりゅう)した根本中堂(こんぽんちゅうどう、寺の中心となるお堂のこと)が落成したばかりで、第113代の東山天皇(ひがしやまてんのう)による勅額(ちょくがく、天皇の直筆で書かれた寺の額のこと)が江戸に到着したその日に火事が起きるという最悪のタイミングでした。
根本中堂や勅額は辛うじて焼失を免れましたが、当時の人々から「武士の寺に勅額を書かせた天皇陛下のお怒りが火災を起こした」というウワサが広まり、この火事は勅額火事(ちょくがくかじ)と呼ばれるようになりました。
火事による痛手から5年後の1703年11月23日には、関東を中心にマグニチュード8.1と推定される大地震が起きました。この大地震は元禄大地震(げんろくおおじしん)と呼ばれています。地震の直後には各地で大津波が発生し、地震による出火で小田原城(おだわらじょう)の天守閣が消失するなどの大惨事が起きてしまい、その後の余震も長く人々を苦しめました。
ちょうどこの年の2月に、忠臣蔵で有名な赤穂浪士が吉良上野介(きらこうずけのすけ)宅に討ち入って上野介を殺害したことで、浪士たちに切腹の沙汰(さた)があり、「浪士たちの綱吉への恨みが地震を引き起こした」と人々がウワサしました。
ウワサは所詮(しょせん)ウワサに過ぎないとはいえ、相次いで起こる天災の原因を時の為政者に押しつけるのはよくある話です。しかし、天災はこれだけで終わることなく、人々が予想もしなかった極めつけの大惨事がさらに起きてしまうのでした。




いつも有難うございます。
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h.hamauzu おはようございます。
グループの大小にかかわらず、リーダーというものは、いつの時代も嫌われ者の側面がありますね…
ところで予告されているとは言え、凄いスピードで更新されていますね。
最近は移動中に携帯で拝見させて頂いています。
動画はまたジックリとまとめて楽しませていただきますね♪
馬人 火事や地震ですか~^^;
勅額火事ってすごいタイミングですね。
勅額が到着した日に火事…。
こういう偶然で人々が悪い方向へとウワサしてしまったんですね…。
偶然すぎるってのも怖いです(´ω`;)
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 確かに「褒められるリーダー」というのはあまり聞いたことがないですね。前の為政者が嫌われていた場合、就任直後は期待が高まりますが、次第に嫌われ者になっていく…。現状もいずれそうなるのでしょうか!?
本物の講座を一日二回の更新にしないと、本編がストップしてしまいますからね。今回も10日間かかりますし。
いつもご覧いただき、有難うございます!(^_^)v
馬人さんへ
黒田裕樹 悪いことというのは重なるものです。それこそ坂道を転げ落ちるように…。
偶然が偶然を呼ぶ。今回は、更なる偶然による悲劇が待っているんですよね…(>_<)
運
オバrev 勅額火事に元禄大地震、そして赤穂浪士の討ち入りと、なんて言うか3重苦のような感じですね。
たとえやったことは正論でも、起きた現実は厳しいですね。
こりゃあ、為政者の宿命だと思います。運がなかったとしか言いようがない。
オバrevさんへ
黒田裕樹 本当にツキがなかったとしか言いようがないと思います。
正論というのは当時ではなかなか評価されないものなのに、そのうえにこれだけの凶事が重なっては…(>_<)
愚
JJSG こんばんは。
原因不明の天災などを、死んだ人間の怨みやタタリのせいにしたり、するなど愚の骨頂ですね。
科学が進歩した現代でもそうなのですから、昔はなおさらそう思う人々は多かったのでしょうねぇ。
一切が迷信なのに。。。
人々はいつになったら、それが迷信だと気づくのでしょうかね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、近代以前の世の中は迷信が固く信じられていましたから、「天災の原因は悪い政治にある」と思われていたんですよね。
確かに、現代でもその傾向がありますよね。まだまだ目覚めないのかもしれません。
1707年10月4日、元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、さらにその影響のためか、49日後の1707年11月23日には、富士山が大噴火を起こしてしまいました。富士山の噴火によって、周囲の地域は壊滅的な打撃を受けて飢饉(ききん)が発生し、また大量の火山灰が降り積もったことによって江戸も大きな被害を受けました。これらの大地震は宝永大地震(ほうえいおおじしん)、富士山の大噴火は宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と呼ばれています。
立て続けに起きる火事や天災などの不幸な偶然は、それまでの元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民は時の為政者である綱吉のことを深く恨むようになりました。綱吉自身もショックが大きかったのでしょうか、約1年後の1709年1月に、64歳でこの世を去ってしまいました。
綱吉には後継の男子がおらず、兄の綱重の子である綱豊を養子としていました。綱吉の死後に第6代将軍となった綱豊改め徳川家宣(とくがわいえのぶ)にとってまずやらなければならなかったのは、綱吉政権末期の大混乱の状態を一刻も早く落ち着かせることでした。家宣はブレーンの新井白石(あらいはくせき)の勧めもあって、生類憐みの令の廃止を宣言し、庶民の喝采(かっさい)を呼んだとされています。
しかし、新将軍になって世の中が変わることを期待されたのは事実でしょうが、生類憐みの令の廃止については、喝采を呼ぶほどの出来事だったかどうかという疑問が感じられます。
ところで、今回の講義の最初に「生類憐みの令は、一説によれば数十万人の罪人を出した」と書いたのを皆さんは覚えていますか?
今となっては冗談としか思えないこの数字を出した人物こそが、家宣のブレーンであった新井白石なのです。




いつも有難うございます。
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えめる にゃんとぉっ! あ、すみません。驚いたもので(笑)
富士山噴火の責任は無理ニャよねぇ。
新井白石? 名前は知っているニャ。
そっか。この人が、何かを企んでいたのニャな?
頭のいい人って、ずるいことも考えるものニャね。
何しようというのか。また次回のお楽しみっ。
悲惨
JJSG ふたたび。
2度の大地震に富士山の噴火とは。。。
大打撃ですね。
当時の人たち、そりゃーもう、ものすごい悲惨だったでしょうね。。。
自然災害ですから、いかんともしがたいですねぇ。
綱吉も、自然災害の責任を押し付けられちゃー、かなわんですよね。
新井白石、名前はよく聴きます。
どんな人でしたっけ?
すっかり忘れました。
さては、人に罪を押し付ける悪い奴ですね???
えめるさんへ
黒田裕樹 富士山の噴火のような自然災害を為政者のせいにされたらたまりませんよねぇ…(>_<)
新井白石は、江戸時代きっての儒学者です。当然勉強はできます。できるんですが…。
ここから先は明日(3日)の更新をご覧下さいm(_ _)m
JJSGさんへ
黒田裕樹 当時で考えられるような悲惨な災害が綱吉政権の末期に頻発しているんですよね。前コメともかぶるんですが、綱吉公は人々の不満のはけ口にされてしまったのでしょうか。あまりにも気の毒です。
> さては、人に罪を押し付ける悪い奴ですね???
鋭いですね(^^ゞ
なみなみ こんばんは。
新井白石さん。
たぶんですけどこの人、
真面目な優等生タイプの嫌なところが煮詰まったような感じの人ですねw
粘着質というかなんというか・・・。
先生に言いつけるようなこと、ガンガンしてそうですww
それにしても荻原重秀さんは、先見の明があるというか、
ちょっと生まれるのが早すぎるぐらいの発想でビックリです。
なみなみさんへ
黒田裕樹 > たぶんですけどこの人、
> 真面目な優等生タイプの嫌なところが煮詰まったような感じの人ですねw
> 粘着質というかなんというか・・・。
> 先生に言いつけるようなこと、ガンガンしてそうですww
新井白石は政治家というよりは儒学者ですからね。学問上の理想に燃えた人から他人を見ると、どんな風に見えるでしょうか…?
> それにしても荻原重秀さんは、先見の明があるというか、
> ちょっと生まれるのが早すぎるぐらいの発想でビックリです。
そうですよね。歴史では、重秀のように「生まれる時代が早すぎる」人がたまに現れます。ただ、そういった人々の最後は…。
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こんばんは。
晴雨堂ミカエル こんばんは、映画ブログの晴雨堂です。
ブログでの講義、拝聴しています。私が思い描いていた綱吉像そのものでした。
以前、草剛氏が綱吉を演じたことがありましたが、あれが時代劇の中で最もキャラとして史実の綱吉に近いかなと思っています。あくまで比較の問題で。
田沼意次の時代が楽しみです。あの時代もかなり先進的な政治だったと私は思っています。
現代政治を占う
オバrev ふ、ふ、富士山の噴火がこの時に起こったんですか.ΣΣ(゚д゚lll)ドヒェ~
う~ん、実績を評価されずに、その時起こった災害を自分のせいにされ失脚し、変わりにできた政権は前政権を否定するところから始める。
家宣と新井白石の政権の今後は、現代の政治を占う上で重要な参考になるかも(^_-)
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。MAHHYAさんのブログではお世話になりました。
草なぎ氏の綱吉、確かにありましたね。他の部分が結構いい加減でしたが、綱吉本人としては確かに一番近いですね。史実のとおりの時代劇ができてくれればいいのですが、難しいでしょうね…。
田沼は12月の予定です。晴雨堂ミカエルさんのご期待に添えるかどうかは分かりませんが、11月の吉宗ともども、よろしくお願いします。
新井白石は儒学者の出身であり、貧しい暮らしを続けながら勉強を重ねた後に、堀田正俊に見出されて出世の糸口をつかみましたが、正俊が暗殺されたことで再び浪人暮らしに戻ってしまいました。その後、縁あって綱吉の養子になる前の徳川綱豊に仕えることとなり、綱豊が家宣として将軍になった際にはブレーンとして活躍の場が与えられました。
白石は、家宣の治世をよく見せるための手段として、晩年に評判が落ちていた綱吉の治世を当初から評判が悪いように見せかけることを考えつきました。ライバルの評判を落とすことで、自分の評価を相対的に上げるという、儒学者にあるまじき考え方でもありました。
その背景には、荻原重秀に対する個人的な深い憎しみがありました。儒学者の目から見れば、重秀による貨幣の改鋳は、金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げているとしかうつっていませんでした。また、貨幣の改鋳後に物価が上がったことは、実は武士にとっては苦痛以外の何物でもありませんでした。なぜなら、彼らの給与は米で支給されるために、常に一定の収入しかなく、物価が上がれば生活が苦しくなるばかりだったからです。
白石は家宣に何度も直談判(じかだんぱん)した末に重秀を幕閣から追放すると、自分の信念にもとづいて金の含有率を元に戻す貨幣を鋳造しましたが、これが大失敗でした。貨幣の価値が上がったことで物価が値下がりして悪質なデフレーションを引き起こしてしまい、景気がさらに悪くなったからです。
結局、白石は第8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が就任したのと同時に追放され、晩年に自伝となる「折たく柴の記」(おりたくしばのき)を著(あらわ)していますが、この書の中で「生類憐みの令は数十万人の罪人を出した」と書いているのです。




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紗那 あ、あれ・・・?もしかしてー、もしかしなくてもー・・・
綱吉さんが悪く言われてるのって、この人のせいですかっ?!
この人ひどいですねー・・・ 権力握ると、人が変わるって奴なんでしょうか・・・
馬人 ライバルの評判を落とす・・・。
だから悪い説が綱吉さんに流れたんでしょうか^^;
この時代は色々と難しいですw
紗那さんへ
黒田裕樹 紗那さんの怒りのお気持ち、よく分かります。
真っ先に綱吉の功績を否定した人物としては、間違いなく新井白石が元凶でしょうね。
頭は良いけど視野が狭い。他人の功績を認めないどころか、自分の意に反すると徹底的に排除しようとする。こういう人物が政治の実権を握ると、どういうことになるのか…。
馬人さんへ
黒田裕樹 > ライバルの評判を落とす・・・。
> だから悪い説が綱吉さんに流れたんでしょうか^^;
そのとおりです。自分に実力がない、もしくは自信のない人間は、前任者のレベルを自己よりも下げることによって、自分のレベルをわざと高く見せようとするのが常ですからね。もちろん、インチキ以外の何物でもありませんが。
> この時代は色々と難しいですw
そうですね。でも、今回のような全体の流れを理解できれば、それほど難しいことはないですよ。今の段階では詳しいことまでは覚えられなくても大丈夫です。いずれ本格的に学習する際に役立てばOKですからね(^_^)v
絵に描いた餅?
オバrev 新井白石らの改革は、確か「正徳の治」という名前がついてたと思いますけど、名前だけからすると、正しい徳のある政治をしたという、政治家の鏡のように思ってましたが、その鏡は本物ではなく絵に描いたものだったんですね(^^;)
しかし金の含有量を上げるということは、金に裏付けされた貨幣、つまり金本位制完全実施とも考えられるけど、確かに貨幣の価値が上がり、物価が下がりますね。
デフレになったことは知りませんでした。
今の世界の流れも、ドルの価値が低下し、中国などはさかんに金を購入してます。同じようになるかもしれませんね。
MAHHYA うわあ、新井白石、ずいぶん「小さい人物」だったんですね~。
儒学者とは思えない行動です(>_<)
えめる 優れた才能も、使い道を間違ってしまうと悲惨ニャ。
家宣さんも、「そんなにいうならやらせてみるか」なんて
甘いこと思っちゃったのか?
その判断の結果がこれってことにゃね。
んっ?まさに現在に通ずる…いやいや、まだまだこれからっ。きっと。たぶん。
頭のいい人は奢っているからニャー。
心の勉強なんかしないからニャー。
人の心を痛めつけることなんて、平気な癖して、
自分のプライドだけはやたら高いからニャー。
と、頭の悪いオネコはひがむの~。たはー。
おばかバンザーイ! あ、ちがう?(笑)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 新井白石らの改革は、確か「正徳の治」という名前がついてたと思いますけど、名前だけからすると、正しい徳のある政治をしたという、政治家の鏡のように思ってましたが、その鏡は本物ではなく絵に描いたものだったんですね(^^;)
お考えのとおりだと私も思います。理想に燃えるのは結構ですが、現実を見ないことには、政治は始まりませんからね。
> しかし金の含有量を上げるということは、金に裏付けされた貨幣、つまり金本位制完全実施とも考えられるけど、確かに貨幣の価値が上がり、物価が下がりますね。
> デフレになったことは知りませんでした。
インフレやデフレは公民で学ぶところですから、歴史教育ではあまり取り上げられないことが多いですね。ただ、貨幣の価値と物価とは相関関係にあることさえ理解していれば、容易にわかる事実でもあります。私は公民の教師が本業ですから、そのあたりはずいぶん助かっているかもしれません(^^ゞ
> 今の世界の流れも、ドルの価値が低下し、中国などはさかんに金を購入してます。同じようになるかもしれませんね。
金本位制は世界恐慌後にブロック経済になってから崩壊し、第二次大戦後にドルを基本とする固定相場制を経て、現在の変動相場制になりましたが、ドルは未だに世界の基軸通貨ですからね。その可能性はあるかもしれません。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > うわあ、新井白石、ずいぶん「小さい人物」だったんですね~。
> 儒学者とは思えない行動です(>_<)
残念ながら、そのとおりと言わざるを得ませんね。人間の行動が私怨で振り回される。これほど愚かなことはないのですが、自分のやり方が絶対正しいと固く信じている人間ほど、視野が狭くなり、大人気ない手段で他人を陥れようと考えるものでもあります。
えめるさんへ
黒田裕樹 儒学者としては超一流であっても、政治家として一流であるとは限りません。
本当に政治家に向いているのは、それぞれの国益を第一に考え、天才的な頭脳は持っていずとも、優れた決断力や判断力、時には将来を見据えた洞察力をも兼ね備えた、自らが「汚れ役」になることをいとわない人物だと思います。単なる人気取りでは政治はできない。綱吉公の一生とその後を振り返ると、まさにそのとおりだと思いますね。
もちろん、私が述べた原則は、現代にも通じる教訓だと思います。個人のプライドや頭の良さよりも、人の痛みの分かる政治家こそ信頼したいですよね。
新井白石のとった行動は、結果として綱吉の功績を不当に貶(おとし)めることになりました。また、白石が儒学者であったことで、儒学を学問の中心としていた江戸幕府における彼の評判が後世も決して悪くなく、それに伴(ともな)って彼の自伝である「折たく柴の記」が評価を受けることで、「綱吉=暗君」説が定着してしまうことになりました。
また、綱吉と同時代の人物であった徳川光圀が後世に「黄門様」として有名になってしまったことも、綱吉には不運でした。徳川光圀としての実像を度外視して定着した「黄門様=善玉」のイメージと対比させて、綱吉はさらに暗君の印象を植え付けられることになってしまったからです。
人々の意識から「戦国の遺風」を一掃して「人命尊重と思いやりの精神」を定着させるという大転換を実現させただけでなく、能力ある人材の起用や、財政難における危機管理での見事な対応など、数々の功績があった徳川綱吉の治世は、こうして長い年月の間、ずっと不当な評価しか受けてきませんでした。
その後の歴史を作った人間に功績をすべて否定されるだけでなく、ねじ曲げられた評価しか与えられずに、それが真実であると後世の人間にずっと思い込ませられる。これぞまさに「歴史の捏造」(ねつぞう)であり、絶対に許されないことです。
今年(平成21年=2009年)で没後300年を迎えた綱吉公の名誉回復を今こそ実現していくことこそが、歴史の事実を理解して、真実に目覚めようとする現代に生きる私たちがなさなければならないことではないでしょうか。
(第6回歴史講座の記事はこれで終了です。明日(4日)の6時からは講座の補足、さらに18時には今回の講座全体の講評について書きます)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!なるほど、白石によるそんな「捏造」が
あったんですね~。
とんだ汚名を着せられながら、300年。。
綱吉も浮かばれないですね・・
それでも、歴史上に名を残したい!という野望が渦巻く
世界で生きている人間には、例えそれが、悪名だとしても、
後世にまで名を残すことが出来たのは、逆に「白石」が
居てくれたお蔭?だったかも知れませんが、私も考えが歪んでいるでしょうかね~?(笑)
富士山は、確か私が学生の時は「休火山」と教わりましたが、今は「活火山」に訂正された様ですね。。
と言う事は、これからもしかして・・・・^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、「悪名」であっても名を残した方が…というわけですね。
確かに歴史上に名を残した人間はほんの一握りにしか過ぎませんが、新井白石の時代が「正徳の治」と必要以上に美化されていることを考えれば、せめて本当の意味で名前を残してあげたいと思うのもまた人情ではないかと思います。
富士山が活火山ですか。それは厄介かもしれませんね…(´・ω・`)
ケンシロウ こんにちは。
ここで記事とは関係ないコメントをw
随分冷え込みましたね。
インフルエンザも蔓延してるので
気を付けて下さいね。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 健康に関するお言葉、いつも有難うございます。
仰るとおり、急に冷え込んでまいりました。
インフルにもかかりやすくなりますので、ケンシロウさんもご自愛下さいm(_ _)m
正しい史実
オバrev やはり、歴史を正しく知るということは大事ですね。
たとえマスコミや後の政権が批判しても、海外から圧力がかかったとしても、正しい歴史的事実は伝えられるべきだと思います。
後に黒田先生のような人がでてきて、その事実を伝えてくれるかもしれないですからね(^_-)-☆
なみなみ こんばんは。
今回も楽しく読ませていただきました。
綱吉、私が学校で習った頃は
散々な評価でしたが、
きちんと見直されててホッとしてるんじゃ
ないでしょうかw
ただ、やっぱり綱吉側にも隙があったんでしょうね。
桂昌院さんとセットで悪口言われるあたり、
当時の人たちに反感を感じさせるものが
あったように思います。
馬人 悪い評価しかされていないって可哀相ですね…。
「悪い」という観念が人々の中に埋め込まれているから
こういう悪い説が飛び出してくるんでしょうね…。
授業で習った綱吉さんは少し違いましたw
善人のイメージしかありませんでしたよ^^
えーっと、綱吉の「生類憐みの令」でしたっけ。
確かそういうものの話を聞いたとき、
生物を大切にする人なんだな~と感動しましたw
オバrevさんへ
黒田裕樹 正しい歴史的事実を知ることが、我が国のみならず世界の歴史を知ることができて、あらゆる局面で是々非々の判断を下すことができると思います。
ニセの情報をつかまされるということは、その方面においては他よりも遅れをとることになり、ひいては国際競争に負けてしまうことにもなりかねません。
どんな圧力にも負けずに正しい歴史的事実を伝えることは、崇高な理想ではありますが、今回の綱吉講座を通じて、やはり重要なことだと再認識しますね。
なみなみさんへ
黒田裕樹 桂昌院は綱吉の生母ではありますが、身分が低かったにもかかわらず最後には従一位にまで昇進したことに加えて、綱吉が大の母親びいきということあって、周囲のねたみを買っていたということがありました。
このあたりにも、綱吉が後世に嫌われるようになった一因が確かにあるかもしれませんね。
馬人さんへ
黒田裕樹 > 悪い評価しかされていないって可哀相ですね…。
> 「悪い」という観念が人々の中に埋め込まれているから
> こういう悪い説が飛び出してくるんでしょうね…。
仰るとおりでして、一度「悪人」というレッテルが貼られたら、とことん悪人扱いされる、というのが常ですね。いわゆる「いじめ」にも似たようなところがあると思います。
> 授業で習った綱吉さんは少し違いましたw
> 善人のイメージしかありませんでしたよ^^
> えーっと、綱吉の「生類憐みの令」でしたっけ。
> 確かそういうものの話を聞いたとき、
> 生物を大切にする人なんだな~と感動しましたw
「綱吉=悪」とか「生類憐みの令=悪法」という先入観を持たずに学習できれば、むしろ馬人さんの印象が自然だと思います。いかに先入観が偏った見方をもたらしているか、ということが良く分かりますね。
我々日本人という民族は、島国という地域が限定された環境で育ってきたせいか、国民全体が心を一つにして行動することが良くあります。俗にいう「一億総○○」というやつですね。我が国では昔から、国民がこのように「同じ方向で物事を進める」という傾向がたびたびありました。
今回の講座の初めの方で述べた戦国時代であっても、下剋上の名のもとに「他人を殺せば出世する」という極端な論理がまかり通ったことによって、江戸時代に入ってもそれまでの殺伐とした雰囲気が色濃く残っていたのです。
しかし、徳川綱吉という稀有(けう、滅多にないという意味)な才能の政治家によって国民の感覚は激変しました。ただ、綱吉による処方が「劇薬」であったがゆえに、思いやりの精神が行き過ぎて「他人との争いは良くない」と考えるようことになったことや、他人を信用するあまりに、それが国家レベルにまで高まることで「他国が攻めてくるはずがない」という予想もしなかった方向へと思想が流れていってしまったのです。
「鎖国」という思い込みから、幕末に無理やり「開国」させられたという苦い経験も、考えようによっては綱吉による劇薬の副作用があったのかもしれません。とはいっても、その原因を綱吉にのみ求めるのは酷というものでしょう。なぜなら、我が国では一時(いっとき)は開国できる条件がそろっていたのですから。では、その種をまいたのは誰で、成長させようとしたのは誰で、さらにその芽を摘(つ)み取ってしまったのは誰なのでしょうか?
これに関しては、次回(11月28日)以降の私の講座で明らかにしていきたいと思います。
(引き続き、18時より今回の講座全体の講評について書きます)




いつも有難うございます。
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馬人 下剋上とは恐ろしい;;
殺せば出世、という変な論理ができあがってたんですね…。
戦国時代を描いた漫画などでも、
武士がピリピリした雰囲気を放っていたり、
あんなに殺し合いの場面が多い^^;
最初は「何故殺しあってるんだ?」と疑問だったのですが、
出世するための汚い手だったとは;;
馬人さんへ
黒田裕樹 下克上については講座本編でも少し触れましたが、いつどこで殺されるか分からない世の中ですからね。人間の感情から道徳心が吹き飛んで、殺伐とした雰囲気になるのも無理はないと思います。
現代とは全く異なる倫理観ですが、このような違いを知ることも歴史の勉強なんですよ。
紗那 確かに、同じ方向性に進むというのは、「高度経済成長」とかなら、プラスに作用したんでしょうけど・・・
やはり裏表あるっていうことですね。
しかし、下克上にまとまるというのもあれですけど・・・
極端><
あぁ、開国できるチャンスって何?!気になる・・・
紗那さんへ
黒田裕樹 全員が同じ考えというのは、仰るとおり極端ですからね。でも「一億総○○」というのは、我々日本人にはおなじみのフレーズですから、ある意味仕方ないのかもしれません。前回の総選挙でも似たような結果が出ていますし。
> あぁ、開国できるチャンスって何?!気になる・・・
ヒントは本文に書いていますね(笑)。まずは「種をまいた人」から考えてみましょうか(^^♪
MAHHYA 真k改革者なのに、現代のゆがめられた綱吉像、本当に忸怩とした思いになります。
これからも、一般にはあまり知られていないお話、楽しみにしています。
今回も、勉強になりました。
ありがとうございます!
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^o^)丿
正当な評価がされない人物というのは、本当に気の毒ですし、また「ウソ」を教えられる私たちにとっても迷惑な話です。
一方的な価値観で歴史を語るのでなく、複眼的なものの見方で今後も講座を続けてまいります。
それでも、徳川綱吉は、偉大
青田 黒田先生
青田です。
この内容を読んで、思ったのですが、
綱吉のしたことは、日本にとって、大事なことを
したと思います。
ただ、今の日本は、綱吉の思惑とは、違い
真逆になっている気がします。
【国内】・・唯物論の自分勝手主義社会。
綱吉の素晴らしいのは、それまでの戦国の気風で、唯物論で、自分勝手主義の社会を変えたことです。
それは、綱吉自身が唯物論者でなかったことが
大きかったと思います。
だからこそ、綱吉が考えた理想の社会としての
『道徳性』(儒学)
『命尊重の意味での厳罰化の法律』(生類憐みの令)のショック療法を打ち出しました。
逆に、今の日本では、いじめ、虐待件数の増加
さらに
平成になってから、起こる凶悪犯罪(残虐性、低年齢化)などを考える時、
戦後の物中心の唯物論の弊害が私は、原因だと思います。
私は、人命尊重だからこそ『生類憐みの令』の趣旨での法律の厳罰化は、必要だと思います。
(今でも、法律による厳罰化に反対する論者が多くいますが、)
【国外】
逆に
日本は、外国には、優しさ、思いやり、素直さ
だけで、対応しようとしています。
おそらく、綱吉も、あの世で、
『嘆いている』と思います。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
綱吉の改革の精神を今こそ見直すべきかもしれません。