三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)と呼ばれたこの戦いに敗れ、あわてて浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った家康は、恐怖のあまり馬上(ばじょう)で粗相(そそう)をしたと伝えられています。
何とか生きて浜松城へ戻(もど)ることができた家康は、惨(みじ)めな自分の姿を絵師に描(か)かせました。この時の肖像画(しょうぞうが)は現在も残っており、俗(ぞく)に「しかみの像」と呼ばれています。家康はこの絵を残すことで自分の行為を反省するとともに、同じような過(あやま)ちを二度としないと固く誓(ちか)ったといわれており、こんなところにも家康の「歴史に学ぶ」姿勢がうかがえます。
また、家康と信長との同盟は、裏切りが当たり前の戦国の世の中で、信長が死ぬまでずっと続いたという極(きわ)めて珍しいものでしたが、そんな同盟にも危機のときがありました。1579年、家康の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)であった築山殿(つきやまどの)と嫡男の徳川信康(とくがわのぶやす)が武田家に内通(ないつう、味方の中にいながら敵に通じること)しているのではないかと問題になり、信長は家康に両者を殺害するように命じたのです。




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風早 りら 信長から家康が信康を殺害
するように 言われた時
家康は どれだけ 苦しんだ事
でしょう それでも 徳川を
守るため信長の命にしたがいます
この御話は何回聴いても
辛いですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長から家康が信康を殺害
> するように 言われた時
> 家康は どれだけ 苦しんだ事
> でしょう それでも 徳川を
> 守るため信長の命にしたがいます
> この御話は何回聴いても
> 辛いですね
そうですね。
詳しくは明日(18日)の更新で紹介しますが、家康の苦渋の決断は、その後の運命の激流をも想像させる様な辛いものだったことでしょう。
.
紗那 この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
> 家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
確かに家康らしくない大失敗ですね。
ただ、自分の領地を素通りされて知らんぷりをしていては、家臣に示しがつきません。家康はやむなく立ち上がったとも思われますが、それならそれでもう少し作戦を練ることができたはず。
失敗だということが分かっていたからこそ、家康は自分のみじめな姿を描かせたのでしょうね。
.
ぴーち こんばんは!
しかみの像。。
仰るとおり、「歴史に学ぶ」
「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかみの像。。
> 仰るとおり、「歴史に学ぶ」
> 「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
> なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
私もそう思います。
人間はどうしても失敗をする動物です。大切なのは、失敗を反省し、二度としないために自分を鍛錬すること。
家康の姿勢は、現代人が忘れてしまった大事なものを思い出させてくれますね。まさに「歴史に学ぶ」です。
是非知りたい!
オバrev 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
ぜひ知りたい所です!!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
通常であれば恥と思って振り返ることもしませんからね。
家康の姿勢の違いがよく分かります。
> 信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
> ぜひ知りたい所です!!
大河ドラマでは切腹後の家康の断腸の思いがワンシーンに凝縮されていましたが、確かに凄まじいものがあったでしょうね。
私の自分なりに分析して、本日(18日)の更新にまとめてありますので、ぜひご覧下さい。
結局、家康は泣く泣く信康に切腹(せっぷく)を命じて、築山殿を殺害しました。信長との同盟関係を維持(いじ)することで、徳川家の繁栄(はんえい)や、ひいては家臣や領民の平和を守るために、非情(ひじょう)の決断を下(くだ)さざるを得なかったのです。
「平和を保つ」ということは、口で言うのは容易(たやす)いものの、時には身を切られる思いをしなければならないほどの厳(きび)しい決断を迫られることがあるということを私たちに教えてくれるエピソードでもありますね。
その後、1582年に起きた本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長は明智光秀(あけちみつひで)に殺害されましたが、このとき家康はわずかな家臣とともに堺(さかい)にいました。落ち武者狩(が)りによって生命が奪われる危機でしたが、伊賀(いが、現在の三重県)の山々を強引に越えて何とか難を逃れました。
三河に戻った家康は、謀反(むほん)を起こした光秀を討って天下取りに名乗りを挙げようとしましたが、既(すで)に秀吉によって光秀が討たれた後でした。秀吉による常識はずれのスピードに、さしもの家康も勝てなかったのです。それでも家康は来るべき秀吉との戦いに備え、信長の死後の混乱に乗じて甲斐などを治(おさ)めて領土を拡大していきました。




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ぴーち こんばんは!
平和を願う。平和を保つ。
仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
応援凸
.
そうめん お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
家康は堺に居たんですか・・
生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
P.S
バトン回しました。
出来ればで良いですよ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 平和を願う。平和を保つ。
> 仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
そうなんです。
家康も人の子ですから、家族を守るために信長と戦う選択肢も頭の中にあったはずですが、徳川家を守るとともに領民の平和と安全の保障のためには、それこそ血を吐くような決断をせざるを得なかったのですから。
> こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
有難うございます。
仰るとおり、家康のように表沙汰になった以外にも、数えきれない人々の犠牲によって、我が国のみならず世界の平和が守られてきていると考えるべきでしょう。私たちはそのことに気付くとともに、犠牲になった人々に感謝すべきだともいえるのです。
.黒田裕樹先生
風早 りら 今回の先生のアップで
思いましたが 家康は
相当 頭が切れる人ですね
先見の眼があるとはこの事
でしょう
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
> 織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
有名な話ですからね。
明智光秀については昨年の今頃に私の講座で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-193.html
> 家康は堺に居たんですか・・
> 生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
信長の招待を受けて、たまたま少人数で旅行中だったんです。
信長の領地内でその信長が殺されたことによって、周囲が一気に敵だらけになってしまったのですから、家康は絶望的な思いになったと思われます。よく生きて自領の岡崎へ戻れましたよね。
> P.S
> バトン回しました。
> 出来ればで良いですよ。
バトンですか(^^ゞ
ブログの性格上、ここで記事にはできませんが何とかしてみましょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生のアップで
> 思いましたが 家康は
> 相当 頭が切れる人ですね
> 先見の眼があるとはこの事
> でしょう
確かに現状だけでなく、将来の展望も考えて行動できた武将だったといえます。
だからこそ最終的な天下統一も可能になったのでしょうね。
耐える
ken 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
みてもだめ。
きいてもだめ。
いってもだめ。
昔のひはすごいですよね。
kenさんへ
黒田裕樹 > 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
> みてもだめ。
> きいてもだめ。
> いってもだめ。
> 昔のひはすごいですよね。
お言葉有難うございます。
私も家康個人の好き嫌いは別にして、彼の辛抱強さは見習わなければいけないと実感しております。
先見の明は本当にすばらしいですね。
家康の家族への非情さ
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
織田信長は、何度も裏切る弟の信行を殺した以外
妻にも優しく、子供にも優しいマイホームパパでした。
豊臣秀吉も、晩年に甥の秀次を殺すまでは
妻・実母・妹・弟・そして、秀次を愛するよき
マイホームパパでした。
それにたいして
徳川家康は、身内には、厳しすぎます。
◆ 妻の築山殿を殺害し、旭姫(秀吉の妹)もスグに亡くなり
◆ 子供は、長男信康切腹、次男秀康は、人質に差し出す、六男忠輝は、追放。
家康がイイお父さんになったのは、関ヶ原の戦いの後に生まれた御三家の藩祖となる3人の息子からです。
平和主義者としての徳川家康は、認めますが
信長、秀吉と比べた場合、完全な家庭崩壊者ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 家康の場合、次男は母親の影響で我が子かどうか疑っていたという話が残っていますね。六男はキリシタンだったことで追放されたという俗説もあるようです。
いずれにせよ、尋常の父親のやることではありませんね。平和は非情さがないと達成できないことを如実に物語っています。
さらに付け加えるのであれば、晩年の三人の息子も家康にとっては「万が一のための保険」であり、父親としての愛情だったかどうかが疑われるところでもありますが。
秀吉はその後も家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を迫り、自分の妹を家康の新たな正室として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとりました。
その後、1590年に秀吉が天下を統一した際に、家康は滅亡した北条氏(ほうじょうし)の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられました。しかし、それは石高(こくだか)こそ約100万石(まんごく)の大幅な加増(かぞう)であったものの、先祖伝来の地でもあり、それまでに血のにじむような思いで獲得(かくとく)してきた三河などの領地を秀吉に没収(ぼっしゅう)されることを意味していましたが、家康はここでも屈辱(くつじょく)に耐え、秀吉の命令に従ったのでした。
「やがて巡(めぐ)り来るであろう機会を待って、その日までじっと耐え続ける」。人質時代に培(つちか)った家康の苦労や辛抱が報(むく)われる日がついにやって来ました。1598年に、秀吉が幼い秀頼(ひでより)を遺(のこ)してこの世を去ったのです。秀吉から秀頼と豊臣家の行く末を託(たく)され、笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。




いつも有難うございます。
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トレビアン・西 黒田裕樹さん、応援コメントいつもありがとうございます。今は語れませんが、月末には笑ってもらうつもりです。
笑えないかもしれませが・・・・。
これからもよろしくお願いします。
.
紗那 このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
しっかし、腹黒い!
トレビアン・西さんへ
黒田裕樹 お言葉をいただきまして、お元気そうで安心しました。
月末を心待ちにしております。
紗那さんへ
黒田裕樹 > このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
> こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
私もこんな忍耐力は持てません(笑)。
これも家康の凄さですね。
> しっかし、腹黒い!
明日(20日)からいよいよ家康の「黒い部分」が明らかになりますが、家康嫌いの紗那さんにもしっかりとお読みいただきたいと思います(^^ゞ
.
ぴーち こんばんは!
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
> ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
> 家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
確かに一理ありますね。
「よくここまで耐え抜いたなぁ」という、尊敬よりもむしろあきれ返る思いからきているのかもしれません。
そして、次回(20日)からいよいよ家康による怒涛(?)の逆襲編が始まります!(^^ゞ