ここで二人をあっさりと殺すこともできたのですが、継母(ままはは)による懇願(こんがん)や、義経の母親の色香(いろか)に負けて結局二人を生かしてしまい、それから約25年後、成長した頼朝や義経らによって、清盛亡き後の平家(へいけ)はあっさりと滅亡してしまったのです。
自分に刃向(はむか)ったり、あるいは自分が滅ぼそうとしたりした勢力の残党を生かしておいては、いつ自分が平家の二の舞(にのまい)を演じてしまうか分かりません。そんな厳しい現実を歴史から学んだ家康だったからこそ、自分の生命があるうちに大坂城を落として、豊臣家を子供の首すらはねることで完全に叩(たた)き潰(つぶ)す必要があると判断したのでした。
そんな家康の「歴史に学んだ姿勢」が、実は幕府の組織のあちらこちらに見受けられるのですが、皆さんはご存知でしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人に情けを掛けたばかりに、滅亡してしまった平氏。清盛。
己の出世の為なら、情け容赦なく
立ち向かわなければいけないと悟った家康。
平清盛の行いは「墓穴を掘る」事だったとはいえ、人としての
良心を断ち切れなかった清盛を
バカな武将だと本当に一笑する事が出来るでしょうか。。
(まあ、単なる女好きだったのかも?という疑惑も断ち切れませんがww)
男性の方々は、女性とは違い出世欲が旺盛でいらっしゃると思うので、男性のご意見とは異なるかもしれませんが、歴史に名を残すか・・或いは、人としての情けを重んじるかと問われたら、私は後者を選んでしまうかも知れません・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しい問題ですね。
男子と生まれたからには「歴史に名を残したい」と誰しもが思うもの。
そのためには人間としての情を捨てることもいとわない…かといえばやはり躊躇してしまうでしょう。
迷った末に、清盛のような生き方を選択してしまうかもしれません。
歴史に学んだ家康にはそれが分かっていた。
だからこそ非情な「鬼」になり得たのでしょう。
今更ながら、凄まじい生涯だと思います。
.いつもありがとうございます。
アースガイド なるほど~勉強になるな~。
「おごれる徳川ひさしからずや」を
防いだという事なんですね~。
でもやはり非情ですね~。
黒田裕樹先生
風早 りら 敵の子供を殺害する
確かに 得策かもしれません
でも あまりにも 残酷です
悲し過ぎますね
数日ブログアップしていない時
励ましのコメント頂き
ありがとうございました
励みになりました
25日12時00分セットアップしました
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > なるほど~勉強になるな~。
> 「おごれる徳川ひさしからずや」を
> 防いだという事なんですね~。
> でもやはり非情ですね~。
歴史に学ぶ姿勢を持っていただけに、仰るとおり徳川家を平家の二の舞にすることはできなかったのでしょうね。例え非情であると分かっていても…。
風早りらさんへ
黒田裕樹 得策だけど残酷。普通の人間にはできませんよね。
家康はすごい精神力を持った人物なのかもしれません。
お元気そうで何よりです。
完全復活を焦らずにお待ちしております。
徳川家康はスーパーマン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川家康は、『歴史から、学んだ。』と
あっさりと考えていましたが、
冷静に考えると、徳川家康の年齢を考えると
その学んだことを活かす土台が、しっかりしていると思いました。
というのも、徳川家康は、73才で、死ぬ間際まで
頭脳・肉体が鋭かったです。
◆ 関東への転封が47歳(人間50年と言われた時代)この年齢から
未開の地への開拓をするのは、驚きです。
ちなみに、織田信長49歳で死去、上杉謙信49歳で死去、武田信玄53歳
◆ 58歳で、徳川義直(尾張)、60歳で、徳川頼宣(紀州)、62歳で、徳川頼房(水戸)
をもうける。
◆水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露しています。
◆ 剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。また、力も強く、
70歳の時に総長4尺7寸(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としています。
◆よく、考えると、大阪の陣の時の謀略の老獪さは72歳の時です。
日本は、超高齢化社会と言いますが
年齢で、考えた場合、やはり、徳川家康は、
スーパーマンだと思えてきました。
恐るべし、徳川家康。
青田さんへ
黒田裕樹 徳川家康は頑強な肉体と強じんな精神力を持っていたようですね。
それに加えて「薬オタク」といわれたほどの健康管理の素晴らしさ。
歴史に名を残す人は、やはり一般人とは明らかに異なるようです。
真田親子
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
秀頼の遺児の7歳の国松を市中引き廻しの上
殺した理由としては、源頼朝、義経の歴史から学んだことだけではなく、真田親子のこともあったように思います。
真田親子は、上田合戦、関ヶ原の戦いで、秀忠38000との戦いで、散々、徳川軍を苦しめました。
当然、徳川家康は、真田親子は、切腹させたかったのですが、真田信之、本田忠勝の必死の説得で
紀州の九度山に配流にしました。
その結果、大阪の陣で、真田幸村に散々、徳川家康は、苦しめられました。
もし、関ヶ原の戦いで、真田親子を切腹させていれば、という思いも国松を殺した遠因になっているというのは、私の論理の飛躍でしょうか。
青田さんへ その2
黒田裕樹 家康の恨みが込められているということでしょうか。
国松と真田家に直接の関係があるかどうか、という点が考慮の対象になると思われます。
初めての武家政権を誕生させた源氏や北条氏と違い、足利氏はカリスマ性や実力面で劣(おと)るところがあったことや、足利氏と同じだけの勢力をもつ守護大名(しゅごだいみょう)が数多く存在し、彼らが幕府の言うことをなかなか聞かなかったことで、幕府の指導力(しどうりょく)が設立当初から疑問視されていたのです。
守護大名の多くは足利氏に匹敵する広大な領地を持っていたのと同時に、管領(かんれい)などの幕府の重要な役職を歴任(れきにん)していました。いわば財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、幕府の言うことを聞かなくなったのでした。
そんな守護大名らに対抗すべく、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が独裁的(どくさいてき)な政治を行ったのですが、最期には暗殺されるという悲劇をもたらし、その後遺症(こういしょう)は後の幕政に深刻な影響を与えたうえに、1467年の応仁の乱(おうにんのらん)によって、室町幕府は事実上崩壊(ほうかい)してしまいました。
家康はこうした室町幕府の失敗から二つのことを学びました。それは「大名の権力と財力との分散」と「独裁者を出さないシステム」です。




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ぴーち こんばんは!
今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
大阪はいかがですか?
足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
(すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
> それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
> 大阪はいかがですか?
そちらは雷雨ですか。大阪はきれいな満月を見ることができますが、暑いです…(´・ω・`)
> 足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
> (すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
仰るとおりだと思います。
過ぎたるは及ばざるがごとし。さりとてどうしようもないときもありますから、世の中は難しいものです。
江戸時代の大名は、徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、関ヶ原以後に徳川家に従った外様(とざま)に大きく分かれますが、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名は譜代であり、また彼らの領地は多くても10万石前後に留まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした 「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治に成功したのでした。
ところで、家康は自身の持つカリスマ性によって、いわゆるトップダウン型の独裁政治が可能でしたが、自分の死後の江戸幕府には、それだけの資質を持つ将軍が常に誕生するとは限りません。だとすれば政治のシステムをどのように調整すればよいのでしょうか?




いつも有難うございます。
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風早 りら 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
この考え 家康以前にはなかった事ですよね
凄い頭脳ですね
今さらながら感心しました
ありがとうございます
.
紗那 なるほど!長年の謎が解けました!
なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
なるほど、そういう理由だったのですか……!
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
> この考え 家康以前にはなかった事ですよね
> 凄い頭脳ですね
> 今さらながら感心しました
> ありがとうございます
言われてみれば当たり前のことでも、考案する才能は並大抵ではありません。
「歴史に学ぶ」ことは素晴らしいですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!長年の謎が解けました!
> なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
> なるほど、そういう理由だったのですか……!
そういうことです(^^♪
財力と権力を実にうまく使い分けていますよね。
.
ぴーち こんばんは!
先人の失敗を教訓にしながら、
家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先人の失敗を教訓にしながら、
> 家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
> 目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
全くその通りだと思います。
家康の生き方から学ぶことは多いですね。
そこで、家康は将軍の下に数人の老中(ろうじゅう)を置いて、彼らの合議制(ごうぎせい)によって政治を動かすことができるシステムを作り上げました。こうしておけば、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになります。
また、この手法による政治が仮に失敗したとしても、その責任は決断した老中が持つことになり、将軍の名前には傷がつかないというメリットもありました。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図(はか)られることになったのです。
ところで、幕政の安定を願っていた家康は、さらに他の手も打っていました。その際に彼が参考にして、また利用したのが皇室あるいは朝廷の権威(けんい)だったのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら またもや 朝廷が利用されますね
秀忠の娘を朝廷に
差し出して 外戚に
なろうとしたんですよね
益々 楽しみになってきました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > またもや 朝廷が利用されますね
> 秀忠の娘を朝廷に
> 差し出して 外戚に
> なろうとしたんですよね
> 益々 楽しみになってきました
天皇の外戚になったんですよね。徳川家だけが皇室の権威を利用する。
天下を取った特権とはいえ、確かにズルいですね(笑)。
.
ぴーち こんばんは!
少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
>
> そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
> そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
なるほど、そういう考えもありますね。
現代社会のシステムには基本形が昔のままというのがよくありますが、今回の件も家康がからんでいるという可能性は十分にあると思います。