そして1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破ると、1603年には朝廷(ちょうてい)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開き、徳川家の天下取りに本腰(ほんごし)を入れ始めました。とはいえ、関ヶ原の直後はまだまだ豊臣家に従う大名が多かったので、家康は以後も時間をかけて徳川家の天下へと導(みちび)くことになります。
関ヶ原から10年以上が経過して豊臣家恩顧の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人して将来の徳川家に悪い影響をもたらすと判断した家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を暗転(あんてん)させることになったのでした。




いつも有難うございます。
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明天会更美好 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
黒田先生
風早 りら 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
.
ハチ公 最近来てなくてすみません(>_<)
関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
明天会更美好さんへ
黒田裕樹 > 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
> それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
律義者といっても裏切りが当たり前の戦国時代の大名ですから、当然徳川家の将来を考えて行動しているわけですし、彼にとっては邪魔者(?)だった秀吉が死んだことで、それまでの数々の恨みを一気に晴らす機会を得たといっても過言ではないでしょう。
そして、その復讐の最たるものが次回(21日)の「言いがかり」であるといえます。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
> このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
> 若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
淀殿が気づかなかったのは、幼少時に家族との死別や落城を経験しているとはいえ、彼女が「お姫様育ち」であるがゆえの「世間の認識」とのズレが原因ではないでしょうか。
お姫様育ちであるがゆえに豊臣家の現状を理解できず、また後の徳川家との戦いにおいても、優位に戦いを進めながら講和を結び、挙句の果てには騙されて落城の原因を作ってしまうことにもつながってしまったと考えております。
ハチ公さんへ
黒田裕樹 > 最近来てなくてすみません(>_<)
お久しぶりです(^^♪
一連の慶事は素晴らしかったですね(^o^)/
> 関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
有名な出来事ですからね。詳しくは明日(21日)の更新で紹介しますよ。
.
ぴーち こんばんは!
>家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
まるで「アンコウの餌待ち」の様な
状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
しかも、家康の顔も「アンコウ」に
思えて来てしまいました(^^A
応援凸
関東の誠 久しぶりに投稿させて頂きます。
物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
先生の今後の講座を楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > >家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
>
> まるで「アンコウの餌待ち」の様な
> 状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
> しかも、家康の顔も「アンコウ」に
> 思えて来てしまいました(^^A
言われてみればそんなイメージがありますね(^^ゞ
アンコウに飲み込まれた(?)豊臣家の運命はどうなるのでしょうか…。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 久しぶりに投稿させて頂きます。
ご無沙汰しております。お言葉有難うございます。
> 物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
> ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
> 先生の今後の講座を楽しみにしております。
歴史にはいろんな見方がありますからね。
秀頼の出自の謎は確かに「?」の部分もありますし、清正の突然死も理由が不明ですから、仰るような見方も十分に考えられると思います。
最後の方で詳しく述べますが、今回の講座では個人の感情を一切排して第三者的な立場で家康の歴史を語り続けているつもりですので、これからもよろしくお願いします。
ところが、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)はあり得ないのですが、当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまいました。
豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ送りましたが、家康が且元に会おうとしなかったために、且元はそのまま当時家康が所在していた駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を帰しました。そしてその後に、家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)したのです。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになりました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥(おちい)った豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は、豊臣家に宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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紗那 この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
.
ぴーち こんばんは!
よく棋士も名人級になると
相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
応援凸
.
オバrev まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
.はじめまして
てのりぱんだ いつもおもしろく拝見しています。
時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
^^
趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
紗那さんへ
黒田裕樹 > この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
そう考えて間違いないでしょうね。
権力者におもねるあたりは学者失格といえそうですが…。
> しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
確かにそうですね(^^ゞ
情報戦を制する者が天下を制するというのは、いつの時代も変わらないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > よく棋士も名人級になると
> 相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
そうですね。幼少期から人質という命がけの毎日を過ごしていましたから、仰るとおり自然と身に着けた可能性もあると思います。
> それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
学者といっても権力者にすがらないといけないこともあるということでしょうか。有無を言わせず納得させる家康の貫録はさすがというべきでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
そのとおりです。まさに言いがかり以外の何物でもありませんが、これが通ってしまうところが何とも…(´・ω・`)
> 忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
確かに焦りはあったでしょうね。相手のミスを絶対に見逃さないところはさすがです。
てのりぱんださんへ
黒田裕樹 > いつもおもしろく拝見しています。
はじめまして。いつもご覧下さって感謝しております。
> 時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
> ^^
いえいえ、どのチームを好きになるかは個人の自由ですから(^^♪
優勝争いをしているチームがひいきでうらやましいです(´;ω;`)
> 趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
有難うございます(^o^)/
今後ともよろしくお願いします。
この作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)です。この戦いの後、秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡しました。
豊臣家を滅ぼすためには手段を選ばず、またわずか8歳の子であっても容赦なく首をはねたことで、家康に対する悪いイメージは完全に定着してしまったのですが、家康には家康なりの筋の通った考えがありました。なぜなら、これらの手法(しゅほう)は勉強家の家康が「歴史に学んだ」結果でもあったからです。




いつも有難うございます。
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紗那 そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
次の記事、気になります
紗那さんへ
黒田裕樹 > そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
> 悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
本当にそうですよね。
「ずる賢い」「汚い」という家康の一面的なイメージが完全に定着してしまってます。
> 次の記事、気になります
次回(23日)からは家康の見方が180度変わりますよ。ご期待下さい!
.
ぴーち こんばんは!
ああ・・
この場面は黒田さんが殊更
力が入った場面でしたよね^^
こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場面は黒田さんが殊更
> 力が入った場面でしたよね^^
そうでした(^^ゞ
前半の言わばヤマ場でもありましたからね。
> こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
> 家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
見た目はどう取り繕っても極悪非道ですからね。致し方ない面があると思います。
ただ、個人の評価としてはどうなるのか、ということなんですよね。
> 特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
言われてみればそのとおりですね。
豊臣家を滅ぼした憎いやつだけでなく、そんな要素まで加わったら…。
.
アースガイド ジェット・リーの映画「英雄」
の始皇帝のように、
悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > ジェット・リーの映画「英雄」
> の始皇帝のように、
> 悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
> 今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
確かに家康に限らず、天下統一に関しては多くの血が流れることもあって、悪のイメージが定着していますね。
今の世の中は…現状では確かに平和ですよね(^^ゞ
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、豊臣方の油断は、自然と
思えてきました。
というのも、徳川家康の年齢は、豊臣秀吉の4つ下です。
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は、すでに57歳でした。
そう考えると、淀の方が、家康の言葉を最初は、
信じたのも、家康の年齢もあったと思います。
まさか、家康が57歳から、74歳まで、生きるとは、大阪方も考えていなかったでしょうね。
ということは、もし、徳川家康が、関ヶ原から、
大阪の陣までの間に寿命で、亡くなっていたとしたら、
歴史は、どうなっていたでしょうか。
可能性としては
① 豊臣家は、60万石の大名として残る。
・・秀忠の娘の嫁ぎ先であり、お江は、淀の方の
妹なので。。
② 江戸幕府が、長期化するが、いずれは、豊臣家を取り潰す。
黒田先生は、どういうifが有り得ると思いますか。
青田さんへ
黒田裕樹 以前の講座で紹介しました「関ヶ原の戦いで家康が負けて生き残った場合」に近いと思われます。
恐らくは西日本を豊臣家、東日本を徳川家が支配する「二重政府」の状態が長く続いたでしょう。そして、両者の間には当然のように戦いがずっと繰り広げられます。
大阪の人間としては考えるに忍びないですが、豊臣家が中途半端に残っている以上、我が国の平和の達成は非常に遅くなったでしょう。その隙を外国につけ狙われれば…。
豊臣家の存続方法
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
NHKの大河ドラマ『江』を観ているのですが
大阪の陣の時の徳川家康の観ていると、
どうしても凄まじい怒りを感じます。
たしかに、平清盛は、源頼朝、源義経を許して
その後、平氏は、滅ぼされましたが、
私は、豊臣家が大名として、生き残る道は
あった気がします。もちろん、そのためには
淀の方、秀頼の態度も軟化させる必要がありますが。。(秀頼が徳川家に臣従するカタチ)
というのも、
豊臣秀吉が天下を取っても、織田家は、大名としては、江戸時代も残りました。
黒田先生は、豊臣家が、大阪からの国替えに応じて、徳川家に臣従を違うと豊臣家は、残ったと
思いますか。それとも、それでも、家康は、豊臣家を滅ぼしたと思いますか。
ただ、織田家と豊臣家との大きな違いは、
関ヶ原浪人の存在があるか、ないかも大きな
要因なのかもしれませんね。
結果は、わかっているのですが、心情的に豊臣家には、残って欲しい気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 あくまで推論の域を出ませんが、私は豊臣家の存在を家康は許さなかったと思います。
史実の豊臣家の滅亡まで関ヶ原から15年近く経過していますが、家康は将軍就任やその継承、幕府体制の基礎をつくるなど着実に手を打っています。
恐らくは自己の寿命を計算に入れたうえで豊臣家をはめる形で方広寺の梵鐘への言いがかりを考えたと思われます。
また、家康が豊臣家を許さなかったもう一つの理由として、史実の淀殿の高い自尊心が豊臣家による徳川家への臣従を許さなかったことを見抜いていたからではないでしょうか。