桓武天皇は道鏡による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、天武系の天皇が造営した平城京からの心機一転をはかるために、784年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都されました。
長岡京の造営には天皇の側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、785年、種継が造営中に暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺には、実行犯のほかに大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)が関わったとされ、関係者は厳罰に処せられました。早良親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。
早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や妃(きさき)が次々と亡くなったのです。早良親王の替わりに皇太子に立てた息子の安殿親王(あてしんのう)も病気がちとなり、事態の深刻さに慌てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、794年に平安京(へいあんきょう)に遷都されました。
桓武天皇は、平安京への遷都と同時に、都が置かれた山背国を「城で守る」という意味から「山城国」と名を改められました。以後、鎌倉幕府成立までの約400年間を平安時代(へいあんじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんばんは☆
奈良時代が終わって、いよいよ平安時代の始まりですね。
平安文化と武家勢力の台頭の話が楽しみになってきました。
応援してますよ。頑張ってくださいねσ(゚ー^*)
ポチがたくさん並んでますから全部おしときますねo(^-^)o
ぴーち こんばんは!
うわ~っ!ここでも、「タタリ」が勃発したんですね!
とはいうものの、「タタリ」と受け取る人間側の
良心の呵責が「タタリ」であるという気持ちに
拍車を掛けて、
駆り立てるのでしょうね。
結局は、早良親王は無実だったのでしょうかね・・。
哀れな話です。
marihimeさんへ
黒田裕樹 ブログを始めて今日でちょうど5ヶ月になるんですが、ようやく(?)平安時代に入りました。平安文化も武家勢力の台頭の話ももちろん詳しく取り上げていく予定ですので、今後ともよろしくお願いしますね(^_^)v
ポチ下さって有難うございます!\(^o^)/
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「タタリ」という概念は、仰るとおり心にやましいところのある人間が、良心の呵責に耐えかねて思い込むものとも言われていますね。今回の桓武天皇といい、かつての藤原四兄弟といい、古代の為政者はタタリにあってばかりです。
早良親王はもともとは東大寺などの僧だったんです。兄の桓武天皇のご即位時に、光仁天皇のご意向で還俗して皇太子になったんですが、仏教界に強い影響を持つ弟と、仏教界とのしがらみを断ち切って新しい政治を行いたい兄との間には次第に溝が深まっていく最中に暗殺事件が起きたことで、これを奇貨として弟の皇太子としての地位を奪いたかったという考えもあります。
いずれにせよ、早良親王は新しい時代へと移りゆく中での犠牲者だといえるのかもしれませんね。
紗那 よ、よし!一番苦手な時代。しっかり頑張ろう。うん。
でも、このタタリの話が聞いたことあります。良いことだ(ぇ でも山背だったとは知らなかった・・・・・・ このときに改められたんですねー
なくよ うぐいす へいあんきょう なら覚えています・・・・・?だからなんだと言うのだろうry
紗那さんへ
黒田裕樹 しっかり頑張って下さい(^_^)v
タタリの話は結構有名ですからね。その一方でずっと「山城」だったと思われている人は多そうです。
「年号から入る歴史」もありますよ。すべてはこれからです!
たたりか~
h.hamauzu こんばんは。
たたりで遷都。
う~ん、今でも引越しの
ひとつの理由にはなっていますね!?
情報のすくないこの時代では、
とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > たたりで遷都。
> う~ん、今でも引越しの
> ひとつの理由にはなっていますね!?
> 情報のすくないこの時代では、
> とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
そうですね。タタリというのがひとつの立派な理由になった時代でしたから。
現代においては非科学的なことでも、当時では科学的だったといえます。
> まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
> 記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
仰るとおり、こちらの方がよっぽど性質(たち)が悪いですね(´・ω・`)
選挙の際の報道も、公正中立であってほしいのですが…。
解由状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったことを後任者が証明するものであり、これがないと前任者は別の職につけないこととなり、結果として国司の交代の際の事務の引継ぎを厳しく監督することになりました。
次に、桓武天皇は農民の困窮(こんきゅう)などによって質が低下した兵士の改革を行われました。それまでの徴兵制による軍団(ぐんだん)の制度を見直し、792年には東北や九州など一部の地域を除いて軍団と兵士を廃止しました。その代りに地方行政官の郡司(ぐんじ)の子弟や有力農民の志願制による健児(こんでい)制度を設けました。
また、農民への対策としては、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)における班田を、それまでの6年に一度から実情に合わせて12年に一度に改め、国司の命令で働く労役制度である雑徭(ぞうよう)も、60日間から30日間に半減され、農民の負担を軽減しました。




お蔭様でカウンターが8000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 桓武天皇 なかなかやり手ですね。
勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
海豚 8000!!!!
おめでとうございます♪
班田収受法と
墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
管理人のみ閲覧できます
-
こんにちは
安眠癒しグマ こんにちは
カウントすごいですね~おめでとうございます。
私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
応援ぽち
班田収受法
kenちゃんマイド この法の内容を教えてください。大体オカミが法律を変えるときは国民の為と言いながら実際は自分たちの都合のよい方へ改悪します。小泉改革が良い見本です。派遣法にしろ、郵政民営化にしろ、みなさん何か良いことがありましたか?選挙前のコメントとしてはよくないかも。よく考えて投票しましょう。
<賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
> また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
> アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
国司の不正には次の国司をもってあたらせたわけですから、効果的だったことでしょう。ただ、健児の制度は年々廃(すた)れていくんですよね。蝦夷の平定が終了して我が国に面と向かって攻めてくる存在がなくなってからは、軍隊が廃止されてしまいますので…。
> ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
班田とは民衆に国の口分田を分け与えることです。当初は6年に一度を目標に行われていたんですが、農民の浮浪・逃亡や初期荘園の増加で人口などが把握しづらくなったことで、班田を正確に行うために期間を延ばしたんです。しかし、それでも班田が難しくなり、やがては行われなくなりますが、そのあたりについては今後の講座で紹介させていただきます。
> でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
前者も後者も当てはまると思います。タタリを起こしてしまった是非はともかくとして(笑)、桓武天皇の政治に関しては、評価できることは多いと思います。
海豚さんへ
黒田裕樹 > 8000!!!!
> おめでとうございます♪
有難うございます!\(^o^)/
> 班田収受法と
> 墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
班田収授法は「公地公民制を守るための制度」で、墾田永年私財法は「公地公民制を破るための制度」と理解すれば、後の学習が楽になりますよ(^^♪
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんにちは
> カウントすごいですね~おめでとうございます。
有難うございます。ブログ開始5ヶ月で8000という数字に到達できたことに感謝しております。
> 私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
> 応援ぽち
インフルエンザも流行っていますからね。体調にはくれぐれもお気をつけ下さいm(_ _)m
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 班田収授法を一言で言えば、公地公民制のもとで行われる、農地の支給や収容に関する制度のことです。当初は公地公民制度が厳守されていたのですが、年貢の負担に耐えかねて農地を捨てて浮浪・逃亡する農民が続出し、また人口が増加して口分田が不足したこともあり、新田の開発などを積極的に行うために、最終的には農地の私有を認める墾田永年私財法を施行しました。
仰るとおり、政府の都合のよいように法制度を変えるのはいつの時代も同じですね。選挙後の内閣も、我が国を根底からくつがえす悪法を制定しなければよいのですが…。
> <賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
それは私も同じです(笑)。でも、政府は前者であってほしいですし、そうでないと我々が困りますね。
ケンシロウ こんにちは。
カウンター8000HITおめでとうございます。
これも先生の講座を楽しみにしている方が
多いことを物語っていますね。
明後日の講座も頑張って下さいな。
桓武天皇は789年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(アテルイ)に大敗しました。ちょうど長岡京で天然痘が流行していた時期で、この敗北も「早良親王のタタリ」のひとつとされました。
平安京に遷都後の797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、再び蝦夷の征討を目指されました。坂上田村麻呂は桓武天皇のご期待に応えて蝦夷を征服し、802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌803年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の前進拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行しており、国の二大政策が同時に行われたことは結果として国家財政や農民にとって大きな負担となりました。桓武天皇は、805年にこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌806年に70歳で崩御されました。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 後世の解釈かもしれませんが、「傍系」という事で”より以上に積極的”な御方だったのかもしれませんね。江戸時代の光格天皇もそのような評価を受けていますし。「傍系」ゆえのハングリー精神なのか、「傍系」であった為に広い視野と才覚が備わったのか、鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが。。。
平安京は未完成?
オバrev 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 皇室に限らず、傍系の場合はどうしても一段低く見られがちですから、自己を積極的にアピールする傾向にあるようですね。それが必ずしも有効とは限りませんが、少なくとも今回の桓武天皇や、仰った光格天皇の場合は成功例といえると思います。
> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが
確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。
> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。
> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。
平城天皇の皇太子(安殿親王)時代に、一人の娘が親王の妃(きさき)として迎え入れられました。その娘はまだ幼かったので、後見として母親も娘と一緒についていったのですが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と親王と妃の母親が「男女の仲」になってしまったのです。そして、その母親こそが藤原薬子でした。
安殿親王と薬子の不倫ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、薬子は朝廷から追放されてしまいましたが、桓武天皇が崩御されて平城天皇が即位されると、薬子は再び召し出され、二人の関係はさらに深くなっていきました。と同時に薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
809年、平城天皇は病気のために退位され、弟の嵯峨天皇(さがてんのう)が第52代天皇として即位されました。平城上皇は平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると、仲成・薬子兄妹の助言もあって再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し、さながら「二所朝廷」(にしょちょうてい)の様相を呈(てい)するようになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。。。薬子さん、寵愛を受けて
お育ちになられただけあり、結構我がままなご性格
だったのかもしれませんね。
不倫という道徳に反した行いも平気で
行えるというのは、自己中心的な性格の
表れですものね。
チャールズ皇太子とカミラ夫人の関係にも
似ていたりして・?
ダイアナは哀れでしたね。。
今頃はまだお忙しい最中ですね^^
では、またお邪魔します☆
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座は如何でしたでしょう?
お疲れ様でした。
この時代に不倫とは珍しい関係ですね。
一夫多妻制を容認するイ○ラム教の信者だったとかw
年上が好み?
オバrev 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
明智光秀の話、楽しみにしております。
藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 藤原薬子の存在はあまり知られていませんが、彼女の「不倫」によって、平城天皇をはじめ多くの人の生き様が変化しました。このあたりは今も昔も変わらないようですね。
ただ、薬子には薬子の言い分もありました。今日(30日)の更新で詳しく触れています。
昨日(29日)は大盛況でしたよ!
また別の記事で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 お気遣い有難うございます。昨日(29日)の講座は大盛況でしたよ(^o^)丿
子孫を残すことが第一とされた時代は、仰るような「一夫多妻制」が当たり前でもありました。しかし、薬子のような「逆」のパターンは珍しいうえに、今回のような政変にまで発展したのは他に例がないですね。それだけに印象深い歴史でもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
> 明智光秀の話、楽しみにしております。
有難うございます。別の記事でも書きますが、光秀については9月1日からブログ上の更新を始めます。今回からはそれだけではなくて…?
> 藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
> 安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
> スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
> しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
薬子の生年は不詳ですが、おそらく年上だったと思います。というのは、最後のお言葉とも関連するのですが、「早良親王のタタリ」によって病気がちになったうえに、若くして母親を亡くしてしまわれるという環境でお育ちになったので、年上の女性にひかれる可能性は十分にあったからです。
天皇ご即位後の薬子との二人三脚の政治ぶりを振り返れば、二人は不倫の関係にありながら「相思相愛」の関係にあったかもしれませんね。
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都を宣言されましたが、事前に察知された嵯峨天皇に動きを封じられ、上皇は東国へ逃れようとされましたが、先回りした坂上田村麻呂らによって阻止されました。進退窮(きわ)まった平城上皇は出家されることで許され、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。この事件を「薬子の変」といいます。
藤原仲成と藤原薬子の兄妹は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子でした。薬子の変の背景には、種継が命がけで造営しようとした長岡京を結果的に「捨てた」桓武天皇に対する激しい憤りがあったとされています。尚、射殺された仲成以来、朝廷で死刑が執行されることはなくなりました。死刑の復活は12世紀半ばの「ある事件」まで待つことになります。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の宇合(うまかい)を始祖とする式家(しきけ)は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について勝利の祈祷を行い、後の出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。




いつも有難うございます。
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monariz 一番乗りかな?
再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
紗那 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 一番乗りかな?
ハイ、一番乗りです(笑)。
> 再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
> 確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
このあたりは高校の日本史で初めて学びますからね。まぁ今回で理解しておいて損はないですよ(^^ゞ
> 長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
薬子の変によって、桓武天皇―長岡京―藤原種継―藤原薬子―平城天皇―嵯峨天皇が全部つながるんですよ。話の内容も面白いし(特に女性向き)、生徒のためにもなるんですが、仰るとおり授業時間が…。
> ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
いずれ紹介しますよ。その時に「あぁ、薬子の変以来か!」と思い出せればOKですね(^_^)v
> 空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
さすがに欲張りすぎかな(^^ゞ
まぁこれも覚えていて損はないですよ。空海が活躍できたのにはそれなりの理由があったということです。
> 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
> 友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
いえいえ、お構いなく。ご友人のmonarizさんにも、是非私のブログを勧めて下さいね(^^♪
ぴーち こんばんは!
講座、今回もご盛況だったとのこと、
喜ばしい事です!
ここまで藤原家一族の末路というのは、何やら
まともな最期を迎えられていない様な気がするのですが・・^^;
空海は存じております。
こういう繋がりがあったんですね。
それでは、また、お邪魔します!
安眠癒しグマ こんばんは☆
ようやくパソコンができる状態になりました。。。
下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 講座は皆様のお陰で大盛況でした。詳しくはこの後の別記事で紹介しますね(^^♪
そうですね。これも藤原氏の激しい勢力争いが呼んだ結末なのでしょうか…。ただ、今回の「薬子の変」によって藤原北家が勢力を伸ばしたことで、今後の展開が変わることになります。
空海も歴史の表舞台に突然姿を現したわけではないんですよね。歴史の流れを実感する一場面だと思います。
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんばんは☆
> ようやくパソコンができる状態になりました。。。
体調ご回復されましたか?
良かったですね(^^♪
> 下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
いえいえ。講座につきましては今後も続けてまいりますので、是非ご参加下さいね!
ケンシロウ こんにちは。
講座は大盛況だったようですね。
薬子の変と呼ばれるので自害ではなく
殺されたものと記憶しておりました。
やはりおいらの記憶は曖昧で
いい加減に覚えてきたということが立証されましたw
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 講座の件、お言葉有難うございます。
薬子の変ですが、仰るとおり自害で決着しています。いつもの言葉ですみませんが、これを機会に理解くださればと思いますよ。
徳薙零己 お初にお目にかかります。平安時代初期を舞台とする小説をブログで書いている徳薙零己(とくなぎ・れいき)と申します。
藤原薬子については50日に渡って公開し、その後の藤原冬嗣については120日かけて公開するという長さになっていますが、簡潔にまとめるとこうなのだな、という思いにさせられます。
また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝律令や養老律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する格(きゃく)と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である式(しき)とに分類・編集されました。
820年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)と呼ばれました。その後、第56代の清和天皇(せいわてんのう)の時代に「貞観格式」(じょうがんきゃくしき)が、第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代に 「延喜格式」(えんぎきゃくしき)が相次いで編さんされました。これら三つの格式は、あわせて「三大格式」と呼ばれています。
弘仁格式の編さん後に、令(りょう)の解釈を統一するために833年に第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)が作成を命じた、法的効力を持つ「令義解」(りょうのぎげ)が清原夏野(きよはらのなつの)らによってまとめられました。一方、法的効力はもたないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解」(りょうのしゅうげ)も伝えられています。
(明日からは第4回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)




いつも有難うございます。
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オバrev 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
そうですね。法律というものは今も昔も難解で、解釈にも様々な学説があるものです。そんな法解釈を出来るだけ分かりやすくまとめたものが格式だったのですが、時代が下るにつれて我が国の実情に沿った内容に変えられているのも大きな特徴です。
> でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
現在の施行細則は政令で定められますから、国会の決議を必要としないんですよね(内閣で勝手に決められる)。確かに頭痛の種ではあります。
平安時代の貴族の教養として漢詩文を作ることが重視されたために、漢文学(かんぶんがく)が盛んになりました。この時代には、大陸の文化にもひけをとらぬほどの文人が多く輩出(はいしゅつ)しました。例えば、嵯峨天皇や空海(くうかい)、小野篁(おののたかむら)、菅原道真(すがわらのみちざね)らが知られています。
嵯峨天皇は漢詩文にすぐれ、最古の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)漢詩集である凌雲集(りょううんしゅう)や文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)には、嵯峨天皇の御製(ぎょせい、天皇がつくられた歌や詩のこと)による漢詩が多く収められています。
また、空海は詩文集である性霊集(しょうりょうしゅう)を著(あらわ)すなどの優れた文才を示しました。空海は唐風(とうふう、別名を唐様=からよう)の書道の達人としても知られており、嵯峨天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆(さんぴつ)と称されています。尚、空海については別の機会に詳しく紹介します。




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海豚 もぉ9000ですかっ。
(ちなみに9050でした、ウチ)
おめでとうございますッ☆
お、菅原道真ですかー。
頭良かったんですよね・・・(尊敬ww
ぴーち こんばんは!
菅原道真は、学問の神様と崇められている様ですが、
生前は、「英雄色を好む」のタイプだったと聞いたことがありました~。
しかも、あのナポレオンと同じように、
胃の痛みの持病があったので、常に手を胃のあたり
を押さえるように歩いていたとか、いないとか?
ナポレオンの逸話も、本当だったのかしら(肖像画の彼の手は、胃のあたりを押さえているのは、胃痛が原因だったからという説)
そういう意味では、世に名前を残す人物には、国を問わず、共通点が存在するんでしょうかね?
黒田さんは、胃痛とかは大丈夫ですか?w
では、では♪
海豚さんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)丿
ちょっとしたキリ番ですね。10000HITが実現した場合には是非踏んでください(^_^)v
菅原道真は今回は名前だけの登場ですが、いずれは詳しく紹介します。なぜ彼が「学問の神様」として祭られているのか、ご存じない人にはあっと驚く理由かもしれませんね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 死後に「学問の神様」と祭られた菅原道真も、生前は普通の貴族ですからね。平安時代きってのプレイボーイである在原業平(ありわらのなりひら)と親しかったそうですから、推して知るべし、といったところでしょうか(^^ゞ
胃痛で苦しんでいる人というのは、歴史上の人物では確かによく聞きますね。私は(飲みすぎのときを除いて)胃が丈夫な方ですよ。ただ、今は問題ありませんが、神経性の痛みは昨年度はひどかったですね(´・ω・`)
ぴーち こんばんは!
お返事ありがとうございました^^
所で、遊び人と言えば、よく時代劇でおなじみの
「遠山の金さん」は実際に、遊び人で、刺青まで
していた人物だったんでしょうか?
それとも、水戸黄門が実際には諸国漫遊など
しなかったように、でっちあげられた話だったんでしょか?
いづれにせよ、世の中の英雄になんてならなくても良いから、
奥さんを泣かせないで、奥さんだけを大切にしてくれる人、居ないかな~ww
と。。。記事と関係ないコメントで失礼しました^^;
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ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 遠山の金さんが若い頃には放蕩無頼の日々を送っていたことは事実のようです。刺青については、夏でも袖襦袢をつけていたという逸話がありますから事実のようですが、どうやら桜吹雪ではないみたいですよ。いつかは講座で紹介してみたい人物ですね。ちなみに私はテレビ時代劇の「遠山の金さん」シリーズが大好きです(No.1は中村梅之助ですかね)。
> いづれにせよ、世の中の英雄になんてならなくても良いから、
> 奥さんを泣かせないで、奥さんだけを大切にしてくれる人、居ないかな~ww
> と。。。記事と関係ないコメントで失礼しました^^;
女性の切実な視点ですね。
私の場合は…独身だからなんともいえませんが、奥さんだけを大切に出来る夫婦生活には憧れますね(^^♪
主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かんがくいん)や和気氏(わけし)の弘文院(こうぶんいん)、在原氏(ありわらし)の奨学院(しょうがくいん)、橘氏(たちばなし)の学館院(がくかんいん)が知られています。一方、空海は庶民への教育を目指した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けています。
奈良時代の初期に我が国の歴史書として古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)が編さんされましたが、この時代には日本書紀の続編として、漢文での国史の編さんが相次いで行われました。順番に続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(にほんこうき)、続日本後紀(しょくにほんこうき)、日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)、日本三代実録(にほんさんだいじつろく)が編さんされています。
日本書紀をあわせたこれら6つの歴史書は六国史(りっこくし)と呼ばれ、古代の我が国の律令国家が編さんした一連の正史(せいし、国家による正式の歴史書のこと)として扱われています。




いつも有難うございます。
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オバrev もしかして、この時代の大学ってのが日本初の大学ですか?
それとも名前が同じだけ??
それにしても藤原氏、和気氏、在原氏、橘氏、空海など有名人ばかりですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > もしかして、この時代の大学ってのが日本初の大学ですか?
> それとも名前が同じだけ??
平安時代の大学制度は末期には衰退してしまうのですが、大学という名前自体はその後も使用され続けました。江戸時代の幕府お抱えの儒学者は「林大学頭」でしたよね。従って、今の大学との直接の関わりは薄いですが、流れはくんでいると考えた方が良いのかもしれません。
> それにしても藤原氏、和気氏、在原氏、橘氏、空海など有名人ばかりですね。
一流どころばかりですよね。やはりそれだけの実力があったというべきなのでしょうか。
てっちゃん中尉 大学別曹ですか、そんなのは聞いたことないですね。そんなに昔から大学が存在していたとは知りませんでした。いまさらながら歴史の知識再構築のいい勉強になります!
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます(^^♪
別の方へのコメントでも書きましたが、当時の大学は現代の大学とは内容が異なりますが、言葉のルールにはなっています。大学別曹は、自分の家系から官吏を養成したいと思った有力貴族の自然な発想が生んだ施設といえるでしょう。今で言えば「「寄宿舎施設つきの私塾」みたいなものですね。
そんな施設を民間でも、と考えた空海の構想もまた素晴らしいと思います。
紗那 あうー。なんかいきなり難しくなった?!
しかし、有名人が並んでいますね。僕も知ってる(ぇ
六国史とか初めて聞きました!
紗那さんへ
黒田裕樹 > あうー。なんかいきなり難しくなった?!
今日の内容は主に高校時代で学ぶ範囲ですからね(´・ω・`)
まぁ理解しておいて損はないですよ。大学別曹の意義はけっこう重要ですから。
> しかし、有名人が並んでいますね。僕も知ってる(ぇ
有名な貴族だからこそ、一族を昇進させるのに躍起になって大学別曹を競って設けたんですよ。
> 六国史とか初めて聞きました!
歴史書は古事記と日本書紀だけではない、ということですね。
天台宗や真言宗は、深遠(しんえん)な呪術(じゅじゅつ)の取得や厳しい修行によって仏教の奥義(おうぎ)を究めるという密教(みっきょう)であり、加持祈祷(かじきとう)を中心とする儀式が、タタリを鎮(しず)めたり、怨霊(おんりょう)封じをしたりするのにふさわしいと考えられました。尚、真言宗の密教を東密(とうみつ)といい、天台宗の密教を台密(たいみつ)といいます。
最澄と空海は804年に遣唐使に従って入唐(にっとう)しました。先に帰国した最澄は、都から離れた近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)をひらき、大陸の流れをくみながらも我が国独特の天台宗を広めました。
延暦寺は、平安京から見て東北にあり、災いが起きやすいとされた鬼門(きもん)にあたります。そんな重要な位置に延暦寺がおかれたこと自体が、桓武天皇の最澄に対する「タタリ封じ」への期待感がうかがえますね。




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スカイラインV35 後の徳川幕府も平安京の長所は大いに意識していたらしく、江戸の鬼門の方角に日光東照宮を建立したらしいですよね。
それにしても、延暦寺にしても日光東照宮にしても現代でも現役バリバリというのは、驚くとともに有難くも感じますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 後の徳川幕府も平安京の長所は大いに意識していたらしく、江戸の鬼門の方角に日光東照宮を建立したらしいですよね。
そうですね。日光東照宮は家康が神となって徳川の繁栄を見守り続けましたが、江戸のすぐ近くにもうひとつ、鬼門に建てられた宗教施設がありますよ。ご存知ですか?
ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
> それにしても、延暦寺にしても日光東照宮にしても現代でも現役バリバリというのは、驚くとともに有難くも感じますね。
鬼門に建てられたことで、かえって厄除けになっているのかもしれませんね。
悠 最澄と空海は習いましたー
けど、どっちが何を広めたか覚えてなかったんですよね
最澄が天台宗ですね・・・?
空海が真言宗ですね・・・?
あってます?
悠さんへ
黒田裕樹 > 最澄と空海は習いましたー
> けど、どっちが何を広めたか覚えてなかったんですよね
> 最澄が天台宗ですね・・・?
> 空海が真言宗ですね・・・?
> あってます?
あってますよ(^^♪
確かに紛らわしいですね。二人の話はしばらく続きますので、これを機会に是非理解して下さいね(^_^)v
スカイラインV35 > ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
寛永寺であってますよね(去年、一躍有名になった天璋院篤姫も眠っていますね)。
「17世紀半ばからは日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇り、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした」のは、調べて今初めて知りました・・・(^^;ゞ
スカイラインV35 度々、すいません。調べてみたら、日光は江戸の鬼門の方角じゃないようですね。真北なんですかね?守護や鎮護の意味合いはあるのでしょうが、方角は間違えちゃいました。弘仁・貞観文化とも外れてきちゃって。ごめんなさい<(_ _)> どうしましょう。
スカイラインV35さんへ その2
黒田裕樹 > > ヒントは…延暦寺と同じく、当時の「年号」をいただいたお寺です。
> 寛永寺であってますよね(去年、一躍有名になった天璋院篤姫も眠っていますね)。
正解です。さすがですね(^_^)v
> 「17世紀半ばからは日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇り、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした」のは、調べて今初めて知りました・・・(^^;ゞ
仰るとおりです。平安京と同じ鬼門の位置に、「比叡山」に対して「東叡山」、「延暦寺」に対して同じ年号の「寛永寺」と、明らかに朝廷を意識していますよね。
余談ですが、日光東照宮における神格化された家康の別名である「東照大権現」も、皇室の祖先と伝えられる「天照大神」の「アマテラス」に対する「アズマテラス」という意味があるらしいですよ。
スカイラインV35さんへ その3
黒田裕樹 コメントが前後しましたね(^^ゞ
> 度々、すいません。調べてみたら、日光は江戸の鬼門の方角じゃないようですね。真北なんですかね?守護や鎮護の意味合いはあるのでしょうが、方角は間違えちゃいました。弘仁・貞観文化とも外れてきちゃって。ごめんなさい<(_ _)> どうしましょう。
いえいえ、お構いなく(^_^)v
日光東照宮は確かに江戸から真北の位置にありますが、これは「関八州全体の鬼門」であるはずの日光が、「江戸城の鬼門」と混同されたのが理由のようです。そんなわけですから、本当の位置はともかく、鬼門という考えは決して間違えていないと思います。
記事の内容と異なってきていることをお気になされておられるようですが、ここはコメント欄ですから、自由な議論があってもいいのではないでしょうか。寛永寺の設問をふったのも私の方ですしね(^^ゞ
これからも機会があれば、お気軽にコメントして下さいね(^^♪
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ぴーち こんばんは!
昔から、方角に関しては色々と拘りを持ちながら
日本人は生活していたんですね~。
よく北まくらは良くないと言いますが、
わざと北を頭にして就寝される方がいらっしゃいますが、
かえって、頭が冴え冴えとする。と全く気になさらないという
その性格が幸運を引き寄せているようなw
下のコメントのお返事です。
遠山の金さんの件、お答えいただき、恐縮です。
私は、流し眼の杉良太郎が印象的ですね~^^
黒田さんも、是非、「流し眼」を一つ(笑)
それでは、応援凸
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論」(けんかいろん)を著(あらわ)して反論しました。大乗戒壇は最澄の死後に設立が公認され、延暦寺はやがて仏教教学の中心となっていきました。
平安後期に浄土教(じょうどきょう)を広めた源信(げんしん)や、浄土宗(じょうどしゅう)の法然(ほうねん)、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の親鸞(しんらん)、日蓮宗(にちれんしゅう)の日蓮(にちれん)、臨済宗(りんざいしゅう)の栄西(えいさい)、曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)といった鎌倉新仏教の開祖(かいそ)たちの多くも、若い頃に延暦寺で学んでいるのです。
最澄は死後の866年に清和天皇(せいわてんのう)によって伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められ、本格的に密教が取り入れられましたが、後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
延暦寺は高僧達が学んだ母体寺(こういう言い方を
するのかどうかは判りませんが^^;)だった訳ですね。
ここから、それぞれの独自の教えを広めていったという意味では、日本の仏教の発展にはなくてはならないお寺だった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 延暦寺は高僧達が学んだ母体寺(こういう言い方を
> するのかどうかは判りませんが^^;)だった訳ですね。
> ここから、それぞれの独自の教えを広めていったという意味では、日本の仏教の発展にはなくてはならないお寺だった訳ですね。
仰るとおりです。鑑真が苦労の末に来日して広めた戒律ですが、日本人が守るには厳しすぎて、かつ細かい内容でした。それに対して、最澄が設置しようとした戒壇は、簡単に言えば「仏への信心を重要視した我が国にふさわしい戒律を」という意味があったんです。
大乗戒壇が我が国の風土にあったことで、天台宗を母体として、海外の影響を受けながらも我が国独自の宗派が次々と生まれていったのです。
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てっちゃん中尉 延暦寺ってそんな歴史があったんですね。知らなかったです。光秀が信長の延暦寺焼き討ちを拒んだのもなんか解るようなきがしますね。
ところで、リンク張ってもよろしいですか?
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 延暦寺ってそんな歴史があったんですね。知らなかったです。光秀が信長の延暦寺焼き討ちを拒んだのもなんか解るようなきがしますね。
延暦寺の長い歴史と伝統はこれまで述べたとおりですが、信長の焼討ちが「とんでもない」ことだったのかどうかというのとはまた別問題なんですよね。いずれはご紹介できると思いますが。
> ところで、リンク張ってもよろしいですか?
もちろん大歓迎です。こちらからもリンクさせていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
経営者 最澄
オバrev 法然も親鸞も日蓮も栄西も道元も、延暦寺で学んでいたとは驚きです。
それだけの影響力が、最澄にはあったんですね。
最澄は、仏教徒としても優れていたけれど、経営者としても優れていたのかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 法然も親鸞も日蓮も栄西も道元も、延暦寺で学んでいたとは驚きです。
> それだけの影響力が、最澄にはあったんですね。
> 最澄は、仏教徒としても優れていたけれど、経営者としても優れていたのかもしれません。
最澄は空海のように個人崇拝されるまでの尊敬を受けることはありませんでしたが、自身は円仁や円珍といった優秀な弟子を育て、また彼の教えがやがては鎌倉新仏教の道標となるなど、我が国の仏教繁栄への功績は計り知れないものがあります。
最澄は人を育てる天才の言わば「名コーチ」であり、経営の世界で例えれば、仰るとおり「優秀な経営者」であったといえるでしょう。
講座の成功を祈りますσ(゚ー^*)
marihime 黒田さんこんにちは☆
歴史講座まであと一週間ですね。
前回以上の受講者があり、大盛況になることを祈っています。
少々質問ですが、記事中の「浄土真宗の親鸞」というのは何かの間違いではありませんか?
私の知る限り浄土真宗の開祖は親鸞の子孫蓮如上人と記憶しています。
当時僧侶の結婚は禁じられていて、破戒僧として扱われていた親鸞がすがったのは師の法然であったこともあり、浄土宗の教えを布教した事実はあります。
親鸞は亡くなるまで浄土宗の僧侶だったと思いますが?
浄土真宗の教義には親鸞が開祖の先祖であるということで、特別の扱いをしていることは間違いないと思いますが、浄土真宗を開いたわけではないと思うのですが違うでしょうか。
また、変なことを質問してごめんなさいね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 歴史講座へお言葉、有難うございます。
親鸞についてですが、没後はその存在が忘れられるほどに彼の教えは衰退し、その後に蓮如によって再び大衆に広まったのは確かですから、仰るとおりになるのかもしれません。
ただ蓮如は、むしろ滅びかけた親鸞の教えを復活させた「中興の祖」と呼ぶべきであって、悪人正機説などの親鸞の教えは、やはり彼自身が編み出したものと考えられます。
また、「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土へ行けると説いた法然に対して、念仏を唱えるよりも信心こそが重要であると説いた親鸞の説は、明らかに法然と異なるものであり、この点からも浄土真宗の事実上の開祖者であるといえると思います。
さらに、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍し、本願寺を成立させた親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)によって、「親鸞が浄土真宗の開祖である」と定められているという逸話もあります。
これらの事実を総合的に判断して、私は親鸞が浄土真宗の開祖であると定義して差し支えないものと考えております。
その後、空海は835年に死去し、921年には醍醐天皇(だいごてんのう)によって弘法大師(こうぼうだいし)の名が贈られましたが、高野山においては、空海はこの世を救うために留身(るしん、身をこの世に留めること)しており、「弘法大師様は生きている」ことになっています。このため、高野山では今でも毎朝弘法大師のところまで食事を運んでいるそうです。
多くの弟子を育てるとともに、その後の新しい仏教の基本となった天台宗の最澄とは対照的に、空海は自身の存在そのものが信仰の対象になりました。一般的には本名の空海よりも「弘法大師」としての名が広く知られており、毎年全国で五本の指に入る初詣客を集める神奈川県川崎市の平間寺(へいけんじ)は、通称の「川崎大師」(かわさきだいし)の方が有名になっています。
また、空海が書道の達人であることは先述しましたが、空海による書は大師流(だいしりゅう)と呼ばれて後世にまで深い影響を与えました。そのためか、ことわざとして「弘法にも筆の誤り」(=どんな名人にも間違いはあると言う意味)や「弘法筆を選ばず」(=本当に上手な人は道具に頼ったりしない)が現代でも残っています。
余談ですが、実際の空海は慎重に筆を選んでいたという説もあります。また、「弘法にも筆の誤り」は、空海が平安京の応天門の額を書いた際に、「応」の一番上の点の字を書き忘れたまま門に掲げられてしまったという事実が由来です。ちなみに間違いに気づいた空海は、あわてることなく筆を額に投げつけて点を打ったそうです。名人は書き直し方も違うものなんですね。




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オバrev 空海、空と海という何て雄大な名前だろうと思います。
最澄もどこまでも澄み渡っているという素晴らしい名前ですね。
それにしても、想像を絶する偉大な人ですね。いったいどれだけ厳しい修行や勉強をしたんでしょうか。
現代に生きておられたら、是非お会いしたいです。
ちょうど同じ時期に、最澄と空海が存在しましたけど、気になるのは二人は仲が良かったのか悪かったのか。
おそらく二人ともそういう次元のことは越えていたでしょうね。
スカイラインV35 最澄や空海だけではないでしょうが、当時の航海は正に命懸け。仏教というと”静”などをイメージしてしまいますが、気概も高い次元にあったのでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに素晴らしい名前ですし、偉大な人だけにお会いしたいとは思いますが、あまりにも偉大すぎてかえって失礼になってしまいそうです(^^ゞ
最澄と空海は同じ遣唐使の留学僧として面識がありました。多忙の身であった最澄は空海よりも密教の知識が十分に得られなかったので、密教の経典をしばしば空海から借用していました。最澄の求めを最初のうちは応じていた空海でしたが、回数の多さにやがては拒絶します。時代のうねりの中で、新しい仏教を目指そうとした最澄と、あくまで密教にこだわった空海との間には、いつしか越えられない溝が出来ていたのでしょう。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 最澄や空海だけではないでしょうが、当時の航海は正に命懸け。仏教というと”静”などをイメージしてしまいますが、気概も高い次元にあったのでしょうね。
私もそう思います。別記事のコメントにも書きましたが、最澄と空海が遣唐使として唐に渡った際、彼らを乗せた船以外はすべて遭難してしまったという厳しい現実がありますからね。一つしかない生命を差し出してでも得なければならないものがある。最澄と空海の気概は、現代人がもっとも忘れてしまっているものなのかもしれません。
けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
空海の意外なエピソード、勉強になりました。
何て豪快な修正だろう(笑)
弘法大師として、全国に様々な伝説があるようで
熊本でも、独鈷山やその他様々な伝承があるようです。
教義よりも、人が信仰の対象になるという箇所…
社会主義におけるスターリンや毛沢東、某近隣国のファミリーを
思い起こしました…。
MAHHYA うわあ、筆を投げて直したとは・・・。
すごいですねー、初めて知りました!
さすが、今でも厚い信仰を集める弘法大師様です!
てっちゃん中尉 なるほど、弘法も筆の誤りにはそんな話があったんですね。初めて知りました。川崎大師ですか、神奈川に住んでいる分際でまだ行ったことがないですね。きっと行ったら何か発見が出来そうですね。夏休みが終わる前に行って見たいと思います。
話は変わり、リンクの件になりますが、相互リンクをしていただきありがとうございます。若輩ながら、これからもがんばります。今後ともどうぞよろしくお願いします。
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 空海の意外なエピソード、勉強になりました。
> 何て豪快な修正だろう(笑)
> 弘法大師として、全国に様々な伝説があるようで
> 熊本でも、独鈷山やその他様々な伝承があるようです。
確かに豪快です(笑)。
仰るとおり、空海の伝説は全国にありますね。この講座ではさすがに全部は紹介しきれませんが…。
> 教義よりも、人が信仰の対象になるという箇所…
> 社会主義におけるスターリンや毛沢東、某近隣国のファミリーを
> 思い起こしました…。
「人々から自然な崇拝を集めた」空海と、「自分を神格化するよう強制した」スターリンなど。
下からなのか、上からなのかによって、両者は似て非なるものでもありますね。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 ことわざ自体は知っていても、その由来まではなかなか手が届かないものです。
今回のようなエピソードを知ることによって、国語と歴史の両方の知識を一度に得られるのではないかと考えております。
確かに「さすがは大師様」ですよね(^_^)v
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > なるほど、弘法も筆の誤りにはそんな話があったんですね。初めて知りました。川崎大師ですか、神奈川に住んでいる分際でまだ行ったことがないですね。きっと行ったら何か発見が出来そうですね。夏休みが終わる前に行って見たいと思います。
私も川崎大師には行ったことがありません。東京へ行くことは何度かあるのですから、途中下車するのも悪くはないですよね。
> 話は変わり、リンクの件になりますが、相互リンクをしていただきありがとうございます。若輩ながら、これからもがんばります。今後ともどうぞよろしくお願いします。
丁寧なお言葉、有難うございます。お互いにブログを盛り上げていければいいですね。
密教は美術の方面でも影響を及ぼして、神秘的な作品が数多くつくられました。彫刻では密教とかかわりのある如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王(ふどうみょうおう)などの仏像が、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造(いちぼくづくり)でつくられました。薬師寺(やくしじ)の僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や、神護寺(じんごじ)の薬師如来像(やくしにょらいぞう)などが有名です。
密教に関する仏画としては、神護寺や教王護国寺(きょうおうごこくじ)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)など、仏の世界を視覚的や象徴的にあらわした曼荼羅(まんだら)が多く描かれました。また、当時の寺院は、室生寺(むろうじ)の金堂(こんどう)などのように山地に建てられたこともあり、地形に応じた自由な伽藍配置(がらんはいち)でつくられました。
この時代までに、仏教の広まりによって神祇信仰(じんぎしんこう)と仏教とが次第に調和し融合するようになりました。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といいます。神仏習合によって、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、寺院の境内に守護神(しゅごしん)をまつり、神前で読経(どきょう)したりする例も多くなりました。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
今週末は第5回目の講座ですね。
前回を上回る成果が得られるといいですね。
かげながら応援させていただきます。
おいらは生き物を飼う難しさに凹んでおります。
人間のエゴで可愛そうなことを繰り返す自分が
嫌になることもあります。
記事に関係のないコメントで申し訳ないです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いつも講座へのお気遣い有難うございます(^o^)丿
> おいらは生き物を飼う難しさに凹んでおります。
> 人間のエゴで可愛そうなことを繰り返す自分が
> 嫌になることもあります。
こちらのサジ加減一つで生き物の今後が決まってしまいますからね。不可抗力で生命を奪ってしまうこともありますし。ただ、誤解を恐れずに言えば、ある意味は「仕方がない」ところもあると思いますよ。
> 記事に関係のないコメントで申し訳ないです。
いえいえ、また機会がございましたらコメントして下さいね(^^♪
ranran おはようございます。
で
はじめまして。ranranと申します。
「密」を視ることは、既に中国メインランドでは不可能になっております。
毛さんって、よっぽど"漢"が大嫌いだったんでしょうね、徹底的に中国国内にある漢文化を破壊しつくしています。
おかげで全く辿れない旧き文化が、あの国には大量にございます。しまいには、漢字まで破壊しようとした毛さんですが・・簡体とか言ってますが・・
なんともはや・・としか言いようがございません。
先日ですが、ある機会があって日本に農学を学びに来ている中国の方と話をする機会がありました。
そのとき、その方が言っておりました。
中国の本草を学ぶには日本に来るしかない。中国は、中国の古典を失ってしまった、と。
ranranさんへ
黒田裕樹 はじめまして、ご訪問並びにコメント有難うございます。
毛沢東氏といえば文化大革命が有名ですが、漢文化の破壊もあったんですね。
それにしても中国の本草を学ぶのにわざわざ我が国へ来なければならないとは、本末転倒も甚だしいですね。
貴重な情報を有難うございました。また是非お越し下さい。
北家は藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、810年に起きた薬子の変の際に、嵯峨天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)として活躍した藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の一族です。なぜ藤原北家が台頭することになったのでしょうか。その裏には、皇室のややこしい後継問題がありました。
嵯峨天皇はご自身の皇子や皇女を臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)させた後に、実子の正良親王(まさらしんのう)ではなく、実弟の大伴親王(おおともしんのう)に譲位されました。第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)の誕生です。ちなみに、淳和天皇は在位中に令義解(りょうのぎげ)の作成を命じられています。
実子ではなく実弟であるご自身に譲位された嵯峨上皇にご遠慮されたのか、淳和天皇は実子の恒貞親王(つねさだしんのう)ではなく、先述の正良親王に譲位されました。こうして正良親王は第54代の仁明天皇(にんみょうてんのう)となられましたが、今度は仁明天皇が淳和上皇にご恩をお感じになって、実子の道康親王(みちやすしんのう)ではなく、恒貞親王を皇太子に立てられました。
いわば嵯峨天皇と淳和天皇との間で、キャッチボールのように交互に皇位の継承が行われたわけですが、本来の原則である実子に継承させない方法にはやはり無理がありました。結局、そのスキをついて「ある人物」が政治の実権を握ることになるのです。




いつも有難うございます。
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座布団1枚!
オバrev おぉ、まさに皇位継承のキャッチボールですね。
黒田先生、う・ま・い~!
山田くん、座布団1枚!!
やはり政権運営も、緊張感がなくなって形式的になると崩壊していくのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > おぉ、まさに皇位継承のキャッチボールですね。
> 黒田先生、う・ま・い~!
> 山田くん、座布団1枚!!
お蔭様で(?)お尻が痛くなくなりました(笑)。
有難うございますm(_ _)m
> やはり政権運営も、緊張感がなくなって形式的になると崩壊していくのかもしれませんね。
仰るとおりかもしれません。ただ、新しい刺激が果たして国民のためになるのかどうかが、今後のカギを握ると思います。
しかし、冷静になって考えてみれば、皇太子としての身分が保証されている恒貞親王が、わざわざ東国まで行って謀反を起こすことに何の益もありません。一方、新たに皇太子に立てられた道康親王の母は、藤原冬嗣の子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)の妹でした。つまり、承和の変は藤原良房らが自己の血を引く道康親王に皇位を継承させるためにでっち上げられた可能性が高いのです。
その後、道康親王が即位されて第55代の文徳天皇(もんとくてんのう)となられると、藤原良房は文徳天皇と自己の娘である明子(あきらけいこ)との間に産まれたばかりの惟仁親王(これひとしんのう)を皇太子に立てました。生後わずか数ヶ月の赤ん坊が皇太子になったのです。
良房は857年に太政大臣(だじょうだいじん)となり、858年に文徳天皇が崩御されて9歳の惟仁親王が第56代の清和天皇(せいわてんのう)として即位されると、天皇の外戚(がいせき、皇室の母系の一族のこと)として政治の実権を完全に握りました。
余談ですが、承和の変の首謀者とされる伴健岑はかつての大豪族である大伴氏(おおともし)の一族です。淳和天皇のご即位前のお名前が大伴親王であったため、遠慮して改姓していました。また、同じ首謀者であるとされる橘逸勢が嵯峨天皇、空海とともに三筆(さんぴつ)と称された人物であることは以前に書いたとおりです。
尚、清和天皇の治世中には貞観格式(じょうがんきゃくしき)がつくられ、866年には最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られました。また、清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して貴族となり、彼らは後に「清和源氏」(せいわげんじ)と呼ばれました。そして、その一族の中から後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が誕生しています。




いつも有難うございます。
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海豚 おぉーっと・・・ここらへんは知ってる名前が空海と最澄と源頼朝ぐらいしか・・・ry
まぁ、まだまだ知らない事は沢山あるという事ですね(苦笑
ぴーち こんばんは!
生まれたばかりの赤ん坊が皇太子にですか(@@
人として生まれたのなら、自分の意思が無くても
周りの思惑に利用されてしまったんですね。
この方が皇太子としては最年少記録になる訳ですか?
それでは、応援凸
海豚さんへ
黒田裕樹 > おぉーっと・・・ここらへんは知ってる名前が空海と最澄と源頼朝ぐらいしか・・・ry
> まぁ、まだまだ知らない事は沢山あるという事ですね(苦笑
そうですねぇ…このあたりは高校で学ぶ範囲がほとんどですからね。
いずれは勉強する範囲ですから、藤原氏が政治の実権を我が手に握るまでの流れだけでも理解しておきましょう。必ず役に立ちますよ(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人として生まれたのなら、自分の意思が無くても
> 周りの思惑に利用されてしまったんですね。
現代でも良くある話ですね。地位などの関係で仕方がない面もありますが…。
> この方が皇太子としては最年少記録になる訳ですか?
清和天皇は生後8ヶ月で皇太子となられていますが、奈良時代の聖武天皇の子の基皇子は生後1ヶ月で皇太子ですから、こちらの方が早いですね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-171.html
いずれにせよ、いわゆる「オムツの取れない」皇太子というのは極めて珍しいですね。
紗那 とうとう藤原氏の台頭ですね!
まぁ、これくらいなら戦いが無くても我慢しよう。うん。
しかし、藤原氏も権力を握るためにいろいろやってるんですね・・・・・・
生まれたばかりの子を皇太子にしたりとか。
そういえば空海は金剛峰寺ですか?で、生きてるって言う設定なんですね。なんか、この前塾の先生が言ってました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > とうとう藤原氏の台頭ですね!
> まぁ、これくらいなら戦いが無くても我慢しよう。うん。
戦いがなくても、歴史は結構面白いものでしょう?(^^♪
> しかし、藤原氏も権力を握るためにいろいろやってるんですね・・・・・・
> 生まれたばかりの子を皇太子にしたりとか。
権力を握るためには手段を選ばないわけです。
現代でもよくある話かもしれませんが…(^^ゞ
> そういえば空海は金剛峰寺ですか?で、生きてるって言う設定なんですね。なんか、この前塾の先生が言ってました。
はい、そのとおりです。私のブログでも最近紹介しましたよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-211.html
参議以上の議政官は各氏族に1人 なぜ大伴親王は大伴と名付けられたのでしょうか。私は藤原氏による大伴氏への嫌がらせだと思うのですが、黒田さんはどうお考えですか。後世の堂上公家の大半が藤原氏であるのが残念でなりません。大伴氏や石上氏(物部)の氏上が清華家クラスに残っていれば、我が国ももう少し風通しの良い風土になったのかなと思います。
参議以上の議政官は各氏族に1人さんへ
黒田裕樹 確かに藤原氏の力が動いた可能性もあり得ますね。
平安時代は、藤原氏の天下への流れが良く見えてきます。もっとも、その藤原氏もやがては時代の波に押し流されるのですが…。
伴善男は、この事件が自己の政敵でもあり、嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であると訴えましたが、事件を調査した太政大臣の藤原良房によって否定され、伴善男こそが事件の首謀者であるとして逆に捕らえられました。
伴善男は無実を訴えましたが受けいれられず、他の貴族とともに流罪となり、伴氏は完全に没落しました。これら一連の事件を応天門の変(おうてんもんのへん)といいます。何かと謎の多い事件でしたが、同じ866年に藤原良房が皇族以外で初の摂政(せっしょう)に正式に任命されています。また、源信も869年に亡くなり、後に残ったのは藤原氏の栄華ばかりとなりました。
事件の実行犯を捜索(そうさく)する際の原則である「事件後に一番得をした人物を疑え」からすれば、藤原氏による陰謀と考えられなくもありませんね。尚、応天門の変の様子は、およそ300年後である平安末期の12世紀後半頃に「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)として描かれています。




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 なかなか奥が深いですね。
藤原氏の知略によるものかも知れませんね。藤原氏はそこまで優れた才能の持ち主であったんですね。
したたかやね~
オバrev 何とも用意周到でしたたかな藤原氏ですね。
まさに手段を選ばないやり方で権力を握っていったんですね。
今の日本の政治家を見ていると、こういう陰謀や策略が飛びかっている世界の中で、日本の国益を守れるのかと思ってしまいます(^^;)
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > なかなか奥が深いですね。
> 藤原氏の知略によるものかも知れませんね。藤原氏はそこまで優れた才能の持ち主であったんですね。
謀略を使って政敵を陥(おとしい)れるのが藤原氏の大きな特徴ですね。かといって、皇室を出し抜くわけではなく、必ず前面に押し立てようとする。自らの「悪巧み」を隠すためなのでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 何とも用意周到でしたたかな藤原氏ですね。
> まさに手段を選ばないやり方で権力を握っていったんですね。
本当にそうですよね。昨日の「赤ん坊皇太子」といい、謀略の天才ですよ(@_@;)
> 今の日本の政治家を見ていると、こういう陰謀や策略が飛びかっている世界の中で、日本の国益を守れるのかと思ってしまいます(^^;)
今日(16日)、新しい首相が誕生しましたが、果たしてどうなることでしょうか。前任者より悪ければ、何のための政権交代か分からなくなりますよね。
ぴーち こんばんは!
うわ~
刑事の感と言われる部分ですね~^^;
「事件で一番得した人物」「犯人は必ず現場に戻る」
とか^^
それにしても、藤原氏、汚い手を使いますね。。
でも、上にのし上がると言う事は、そう言う事でしょうからね。
でも人を泣かせて来れば、それなりの報いは必ずありますよね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > それにしても、藤原氏、汚い手を使いますね。。
> でも、上にのし上がると言う事は、そう言う事でしょうからね。
確証がなくても、それまでの経緯や結果を考えた場合に「怪しい」と思えることはいくらでもあります。
現代でも我々の見えないところで密かに行われているのでしょうか…。
> でも人を泣かせて来れば、それなりの報いは必ずありますよね。
承和の変や応天門の変ではありませんでしたが、そのうち「強烈な」報いがやってきますよ。
その前に藤原氏の「闇」が表舞台に登場しますが…。
応天門燃ゆ
徳薙零己 ただいま公開中の「応天門燃ゆ」をまとめると、これだけの短さになってしまうのですね。
「承和の変」から「応天門炎上事件」までの23年も描いているので、単純に比較はできませんが。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 > ただいま公開中の「応天門燃ゆ」をまとめると、これだけの短さになってしまうのですね。
> 「承和の変」から「応天門炎上事件」までの23年も描いているので、単純に比較はできませんが。
毎日お疲れ様です。
私の場合は歴史的な事件の簡単な解説で、徳薙零己さんは長編小説ですからね。
読み応えは段違いですから、それぞれの立場で楽しめるのではないでしょうか。
皇族以外で初の摂政になったのが藤原良房であり、我が国で初めて関白になったのが藤原基経です。摂政も関白も天皇の代わりに政治を行うことに変わりはありませんが、摂政が主に天皇の幼少時に代わって政治を行うのに対して、天皇の成人後に政治を代行するのが関白です。両者は非常に紛らわしいので注意して下さい。
さて、藤原基経は光孝天皇の子である宇多天皇(うだてんのう)が887年に第59代天皇としてご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅書(ちょくしょ、天皇からの命令書のこと)に、「基経を阿衡(あこう)に任ずる」と書いてあったことから、大問題になってしまいました。
「阿衡」とは中国の古典から引用したものでしたが、基経は「『阿衡』という言葉には地位はあっても実職が伴っていないから、その意味どおりに今後は一切政治を行わない」と宣言して朝廷への出仕をやめてしまったのです。驚かれた宇多天皇は基経を説得されましたが、基経は首を縦に振ろうとしませんでした。
基経の不出仕により政治の混乱が生じてしまったことで心痛された宇多天皇は、勅書を起草(きそう、原案を書くこと)した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させることでようやく事態を収拾されました。この事件は阿衡の紛議(ふんぎ)と呼ばれ、基経は自己の権力の強さを宇多天皇に知らしめたのでした。




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えめる 基経はツンデレっ?!
と思ってしまったのニャ(^ω^;
えめるさんへ
黒田裕樹 > 基経はツンデレっ?!
> と思ってしまったのニャ(^ω^;
なるほど、言われてみればそう受け取れますね(^^ゞ
実際には基経が宇多天皇に対して「黙って俺の言うことに従え」という無言の圧力だったかもしれませんが。でも宇多天皇も「やられっぱなし」というわけではないんですよ。そのあたりは次回の更新で…。
ぴーち こんばんは!
摂政は、確か聖徳太子もでしたよね!
(唯一、この方しか知らないと言う^^;)
関白と言えば、豊臣秀吉かしら。。
有名人ばかりしか知らなくって、ごめんなさい^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 摂政は、確か聖徳太子もでしたよね!
> (唯一、この方しか知らないと言う^^;)
> 関白と言えば、豊臣秀吉かしら。。
> 有名人ばかりしか知らなくって、ごめんなさい^^;
摂政と関白で有名な人々ですよね。平安時代は藤原氏ばかりが摂政・関白に就任していますよ。
これからしばらくの間は出てくることになりますが、おそらくぴーちさんがお聞きになった人々も登場すると思いますので、楽しみに待っていて下さいね(^o^)丿
オバrev 基経って、方光寺の鐘の文言にケチをつけた家康みたいですね。やり手だろうけど、嫌な奴(`Д´)
目的は、ライバルである?橘広相を失脚させて、自分が権力をにぎるためですか??
宇多天皇も「あっそう、仕事しないなら君はもう出廷しなくていいよ。関白は橘君にやってもらうからね。」と言えなかったんだろうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 基経って、方光寺の鐘の文言にケチをつけた家康みたいですね。やり手だろうけど、嫌な奴(`Д´)
「言いがかり」という点ではよく似ていますよね。「阿衡」の解釈の仕方が気に入らないなんて、子供じゃないんだから…。
> 目的は、ライバルである?橘広相を失脚させて、自分が権力をにぎるためですか??
直接の証拠はありませんが、そう考えて差し支えないでしょう。同時に宇多天皇への「圧力」にもなったと思われます。
> 宇多天皇も「あっそう、仕事しないなら君はもう出廷しなくていいよ。関白は橘君にやってもらうからね。」と言えなかったんだろうか。
藤原氏の皇室への食い込み方が尋常ではありませんから、切りたくても切れなかったのでしょう。もっとも、この後で宇多天皇による「逆襲」が始まります。
アキ がっ!
も、もう藤原の名が!(結構この時代から興味アリ)
普段は毎日更新されていると、楽しみ!と嬉々としてお邪魔していましたが、
今回のようにしばらくお邪魔できない日が続くと、進むスピードについていけず
『そんな毎日更新しないで~』
と思ってしまう・・・人間とはなんとも勝手なものでございます(オマエだけだよ)
これからじっくり過去ログ拝読いたします♪
アキさんへ
黒田裕樹 > がっ!
> も、もう藤原の名が!(結構この時代から興味アリ)
そうです、もう藤原氏ですよ(笑)。まぁ本格的な摂関政治はまだ先の話(11世紀)ですが…。
> 普段は毎日更新されていると、楽しみ!と嬉々としてお邪魔していましたが、
> 今回のようにしばらくお邪魔できない日が続くと、進むスピードについていけず
> 『そんな毎日更新しないで~』
> と思ってしまう・・・人間とはなんとも勝手なものでございます(オマエだけだよ)
いえいえ、その気持ちはよく分かります。俗にいう「浦島太郎」状態ですからね(笑)。
私もそれが嫌ですから、わざわざネカフェまで出張することがありますし(^^ゞ
> これからじっくり過去ログ拝読いたします♪
はい、どうぞごゆっくりご覧下さい(^o^)丿
過去記事でのコメントも歓迎しますよ♪
「摂政基経」
徳薙零己 お久しぶりです。
弊ブログ「いささめ」にて、2作品を並行して後悔しております。
一つは、応天門の変から藤原基経が摂政となり陽成天皇が元服するまでを描く「摂政基経」。
もう一つは、マンガを使っての平安時代の解説です。
「摂政基経」で取り上げる時代は、「藤原北家の台頭 その4」の冒頭2行だけという狭い時代ですが、当時の歴史書を紐解いてみますと結構面白いことが色々と出てきました。
恒例により、今回の作品も原稿用紙500枚超という長編となっておりますが、よろしければお立ち寄り願います。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
貴ブログは拝見しておりますよ。京子先生の漫画は楽しいですが、時々身につまされる話もあります(笑)。
長編物語の執筆、いつもお疲れ様です。通史をまんべんなく紹介するのも重要ですが、一つの時代を深く掘り下げる作業はもっと大切だと思います。
菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。894年には遣唐使の大使に任命されましたが、道真は唐の勢力が衰えていることを理由に遣唐使の中止を進言し、認められました。その後907年に唐が滅亡したため、遣唐使は二度と派遣されることはありませんでした。
897年、宇多天皇は実子で母が藤原冬嗣の血を引く第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位されましたが、宇多上皇は醍醐天皇に菅原道真を引き続き重用するよう強く求められました。そして899年、道真はついに右大臣となり、同時に左大臣となった藤原時平と肩を並べることになりました。
「このままでは道真率いる菅原氏によって藤原氏が築いてきた栄光を乗っ取られてしまう」。焦った時平は、901年に醍醐天皇に対して 「道真が自分の娘婿である斎世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとしている」というデタラメな密告をしました。
この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用された醍醐天皇は、直ちに道真を北九州の大宰府(だざいふ)の役職である大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)されました。2年後の903年、道真は左遷先の大宰府で失意のうちに亡くなりましたが、この事件がやがて我が国全体を揺るがす大騒動へと発展することになるとは、当時の誰もが予想できないことでした。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんにちは♪
留守中にコメントいただきありがとうございました。
またこれからもよろしくねσ(゚ー^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 > 留守中にコメントいただきありがとうございました。
> またこれからもよろしくねσ(゚ー^*)
お帰りなさいませm(_ _)m
またこちらからも訪問させていただきます。
ウミタク 初めまして!ご訪問とわざわざコメントまでありがとうございました!<(_ _*)>
いつもちらちら見させていただいてます!
またうかがわせていただきますね!
ウミタクさんへ
黒田裕樹 > 初めまして!ご訪問とわざわざコメントまでありがとうございました!<(_ _*)>
いえいえ、日本史好きという記事を拝見しましたので、応援させていただきました(^^♪
科目の好き嫌いは先生次第といいますからね。良い先生にめぐり会えてよかったですね(^_^)v
> いつもちらちら見させていただいてます!
> またうかがわせていただきますね!
有難うございます。こんな講座で宜しければ、いつでもご訪問下さいm(_ _)m
NoTitle
徳薙零己 原稿用紙320枚の小説(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/theme123-10008744135.html#main)がこうまとまると、小説の募集に提出する梗概はこう書けば良かったのだなと思わせられます。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。
小説、一気に読ませていただきました。素晴らしい力作ですね。
ブログをご覧の皆様にもお勧めします。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki
> 原稿用紙320枚の小説(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/theme123-10008744135.html#main)がこうまとまると、小説の募集に提出する梗概はこう書けば良かったのだなと思わせられます。
梗概=あらすじは簡潔さが要求されますから、徳薙さんのような長編小説は大変ですよね。小説とは展開が全く異なりますが、ご参考になれば光栄に思います。
また、この頃には全国的に天災や疫病(えきびょう)が立て続けに発生し、これらの不幸が道真の怨霊(おんりょう)によって起きたと判断された醍醐天皇は、923年に道真の左遷を取り消されて生前と同じ右大臣の地位を追贈(後の993年にはさらに太政大臣を追贈)されましたが、930年には平安京の清涼殿(せいりょうでん)に落雷が発生して炎上し、かつて左遷後の道真の動きを監視していた役人を含めて多数の死傷者が出てしまいました。
ご自身の居所で発生した惨劇に強い衝撃を受けられた醍醐天皇は体調を崩され、落雷から数ヶ月後に子の第61代の朱雀天皇(すざくてんのう)に譲位されると、程なく崩御されました。「道真公の怨霊が天皇様の御生命まで奪った」。恐怖におびえた当時の人々は、道真の怨霊を鎮めるのに躍起(やっき)になりました。
919年、道真が亡くなった大宰府の墓所に社殿が建てられたのを皮切りに、947年には京都の北野にも社殿を建てて道真を祀(まつ)るなど、全国的に道真を祀った神社が建立されました。道真は、落雷を起こしたことで雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また、「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(やしろ)は「天満宮」(てんまんぐう)と称されるようになり、先述の社も後世には太宰府天満宮や北野天満宮などと呼ばれるようになりました。
やがて時代が下り、怨霊から穏(おだ)やかな御霊(みたま)へと変化した道真に対して、人々は自然と信仰心を抱くようになり、江戸時代の頃には道真が生前に著名な学者や歌人であったことから「学問の神様」として信仰されるようになりました。こうした菅原道真をめぐる「天神信仰」は、21世紀の現代においても国民から絶大なる支持を受けているのです。




いつも有難うございます。
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mee; 天満宮の所以とても興味深く拝見しました
おもしろいですね~
天満宮をお参りする楽しみが増えました
ケンシロウ こんにちは。
今日は第5回の講座の日でしたね。
お疲れ様です。前回に続き好評だったことと思います。
カウンターも10,000Hitをオーバーしたようで
おめでとうございます。
これも先生の努力の結果でしょうね。
これからも皆から愛されるブログ更新を
頑張って続けて下さい。
紗那 道真さんだ!
受験生にとっては、心強い味方ですー
うちの叔母が北の天満宮の周辺に住んでるから、北の天満宮のお守りをもらうことにしましたー
この辺の道真ののろいのあたりは知ってました。
mee;さんへ
黒田裕樹 > 天満宮の所以とても興味深く拝見しました
> おもしろいですね~
> 天満宮をお参りする楽しみが増えました
成立の経緯や名前の由来にも色々あるんですよね。
仰るように、それらが分かればお参りする楽しみが増えるものです(^^♪
そういえばお彼岸の季節ですね…
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は第5回の講座の日でしたね。
> お疲れ様です。前回に続き好評だったことと思います。
講座は無事終了しました。詳細は別記事で書かせていただきます。
> カウンターも10,000Hitをオーバーしたようで
> おめでとうございます。
> これも先生の努力の結果でしょうね。
> これからも皆から愛されるブログ更新を
> 頑張って続けて下さい。
有難うございます。皆様に支えられてこその10000HITですから、これからもご期待に添えるよう頑張ります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 道真さんだ!
> 受験生にとっては、心強い味方ですー
そうですよね。季節には少し早いですが、何といっても「受験の神様」ですからね。
> うちの叔母が北の天満宮の周辺に住んでるから、北の天満宮のお守りをもらうことにしましたー
北野の天神さんですか。ご利益があればいいですね。
> この辺の道真ののろいのあたりは知ってました。
結構有名ですからね。天皇陛下まで犠牲になられたという「事実」が、当時の人々には余程ショックだったと思います。
また、法令の整備として延喜格式(えんぎしゃくしき)の作成を命じられたり、六国史(りっこくし)の最後である日本三代実録(にほんさんだいじつろく)を完成させたり、我が国最初の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)和歌集である古今和歌集(こきんわかしゅう)を成立させたりするなど、文化事業も積極的に行われました。ちなみに、真言宗を広めた空海に対して921年に弘法大師(こうぼうだいし)の名を贈られたのも醍醐天皇です。
930年に醍醐天皇が崩御されると、藤原時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)が朱雀天皇のもとで摂政や関白となりましたが、彼の死後は朱雀天皇の弟である第62代の村上天皇(むらかみてんのう)が、父の醍醐天皇と同様に摂政や関白を置かれずに親政を行われました。
醍醐天皇と村上天皇による親政は、当時の年号から延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)として後世に称えられました。その後、鎌倉時代末期に醍醐天皇の治世を目標とされ、本来は崩御後に贈られる追号(ついごう)を、生前からお決めになられた天皇がおられました。第96代の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のことです。
(明日からは第5回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
弘法大師といえば蒲郡の弘法大師像を思い出します。
三谷温泉という温泉街の頂上にありますが
今ではラグーナ蒲郡なども出来て
新しい観光地になったのかな?
仕事の際にもたまに通りますが
山頂へ行った記憶は子供の頃。
正式には子安弘法大師になるのかな?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 貴重な情報有難うございます。
早速調べましたが、結構大きな像ですね。
空海には安産の伝説もありますから、仰るとおり子安大師として親しまれているようです。
後醍醐天皇
オバrev 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
このまえのコメントで、一つ大事なことを忘れてました~(^_^;)アチャー
それは、まず失敗するのは当たり前と思うことと、覚悟です。
8の覚悟しかできてない人は、12の覚悟ができている人には叶わないと言われていました。
わかちゃいるけど、できないオバです(T_T)
ところで本題ですが、あの建武の新政でしたか、で有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇を目標にしたんですか。
後醍醐となっているから、どこかに醍醐天皇がおられると思ってました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
有難うございますm(_ _)m
> このまえのコメントで、一つ大事なことを忘れてました~(^_^;)アチャー
> それは、まず失敗するのは当たり前と思うことと、覚悟です。
> 8の覚悟しかできてない人は、12の覚悟ができている人には叶わないと言われていました。
> わかちゃいるけど、できないオバです(T_T)
確かにそうですね。失敗を恐れずに、失敗したとしても次回の成功に導いていく努力が必要ですね。
かく言う私も色々失敗したからこそ、今のようにブログを続けているようなものです。
手前味噌ですが、「失敗」に関してはブログの一番最初に書いてあります。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-1.html
> ところで本題ですが、あの建武の新政でしたか、で有名な後醍醐天皇は、醍醐天皇を目標にしたんですか。
> 後醍醐となっているから、どこかに醍醐天皇がおられると思ってました。
仰るとおりです。500年前の天皇親政を理想とされたからこそ、追号をあらかじめご自身で決めておられたんです。建武の新政については、当ブログではいつ紹介できるでしょうか…(^^ゞ
冷泉天皇は生来のご病弱ということもあり、早めに皇太子を決める必要がありました。候補としては冷泉天皇の弟である為平親王(ためひらしんのう)と守平親王(もりひらしんのう)の名が挙がりましたが、このうち年長の為平親王の方が有利と見られていました。しかし、為平親王が天皇になることは、藤原氏としては絶対に避けなければならないことでした。
なぜなら、為平親王は源高明の娘を妃(きさき)としていたからです。為平親王が天皇になれば、源高明が天皇の外戚(がいせき)となって政治の実権を握り、藤原氏の権勢が春の淡雪(あわゆき)のように消えてしまう―。焦った藤原氏がとった手段は「いつものやり方」でした。
969年、源高明は突然謀反の罪を着せられて大宰府へ流されてしまいました。この事件を当時の年号から安和の変(あんなのへん)といいます。同年には冷泉天皇が退位され、守平親王が第64代の円融天皇(えんゆうてんのう)として即位されました。円融天皇の母は藤原氏の一族でした。源高明の失脚によって藤原氏に対抗できる他氏勢力がいなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占することになりました。




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 毎回ながら、藤原家はやることの規模がおおきいですね

てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 毎回ながら、藤原家はやることの規模がおおきいですね

これだけの大仕掛けが出来るのは藤原氏ならではでしょうね。今後はそれを藤原氏同士でやっていくんですよね…。
コメントありがとうございます!
彩 遊びに来ましたー!
先週行った飛鳥の事を知りたくて
今さら飛鳥のあたりを拝読させていただきました。
歴史深い場所に行く前にこちらのブログで勉強したら
旅がずっと楽しくなりそうです!よろしくおねがいします!
彩さんへ
黒田裕樹 > 遊びに来ましたー!
ようこそお越し下さいました!\(^o^)/
> 先週行った飛鳥の事を知りたくて
> 今さら飛鳥のあたりを拝読させていただきました。
1400年前の息吹が感じられる飛鳥ロマンは素晴らしいものがありますよね(^^♪、
> 歴史深い場所に行く前にこちらのブログで勉強したら
> 旅がずっと楽しくなりそうです!よろしくおねがいします!
こちらこそよろしくお願いします!
どうぞお気軽にご訪問下さいね!(^o^)丿
Money
オバrev 毛利家の時代から、一気に平安時代へ遡りですね。
き、切り替えなきゃ(^_^;)
それにしても藤原氏の権力たるや凄いの一言です。
しかし、歴史的にみてもそうですが、権力を得るために絶対的に必要なものがお金です。
このころの藤原氏の資金源ってのは何だったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の時代から、一気に平安時代へ遡りですね。
> き、切り替えなきゃ(^_^;)
今回から通常講座に逆戻りですからね。ややこしいかもしれませんが、お付き合いくださるようお願いしますm(_ _)m
> それにしても藤原氏の権力たるや凄いの一言です。
> しかし、歴史的にみてもそうですが、権力を得るために絶対的に必要なものがお金です。
> このころの藤原氏の資金源ってのは何だったんでしょうか?
( ̄ー ̄)ニヤリ
さすがに鋭いですね。ご質問の件は、近日中に詳しく紹介することになりますので、今しばらくお待ち下さい。ヒントを挙げるとすれば、奈良時代のある法律がカギを握っています。
紗那 結局、藤原氏はこのやり方に頼るんですねー
「無理が通れば道理が引っ込む」が、具現してますけど、世の中こんな人ばっかりではやっていけませんね。
そういえば、昨日は広島も阪神も勝ったんですよー(何
紗那さんへ
黒田裕樹 > 結局、藤原氏はこのやり方に頼るんですねー
> 「無理が通れば道理が引っ込む」が、具現してますけど、世の中こんな人ばっかりではやっていけませんね。
本当にそうですよね。源高明にもし政治の実権を握る野望がなければ、まさにとばっちりですからね。
でも、世の中には自己のためなら他人のことは全くいとわない人が多いのも事実です(´・ω・`)
> そういえば、昨日は広島も阪神も勝ったんですよー(何
確かにそうですね(笑)。今日(30日)はどうでしょうか?
兄弟同士の骨肉の争いに勝った藤原兼家は、娘を次々と天皇の妃(きさき)として送り込んで政治の実権を握りました。兼家の死後は長男の藤原道隆(ふじわらのみちたか)が摂政・関白になりましたが、道隆の死後は、子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)と道隆の弟である藤原道長(ふじわらのみちなが)との間で同じような勢力争いが繰り広げられました。
こうした藤原氏同士の争いを最終的に制した藤原道長は、4人の娘を天皇の妃として、自らは第68代の後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政となりました。道長は約30年にわたって権力を握り続けましたが、彼が絶頂期の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
余談になりますが、藤原兼家の妻の一人は「蜻蛉日記」(かげろうにっき)で有名な藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)です。小倉百人一首(53番目)では「右大将道綱母」として紹介されていますね。さらに、藤原道綱母の妹の娘、つまり姪(めい)は「更級日記」(さらしなにっき)の作者である菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)であり、菅原孝標女はその名のとおり、菅原道真の血を引いています。




いつも有難うございます。
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らいと はじめまして。
藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
わかりやすい歴史の記事です。
これからも楽しみにしています!
らいとさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> 藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
ようこそお越し下さいました(^^♪
ほんの一握りの栄光の陰には、激しい勢力争いがあるのがこの世の常でもありますね。藤原氏のような勢力争いを振り返るたびに思い知らされます。
> 菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
須磨の綱敷天満宮のことですね。源氏物語の一節と上手くミックスさせていることでも有名です。道真公を祭った社は全国各地にありますね。
> わかりやすい歴史の記事です。
> これからも楽しみにしています!
お言葉、励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
管理人のみ閲覧できます
-
ayumi はじめまして。
ご訪問ありがとうございました!
さっそく遊びにきちゃいました。
お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
学生時代は理数系を愛していたワタクシ
歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
なかなか面白いものですね。
また遊びに来ます。応援ポチ☆
ayumiさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> ご訪問ありがとうございました!
> さっそく遊びにきちゃいました。
> お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
ようこそお越し下さいました(^o^)丿
ハイ、現在は別の職務に就いておりますが、一応(笑)歴史の元・教師です。
> 学生時代は理数系を愛していたワタクシ
> 歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
> 改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
> なかなか面白いものですね。
歴史小説がお好きであれば、実際の歴史にもすんなりと入っていけますよ。
仰るとおり、本物の歴史はまさにドラマチックですから、理解さえできれば本当に面白いんです。私はこのブログを通じて、一人でも多くの方に歴史に興味を持っていただけますよう「分かりやすい」内容の更新を目指して続けているんですよ(^^♪
> また遊びに来ます。応援ポチ☆
応援有難うございます。また是非いらして下さいm(_ _)m
名前
オバrev この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
平安当時の女性は、皇族か任官でもされない限りは公式の記録に名前が残ることは滅多にありませんでした。そもそも当時の女性の名前を知ることは、その女性を自分のものとしているも同然と考えられるほど重要なことだったのです。
従って、今回紹介した藤原道綱母や菅原孝標女の場合は、本名が記録に残っていないので分からなくなっているのです。また、清少納言や紫式部も本名は分かっていません。ちなみに紫式部の娘は後冷泉天皇の乳母となったことで任官を受けたので、大弐三位(だいにのさんみ)という通称とともに藤原賢子(ふじわらのけんし、または「かたいこ」)という本名が記録に残っています。
お久しぶりです
徳薙零己 藤原道長が摂政になるまでを描いた「源氏物語の時代」が完結しました。
本作についての資料をまとめ、文章を書き記せば記すほど驚かされたのが、藤原道長の政治に対する姿勢です。
自分を批判する言論であろうと全て認め、自分を容赦なく罵倒する貴族であろうと、その人は有能であると判断したら、その人の才能を認め役職を用意し、責任は全て道長が引き受けた上で役職に専念させていたこと。これができる政治家が果たして何人いたでしょうか。
現在でもそのまま適用できそうな言論の自由を確立させた上で藤原道長が為してきたことこそ、安定と平和、そして豊かな暮らし。歴史上の有名人物であるため小学生向けの伝記マンガの常連である藤原道長ですが、政治家としての藤原道長が何をしたのかをとりあげている作品は少ないです。
それは、藤原道長が目を見張るような改革を為した政治家だからではなく、安定と平和のために尽力し続けてきた結果だというのが、「源氏物語の時代」、そして、6月から公開する「欠けたる望月」を終えた上での私の結論です。
政界引退と同時に刀伊の入寇が起こり、死と同時に平忠常の乱が発生し、その後の混迷につながってしまったのも、源氏物語の時代の日本が藤原道長という個人の能力に寄っていた結果。藤原道長自身は自分がいなくなった後も安定したシステムを作り上げたはずであったのに、気がつくと道長がいることを前提とした日本国になってしまったというのが,今の私の考えです。
藤原道長が摂政になってから、摂政を辞し、頼通政権が成立して平忠常の乱までを、6月から「欠けたる望月」として公開致します。
おてすうではございますが、よろしければお立ち寄りください。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
なるほど、道長にはそういった側面もあったんですね。
新たな作品に期待しています。