「敵は本能寺にあり!」
歴史ファンに限らず、この言葉を知らない人はいないのではないでしょうか。今から約430年前に起きた「本能寺の変」(ほんのうじのへん)。この大事件によって、我が国の歴史は間違いなく激変しました。その主役の一人は討たれた織田信長(おだのぶなが)であり、もう一人は信長を討った謀反人(むほんにん)である明智光秀(あけちみつひで)です。
しかし「本能寺の変」については、これだけの大事件にもかかわらず、光秀がなぜ信長を討とうとしたのか、という動機が現代まで解明されていません。日本史、いや世界の歴史全体からしても最大のミステリーのひとつとされています。
また、光秀が信長を討って天下取りに事実上名乗りをあげたにもかかわらず、わずか10日あまり後に羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)率いる軍勢に大敗し、逃げる途中で落武者狩りの竹槍(たけやり)に致命傷を負わされて自害したとされています。いわゆる光秀の「三日天下」といわれていますが、勝負は時の運とはいえ、なぜこれほどまでに呆気(あっけ)なく倒されてしまったのでしょうか?
今回の講座では、「本能寺の変」前後の光秀の行動をたどりながら、信長を倒すまでに至った経緯や、その後の展開を探ってみたいと思います。




いつも有難うございます。
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ヒヨ 黒田裕樹さん、おはようございます( ・∀・)ノ
本能寺の変は小学生の頃のヒヨが歴史に興味を
持ったきっかけで今でもひとり頭の中であれや、これや
と考えてしまいます・・・
京都・本能寺に行くとこのセリフを言いそうに
なってしまいます(*-`ω´-*)ゞ
スカパーでも「敵は本能寺にあり!」が放送されますね
とっても楽しみです♪
先週、岡山市の備中高松城跡に行き
「中国大返し」をしてきたヒヨより(*`艸´)
東洋劇場 おはようございます!
よく小説なんかで読んだ事のある時代です。
楽しみにしてます。
いつ読み逃げばかりでごめんなさい。
ヒヨさんへ
黒田裕樹 ヒヨさん、こんにちは(^o^)丿
本能寺の変は多くの人々に様々な影響やきっかけを与えているんですね。私もあの名セリフを思わず…おっと、これは映像をご覧いただきましょうか(笑)。
「中国大返し」をされたんですか?
ということはヒヨさんが選挙後の新政権を倒して天下を統一されるんでしょうか!?(^^ゞ
東洋劇場さんへ
黒田裕樹 東洋劇場さんのご期待に応えられればよいのですが…。今回は映像を交えていきますので、それで何とかなるのではとも思います。
こちらこそ読み逃げばかりで申し訳ないですm(_ _)m
明智光秀が織田信長を討った理由として昔から挙げられている説のひとつに「怨恨説」(えんこんせつ)、つまり光秀が信長に深い恨みを抱いていたというのがあります。小説や映画、テレビドラマなどで昔から様々に描かれてきておりますが、実はこれらは江戸時代以降の講談などの史料をもとにつくられており、信用できるものではありません。
また、光秀が本能寺の変の直前に信長から毛利家(もうりけ)征伐のための出陣を命じられた際に、領国である丹波国(たんばのくに、現在の京都府中部および兵庫県東部など)を没収されたという説もあり、光秀がこの仕打ちを恨んでいたといわれています。新たな領地は毛利家を倒して自力で奪え、という信長の激励(?)であったとされていますが、これも変な話です。
光秀は信長の家臣でありながら、この頃には既に一国を領する大名でもありました。いくら主君とはいえ、これから攻めようとする光秀に対して、何の落ち度もないのにいきなり領国を没収するということが果たして可能なのでしょうか。まして「領国を没収=路頭に迷わす」という厳しい条件の下で戦わせようという滅茶苦茶な作戦を、あの信長が採用するとは考えられません。
ではどうしてこのような怨恨説が有力とされてきたのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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智里 おぉ!!
動画がついてる~(*´▽`人)
歴史的事件の講座なんで面白いですよね。
文章でも十分に分かりやすいのに、映像があることによって、もっと分かりやすくなりました。
1度、リアルで黒田さんの講座を受講してみたいな。
marihime 黒田さんこんばんは☆
「本能寺の変」についての講座、随分熱が入っていていいですね。
戦国時代の最大のミステリーですから、面白い講座だと思います。
美濃土岐一族の中で1番の出世頭だったので、私も色々調べましたが、歴史の表舞台に出てきた頃の光秀と、晩年の光秀には生き方に違いがあるようです。
光秀の人間性も含めて解明していただければいいなと思います。
あっ、一族だから甘くしてくれなんてことはいいませんから、存分に切り込んでくださいね(*^_^*)
映像観させていただきました。
なかなか迫力がありよかったですσ(゚ー^*)
動画付きとは(驚)
オバrev 黒田先生 動画付きとは素晴らし(・∀・)イー!!
やっぱ文章にはない迫力がありますね。
しかし、光秀怨恨説は作り話?
となると裏で手を回している人間がいるんですか。
信長と光秀ははめられたのか・・・(´ε`;)ウーン
たぶんそれは、○○じゃないかな(^^)
こみー こんばんわ~。
講座の動画、とってもわかりやすいですね(*^_^*)
このボクにも理解できるような感じですよ~(笑)
世の普通の先生よりわかるかもしれません。
生で受けてみたいですね(^-^)b
智里さんへ
黒田裕樹 確かに本能寺の変の講座ということでお越しになった方も多かったようです。
次回以降につなげられればいいのですが…。ひとえに私の実力次第ですからね。
北海道まで出かける機会がないもので…。とはいえ体ひとつでどこでも講義は出来ますから、いつかは実現してみたいものですね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 光秀の人間性ですか…。心理面においては突っ込んだ話が出来たと思いますので、今後にご期待下さいね。
私の講義や授業は「迫力があってナンボ」ですから(笑)。聞かせないと始まりませんしね。
お言葉有難うございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 講義においては、「聞く努力」だけでなく「聞いてもらう努力」も必要だと思います。今の自分にそれがあるかどうかは分かりませんが、参加者に「講義を受けてよかった」と常に思われるようになりたいものです。
裏で手を回している人間がいるかどうか…。今後の展開にご期待下さい(^^ゞ
こみーさんへ
黒田裕樹 一応、今春まで高校の現代社会と日本史の教師でしたからね(笑)。
現役高校生にお褒めの言葉をいただいて恐縮です。
北海道の次は福岡ですか…。確かに行ってみたいですね。
ふとかつ こんばんは。
講義の映像を拝見しました。分かりやすくて興味を持って聞けますね。黒田さんみたいな先生だったら子供達も歴史に興味を持ってくれるのでは!!
私も、是非“生”講義を受けてみたいです。
アキ スゴイ!
まだ1本目しか拝見していませんが、
ナニナニ、明智光秀ってワケもなく本能寺に乗り込んだのー?ウケルーww って感じです。
今日中に15本見られるかなー。
すごくわかりやすく、スーッと入ってくるのはどうしてだろう と考えたら、
声が通っていて、ハッキリお話されるから聞き取りやすいんですね。
これは歴史の勉強がおもしろくなります。
我々は、動機の見つからない不可解な事件が起こった際に、真っ先に「何か恨みがあったのか?」と考えがちです。そして、その動機がどうしても分からないときには、加害者が被害者に抱いたであろう「恨み」を勝手に想像したりすることはありませんか?
詳しくは後述しますが、信長と光秀との主従関係を冷静に見れば、光秀が信長に弓を引くなんて考えられません。にもかかわらず、その考えられないことが実際に起こってしまいました。だとすれば、信長は光秀に今まで受けた恩を仇で返すほどの恥辱(ちじょく)を与えていたのだ、と思いませんか?
すなわち、事件後に加害者の気持ちになって「逆算」したうえで「恨みがあったからこんな事件が起こったんだ」と自己満足して終わり、としてしまうことがよくあるのです。光秀の怨恨説も、こうした「逆算の論理」によって後世に考えられたものが大半であると推定されます。
しかし、光秀に諸説のような怨恨がなかったとしても、光秀が信長に対して「このままではついていけない」と考えてもおかしくない「流れ」があったことは私にも想像できます。この「流れ」をたどるために、光秀の半生を簡単に振り返ってみましょう。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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kenちゃんマイド 歴史仲間3人を引き連れてはじめて講義を拝聴させていただきました。ありがとうございました。暑いなか、先生の大熱演、お疲れ様でした。仲間達もまずまず満足したと思います。明智光秀のその時の行動については、過去いろいろな説があり、これという決め手がみつかっていないのが現状です。新資料を見つけ出す事はたやすくありませんが、今後も研究してまたの機会に発表してください。期待しています。
ちゃてれ 第4回歴史講座お疲れ様でした。
動画観ました。
まさに熱演ですね、尊敬します!!
指し棒が素敵です(笑)
空茄 ちょっと太りました??
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 こちらこそ講座当日はお世話になりました。
皆様のご参加が、私をどれだけ勇気づけて下さったことでしょうか。お蔭様で自身でも納得のいく内容の講義ができたと自負しております。
今後もさらに研究を重ねて、いつの日か新たな内容で発表できればと思っております。
有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします。
ちゃてれさんへ
黒田裕樹 塾の名物先生でもあるちゃてれさんにお褒めいただいて恐縮です(^^ゞ
指し棒は講義における私の身体の一部ですから(笑)。教師時代にも毎日使っていましたよ(^^♪
空茄さんへ
黒田裕樹 …鋭いご指摘ですね(^^ゞ
確かに増えてますかね(汗)。まぁ育ち盛りですから(笑)。
コメント有難うございますm(_ _)m
トレビアン・西です こんばんは。
光秀が信長を討った理由は諸説ありますが、結局何が真実か分りません。
しかし、数年前から考えていることがあります。
私は高野山で行をしました。
高野山に光秀の墓があります。
その墓石が割れるのです。新調しても割れるそうです。
私は光秀は高野山に恨みを持って死んだと思っています。
裏切られたのではないかと思っています。
実は、信長は高野山にも比叡山と同じように脅しをかけていました。
それ以来、高野山では信長に呪詛をかけていたとも言われています。
余談ですが、同じことを太平洋戦争の敵国にもしていたそうです。
信長が死んだ後、秀吉は高野山の中興の祖「木食上人」の弟子になりました。
そして高野山の復興のために多額の寄進をしています。
高野山における秀吉の影響がどれほどのものか、それは高野山真言宗の輪袈裟を見れば分ります。豊臣の家紋が入っています。
私は高野山が光秀をそそのかして信長を討たせた。
漁夫の利を得た秀吉が、高野山を加護したと思っています。これは私だけの意見ですが・・・。
トレビアン・西さんへ
黒田裕樹 こんばんは。長文の詳細なコメント有難うございます。
光秀の墓所の話は聞いたことがありますが、恨みを残して死んでいったということなのでしょうか…。
秀吉のお話ですが、私はむしろ秀吉は信長以上に高野山に強硬姿勢で臨んだと認識しております。
比叡山延暦寺の件を持ち出して、言うことを効かなければ同じように焼討ちするぞと脅して、高野山側が屈服し、その後は和解して仰るような影響を与えたということだと思います。
歴史は奥が深いですね。このあたりのお話も、いずれは取り上げていければと思います。
貴重なご意見に感謝いたします。
明智光秀は清和源氏(せいわげんじ)の流れをくむ土岐氏(ときし)の分家である明智氏の一族であるとされていますが、生年ははっきりせず、若い頃は諸国を流浪(るろう)して生活していたと伝えられています。
やがて越前国(えちぜんのくに、現在の福井県東北部)の大名であった朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えて、後に第15代室町幕府将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)が朝倉氏を頼ると、光秀は義昭の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)と親しくなりました。この二人が厚い友情で結ばれていたことは、後の大きなポイントになりますので記憶しておいて下さい。
義昭が上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)を希望しても義景が越前を動かなかったため、義昭は織田信長を頼るようになりました。信長は美濃国(みののくに、現在の岐阜県南部)を統一した後に上洛し、義昭を将軍に立てることに成功しましたが、この頃までに光秀は信長の家臣になったと考えられています。
光秀には和歌や茶の湯をよくするという教養人の一面がありました。このため信長は光秀に朝廷との交渉を任せるなど次第に重用し、1571年の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の焼討ちなどでも戦功を挙げた光秀に対し、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の一部を彼に与え、坂本城(さかもとじょう)を築かせて京都や比叡山の抑えとしました。
信長の多くの家臣団の中で、浪人から新規に取り立てられてわずか数年しか経っていないにもかかわらず、光秀は早くも一城の主になったのです。しかも同じように浪人から採用された秀吉よりも出世が早かった(秀吉が同じ立場になるのは2年後です)わけですから、信長の光秀に対する厚遇ぶりと、光秀の信長に対する感謝の思いがよく分かります。
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いつも有難うございます。
お蔭様で、昨日(9月2日)の一日のカウント数が、初めて100を超えました。いつも応援下さいまして、本当に有難うございます!
その後も光秀は各地を転戦して武功を挙げ、前述の丹波国も領地に加えました。地図を見れば分かりますが、丹波国は京都のある山城国(やましろのくに、現在の京都府南部)の真上にあります。つまり、信長は全国統一に向けて戦略上重要な位置にある国を、光秀に一任しているのです。
また、信長は自分の家臣をいくつかの軍団に分け、それぞれに地方の攻略を命じていましたが(例えば羽柴秀吉は中国地方を担当)、光秀は「遊軍」(ゆうぐん、待機している軍勢のこと)として常に自分の手元においていました。
一見すると手持ち無沙汰(ぶさた)のように見えますが、有事の際には各武将の援護のために真っ先に駆けつけるわけですから、攻撃力も防御力も同時に備えていなければなりません。そのような難しい軍団を、信長は光秀を信頼して任せていたのです。
ここまで振り返ってみると、光秀が自分をそこまで信頼してくれている信長をどうして裏切ったのか、ますます理解できなくなりますよね。後世の人間が苦しまぎれに怨恨説を「つくりあげた」背景も、分からなくはありません。
しかし、人間というものはいくら物量や恩で満足していても、気持ちの中で何がしかの不信感を持ってしまうことがよくあります。それは光秀とて例外ではなく、信長の見せた行動の中から「このままでは信長様についていけない」と思わせる「何か」が芽生えた可能性が高いのです。
では光秀に不信感を与えた信長の行動とは何だったのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
信長は1580年に大坂(現在の大阪)・石山の本願寺を攻略した後、重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、不行跡(ふぎょうせき)によって領地没収のうえ追放処分にしました。追放の真の理由ははっきりしていませんが、この頃までに「独裁者」ともいえる実力を持っていた信長に対して、否応(いやおう)なしに恐怖感を認識した事件でもありました。
今は大した失敗はしていないから自己の地位は安泰だが、いつ信長様の逆鱗(げきりん)に触れるか分からないところが恐ろしい―。光秀の中で、恐怖心とともに「ついていけない」という不信感が芽生えた瞬間でもありました。
1581年に、京都において第106代の正親町天皇(おおぎまちてんのう)ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃え」(うまぞろえ)が行われました。信長が自分の力を周囲に誇示するために行われたというのが通説ですが、その一方で朝廷に対する圧力もあったとされています。
信長は豊富な資金力で朝廷を手厚く保護する一方で、朝廷の力を利用して自己の天下統一を有利に進めていました。例えば先述の石山本願寺の攻略も、正親町天皇の命令で本願寺側が石山を退去することで決着しています。
「金は出すが口も出す」。朝廷に対する信長の態度はいつしか尊大になり、やがては正親町天皇と対立するようになった信長は天皇に譲位を迫り、反対された天皇に対して威嚇(いかく)の意味を込めてわざわざ馬揃えをしたという説もあるのです。
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いつも有難うございます。
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悠 講座の動画みました
歴史ってやっぱりおもしろいですねー
頑張って勉強します!
安眠癒しグマ 講座の記事ありがとうございます。
じっくり勉強します。
ぽち♪
悠さんへ
黒田裕樹 > 歴史ってやっぱりおもしろいですねー
> 頑張って勉強します!
そう思っていただければ有難いです。
勉強頑張りましょう!(^o^)丿
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント&ぽち有難うございます!
次回以降の講座には是非お越し下さい(^_^)v
自滅の種
オバrev この尊大さが自民党敗北、特に大物議員が小選挙区で負けた原因の一つだったように思います。
道半ばで天下統一を逃した信長ですが、その原因となる自滅の種を、しっかり自分で蒔いてたんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 自己の築き上げた強大な権力の座。そのイスの座り心地に慣れてくると、自分の力が無限大に思えてくるようですね。
それ自体の是非はともかく、信長の見せた「暴走ぶり」は、確かに先日の衆院選に通じるところがあると思います。
ただ、殺されてしまった信長はともかく、自民党にはまだやり直す機会が残っているとは思いますが、ここ数日の動きを見ると、何も申し上げられませんね…。
お蔭様で、今回の記事が通算で200回目となります。いつも応援下さいまして、本当に有難うございます!
光秀は早くから朝廷と通じ、交渉役として奔走(ほんそう)してきましたが、信長の朝廷に対する態度は、そんな自分の今までの血のにじむような努力を無にしてしまいかねない、とんでもないものに見えました。光秀に朝廷に対する尊敬の思いがあったかどうかはっきりしませんが、少なくとも自己の努力を否定しかねない信長の行動に対しては「ついていけない」と不信感を抱いたことでしょう。
また、これは光秀に限りませんが、皇室に対する不敬な態度や、足利将軍家に対する追放という仕打ちなどが、当時の日本人からすれば「異常」に見えました。来たるべき新しい時代に向けての信長なりの秩序が、光秀には受けいれられなかったのです。こうして信長に対する不信感が募(つの)っていく中で、光秀の心の中に「爆弾」がつくられていきました。
しかし、これらの「ついていけない」思いだけで、光秀が信長への謀反を決意したとしても、すぐに行動を移したとは考えにくいのが現実です。不信感は確かに爆弾やその導火線と化していきましたが、肝心の「導火線に火がつく」までには至っていませんでした。では、その「火がつく」きっかけとは何だったのでしょうか?
ところで、事件が起こった後に実行犯を捜索(そうさく)する際の名言に「事件後に一番得をした者を疑え」というものがあります。この格言を「本能寺の変」に当てはめれば、誰が一番得をしたのでしょうか?
羽柴秀吉の名前が浮かびそうですが、彼はむしろ「被害者」になりかけています。光秀の毛利家に対する使者が秀吉側に捕まったことによって、秀吉は信長が暗殺されたことを初めて知りました。その後、急いで毛利家と講和して引き返しましたが、もし毛利家が信長暗殺を先に知っていれば、秀吉は中国地方に釘付けになっていたことでしょう。そんなリスクのあることを、秀吉が行うとは考えられません。
ではいったい誰が一番得をしたのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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紗那 朝廷にどうしたという話は聞いたことありますねー。
何で読んだのか忘れましたけどww
誰が一番得したかですか。
漠然と秀吉さんなきがしてましたが、確かにいわれてみれば得してないですね。
家康さん?でも、光秀から逃れるために必死で逃げてたはずですし・・・
誰だろう・・・ 期待してます(ぇ
紗那さんへ
黒田裕樹 > 朝廷にどうしたという話は聞いたことありますねー。
> 何で読んだのか忘れましたけどww
聞かれたことがあるんですか。朝廷に歯向かうだけの資金力や権力を持っていましたからね。それだけに、本能寺の変には朝廷が黒幕の説もありますが、私の見解は…。
> 誰が一番得したかですか。
> 漠然と秀吉さんなきがしてましたが、確かにいわれてみれば得してないですね。
> 家康さん?でも、光秀から逃れるために必死で逃げてたはずですし・・・
秀吉については記事のとおりです。家康も、仰るとおり命がけで逃げ回りましたからねぇ。いくら狸親父でも、あれが芝居だとは思えません。
> 誰だろう・・・ 期待してます(ぇ
新しい記事に答えを書きましたが、ご期待どおりでしたでしょうか?(^^ゞ
韓非子の言葉
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
織田信長は、家臣を信じるのに家臣に裏切れています。
・ 浅井長政、荒木村重、松永久秀、明智光秀、
なぜ、織田信長は、家臣を見抜く力がなかったのかと思っていたのですが
中国の秦の始皇帝に韓非子が言った言葉を思いだました。
「上、三年にして下を知り 下、三日にして上を知る」
上の人間は、下を知るのに、3年掛る。
しかし、下(家臣)は、上司にイイように観られてたいから、3日あれば、上司を知ることができる。
織田信長は、後半生で、独裁病になると、まさに
この状態でしたね。
家臣は、信長が恐ろしいがゆえに、信長の前で
ええ顔をしようとする。
逆に独裁病になると家臣の本音が見えないくなる。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに韓非子の言うとおりですね。
独裁病はまさに「病、膏肓に入る」といったところでしょうか。
本能寺の変によって一番得をしたのは、実は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。信長はそれまで講和を結んでいた長宗我部元親を征伐する決意を固め、三男の織田信孝(おだのぶたか)や家臣の丹羽長秀(にわながひで)らに攻めさせる準備をしていました。しかし、その直前に本能寺の変が起こったため、元親は滅亡を免れたのです。
この四国征伐こそが、光秀に謀反を決意させる「爆弾」でした。なぜなら、信長と元親との間で和平の交渉を続けていたのが光秀だったからです。元親は早くから信長と同盟を結び、光秀の家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)の義理の妹を嫁にもらって、生まれた長男を信長にあやかって「信親」(のぶちか)と名付けました。
こうした長年の苦労で磐石(ばんじゃく)になったはずの同盟関係を反古(ほご)にされたばかりでなく、義理とはいえ家臣の妹と甥(おい)を討たれる立場になった光秀は激しく動揺しました。
「信長様の考えにはついていけない」。従来の秩序こそが正しいと考え、信長の行動が理解できなかった光秀の中に芽生えていた不信感が爆弾と化していく中で、信長の長宗我部氏に対する仕打ちによってついに導火線に火がつき、音を立てて爆発してしまったのです。
信長の命令で秀吉の毛利家征伐の先導を任された光秀は、1582年6月1日の深夜、軍勢を率いて信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲しました。信長は、わずかな家臣とともに奮戦しましたが多勢に無勢ではどうしようもなく、最期には自害して果てました。享年49歳、まさに「人間五十年」の生涯でした。




いつも有難うございます。
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オバrev えっ、長宗我部元親?
だ、誰ですか??
てっきり秀吉か朝廷がしくんだと思ってましたが、思いも寄らぬ名前でした(^^;)
しかし信長が好んで舞ったと言われる敦盛の謡、「人間50年、下天のうちを比ぶれば夢、幻の如くなり」
はまさに信長のための謡ですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > えっ、長宗我部元親?
> だ、誰ですか??
> てっきり秀吉か朝廷がしくんだと思ってましたが、思いも寄らぬ名前でした(^^;)
それでは元親を含む長宗我部氏について簡単にご紹介します。
長宗我部氏はもともと土佐の地方豪族だったのですが、元親の代になって土佐一国を統一すると、阿波や讃岐にも攻勢をかけました。
元親は外交能力にも長けており、早い段階から信長と同盟を結んでいました。しかし、諸般の事情でいつしか元親と信長は敵対関係となりましたが、信長に攻撃される直前に本能寺の変が起きて、滅亡は免れました。
その後、元親は伊予も制圧して念願の四国統一を果たしますが、その直後に秀吉に攻められ、土佐一国に押し込められてしまいました。元親が1599年に死去すると、後を継いだ盛親が関ヶ原の戦いで西軍についたことにより、長宗我部氏は家康によって領地を没収されました。盛親は大坂の陣で豊臣方について再起をかけましたが敗れ、戦い後に斬首となり、長宗我部氏は滅亡しております。
> しかし信長が好んで舞ったと言われる敦盛の謡、「人間50年、下天のうちを比ぶれば夢、幻の如くなり」
> はまさに信長のための謡ですね。
偶然とはいえそのとおりですね。これが信長の運命だったのでしょうか…。
marihime 黒田さんこんばんは☆
面白く読ませていただきましたが、少しだけ歴史的事実と異なるところがあり、指摘したいと思います。
光秀は本能寺の変の三ヶ月も前に上杉景勝に書状を送り、「信長を誅する」と書き送っています。
書状も現存しています。
光秀の本心は、足利将軍家を筆頭とする秩序の維持であり、信長の革命的な行動が許せなかったものと理解するほうが的を射ているようだと思います。
あくまでこれは私の考えではなく、歴史的事実から考察できるものだと思います。
marihimeさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
光秀には信長の革命的な行動が理解できなかった、ということですね。光秀に限らず、将軍家を第一に考える当時の秩序からすれば、光秀の考え方のほうがむしろ自然でしょう。
そうなると、自己を引き立ててくれた恩人ではあるものの、革命的な考え方に「ついていけない」と思い、爆弾が出来たところで、長宗我部の一件によって導火線に火がつき、一気に爆発したと考察したほうが良いのかもしれませんね。
ご指摘を受けまして、記事の内容を変更いたしました。収録と異なるところには断りを入れておきます。
当方の見解に誤りがございましたら、これからもご遠慮なくご指摘下さい。今後ともよろしくお願いします。
長宗我部元親の存在?
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
最近、戦国マニアの間で、長宗我部元親が人気が
出ているそうですが、正直、私は、名前程度と
四国を統一したくらいの存在でしか、私は
理解していませんでした。
ただ、不思議なのは、
天下統一に近い、織田信長が、長宗我部元親と
同盟を結んだり、その同盟の交渉役に明智光秀を
任命したりすることが不思議でなりません。
つまり、それほど、織田信長にとって、
長宗我部元親の存在が大きかったことが??です。
四国は、本州から、離れていて、しかも、経済的にも、それほど、重要な場所ではないと思うのに
なぜ、長宗我部元親の存在を当初、重視していたのでしょうか。
これについて、私なりに2つの仮説を考えてみました。
① 仮説(1)
これは、私の仮説ですが、四国の瀬戸内海側は、海上交通の要衝で、毛利を攻めるには、四国を抑えておくほうが、
今後の戦いに有利に働くと当初は、信長も考えていたのに、毛利攻めが、秀吉の活躍で、可能だと判断し
同盟を決裂しようとした。
②仮説(2)
長宗我部元親は、当初、同盟を結ぶほど、優秀な武将だった。しかし、信長が考えていた以上に
あまりにも、優秀な同盟者の存在に恐怖を感じ
同盟を破棄し、毛利攻めが終わってないのに
四国征伐をしようと考えた。
その理由は、浅井長政のトラウマから、生じる同盟者への不信感がそうさせた。
これは、同じく、
織田信長の優秀な同盟者である徳川家康が、大名として、大きくなった時に
(妻、息子)の殺害を命じて、家康を試したことからも、そう思いましたが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 私の考えは仮説1に近いですね。
信長が四国攻めを決断したのは、毛利家の関連以外としては息子の信孝に確固たる領地を与えたかったからでないかと考えております。
いずれにせよ、四国攻めは光秀の今までの苦労を水の泡にするものでしたから、本文のような行為に出たのではないでしょうか。
こうして信長を討ち取って、天下取りにその名を挙げた光秀でしたが、その後の展望については現代でも不明のままです。わずか10日あまりで死んでしまったゆえの事情もありますが、それ以上に、光秀にとっては「身内」ともいえる武将の裏切りが大きく響きました。
光秀には先述の細川藤孝という親友がいました。藤孝の息子である細川忠興(ほそかわただおき)は、光秀の娘である珠(たま)を嫁に迎えており、光秀は藤孝が当然自分の味方をしてくれるものと信じていました。
しかし、光秀の期待に反して藤孝・忠興父子は光秀の誘いを断り、藤孝は髪を切って出家し、忠興は珠を領国内に閉じ込めてしまったのでした。驚いた光秀は自筆の書状で説得しましたが、受けいれられませんでした。
また、光秀と縁の深かった武将である筒井順慶(つついじゅんけい)も、光秀の誘いに対して色よい返答をせず、光秀は京都の洞ヶ峠 (ほらがとうげ)まで出陣して参戦をうながしましたが、結局順慶は動きませんでした。ちなみに日和見(ひよりみ)するという意味の「洞ヶ峠」の故事(こじ)はこれが由来です。
細川藤孝・忠興父子にせよ、筒井順慶にせよ、彼らが動かなかったのには大きな理由がありました。それは、本能寺の変が「光秀自身によって単独で行われた」からです。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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紗那 元親さんですか!
それを忘れていた・・・orz
でも今日の記事の流れはちゃんと知ってました。
よかったです。日和見の由来がここっていうところまで知ってた、僕っててんさry
でも、味方しなかったりゆうまでは知りませんねー。
「単独」だと何か問題があるんでしょうか。
次回に期待します。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 元親さんですか!
> それを忘れていた・・・orz
意外と盲点みたいですね。後に秀吉によって領地を削られていますから余計に目立たないんですが、この時に滅亡の危機だったのは事実です。
> でも今日の記事の流れはちゃんと知ってました。
> よかったです。日和見の由来がここっていうところまで知ってた、僕っててんさry
努力家の紗那さんは「秀才」だと思いますよ(^_^)v
日和見のエピソードですが、筒井順慶が気の毒に思えてきますよね。
> でも、味方しなかったりゆうまでは知りませんねー。
> 「単独」だと何か問題があるんでしょうか。
> 次回に期待します。
単独=孤独、つまり仲間がいないということですからね。「強力な後ろ盾」がいないと、裏切りには二の足を踏むものなんですよ。
本能寺の変については、昔からいわゆる「黒幕」の存在が有力視されてきました。前述の羽柴秀吉や徳川家康(とくがわいえやす)、前将軍の足利義昭や朝廷、中にはカトリックのイエズス会の存在を挙げる人もいますが、私はこれらの「黒幕」がいたとは考えてはおりません。
もし黒幕の存在があれば、例えば光秀が細川藤孝・忠興父子に送った書状の中でその名前を書くことによって、細川父子に味方につくように説得できたかもしれませんし、また前述の毛利家に対しても、黒幕の存在を事前にほのめかして秀吉軍を釘付けに出来るように依頼できたはずです。もしこれらが実現していれば、光秀がわずか10日あまりで討たれてしまうようなこともなかったでしょう。
また、本能寺の変と同時期に、信長の長男である織田信忠(おだのぶただ)も光秀に攻められて自害していますが、本能寺が襲われた際には信忠が宿泊していた妙覚寺(みょうかくじ)は、まだ光秀軍に囲まれていませんでした。
信忠には京都を脱出して岐阜や大坂に向かい、父親である信長の仇を討てるチャンスが実はあったのです。しかし、信長の救援などに時間をとられているうちに光秀軍に攻められてしまい、最期には逃げ切れずに自害しました。
信忠を生かしておいては、せっかく信長を倒しても光秀の天下取りに支障が出るのは必至ですし、何よりも黒幕が存在していれば、信忠の寝所を囲まないという大失態を光秀にさせるはずがありません。この点からも、本能寺の変は「光秀の単独犯行」と考えられるのです。
さらに、仮に黒幕がいて、事前に信長の暗殺が計画されたとすれば、おそらく本能寺の変は実現しなかったとも思えるのです。なぜなら、信長という人物は稀代(きだい、めったにないという意味)の「逃げ上手」だからです。




いつも有難うございます。
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オバrev まさかの単独犯でしたか(゜Д゜))マヂ!!!
確かに光秀ともあろう武将が3日天下というか、わずか10日で討たれてしまうのは非常に疑問に思うところでした。
となると、その計画性はどうだったのでしょうか。本能寺の変の後のことを考えずにやったとしたら、用意周到に計画したのではなく、突発的に本能寺に向かったんではないでしょうか?
そうなると、逆に怨恨説が再浮上してきそうです(^_^;)
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オバrevさんへ
黒田裕樹 単独犯という結果は確かに意外ですが、数々の状況証拠、特に信忠に関する数々の「失態」が如実に物語っていますね。
本能寺の変は基本的に無計画だったと思われますが、怨恨の場合にはかえって計画性になるのではという気がしますので、やはり「ついていけない」という不信感が爆発したのではないかと考えております。
アキ 「逃げ上手」ww
現代でも思い浮かぶ人がいますが、なんだか狡い感じですねw
どんな逃げ様をするのか気になります。
marihime 黒田さんこんばんは☆
熱のこもったやりとりが続いているようですねσ(゚ー^*)
私も黒幕説には賛成しないのですが、本能寺の変そのものは突発的ではなかったと思います。
光秀は権謀術策でも当時としては秀でており、周りの状況や己の置かれている立場は理解していたと思います。
ただ、光秀自身がわかっていなかったことは、他の武将から支持されるような人望がなかったということではないでしょうか。
ここには光秀の錯覚があるように思えます。
光秀に人望があれば、細川親子や上杉も協力したかもしれないと思います。
アキさんへ
黒田裕樹 逃げ上手の人は確かに狡賢い印象がありますね(笑)。
信長の逃げ方は鮮やかですよ(^^ゞ
明日(6日)の朝の更新をお楽しみに!
marihimeさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに光秀には残念ながら人望がなさそうですね。
味方に付けるには、後ろ盾の他に人望が必要でしょうし、人望がなければ後ろ盾の存在は必須ですよね(どこかの政党の誰かさんのような…?)。
ご意見有難うございました。
かすやぶひ はじめまして、歴史好きには面白い内容で読ませてもらっています。
かなりの状況判断ですね。根回しをしていない行動なのは間違いない。細川や筒井、長曾我部に協力を事後でしたんでしたっけ?
人望か・・・
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
仰るとおり、根回しもせずに事後承諾で物事を進めようとしているところが、それまでの光秀からすれば不可解なところです。
やはり人望がなかったという点がマイナスだったのか、追いつめられて突発的だったのか…。判断が難しいですね。
初めまして
あひるの代理人 初めまして。
私も織田信長を含め歴史にまつわるブログを書いています。良かったら遊びに来てください。
1570年、信長が朝倉義景を攻めるために金ヶ崎(かねがさき、現在の福井県敦賀市)まで攻め込んだ際に、妹の婿(むこ)である近江国の浅井長政(あざいながまさ)が信長を裏切って攻め寄せました。このままでは挟み撃ちにあうところでしたが、信長は機転を利かせてわずかな手勢で京都まで一気に逃げ切り、九死に一生を得たことがありました。
通常であればそれまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命の方が大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
このような「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して、逃げおおせた可能性が極めて高いのです。
また、本能寺の変が起きたのは旧暦の6月1日の深夜でした。今私たちが使っている新暦とは違い、旧暦の1日は必ず新月(しんげつ)であり、月の出ない完全な闇夜(やみよ)でした。信長の暗殺を事前に計画しておらず、光秀自身が単独で行動し、さらに闇夜であったがゆえに、光秀は信長に気づかれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが可能だったのです。
光秀は信長を討つことは出来ましたが、単独で行動に及んだゆえに、結局は光秀に味方をしようとする武将は現れませんでした。そのうえ、中国地方から常識で考えられないスピードで「大返し」(おおがえし)してきた秀吉軍と、京都の山崎(やまざき)で戦うことになりました。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
6月12日、光秀軍を兵力で上回る秀吉軍は、京都と大坂を結ぶ要衝(ようしょう、重要な場所)である天王山(てんのうざん)を抑えると、翌13日には光秀軍を攻め立てました。光秀軍もよく戦いましたが、結局は兵力の差が最後まで響いて大敗し、本拠地の坂本へ向かって敗走しました。
なお、天王山を抑えたことで秀吉軍が有利になったことから、勝負を決する大事な場面のことや、勝負の分岐点のことを「天王山」というようになりました。
その後、光秀は逃げる途中で落武者狩りの農民の竹槍に刺されて致命傷を負い、死期を察して配下に首を討たせたとされていますが、生き延びて僧の天海(てんかい)となり、徳川家康に仕えたという説もあります。
いずれにせよ、山崎の戦いによって戦国武将としての明智光秀は滅びました。信長によって引き立てられ、大名にまで出世した光秀は、その大恩ある信長を討ち取ったことで「謀反人」と呼ばれるという汚名をかぶることになってしまいました。
また、「三日天下」「洞ヶ峠」「天王山」など現代でも使用される言葉とともに、光秀の名前は、我が国の歴史に永遠に残ることになりました。
「たった一人で歴史を変えた男」。
明智光秀という一人の人間のとった行為が、我が国の、いや世界の歴史にどれほど影響を与えたのか、はかりしれないものがあります。それだけに、謎に包まれたままの彼の行動は、いつまでも私たちの胸の中に永遠に残ることでしょう。
(第4回歴史講座の記事はこれで終了です。明日は今回の講座全体の講評について書きます)
※上記は今回の内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
本当にたった一人で歴史まで変えてしまう人物
って、今の世の中で言うと、誰が当てはまるのでしょうか・・?黒田さんは、誰が該当されると思いますか?
それとも、これほどの人物は誰も該当しないですか?
動画の方は、一気に拝見させていただきました♪
本当に黒田さんの講座には、黒田さんの歴史をこよなく愛する
思いが込められていて、素晴らしいですね!
今度、東京講演が実現した際には、是非、伺いたくなりました^^
それでは、また、お邪魔しますね~~♪(^0^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 本当にたった一人で歴史まで変えてしまう人物
> って、今の世の中で言うと、誰が当てはまるのでしょうか・・?黒田さんは、誰が該当されると思いますか?
> それとも、これほどの人物は誰も該当しないですか?
残念ながら現状では適当な人物が見当たらないですね。ただ、前世紀の我が国には確かに「たった一人で歴史まで変えてしまう人物」は存在しました。いや、正しくは「たった一人で歴史を守り抜いた人物」というべきかもしれません。いずれ紹介できることになると思います。
> 動画の方は、一気に拝見させていただきました♪
> 本当に黒田さんの講座には、黒田さんの歴史をこよなく愛する
> 思いが込められていて、素晴らしいですね!
有難うございます。動画を通じて、皆様から様々な反響をいただくことが出来ました。思い切ってやってみて、本当に良かったと思いますし、これからも是非続けたいと思います。
> 今度、東京講演が実現した際には、是非、伺いたくなりました^^
大阪での講座が軌道に乗れば、東京でも手弁当で一度やってみたいとは思っていますが、果たしていつの日のことやら…。でも希望は持ち続けたいと思います。
MAHHYA 明智光秀は、非常に興味のある人物なので、詳しい説明が、大変わかりやすく、かつ、おもしろかったです。
また、興味がある以上に、人間的な「何か」を感じさせる人物でもあります。
「1人で歴史を変えた男」・・・確かに、おっしゃるとおりだと思いました!
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
現実の光秀がどのような人物であったのかは謎が多いのですが、現代から見れば確かに「何か」を感じさせる人物に思えますね。そんな「何か」が、彼に大胆な謀反を決意させたのかもしれません(私の見解が正しいのかどうかはともかくとして)。
「一人で歴史を変えた男」は、個人的には「謀反人」と決め付けるよりも、光秀にとっては余程名誉ある称号だと思っております。
現代にこそその心情が聴きたい
オバrev 動画も大変面白く拝見させていただきました。
光秀という人物が何を考えていたのか、物質的には恵まれていながら、精神的に孤独な人が多い現代だからこそ、その心情を聴いてみたい気がします。
ちょっと気になったのですが、日本の歴史を変えたのは確かですけど、世界の歴史に与える影響もそんなにあったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 動画も大変面白く拝見させていただきました。
有難うございます。次回以降も是非続けたいですね(^_^)v
> 光秀という人物が何を考えていたのか、物質的には恵まれていながら、精神的に孤独な人が多い現代だからこそ、その心情を聴いてみたい気がします。
私もそう思います。ひょっとしたら、光秀の心情は現代人にも通じるものがあるかもしれませんね。
> ちょっと気になったのですが、日本の歴史を変えたのは確かですけど、世界の歴史に与える影響もそんなにあったんでしょうか?
秀吉が全国統一後に明の征服を目指して朝鮮へ出兵していますね。彼の場合は結果的に失敗に終わりましたが、信長がもし長生きしていたら、同じように統一後に海外出兵を行っていたと思われるんですよ。
その場合は、明国だけでなく東南アジアにまで手を伸ばしていたかもしれないし、信長なら征服に成功していたかもしれないですね。そうなると、島国から脱出した我が国の歴史にどのような変化が起きたであろうか想像がつきません。
光秀の「謀反」は、結果としてこれらの「夢」を「夢」で終わらせたのです。そう考えれば、信長の存在とともに、世界史レベルで影響をもたらしたと思われるんですよ。
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智里 いや~、面白かったです(≧∇≦)
日本の歴史を変えた男 光秀、それに便乗した秀吉と家康。
歴史って奥が深いですよね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
謀反人として汚名ついたけど、いまでも光秀が残した言葉を使ってるんだから、ある意味信長や秀吉、家康よりすごい人かもしれませんね。
この次の毛利の講座も楽しみだな~♪
智里さんへ
黒田裕樹 > いや~、面白かったです(≧∇≦)
有難うございます!(^o^)丿
> 日本の歴史を変えた男 光秀、それに便乗した秀吉と家康。
> 歴史って奥が深いですよね(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
> 謀反人として汚名ついたけど、いまでも光秀が残した言葉を使ってるんだから、ある意味信長や秀吉、家康よりすごい人かもしれませんね。
後世に与えた影響ということを考えれば、光秀のほうが遥かに大きいと思います。インパクトも比較にならないくらい大きいですから、「三日天下」などの言葉が未だに使われているのでしょう。
> この次の毛利の講座も楽しみだな~♪
ご期待に応えられるよう頑張りますね(^^♪
てっちゃん中尉 はじめまして、てっちゃん中尉と申します。動画と記事、拝見させていただきました。
黒田さんの教え方はものすごく良い教え方だと思います。現在との関わりのあることを持ち出すことにより、教えられている方は、実感を持ちやすくなると思います。
私の高校時代、生徒達が喜んで参加する授業を展開する先生もそういう教え方でした。