進退窮(きわ)まった広忠は、生まれたばかりの竹千代(たけちよ、家康の幼名)を今川家の人質(ひとじち)として送ることにしましたが、その途中(とちゅう)で竹千代を織田家に奪われてしまい、織田家への服従(ふくじゅう)を迫(せま)られました。
広忠がこれを拒否(きょひ)したことで竹千代は殺されかかったのですが、織田家の当主である織田信秀(おだのぶひで)の判断により、竹千代は織田家の人質として暮(く)らすようになりました。なお、この頃に竹千代は信秀の嫡男である若き日の織田信長(おだのぶなが)に会っていた可能性が高いとされています。
その後、今川家が信秀の子を生け捕(ど)ったことで、人質交換のかたちで竹千代は今川家の人質として生活するようになったのですが、この頃までには広忠が若くして亡くなっており、竹千代や松平家、あるいは家臣らにとって地獄の日々が始まろうとしていました。




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オバrev まさに人生は紙一重というか、首の皮一枚で繋がりながら進んでいく時期があるというのは感じます。
それにしても、昔山岡荘八の徳川家康を途中まで(^^ゞ読んだことがありますが、家康の幼少時代は本当に波瀾万丈ですね。
でも先生の歴史講座は山岡荘八の小説以上に臨場感があり、説得力があります。まだまだ波瀾万丈は続く?
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紗那 おぉ、このあたりの話はよく知ってるところで♪
一歩間違えれば、家康の天下統一はありえなかった……!
まさにドラマですね!
黒田先生.
風早 りら 今川家の人質だった竹千代
時代が徳川家康の辛抱強い
性格を形成していったのでしょね
三河武士の彼に対する愛着
強かったようですね
大河ドラマのようですね
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさに人生は紙一重というか、首の皮一枚で繋がりながら進んでいく時期があるというのは感じます。
竹千代の場合はまさに生命の危機でしたからね。織田信秀の判断が、その後の我が国の運命を大きく変えたかと思うと、歴史の流れの凄まじさを感じます。
> それにしても、昔山岡荘八の徳川家康を途中まで(^^ゞ読んだことがありますが、家康の幼少時代は本当に波瀾万丈ですね。
> でも先生の歴史講座は山岡荘八の小説以上に臨場感があり、説得力があります。まだまだ波瀾万丈は続く?
有難うございます(^^♪
長編小説と違い、紙数に限りがある当講座ですから、分かりやすくするために事実のみを書いているのですが、それが効果をもたらしたようですね。恐縮です(^^ゞ
波瀾万丈ですが、実はまだこれからなんですよね…。
紗那さんへ
黒田裕樹 > おぉ、このあたりの話はよく知ってるところで♪
> 一歩間違えれば、家康の天下統一はありえなかった……!
> まさにドラマですね!
そうですね。幼少期から修羅場をくぐった竹千代ですが、本当の地獄はこれからだったんですよね…(´・ω・`)
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今川家の人質だった竹千代
> 時代が徳川家康の辛抱強い
> 性格を形成していったのでしょね
> 三河武士の彼に対する愛着
> 強かったようですね
> 大河ドラマのようですね
仰るとおりです。
私の講座でも近日中に詳しくお話ししますので、よろしくお願いします。
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智里 へ~φ(・ω・ )メモメモ
これは全然知らなかったです。
子供の頃、、竹千代って名前だったのは知ってましたが・・・
織田家の人質なってとは・・・!!
しかも信長と会ってた可能性が高いとは驚きです。
これも家康が天下人になるための運命の1つだったんでしょうね。
智里さんへ
黒田裕樹 > へ~φ(・ω・ )メモメモ
> これは全然知らなかったです。
> 子供の頃、、竹千代って名前だったのは知ってましたが・・・
> 織田家の人質なってとは・・・!!
> しかも信長と会ってた可能性が高いとは驚きです。
> これも家康が天下人になるための運命の1つだったんでしょうね。
そうなんですよね。
今川家の人質となるはずが、なぜか織田家の人質となってしまう…。
よく生命が助かったものだと思います。
竹千代が信長と会っていた確証はないのですが、その後の二人の関係を考えれば、会っていたと考える方が自然だと思うんですよね。
竹千代が今川家の人質となって以降の岡崎城には今川家の代官(だいかん)が入り、三河でとれた年貢(ねんぐ)は松平家やその家臣には入らず、そのまま本国の駿府へ送られたことで、松平家の家臣、いわゆる三河衆(みかわしゅう)の生活は困難(こんなん)を窮めました。その一方で今川家が他国と戦争をする場合は、三河衆は一番危険な最前線に置かれ、多くの家臣が亡くなったのです。
いわば「今川家の奴隷」(どれい)のような状態となった三河衆たちは、自分たちの置かれた環境を呪(のろ)いましたが、主君である竹千代が今川家に人質にとられている以上はどうしようもありませんでした。
実はこの状態こそが、松平家が今川家に「全面降伏」(ぜんめんこうふく)した姿なのです。我が国には「もし他国に侵略(しんりゃく)されれば、憲法(けんぽう)にも書いてあるように日本は戦ってはいけないのだから、あっさり降伏すればよい。そうすることで血を流さずに平和を保つことができる」という思想がありますが、日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
これも「歴史に学ぶ」ことの一つなのです。




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風早 りら 日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
私も常日頃からそれを心配しています
勇気あるアップ 尊敬します
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 日本を松平家に、他国を今川家に置き換えれば、我が国のその後の運命がどうなるかがよく分かるのではないでしょうか。
> 私も常日頃からそれを心配しています
> 勇気あるアップ 尊敬します
りらさん同様、私も常に心配しております。
ここは私のブログですから、自分の考えを率直に述べることを基本にしております。
それに加えて「本当の歴史を伝える」とう大きな目標がありますし。
わたしこそ、りらさんのお言葉に勇気を頂戴しております。
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紗那 我が国が侵略されたとしてすべての国が今川家のような思想を持ってるとは限らないのでは?と思った時点で、この考え方が危ないという事実に気づきました。
全ての国がこのような思想を持っていると考えるのは行き過ぎかもしれませんが、どのような思想を持っているかは侵略されてからでないとわからないですしね。。。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 我が国が侵略されたとしてすべての国が今川家のような思想を持ってるとは限らないのでは?と思った時点で、この考え方が危ないという事実に気づきました。
> 全ての国がこのような思想を持っていると考えるのは行き過ぎかもしれませんが、どのような思想を持っているかは侵略されてからでないとわからないですしね。。。
そのとおりです。
確かに良心的(?)な支配にとどめる国も存在するかもしれませんが、植民地化されるということは、相手の国にどのような支配をされても文句が言えないということですからね。
松平家のような屈辱的な侵略を受けてから「しまった!」「話が違う!」といくら叫んでも遅いのです。
オバrev 歴史は前後の流れがあって起こっているわけですから、そこから何処に焦点をあて、その史実の持つ意味を考えるかは、その人がどこまで情報を把握しているかとか、信念や理念によって大きく変わってくるでしょうね。
歴史の一面しか捉えずに話を進めようとする人が権力のトップに立つと非常に危険な気がします。
しかしよくぞ三河衆は耐えられましたね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 歴史は前後の流れがあって起こっているわけですから、そこから何処に焦点をあて、その史実の持つ意味を考えるかは、その人がどこまで情報を把握しているかとか、信念や理念によって大きく変わってくるでしょうね。
> 歴史の一面しか捉えずに話を進めようとする人が権力のトップに立つと非常に危険な気がします。
「なぜ侵略されたのか?」「なぜ併合したのか?」「併合を防ぐ道はなかったのか?」なだお、前後の流れをしっかりとらえていれば、軽々しく判断を下すことができないはずです。
「真の歴史を理解していない」権力者に政治をゆだねることの危険性が見出せますね。
> しかしよくぞ三河衆は耐えられましたね。
人質にとられているとはいえ、竹千代という「希望の星」が残っていましたからね。もし竹千代を失っていればどうなっていたことか…。
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智里 松平家ってエライことになってたんですね( ̄口 ̄;
今川家の奴隷的な役割になっても、当主の帰りを待つ・・・
なんて素晴らしい家臣たちなんでしょう(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
平和主義のこの憲法は素晴らしい憲法だと思います。
ただ・・・侵略された際の無条件降伏はね・・・
松平家みたいになるのは嫌だ!!
智里さんへ
黒田裕樹 > 松平家ってエライことになってたんですね( ̄口 ̄;
> 今川家の奴隷的な役割になっても、当主の帰りを待つ・・・
> なんて素晴らしい家臣たちなんでしょう(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
今川家から「虫けら以下」の扱いを受けた三河衆にとって、竹千代だけが希望の星でしたからね。
その苦労は並大抵ではなかったことでしょう。
> 平和主義のこの憲法は素晴らしい憲法だと思います。
> ただ・・・侵略された際の無条件降伏はね・・・
> 松平家みたいになるのは嫌だ!!
詳しくは後日に紹介しますが、平和主義の理念に対する思いは私も同じです。
ただ、理想と現実が必ずしも一致しないところがもどかしいですね…。
私も奴隷は真っ平御免です!
「竹千代様がおられる限り、松平家はきっと復興(ふっこう)できる」。そう信じた三河衆は食うや食わずの生活を耐(た)え忍(しの)び、また戦(いくさ)の最前線に送られても、生き延(の)びるために懸命(けんめい)に戦いました。こうした境遇(きょうぐう)が、やがて三河兵を最強の軍団へと成長させたのです。その強さは、後に「三河兵1人は尾張(おわり、現在の愛知県西部)兵の3人に匹敵(ひってき、肩を並べること)する」と言われたほどでした。
今川家の人質となって、周囲から陰湿(いんしつ)なイジメを受けながらもじっと我慢(がまん)を続けた竹千代にとっても、人質の暮らしは悪いことばかりではありませんでした。当時の駿府は戦乱を逃(のが)れた公家(くげ)たちが集まったこともあって、さながら「東の都」と呼ばれるような発展を見せていました。
竹千代は幼少期をそんな都市で過ごしたことで、三河で暮らしていれば絶対に身に着けられなかったと思われる高い教養を自分のものにすることができたのです。後の家康の愛読書に鎌倉幕府(かまくらばくふ)の誕生やその後を記(しる)した歴史書である「吾妻鏡」(あずまかがみ)がありますが、これらの教養が、江戸幕府の成立に深くかかわっていくことになります。
また、竹千代は周囲からのイジメを耐え抜く中で、いつかは松平家を復興してみせるという芯(しん)の強さを持つ一方で、そのためには何があっても辛抱(しんぼう)するという我慢強さや、周囲との協調を目指す中で腰の低さを身に着けました。やがて家康は、その義理堅(ぎりがた)さや実直(じっちょく)さから「律義者」(りちぎもの)として信頼される武将となり、後年(こうねん)の天下取りにも役立つことになったのです。




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紗那 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
.黒田裕樹先生
風早 りら 人質の暮らしは やはり
家康の辛抱強い性格の
源ですね
三河衆の家康を想う気持
今回の講座で よく 現われていて
感動しました
紗那さんへ
黒田裕樹 > 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
> ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
そうですね。
三河の人々の芯の強さが、この後の活躍につながったと考えられます。
そして、この芯の強さは家康にも引き継がれているといえるでしょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 人質の暮らしは やはり
> 家康の辛抱強い性格の
> 源ですね
> 三河衆の家康を想う気持
> 今回の講座で よく 現われていて
> 感動しました
悪い条件は、悪いなりの人間を強くするという見本ですね。
あきらめずに辛抱強く頑張った家康の底力と、彼を慕うと同時に希望の星と信じた三河衆との絆も感動ものです。
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ぴーち こんばんは!
三河衆の竹千代をカリスマの様に
慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
金八先生の話じゃないですが、
人という字の意味をふと思い出しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三河衆の竹千代をカリスマの様に
> 慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
> 「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
> 竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
> 金八先生の話じゃないですが、
> 人という字の意味をふと思い出しました(笑)
確かに金八先生の印象がありますね(笑)。
つくられたドラマと同じくらい、いやそれ以上に歴史のエピソードからは様々な教訓が残されているということなのでしょう。
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智里 なるほど・・・
これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
だけど、多大な犠牲があったの事実。
そのことも家康は分かってたのかな?
それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
智里さんへ
黒田裕樹 > なるほど・・・
> これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
> だけど、多大な犠牲があったの事実。
> そのことも家康は分かってたのかな?
> それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」ですね。
仰るとおり、自分に多大な犠牲が払われているということを知っていたからこそ、家康は「律義者」として評価れるような武将になったと思われますね。
信長が桶狭間(おけはざま)で休息中の義元を急襲(きゅうしゅう)して、その首を落とすことに成功したのです。世にいう「桶狭間の戦い」によって、元康の運命は大きく変わることになりました。
元康は戦後の混乱で無主(むしゅ)となっていた岡崎城に入ると、その後の今川家とのいさかいを切り抜けて、やがて三河一国の大名となったのです。この間に信長と同盟(どうめい)を結ぶことにも成功し、自分の名前も「徳川家康」と改めました。このうち、名前については「元康」の「元」が今川義元からもらったものだったのでこれを捨てたのですが、「徳川」への改姓の理由は後に紹介します。
三河一国を支配し、また信長と結んだことで大名として大きく成長した家康でしたが、その後の人生にはまだまだ数多くの苦難が待ち受けていました。




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風早 りら 「徳川」への改姓の理由
かなり 興味があります
信長と家康は一時
かなり 仲が良かったようですね
織田家に 家康がいたころ
交流があったからでしょうか
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「徳川」への改姓の理由
> かなり 興味があります
講座の後半で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいね。
> 信長と家康は一時
> かなり 仲が良かったようですね
> 織田家に 家康がいたころ
> 交流があったからでしょうか
同盟が長く続いたことで、一般にはそういうイメージがありますね。
幼少期の竹千代とうつけ者の信長に交流があった可能性も高いですし。
ただ、同盟は必ずしも一枚岩ではなかったようです。詳しくは明日(17日)以降の更新で紹介します。
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ぴーち こんばんは!
今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
> 家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
> 通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
この頃の武将は、若い頃の幼名から元服時に改名するのが普通でした。その際には仕えた大名の一字をもらうことが多く、竹千代の場合は今川義元の名前から元信を名乗ったのですが、その後に祖父の元康の名をもらって元康と改名しています。
桶狭間の戦い後には義元の元の字を捨てて家康と名乗り、さらに徳川に改姓していますから、確かに多いですね。ただ、改名や改姓にはそれぞれの事情があり、さながら出世魚のような思いもします(笑)。
この同盟の意味
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この同盟の意味は、織田信長にとって、
非常に重要ですね。
というのも、まだまだ、弱小大名である
徳川家康が
一番、巨族にたいする防波堤になってくれるからです。
武田家、北条家という一番、やっかいな
敵を徳川家が、引き受けてくれるのは、
織田信長にとって、非常に助かります。
逆に、徳川にとっては、織田信長という後ろ盾が
あったとはいえ、相当、重かったと思います。
幸い、武田信玄が信濃攻略を巡り、上杉謙信・北条氏康と戦いあってくれて、西に意識を集中しなかったことが徳川家康が小さくても、対応できたと思います。
そう考えると、武田信玄の川中島での10年間は
あまりにも、エネルギーを使いすぎてしまったように思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この同盟は信長にとっては非常に大きかったと思います。
その一方で家康も東へ目を向けることができたものの、信玄の脅威は相当だったと思います。
信玄の「失われた10年」はあまりにも大きすぎました。
もし信玄が謙信と早目に和睦して西へ目を向けていれば…。
もっとも、仮に信玄が天下を取ったとしても、長続きは絶対できなかったと考えられます。
詳しくはこちらの講座をご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-410.html