皆さんは、我が国の歴史の中でどの時代が一番好きですか?
色んな意見があるとは思いますが、おそらく一番多いのが戦国時代(せんごくじだい)でしょう。多くの小説や映画、テレビドラマなどで紹介されるだけでなく、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられており、例えば、最近では直江兼続(なおえかねつぐ)が主人公の天地人(てんちじん)が放送されていますね。
戦国時代の主役ともいえる戦国大名(せんごくだいみょう)は、いずれ劣らぬ豪傑(ごうけつ)ぞろいですが、その中で天下統一に一番近かったのは、いうまでもなく織田信長(おだのぶなが)でしょう。前回紹介しました明智光秀(あけちみつひで)による謀反(むほん)がなければ、おそらくあと数年で統一を成しとげたものと考えられます。
では、信長に次いで天下に近かったのは誰でしょうか?
豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)のように、信長の路線を継承した武将を除いて、一代で何ヶ国もの領地を手中に収めた大名こそがふさわしいとすれば、間違いなくその名を挙げることができる武将がいます。
彼こそが毛利元就(もうりもとなり)です。今回の講座では、毛利元就の生涯を中心として、毛利家(もうりけ)の栄枯盛衰(えいこせいすい)の流れを、戦国時代から江戸時代(えどじだい)の末期、いわゆる幕末(ばくまつ)まで振り返ってみたいと思います。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
紗那 戦国時代がやはり、一番大好きです。
この連載も期待しています。
元就さんって、なんか脇役なかんじです。
個人的に。
なんかそんなに有名な意識はないですねー
ていうか、大阪人なら秀吉さんだしっ(殴
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代がやはり、一番大好きです。
> この連載も期待しています。
ご期待いただいて光栄です(^^♪
戦国時代はやっぱり一番人気のようですね。
> 元就さんって、なんか脇役なかんじです。
> 個人的に。
確かに地味なイメージがありますね。でも、渋い脇役がいてこそ舞台が盛り上がるものですし、主役になれる可能性も十分あったと思いますよ。
> なんかそんなに有名な意識はないですねー
> ていうか、大阪人なら秀吉さんだしっ(殴
それは私も同じです(笑)。でも戦国~幕末の流れを理解するには毛利家の存在は不可欠ですから、楽しみにしてくださいね(^o^)丿
雑誌『歴史人』
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
雑誌の歴史人で、今月号の特集で
『戦国最強ランキング』の特集があったのですが
その中で、1位が織田信長、
2位が徳川家康
3位が毛利元就
でした。
その内容として、
面白かったのが、『謀略』においては
やはり、毛利元就が、織田信長よりも、優秀で、
そして、家臣統治能力が劣る。(後継者問題など)
これって、以前、黒田先生が、講座で、言った通りの内容だったので、
雑誌の歴史人の視点も鋭いと思いました。
というのも、戦国時代の有名な戦国大名としては
織田信長、徳川家康、豊臣秀吉以外では、武田信玄、上杉謙信の名をあげる人が多いからです。
ただ、後の毛利の衰退は、あったにしろ、
毛利元就の戦略は、優れていたと思います。
◆ 山陰地方を抑えるための吉川家、
山陽地方を抑えるために小早川家を手に入れる。
◆ 戦国時代最強の村上水軍を自軍に入れる。
◆ 石見銀山を手に入れて、豊富な経済力を確保する。
これは、歴史のifですが、織田信長と毛利元就が同世代だとします。
そして、毛利元就の子供の毛利三兄弟も健在だとしたら、
織田信長とガチンコで、戦ったら、どちらが
勝ったか、興味がわきます。
個人的には、それでも、やはり、織田信長だと思うのですが。。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに興味がありますね。
謀略に関しては元就に一日の長があるとは思いますが、一年中戦えるだけでなく鉄砲などの火器が豊富で、なおかつ鉄甲船を持つ信長の優勢は動かないような気もします。
最後に物を言うのはやはり財力でしょうね。
信長の経済力
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
やはり、織田信長の経済力は、他の戦国大名と
全く、違いますね。
というのも、他の戦国大名が、金山・銀山あるいは、米の収穫高を基盤にしているのに
織田信長の基盤は、市場(マーケット)を生み出すことです。
市場原理って、現代20世紀の世界の経済で、言われだした理論なので、
戦国時代の織田信長が、そういう経済思考を持っていたこと自体が、驚愕です。
以前、本で読んだことがあるのですが、
他の戦国大名が飢饉で苦しんでいる時に
織田信長は、発展したとありました。
『つまり、他の大名は、重農主義なので、飢饉の影響をまともに受けますが
織田信長は、重商主義なので、飢饉の影響が、少なかったそうです。』
青田さんへ その2
黒田裕樹 信長が経済力を身につけたのは宗教勢力が関銭で稼いでいたのを参考にした、という説がありますね。
いずれにせよ、着眼点と実行力が抜きんでいたことが近代につながる発想をもたらしたのだと思います。
…って、ここは元就の講座ですけどね(^^ゞ
毛利元就は、安芸国(あきのくに、現在の広島県西部)の国人(こくじん、地方豪族のこと)から、彼一代で中国地方のほぼ全域と北九州の一部を支配するまで勢力を拡大した稀代(きだい)の英傑(えいけつ)でした。そんな彼の生涯を象徴するのにふさわしい言葉があるんですが、何か分かりますか?
それは「謀略」(ぼうりゃく)です。数多くの戦国武将の中で、元就ほど謀略に満ちた生涯を送った武将はいないのです。なぜそう言い切れるのかを、彼の生涯をたどりながら考えてみましょう。
毛利元就は、安芸の国人である毛利弘元(もうりひろもと)の次男としてこの世に生を受けました。当時は長男が家督(かとく)を継ぐ、つまり跡継ぎになるのが原則でしたから、次男坊であった元就は、本来であれば毛利本家を継ぐことができず、当時住んでいた城の名前から「多治比(たじひ)殿」と呼ばれて一生を終えるはずでした。
しかし、長男の毛利興元(もうりおきもと)が25歳の若さで急死して、跡を継いだ興元の長男の幸松丸(こうまつまる)も9歳で死亡するという「幸運」があったので、結局元就が家督を継ぐことになりました。もっとも、元就が後継となった際には反対者もいましたし、他家から養子をもらってはという声もありましたが、元就はこれらの者を「反逆者」とし、「戦上手」(いくさじょうず)とうたわれた実力で「処分」しました。
こうして27歳で毛利家当主となり、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に入城した元就は、内心で「重大な決意」をしていました。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
様々な展開を経たうえで家督を継いだ毛利元就でしたが、彼の領地は安芸国の一部に過ぎず、いわゆる「弱小勢力」でしかありませんでした。一方、当時の中国地方は主に東半分を尼子家(あまごけ)が、西半分を大内家(おおうちけ)が領有していました。このうち、勢いがあったのは尼子家の方で、大内家は窮地(きゅうち)に立たされていました。
毛利家は、元就が家督を継ぐまでは尼子家側についていましたが、元就が当主の座につき、自己の意思で毛利家を支配できるようになると、こう宣言しました。
「我が毛利家は尼子家を見限り、今後は大内家に味方する」。
元就のこの決断が、どれだけ常識はずれで、実にとんでもないものなのか、皆さんはお分かりですか?
「寄らば大樹(たいじゅ)の陰(かげ)」ということわざがありますが、それまでの毛利家は、大勢力の尼子家に味方すればこそ領地が保障されていたのですから、まさに尼子家という「大樹」に寄り添って生きてきたといっても過言ではありませんでした。
それなのに、尼子家側から大内家側に寝返るという元就の決断は、当然尼子家の怒りを買うことになり、下手をすればすぐにでも滅ぼされてしまいかねないという、極めて危険な行為でした。一体元就は何を考えていたのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
とまと 随分、ご挨拶が遅くなってしまいましたが・・・
ご訪問者数1万人突破、おめでとうございますヽ(^o^)丿
毎日コツコツと記事を積み上げられいて、その真面目さを、見習わなければ…と、いつも反省しております。
とまとのブログの更新は、きまぐれですから(^^;
いつも勉強させて頂いております。
ありがとうございます。
これからも、ますます、黒田先生不安が増えることを祈って・・・応援のぽちヽ(^o^)丿
↑「不安」が増えてどうする!?
「ファン」の間違いですm(__)m
大変失礼いたしました(^^;
とまとさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
私の場合は、一日の文章量が少ないのでコツコツ積み上げているように見えるだけです(笑)。
とまとさんのような、一から皆様を感動させるような文章力がうらやましく思います。
こちらこそ、とまとさんのブログを参考に、少しでも皆さんに理解力が得られやすい内容を目指していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
marihime 黒田さんこんにちは☆
最初に、10000超えおめでとうございますを言うの忘れてましたゴメンなさいネ・・・(´_`illi)
歴史講座の映像、楽しく拝見させていただきました。
ケンシロウ こんにちは。
講座の様子拝見させていただきました。
蒲郡の弘法大師は子安弘法大師でしたか。
山の頂上に奉られているので
近くまで行けば何処からでも見えますよ。
機会があれば温泉もありますので
是非行ってみて下さいな。
marihimeさんへ
黒田裕樹 いえいえ、お気持ち有難く思います。映像がお気に召したようで光栄です。まだ始めの方ですので、これからもよろしくお願いしますね(^_^)v
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 蒲郡の像は大きいですから、確かにどこからでも拝めそうですね。
温泉ですか。特に寒い季節は良さそうです(笑)。
貴重な情報を有難うございますm(_ _)m
ぴーち こんばんは!
動画拝見させていただきました♪
本当によく通るお声ですね~^^
ただ、前回の動画も拝見させていただいていて
思ったのですが、参加していない分際で
この様な事を書くのは、おこがましいのですが、
定点カメラ?は、あと一歩前での撮影は
叶いませんか?
後ろのボードの字や地図、写真が
もう少しはっきり見えたらなと、勝手なわがままな思想に
駆られてしまいました^^;
それとこちらは、本当に関係ない話で恐縮ですが、
中学の時の理科の先生に黒田さんが似ているな~と懐かしく拝見させていただいてました^^
とても、はきはきした口調に、背格好も似ています。
良い先生でした^^
それでは、凸
てっちゃん中尉 こんばんは、てっちゃん中尉です。
今回も動画、拝見させていただきました。
見事なご教授でした。高校までの歴史の先生たちの教え方では、そのように、本当の時代の流れを教えずに、表沙汰になったことを広く浅くかじっていくような半ば、教科書どおりの授業でした。
今回の講義で、「教科書とは教育の一手段にすぎない」ということばをつくづく実感することができました。薩長同盟の存在の背景は全くもって知りませんでした。良い勉強になります。
本当にありがとうございます。
早く学校の教壇に復帰できるよう心よりお祈り申し上げます。今後とも、ブログに立ち寄らせていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画拝見させていただきました♪
> 本当によく通るお声ですね~^^
有難うございます。以前にも書きましたが、通る声に産んでくれた両親に感謝ですね(^_^)v
> ただ、前回の動画も拝見させていただいていて
> 思ったのですが、参加していない分際で
> この様な事を書くのは、おこがましいのですが、
> 定点カメラ?は、あと一歩前での撮影は
> 叶いませんか?
> 後ろのボードの字や地図、写真が
> もう少しはっきり見えたらなと、勝手なわがままな思想に
> 駆られてしまいました^^;
なるほど…。あまり近づきすぎると自分がアップになってしまうので、引いたほうが良いかなと思ってました。カメラは仰るとおり固定していますので…。確かにもう少し前にしてみるべきかもしれませんね。
> それとこちらは、本当に関係ない話で恐縮ですが、
> 中学の時の理科の先生に黒田さんが似ているな~と懐かしく拝見させていただいてました^^
> とても、はきはきした口調に、背格好も似ています。
> 良い先生でした^^
先生というものは、良くも悪くも印象に残るものです。光栄な話ですね(^^♪
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 今回も動画、拝見させていただきました。
> 見事なご教授でした。高校までの歴史の先生たちの教え方では、そのように、本当の時代の流れを教えずに、表沙汰になったことを広く浅くかじっていくような半ば、教科書どおりの授業でした。
> 今回の講義で、「教科書とは教育の一手段にすぎない」ということばをつくづく実感することができました。薩長同盟の存在の背景は全くもって知りませんでした。良い勉強になります。
何度か書かせていただいておりますが、教科書どおりの授業では本当の理解は得られません。流れを理解せずに暗記させようとすれば、生徒にとっては苦痛以外の何物でもありませんから、生徒のためにもなりません。そんな状態から「分かりやすくて理解しやすく、かつ楽しい授業」にどうやって導いていくかが、教師の腕の見せどころだと思います。
> 本当にありがとうございます。
> 早く学校の教壇に復帰できるよう心よりお祈り申し上げます。今後とも、ブログに立ち寄らせていただきます。
有難うございます。皆様のご支援も教師復帰への道しるべとして、しっかりと受け止めていきたいと思います。
実は、元就には元就なりの「計算」があったのです。大内家側につくことを決断した元就の内心の思いを代弁してみましょう。
「巨大な尼子家についていれば、俺がどれだけ頑張っても結局は尼子家の手柄になり、いずれは俺の出番はなくなる。だとすれば思い切って大内家について、俺の実力で尼子家の領地を切り取り、毛利家を大勢力にしてみせよう。そのうえで尼子家を滅ぼし、あわよくば大内家も乗っ取ってやろう」。
皆さんは、元就のこの言葉を聞いて、正直どう思われますか?
巨大な尼子家に対して、一つの国すら満足に治めていない弱小地方豪族に過ぎない毛利家の当主の決断です。普通ならば「何を大風呂敷を広げているのか?」と耳を疑いますよね。ところが、元就はこの後、生涯をかけて自身の決断を本当に実行してしまうのです。
何が元就をそこまでの大成功に導いたのでしょうか?
そんな元就のカギを握ったのが、まさに「謀略」でした。この後、元就は自己の謀略の才能をフルに活用して勢力を拡大していったのです。




いつも有難うございます。
毛利元就は大内家側についてから、尼子家側の国人(こくじん)を片っ端から倒して勢力を拡大していきました。「裏切り者」の毛利家の行動に業(ごう)を煮やした尼子家は、元就を倒すべく当主自らが大軍を率いて攻め込む決断をしました。
尼子家が攻め込む少し前に、元就のもとに尼子家の右筆(ゆうひつ、本来は文章の代書人だか秘書官でもある重要な職務)であった男が転がり込んできました。男は些細(ささい)な失敗を尼子家にとがめられて所領を没収されたことに腹を立て、今後は毛利家に味方したいと述べました。
「スパイではないか?」という周囲の声をよそに元就は男を歓迎し、尼子家の来襲が近づいて軍議を開くたびに、男の前で「今度の戦いでもし尼子家にA地に陣取られたら、大内家との連絡が絶たれて大変なことになる。何としてもB地に陣取ってもらうようにしなければ」と繰り返し言いました。
ところが、尼子家が来襲する直前に男は姿を消しました。周囲の心配どおり、男は尼子家のスパイだったのです。それ見たことかと家臣が抗議する前で、元就はニヤリと笑って言いました。
「これで尼子家はA地に陣取るだろう。だが本当に陣取られたら困るのはB地の方だ。この戦い、我が軍の勝ちだな」。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
まさむね はじめてコメントいたします。
黒田先生の歴史ブログをいつも読ませていただいております。
先生のわかりすく、誠実な歴史物語は日々の楽しみとなっています。
これから進む平安時代の源氏物語や道長のあたりの解説が楽しみです。
これからも頑張ってください。
管理人のみ閲覧できます
-
まさむねさんへ
黒田裕樹 ご訪問並びにお言葉有難うございます。
道長につきましては、第5回歴史講座の後で紹介させていただくことになると思いますし、源氏物語も国風文化の中で取り上げさせていただく予定です。
ご期待に応えられるかどうか分かりませんが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
管理人のみ閲覧できます
-
元就は尼子家のスパイ作戦を見抜いて、わざとニセの情報を流したのでした。戦いは大内家の援軍もあって毛利家が勝利しました。1540年から41年にかけて行われたこの合戦は、吉田郡山城の戦いと呼ばれています。
大勢力の尼子家に勝った毛利家は武名(ぶめい)を大いに挙げ、それまでの支配地にも良い影響を及ぼしたのと対照的に、負けられない戦いを落としてしまった尼子家の評判はガタ落ちとなり、それまで尼子家側についていた国人の多くが大内家側に寝返ることによって、尼子家と大内家との立場が逆転し、尼子家の勢力が衰えるきっかけになりました。
その後も元就は尼子家に攻勢をかけ続け、多少の紆余曲折(うよきょくせつ、ものごとが順調に運ばずに複雑な経過をたどること)はあったものの、1566年に尼子家は元就によって滅ぼされてしまいました。
さて、元就は戦いで勢力を拡大する一方で、自分の足元を固めるために、有力な豪族である吉川家(きっかわけ)や小早川家(こばやかわけ)に自分の息子を養子に送り込みましたが、その経緯には複雑な事情がありました。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
marihime 黒田さんこんばんは♪
今日も楽しく拝見させていただきましたσ(゚ー^*)
尼子氏を破滅に追いやる過程を詳しく話してもらえるともっとよかったなと思いますけど欲張りすぎですね(*^_^*)
次も楽しみにしています。
応援のポチ
marihimeさんへ
黒田裕樹 いつもブログへのご訪問並びに応援有難うございます(^o^)丿
> 尼子氏を破滅に追いやる過程を詳しく話してもらえるともっとよかったなと思いますけど欲張りすぎですね(*^_^*)
新宮党の謀殺事件などエピソードは他にも色々ありますが、全体のバランスなどを考えて今回は割愛しました。いずれは本編などで別の形で紹介できたらいいですね(^^♪
いつの間にか
オバrev 福岡の息子の所へ行っている間に、毛利元就の話はどんどん進んでいましたね(/;゚∇゚)/ ア、アレー!
しかも、阿修羅展を見に行く時間もなかった(T_T)
相変わらず、分かりやすいです。特に動画で見るとなおいっそうよく分かります・・・自分がいかに知らなかったかということが(汗)
大内氏という名前は日本史の教科書にもでていたと思いますし、記憶の彼方に残っているんですが、尼子氏ってのは全く始めて聞く名前でした。
小早川さんは私の知り合いにも何人かおられます。
あの元広島カープの小早川毅彦(広島市出身)は、小早川隆景の末裔に当たるそうです。
また、歌手の吉川晃司はこの吉川家の末裔だそうです(^^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 福岡の息子の所へ行っている間に、毛利元就の話はどんどん進んでいましたね(/;゚∇゚)/ ア、アレー!
> しかも、阿修羅展を見に行く時間もなかった(T_T)
相変わらずお忙しそうですね。お身体にはくれぐれもご注意下さい。
> 相変わらず、分かりやすいです。特に動画で見るとなおいっそうよく分かります・・・自分がいかに知らなかったかということが(汗)
いえいえ、私も始めはゼロからのスタートだったんですから、これからどんどん理解して下さい(^^♪
> 大内氏という名前は日本史の教科書にもでていたと思いますし、記憶の彼方に残っているんですが、尼子氏ってのは全く始めて聞く名前でした。
大内氏は応永の乱(1399年)で有名な大内義弘もいますからね。戦国武将としての大内氏はもうしばらくしたら登場しますよ。尼子氏は家臣の山中鹿之介の方が有名かもしれませんね。
> 小早川さんは私の知り合いにも何人かおられます。
> あの元広島カープの小早川毅彦(広島市出身)は、小早川隆景の末裔に当たるそうです。
> また、歌手の吉川晃司はこの吉川家の末裔だそうです(^^)
小早川毅彦氏のことは(私もカープファンですから)知っていましたが、吉川晃司は知りませんでした(^^ゞ
昭和60年の紅白での暴走も血筋なのでしょうか?
吉川家は元就の妻の一族でしたが、家臣の方から「当主に不満を抱いたので、元就の次男である元春(もとはる)を新たに養子に迎えたい」という申し出がありました。元就はこの申し出を承諾し、縁組に反対する家臣が切腹する中で「順調に」家督を継ぐことに成功しました。
一方、小早川家では幼い当主が病気によって目が不自由となり、このままでは戦国の世を渡っていくのは厳しいということで、これも家臣の方から「元就の三男である隆景(たかかげ)を新たに養子に迎えたい」との申し出がありました。元就はこの申し出にも快諾し、縁組に反対する家臣が殺されていく中で「順調に」家督を継ぐことに成功しました。
こうして養子先からの申し出という「幸運」によって、武勇名だたる吉川家と、強力な水軍を持つ小早川家を自身の血統で固めることができた元就は、安芸国の支配力をますます強めていくのですが、いくらなんでも話がうますぎると思いませんか?
真相は闇の中ですが、犯罪捜査の鉄則である「事件後に一番得をした者を疑え」から考えれば、謀略を得意とする元就に対して、どうしても疑いの目が向いてしまう結果ではありますね。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
かすやぶひ いつもお世話になってます。
毛利家の展開もおもしろいですね。
元就の息子まで謀略に使い、領土を拡大させたのですね。 たしか元就の妻は実家がのっとられて自殺かなんかで死んだような記憶があります。
ブログ友達ありがとうございます。勘違いでリンクを貼りたかったのですが、私はリンクに登録しています、すみません。
アキ ぶはっ
な、なんだか文章に若干の悪意が見えるのは気のせいでしょうかwww
現世にもこういう要領の良い人、いますよね~。
本人の意向はどうかわかりませんが、わからないようにうまくやってるのがまた腹立たしい!
うぅ・・・憎い(苦い過去あり?ww)
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 > いつもお世話になってます。
> 毛利家の展開もおもしろいですね。
有難うございます(^o^)丿
> 元就の息子まで謀略に使い、領土を拡大させたのですね。 たしか元就の妻は実家がのっとられて自殺かなんかで死んだような記憶があります。
妻の自殺の件は私は初耳ですね。確かにショックだったのかもしれませんが…。
> ブログ友達ありがとうございます。勘違いでリンクを貼りたかったのですが、私はリンクに登録しています、すみません。
いえいえ、私もリンクさせていただきますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
アキさんへ
黒田裕樹 > ぶはっ
> な、なんだか文章に若干の悪意が見えるのは気のせいでしょうかwww
おそらく気のせいではないでしょうか(笑)?
「疑わしきは罰せず」とはいえ、うますぎる話はどうも…ですよね(^^ゞ
> 現世にもこういう要領の良い人、いますよね~。
> 本人の意向はどうかわかりませんが、わからないようにうまくやってるのがまた腹立たしい!
> うぅ・・・憎い(苦い過去あり?ww)
最後の行は「私も同じ」だったりして(笑)。
とはいえ、要領だけで世の中は最後まで渡れるものではないですからね。
なぜか、現代にも通じるような~
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
この話を読むと、いつも、近未来の日本の
最悪のシナリオを頭に浮かんでしまいます。
小早川家、吉川家が、近未来の日本にならないことを祈るばかりです。
①家の中から、内部分裂を起こし、
気がついたら、他国の領土。
②しかも、自分の家の領主は、他国出身者。
③しかも、何の証拠もない。
これを現代に置き換えると
① 日本の国の中で、内部分裂し、他国に友好的な人間が実権を握る。
② 自国のほうから、領土を差し出すと言ってくる。
③ 気がついたら、自国のリーダーは他国出身者。
④ 国際法上何の問題もない。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
歴史の教えは何も近現代史だけとは限りません。
さて、元就が味方についた大内家ですが、家臣同士の対立が不協和音を生み、有力家臣だった陶晴賢(すえはるかた)が1551年に当主の大内義隆(おおうちよしたか)に対して謀反を行い、義隆が自害したことによって衰えていきました。
陶晴賢の謀反に激怒した「大内家の味方」である元就は、晴賢による大内家の支配を認めなかったことで晴賢と対立し、両者はついに激突して元就が晴賢を倒したことは有名ですが、実はこの話にはとんでもない裏があったのです。
吉川家に残された史料によれば、晴賢は義隆への謀反の前に「義隆との仲が決裂したので、自分に協力してほしい」と元就の次男である吉川元春宛(あて)に書状を送っているのです。
ここで元就の立場になって考えてみましょう。元就が本当に大内家の忠実な味方であれば、書状の存在をここぞとばかりに義隆に訴えて、自らの忠誠心をアピールしませんか?
しかし、歴史上の事実ではそんなことはありませんでした。ということは、晴賢の謀反は元就も承知のうえでのことだったのです。にもかかわらず、元就は晴賢には味方せずに対立しました。晴賢からすれば裏切られた思いだったでしょう。なぜ元就は晴賢を裏切ったのでしょうか?
実は、そこには元就によって凄まじいまでに計算しつくされた謀略があったのです。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
てっちゃん中尉 流石、毛利元就ですね。
なんとも、片っ端から計算したうえでの行動としか思えないですね。
元就の知力を半分分けてもらいたいものです(笑)
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > なんとも、片っ端から計算したうえでの行動としか思えないですね。
> 元就の知力を半分分けてもらいたいものです(笑)
確かに凄まじいまでの計算です。私も分けてもらいたい!(笑)
そのカラクリは明日の朝にはっきりしますのでお楽しみに!(^o^)丿
ぴーち こんばんは!
ここの所、少々お勉強をさぼってしまったので
既に登場人物に混乱が生じてます、私(汗)
しかしながら、凄まじいまでに計算されつくされた
計画であっても、人間が考えることは、いつの世でも
どこかしら、必ず抜けているものですね。
そこから、ほころびが解れて行く物語を、是非、
理解しておきたいですw
黒田さんのばんざーい♪の部分で、思わず
拍手してしまいそうになりましたw(恥)
それでは、応援凸
政界で例えれば
オバrev う~ん、味方と思えば敵になったり、敵かと思えば味方だったり、周りの武将は元就にいいように利用され、翻弄されてますね。
役者が、一枚も2枚も上って感じでしょうか。
今の政界で言えば、小沢一郎とダブって見えます(^_^;)
このままうまく事が運ぶのか、どこかで破綻するのか、この先はどうなるんでしょうか。
ケンシロウ こんにちは。
このあたりの記憶も(・_・ ) ( ・_・) ドコドコ
相変わらず駄目なおいらです。
元就の裏話は明日の朝のお楽しみですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 今回の講座には特に多くの人物が登場しますからね(^^ゞ
人間のやることに完璧はありません。無理を通せば、どこかで不思議と帳尻が合うものです。元就にとっての「帳尻」が、彼の世代で合うのか、それとも子孫の代か…。これからの展開をお楽しみに!
> 黒田さんのばんざーい♪の部分で、思わず
> 拍手してしまいそうになりましたw(恥)
別にねらった訳ではないんですが(笑)、よく見るとこの回だけで2度もやってますね。
それだけ集中していたのでしょうか(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、味方と思えば敵になったり、敵かと思えば味方だったり、周りの武将は元就にいいように利用され、翻弄されてますね。
> 役者が、一枚も2枚も上って感じでしょうか。
本当にそうですよね。今回の陶晴賢なんかも、完全に元就に手玉に取られていますし。
> 今の政界で言えば、小沢一郎とダブって見えます(^_^;)
腹芸なんかはまさにそのまんまだったり(笑)。ダム問題のこじれを見ていると、前原氏をあの大臣にすえたのも深読みしてしまいますね(^^ゞ
> このままうまく事が運ぶのか、どこかで破綻するのか、この先はどうなるんでしょうか。
それは次回のお楽しみということで(笑)。今日でまだ半分ですよ(^^♪
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > このあたりの記憶も(・_・ ) ( ・_・) ドコドコ
> 相変わらず駄目なおいらです。
> 元就の裏話は明日の朝のお楽しみですね。
ハイ、明日の早朝(6時)の更新になります。
これからどんどん追いついて下さいね!(^^♪
大内氏と今の日本
- 黒田先生
おはようございます。
青田です。
最近、毛利元就の本を読んで、気づいたのですが
大内氏が滅んだのは、毛利元就の謀略だけではなく、大内氏にも問題があったのですね。
大内氏と今の日本が酷似している気がしました。
① 経済大国であることに、完全に油断していて
周辺国の動向に鈍感になっていた。
→ 今の日本もそうなりつつある。
② 当主である大内義隆は、『まさか』と完全に平和ボケ・豊かさボケになっていた。
(大内氏は、非常に文化的にも経済的にも豊かであった。)
→ 今の日本もそうなりつつある。
③ かつて、有能な人材がいた大内氏も世代交代で、人材が枯渇してしまっていた。
→ 今の日本も世代交代によって、人材が枯渇化した。
④ 超小国である謀略(情報による内部離間)
で、国力が弱体化した。
→ 今の日本もマスコミによって、有能な政治家が潰されたり、外国人地方参政権によって、外国人が
乗っ取り可能な法案が出たりする。
毛利元就を主人公に考えると、痛快な物語ですが、逆の立場で考えると恐ろしいですね。
やはり、歴史から、学ばないといけないですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
平和ボケの見本がこんな身近にあるのですから、もっと歴史に学ぶべきでしょう。
元就は、大内家側についたことで自己の領地を確実に拡大していきましたが、いずれは大内家をも滅ぼすつもりでした。そんな中で、大内家の家臣である陶晴賢が謀反を考えているという情報を入手しましたが、このときに元就の頭の中でひらめいた作戦がありました。
「俺は表向きはあくまで大内家の味方だから、俺自身が大内家にいきなり弓を引くことはできない。ならば、晴賢をそそのかして彼に大内家を滅ぼさせよう。その後で『大内家に仇(あだ)なす晴賢を征伐(せいばつ)する』という名目(めいもく)で晴賢を倒せば、大内家の領地は易々(やすやす)と俺のものになる」。
元就は自分の作戦どおりに実行しました。晴賢が大軍を率いて厳島(いつくしま)に攻め込んだ際も、元就は謀略を使って、大軍であるがゆえにかえって身動きの取れない晴賢を釘付けにしたところで奇襲をかけて、自害に追い込みました。1555年に起きたこの合戦は、厳島の戦いと呼ばれています。
義隆に次いで晴賢も失った大内家はガタガタとなってしまい、厳島の戦いから2年後の1557年に、満を持して攻め込んだ元就によってついに滅亡しました。戦国の世の非情さを否応(いやおう)なく感じさせる大内家の最期ですね。
こうして大内家の領地を支配した元就は、先述のとおり1566年には尼子家も滅ぼし、元就は一代で中国地方のほぼ全域と北九州の一部を支配する大大名になったのでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ケンシロウ こんにちは。
↓ 追いつくどころか振り切られそうですw
大内家も内部に裏切り者が居るわけですから
簡単に滅びてしまいますよね。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > ↓ 追いつくどころか振り切られそうですw
ケンシロウさんなら大丈夫ですよ(^^♪
> 大内家も内部に裏切り者が居るわけですから
> 簡単に滅びてしまいますよね。
国などの組織体が滅亡するのは、外からの圧力よりも内部からの崩壊の方が多いんですよね。
我が国は大丈夫でしょうか…?
戦国謀略王
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この前、毛利元就についての本を読んだのですが、
毛利元就は、間違いなく、戦国謀略王ですね。
私は、毛利元就が、躍進したのは、最初、敵の能力が凡庸だからと思っていましたが、
本を読んで、わかったことは
中国地方は、知将・猛将が多くいました。
(陶晴賢もかなり、優秀な武将だったんですね。)
ということは、毛利元就が、彼ら以上に恐ろしく、謀略に長けていたということなんですね。
それにしても、謀略とは、いわば、相手の心を支配するマインドコントロールのような能力なので
この能力のある毛利元就は、人間の心理について、知り尽くしていた気がします。
実際には、絶対に不可能ですが
こういうガチンコ対決をしたら、どうなっていたんでしょうね。
◆ 毛利元就の謀略vs 羽柴秀吉の調略
対決。
◆ 毛利元就の謀略vs 織田信長の戦略対決。
それにしても、謀略だけで、あれだけの領土を拡大したというのは、素直に尊敬します。
今の日本の外交官にも、毛利元就くらいの謀略のような『したたかさ。』を見習って欲しいものですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに興味ある対決ですね。
また、確かに外交における「したたかさ」で現代においても存在している国もありますから、我が国の外交戦略ももっと考えてほしいものです。
兵法とは、騙し合い
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
毛利元就の生き方は、逆の立場で考えると
もの凄い、今の日本に恐怖感を与えますね。
というのも、
地方の弱小豪族でも、謀略があれば、大国を飲み込むことが出来るという証明です。
これって、
今、日本はGDP世界3位の国ですが、
他国の弱小国家であっても、日本に謀略を掛ければ、気がつけば、日本を乗っ取れるという証明ですね。(情報戦、工作員、脅しの外交戦)
今の日本は、『豊かさボケ』『平和ボケ』『平等ボケ』なので、謀略に長けた他国からすると
これほど、謀略をしやすい国は、ないかもしれません。
願わくば、今の日本の政権担当者が、
毛利輝元でないことだけを祈ります。
そう言えば、毛利輝元も謀略に掛って、戦わずして領地を削られましたね。
これも、今の、尖閣諸島、竹島もそうならないように祈りたいです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりの危惧を私も感じますね。
大内氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
気になったので、大内氏について、調べました。
大内氏は、領土が大きいだけではなく、
文化的にも大内文化を創り、さらに明との貿易で、
経済力も十分にあったのですね。
最後は、大内義隆が、平和ボケになり、
あっさり、滅びましたが、
大国でも、トップが平和ボケだとスグに滅ぶのですね。
今の日本は、大丈夫か心配です。
青田さんへ その3
黒田裕樹 私も心配になりますね。
さて、毛利元就といえば有名なエピソードがありますよね。いわゆる「三矢の訓(おしえ)」のことです。
自分の死期を悟(さと)った元就は、息子たち三人を枕元に呼び出して言いました。「一本の矢は簡単に折れるが、三本束ねると折ることができない。お前たちも三人が団結して毛利家を守り立てれば、こんな心強いことはない」。
毛利家の固い結束を連想させる美談ですが、実はこれは真っ赤なウソです。なぜなら、三人の息子のうち、長男の隆元(たかもと)は元就よりも先に死んでいるからです。
では、元就は死ぬまでに息子たちに言葉を残さなかったのでしょうか。実はちゃんと残しているんですが、その内容はとんでもないものでした。
「当家(=毛利家)を良かれと思う者は、他国のことは申すまでもなく、当国においても一人もいないだろうから、よくよく用心せよ」。
なんとも凄まじいまでの人間不信ですね。それにしても、元就の本当の遺言が無視されてまで「三矢の訓」というフィクションが広まったのはなぜでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
てっちゃん中尉 三矢の訓は有名な話ですが、ソレが事実ではないとすると、なんともイメージが変わりますね。というよりも、毛利元就は、日本人の特徴をよくよく理解したうえで一人で毛利家を拡張していたんですね。
流石の元就とはいえ、自分の子孫までは思うとおりには動かせないものですね。
そもそも、その有名なフィクション三矢の訓とは、一体何時頃に作られた話なのかが気になりますね。
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 三矢の訓は有名な話ですが、ソレが事実ではないとすると、なんともイメージが変わりますね。というよりも、毛利元就は、日本人の特徴をよくよく理解したうえで一人で毛利家を拡張していたんですね。
講義の際にも言いましたが、日本人の長所である「他人を信じる」ということを逆手にとってのやりたい放題でしたからね。
> 流石の元就とはいえ、自分の子孫までは思うとおりには動かせないものですね。
そうですね。この件については今回の講座の後半で改めて紹介します。
> そもそも、その有名なフィクション三矢の訓とは、一体何時頃に作られた話なのかが気になりますね。
時期については定かではありませんが、おそらくは数々のエピソードをまとめて、死の前後あたりには「つくられた」と思います。次回の更新で関連する件について触れておりますので、ご参考になればと思います。
ぴーち こんばんは!
三矢の訓、、これは私でも存じている
有名な話ですよね。。
それが、嘘っぱちだったとは(ノ゚Д゚ヽ|||そ…そんなぁ
しかしながら、その後の本当に述べた言葉の方が
なにやら、教訓としてはかなりのインパクトがありますね^^;
男は敷居を跨げば7人の敵あり・・
決して気を抜く出ないぞ!みたいなw
応援凸
では、では♪
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三矢の訓、、これは私でも存じている
> 有名な話ですよね。。
> それが、嘘っぱちだったとは(ノ゚Д゚ヽ|||そ…そんなぁ
残念ながら、そう断言せざるを得ません(´・ω・`)
理由は本文のとおり、幽霊を呼び寄せる(?)ことは不可能だからです。
> しかしながら、その後の本当に述べた言葉の方が
> なにやら、教訓としてはかなりのインパクトがありますね^^;
> 男は敷居を跨げば7人の敵あり・・
> 決して気を抜く出ないぞ!みたいなw
仰るとおりですね。それにしても、なぜ本物の遺言状が無視されて、「三矢の訓」のようなウソが広まったのかについては、明日(26日)の朝の更新で明らかにしますよ(^^♪
marihime 黒田さんこんばんは☆
楽しく拝見させてもらいましたよ!
次回また見させてもらいますσ(゚ー^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
明日以降も是非よろしくお願いします(^o^)丿
さすらい こんばんは。
毛利家(広島)と当家(ヤクルト)とは
現在3位争いの渦中にいるため
件の訓は、あまり興味がありませぬ(笑)
ですが、この話が逸話で
創られたものであるとは聞いていました。
いつも申しますが
歴史ミステリーとは、かくなるものですよ。
面白いのは黒澤映画「乱」では
これをさらに発展させ、おかしく創作。
結果として名作になりましたから
「三本の矢伝説」も
後世には一役買ったということで
「真っ赤なウソ」なんて言わず
見逃してあげましょう(笑)
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 毛利家(広島)と当家(ヤクルト)とは
> 現在3位争いの渦中にいるため
> 件の訓は、あまり興味がありませぬ(笑)
> ですが、この話が逸話で
> 創られたものであるとは聞いていました。
確かに争ってますね(笑)。私の住む地域(大阪)も関係しておりますが(^^ゞ
やはり「つくられたもの」であることは知られているんですね。
> いつも申しますが
> 歴史ミステリーとは、かくなるものですよ。
> 面白いのは黒澤映画「乱」では
> これをさらに発展させ、おかしく創作。
> 結果として名作になりましたから
> 「三本の矢伝説」も
> 後世には一役買ったということで
> 「真っ赤なウソ」なんて言わず
> 見逃してあげましょう(笑)
「乱」では、うまくストーリーとして使っていますよね。
確かに「伝説」としては今でも有名ですから、見逃すべきかもしれません(笑)。
サンフレッチェ
オバrev な、なんと!三矢の訓は作り話?
しかも、3人兄弟のうち長男は既にいなかった??
サンフレッチェはどうなるんじゃ~(T_T)
それにしても、毛利元就はやり手だったけど、嫌われていたんですね。
国際的に見ると、胡錦涛さんもこのタイプかも。穏やかそうな顔してますが、なかなかのやり手です。
※第5回歴史講座の内容公開の間は、一日に二度(6時と18時)の更新を行いますので、是非ご覧になって下さい。
元就は謀略につく謀略によって、彼一代で大大名になりました。その過程では多くの敵から恨まれただけでなく、吉川家や小早川家を強引に乗っ取ったことによって、身内からも恨まれる結果となりました。だとすれば、今後毛利家が栄えていくためには「一族の団結」こそが重要であり、そのためにも「三矢の訓」という「神話」が必要だったのです。
元就は1571年に75歳で亡くなりましたが、家督を継いだ孫の毛利輝元(もうりてるもと)の凡庸(ぼんよう、すぐれた点もなく平凡なこと)な器量を心配し、次男の吉川元春や三男の小早川隆景らに輝元の補佐を依頼しました。
元就の死後は、織田信長の攻勢によって毛利家は領土の半分近くを失いましたが、それでも合計で120万石を超える広大な領地を輝元が所有できたのは、上記の叔父たちの尽力によるものでした。
豊臣秀吉による天下統一後は、輝元は隆景とともに秀吉の五大老(ごたいろう)として君臨し、毛利家は安泰(あんたい)でしたが、1597年に隆景が亡くなって頼りにしていた叔父たちがすべて死んでしまい、その翌年には秀吉も亡くなって再び天下が乱れる気配を見せると、元就の心配は現実のものとなってしまったのでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち 元就の生き方は、現代でも一代で名を残した
人物達の生きざまに十分当てはまりますね。
そうでしたか。。神話を作り上げることで
親族からの攻撃を避わすことを狙った訳ですか。
何だか、関係ないですが、故笹川良一さんを思い浮かべてしまいました^^;
裏では政界のドン・黒幕とまで呼ばれながら、競艇のCMでは「一日一善!」なんて、人の良さそうなオジサンぶりをアピールしてましたね~。
ととと・・・・関係ない話に展開しそうなので、この辺で^^
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
人間は、普段足りていることや満足していることを気にすることが少ない一方で、自分が持ってないものや足りないものへの欲求は根深いものがあります。
毛利元就も、自分に欠けているものだからこそ「教訓」を「神話化」して残したのでしょう。
笹川良一氏とは懐かしいですね。「フィクサー」の名にふさわしい彼の生き様は、善行を重なることで何を求めようとしていたのでしょうか。ただ、彼が残した財団は、我が国にとって益となっているようですね。
本当なら、天下も狙えたのに
- 黒田先生
青田です。
今の大河ドラマ黒田官兵衛
を観ていて、逆に毛利の優柔不断さには、
驚き、呆れました。
毛利は、優柔不断でなければ、何度も
織田信長を打ち破るチャンスはあったんですね。
その証拠に、播磨の多くの武将が、毛利をあてにしていました。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにその可能性は否定できませんが、元就が「領土の拡大をするな」と生前に言っていたという事情もあったようですからね。
難しいものです。
秀吉の死後、徳川家康と秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)とが対立し、両者は1600年に関ヶ原で激突しました。このとき毛利輝元は三成率いる西軍の総大将に祭り上げられ、大坂城に入城しましたが、関ヶ原の戦いで彼が動くことはありませんでした。
実は、毛利家の一族であった吉川広家(きっかわひろいえ)が、家康率いる東軍に通じていたのです。広家は輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動かずに不戦を貫きました。
広家による努力の甲斐あって(?)西軍が敗退して東軍が勝利すると、広家は家康から「毛利家の本領安堵(ほんりょうあんど、領地をそのまま保障すること)」の約束を取り付けました。
広家の工作を戦後に知った輝元は、怒るどころか本領安堵の約束をむしろ喜び、家臣の「大坂城に留まって戦うべきだ」との声を無視して、大坂城を「無傷で」明け渡したのですが、これがとんでもない大失敗でした。
家康は輝元が大坂城を明け渡した途端に、それまでの温和な態度を一変させ、手のひらを返したように「毛利家の領地没収」を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、後の祭りでした。




いつも有難うございます。
広家による必死の懇願(こんがん)で毛利家は辛うじて断絶を免れましたが、120万石あった領地は周防国(すおうのくに、現在の山口県東部)と長門国(ながとのくに、現在の山口県西部)の2ヶ国のみの約37万石に激減してしまいました。広大な領地の約3分の2が一気に削られてしまったのです。
毛利家が領地を削られずに済む方法はなかったのでしょうか?
その可能性は確かにありました。家臣が勧めたように、大坂城で家康相手に戦えばよかったのです。大坂城は天下の名城ですから、そう簡単に落とされるものではないですし、仮に負けたとしても、家康の心の中に「毛利家を敵に回したくない」という感情が芽生えたはずでした。
実は島津家(しまづけ)が同じことをしているのです。西軍側についた島津家は、関ヶ原の戦いが終わると、東軍の激しい攻撃を受けて100名に満たない人数になりながらも、領地の薩摩国(さつまのくに、現在の鹿児島県西部)へ無事に引き上げました。その後も徹底抗戦を覚悟して粘った島津家に対し、家康は取り潰(つぶ)しをあきらめ、島津家の本領安堵を認めたのでした。
島津家と同じように抵抗すべきだったのに、家康の謀略に簡単に引っかかって、あっさりと大坂城を明け渡した輝元の大失態であり、謀略で鳴らした元就の孫とはとても思えないダメ武将ぶりでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
かくして「格下げ」されてしまった毛利家は、新たな城を交通の便の良くない山陰側の萩(はぎ)に築くことを強制されたり、江戸幕府で普請(ふしん、土木工事のこと)が行われる際に自費で手伝わされたりするなど、散々な目にあいました。
毛利家の家臣たちは、自分らが受けなければならない仕打ちを悲しみましたが、主君である輝元の凡庸さが没落の原因であると批判できなかったので、非情な処分を行った江戸幕府をむしろ深く恨むようになりました。時代が下るにつれて恨みは代々受け継がれ、毛利家にはいつしか以下のような「伝説」が生まれました。
参勤交代(さんきんこうたい)で本国に帰った毛利家の殿様が国元で迎えた正月の夜明け前に、家老と二人だけでお城の天守閣に登ると、家老が殿様に言いました。
家老「江戸征伐の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」
殿様「まだその時期ではない、やめておけ」
もちろん実際には江戸征伐など当時は夢のまた夢でしたが、徳川家への怨念が積もり積もっていくうちに、毛利家は幕末の頃には「長州藩」(ちょうしゅうはん)という討幕(とうばく)の雄藩(ゆうはん)として薩摩藩(さつまはん)とともに君臨するようになりました。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
動画を食い入るようにw拝見させていただきました^^
いやいや。。思わず力説に拍手をお送りさせていただきたくなりましたよ^^
そうですね~
個人では素直さは得をすることでも、外交や戦いでは
相手の良いようにされてしまうのがオチですよね。
確かに日本の外交政策は、常にそんな状態で外国から
良いようにあしらわれているように思います。
今回も「ユキオ・オバマ」と呼び合う信頼関係が、どうぞ表面上だけに終わらなければと良いと祈るばかりですが・・。
応援凸
また、お邪魔しますね~^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 力強いご声援、有難うございます!
本物の講座では、こうした「文章で表せない」数々の考えをありのまま伝えられるのが強みだと思いますし、また今回の毛利家の講座で私が一番訴えたかった箇所でもあります。
素直を額面どおり受け取れないし、受け取ってはならないのは日本人として悲しいですが、祖先が命がけで守ってきた我が国ですから、私たちの代で終わらすようなことがあってはなりません。
せっかく(?)毛利家という生きた「教訓」があるのですから、私たちはそれを活かさないといけない。それがまた「歴史を学ぶ」ことの重要性でもあるのです。
今の鳩山首相にそこまでの理解があるのかどうか…。私たちも彼の今後を慎重に見守っていきたいものですね。
けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
毛利家の記事、拝見させて頂きました。
当初は小領主に過ぎなかったんですね。毛利家の興隆と、その後の衰退の流れが初めて掴めました。
もし大阪城で、輝元が抗戦の腹を決めていたら、日本の歴史は随分変化していたかも知れませんね。
記事を拝読しつつ、歴史のIFに思いを馳せております。
気のせいかもしれませんけど、
前回と比べて講義中の先生の様子が
板に着いてきたように見えました(^^)
続きを楽しみにしてます!
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の記事、拝見させて頂きました。
> 当初は小領主に過ぎなかったんですね。毛利家の興隆と、その後の衰退の流れが初めて掴めました。
有難うございます。「歴史の流れ」で見ると、栄枯盛衰がくっきりと浮かび上がってきますよね。でも、まだ終わらないんですよ(笑)。
> もし大阪城で、輝元が抗戦の腹を決めていたら、日本の歴史は随分変化していたかも知れませんね。
> 記事を拝読しつつ、歴史のIFに思いを馳せております。
そうなんですよね。島津に続いて毛利も弱体化できなかった江戸幕府は、成立当初から磐石な体制を築くことができずに、その後の歴史の流れが流動的になった可能性すらあります。そういった「歴史のif」を考えることは楽しみであり、また必要であると思います。
> 気のせいかもしれませんけど、
> 前回と比べて講義中の先生の様子が
> 板に着いてきたように見えました(^^)
> 続きを楽しみにしてます!
だったらいいんですけど(^^ゞ
まぁ元教師ですし、いずれは復帰したいですから、もっと精進しなければいけませんね。
また、毛利家の江戸幕府に対する積年の恨みは、松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた吉田松陰(よしだしょういん)から桂小五郎(かつらこごろう、後の木戸孝允=きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)、山県有朋(やまがたありとも)といった優秀な人材を生み出しました。
彼らの活躍によって、夢のまた夢であったはずの討幕(とうばく)が現実のものとなったばかりでなく、明治維新(めいじいしん)を経て我が国が有色人種(ゆうしょくじんしゅ)でありながら短期間で近代化に成功し、世界の一等国として欧米と肩を並べるまで成長する原動力になったのです。
毛利元就という英雄が一代で築き上げた広大な領地は、彼が心配したとおりに孫の輝元によって大幅に減らされてしまうという悲劇となりました。しかし、その結果が皮肉にも約260年後に討幕の原動力になり、やがては我が国の近代化に貢献することになるのですから、歴史の流れというのは本当に不思議なものですね。
毛利家の栄枯盛衰は、我が国の戦国時代から幕末につながる歴史をつくった「陰の主役」でもありました。自己の子孫とその家臣たちが徳川家康の子孫を倒していく光景を、元就はどんな思いで見つめていたのでしょうか。
(第5回歴史講座の記事はこれで終了です。本日(28日)の18時には今回の講座全体の講評について書きます)
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
-
MAHHYA 今回もとっても勉強になりました!
毛利元就、すごい人物ですね…。
確か、天下取りに動き始めたときは、40前後だったと記憶してましたが…。
江戸幕府への怨念が、幕末まで続いた、そして、一から明治維新を作りだしたのが、薩長だったというのも、歴史の壮大さを感じさせます!
ぴーち こんにちは!
なるほど、今でもそう言う話を耳にしますよね。
一代で財を成し遂げたお爺ちゃんのその孫が
一代で食いつぶした話^^;
それにしても、昔からやはり大和民族の優秀さというのは、際立っていたんですね!
ゲルマン民族、ユダヤ人も優秀だと聞いたことがあります。
余談ですが、黒田さんのプロフを参考に、似顔絵を描かせていただきました^^
似て無い!!等の突っ込みOKですので、一度、ご覧いただければ、幸いです^^
それでは、応援凸
ケンシロウ こんにちは。
日本人を有色人種と表現をすることを
今の若者は知っているのだろうか?
おいらは・・・普通よりちと濃いですw
萩の奇跡
オバrev 結局徳川幕府を倒し、新しい日本を作っていった元は、毛利なんですね。歴史を長い目でみると、また違った見方ができますね。
それにしても、あの萩の田舎から、日本を動かす逸材が数多く輩出されたのは奇跡としか言いようがありません。いくら毛利家の怨念があったとは言え凄いです。
私は萩の奇跡と呼んでいます(^^;)
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > 今回もとっても勉強になりました!
> 毛利元就、すごい人物ですね…。
> 確か、天下取りに動き始めたときは、40前後だったと記憶してましたが…。
尼子家を謀略で破った吉田郡山城の戦い(1540~41年)の頃がちょうど40歳過ぎですから、仰るとおりですね。考えてみれば今の自分の歳と変わらないんですよね…。
> 江戸幕府への怨念が、幕末まで続いた、そして、一から明治維新を作りだしたのが、薩長だったというのも、歴史の壮大さを感じさせます!
本当にそうですよね。薩摩藩も関ヶ原の戦いで本領を安堵されたとはいえ、いわゆる「負け組」であることに変わりはないですから、同じく怨念を持っていましたからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、今でもそう言う話を耳にしますよね。
> 一代で財を成し遂げたお爺ちゃんのその孫が
> 一代で食いつぶした話^^;
「不肖の孫」はよく聞く話ですよね。輝元の場合もその「法則」から逃れられなかったということでしょうか…。
> それにしても、昔からやはり大和民族の優秀さというのは、際立っていたんですね!
> ゲルマン民族、ユダヤ人も優秀だと聞いたことがあります。
私もそう思います。逆境のたびにはね返す力を持った民族ですよね。今回の「百年に一度の不況」からは脱出できるのでしょうか。いや、それよりも…。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 日本人を有色人種と表現をすることを
> 今の若者は知っているのだろうか?
> おいらは・・・普通よりちと濃いですw
言われてみればそうですね…。人種差別がなくなりつつあるのは喜ばしいことですが、過去には「差別されてきた」という歴史を知ることは重要だと思います。私は…普通でしょうか(^^ゞ
およよのよ お久しぶりです。
覚えていらっしゃるでしょうか。
今回更新が中々出来ず。それでもカウンターが回ってて更新する気やる気が無いのに置いておくのも申し訳ないな、と思いブログを削除させていただきました><
ごめんなさい。
ブログも毎日確認してるのですがコメントも面倒くさくなってしまって…。
でも毎回楽しく読ませてもらってます。
そういえば歴史も現代に近づいてきてますけど歴史が一通り終わったら先生的にはどうするおつもりですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 結局徳川幕府を倒し、新しい日本を作っていった元は、毛利なんですね。歴史を長い目でみると、また違った見方ができますね。
仰るとおりでして、長い目で見ないと気づかない「歴史の落とし穴」でもあります。長州藩や薩摩藩がなぜ討幕できるほどの力を持っていたのかが説明できなければ、本当の歴史教育とはいえないでしょうし。
> それにしても、あの萩の田舎から、日本を動かす逸材が数多く輩出されたのは奇跡としか言いようがありません。いくら毛利家の怨念があったとは言え凄いです。
怨念というか、人間が感情を持て余しているときには普段以上の力が出てくるのでしょう。そして、そんな状態のときにこそ「救いの神」となるべき人物が現れるものですよね。ただ、その「救いの神」は時代に選ばれすに終わってしまうことが多いのも悲しい現実です。
> 私は萩の奇跡と呼んでいます(^^;)
「萩の奇跡」…いい言葉ですね!
教師復帰の暁には是非使わせていただきます!(^o^)丿