このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを摂関政治(せっかんせいじ)といい、摂政や関白を出した家柄(いえがら)のことを摂関家(せっかんけ)といいます。
当時の国政では、天皇を後見する資格を持つ摂関家の意向が重視されました。摂関家はやがて天皇の下で働く役人の任免権をも占有するようになり、政治が私的な性格を帯びるとともに、他の貴族がこぞって摂関家に奉仕するようになりました。例えば、この頃には多くの荘園が藤原氏などの有力貴族に集中することになるのですが、その経緯はいずれ後述します。
また、一族による政治の独占は、必然的に官職の世襲化を進めることとなり、家柄によって官位の昇進が決められるようになりました。安倍晴明(あべのせいめい)で有名な陰陽道(おんみょうどう)も、安倍氏の世襲として後の世まで続いています。
こうして朝廷が藤原氏を中心に栄えていく一方で、地方の政治はほとんどかえりみられなくなっていきました。中央と地方との政治の矛盾が、やがては様々な問題となって噴き出していくことによって、来るべき新しい時代の原動力となっていったのです。
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オバrev 世襲とか中央と地方の矛盾とか、何か自民党の敗北か、建国60周年で賑わっているが実は内情は危ない中国みたいですね。
でも、権力を握ると周りが見えなくなってしまうのは、昔も今も変わらないんですね。
道長のあの歌は、権力者の絶頂期の共通した気持ちなのかも知れません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 世襲とか中央と地方の矛盾とか、何か自民党の敗北か、建国60周年で賑わっているが実は内情は危ない中国みたいですね。
> でも、権力を握ると周りが見えなくなってしまうのは、昔も今も変わらないんですね。
まさに仰るとおりですね。現実が見えずに、いや見ようともせずに目先の享楽のみを追い求めようとする様子はそのまんまでしょう。このような矛盾だらけの政治は、遅かれ早かれ変革する時代が必ずやって来るのです。
> 道長のあの歌は、権力者の絶頂期の共通した気持ちなのかも知れません。
我が世の春を詠った気持ちですからね。ただ、満月はいつかは欠けていくものです。頼通の後の摂関家の運命はどうなっていくのでしょうか…。
紗那 摂関政治ですねー
このあたりは教科書でもちゃんと取り上げている有名なところですよね。うん。
外戚というだけで、こんなに権限を与えてしまうとは・・・
紗那さんへ
黒田裕樹 > 摂関政治ですねー
> このあたりは教科書でもちゃんと取り上げている有名なところですよね。うん。
そうですね。藤原道長も藤原頼通も有名ですからね。ただ名前だけ有名で、なぜ摂関家が栄華を極めたのかまではなかなか紹介されませんが…。
> 外戚というだけで、こんなに権限を与えてしまうとは・・・
即位された天皇からすれば、自分が天皇に在位できるのも藤原氏のお陰という現実がありますので、「外祖父」には頭が上がらないんですよ。そんな経緯につけこんで、少しずつ勢力を拡大していったというのが真相ですね。
政府は902年に延喜の荘園整理令を出し、その後もたびたび整理令を出すことによって、不明確な荘園を没収したり、荘園の新設を禁止したりしようとしましたが、後述のとおり、荘園の最大所有者である有力貴族が荘園を取り締まるという体制には無理があり、効果は上がりませんでした。
律令政治に不可欠な班田も902年を最後に行われなくなり、戸籍上の男子の数も激減して、もはや従来の租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などを取り立てて国家財政を維持するという方法が不可能となったのです。
そこで政府は、本来は単なる地方行政官に過ぎなかった国司(こくし)に対して、一定額の税の納入を請け負わせる代わりに、一国内の統治を任せるようになりました。つまり、国司は政府から地方政治を一任されることになり、その権限が大幅に強化されたのでした。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんばんは☆
変な書き込みしてごめんなさいねm(o・ω・o)mゴメン
でもおかげで安心してお邪魔できるようになりました。
歴史講座の続き見させてもらいますσ(゚ー^*)
全部見終わったら感想を寄せさせてもらいます``r(^^;)ポリポリ
ポチ全部しておきます。
marihimeさんへ
黒田裕樹 ご安心いただけて何よりです。
ご感想を楽しみにしておりますm(_ _)m
尚、堵(と)とは垣根(かきね)を意味しており、負名は「名田の経営を請け負った」ことからその名があります。田堵のなかには国司と結んで勢力を伸ばし、大規模な経営を行って大名田堵(だいみょうたと)へと成長していく者もありました。こうして課税の対象は、人が中心の人頭税(じんとうぜい)から、土地が中心の土地税(とちぜい)へと転換していきました。
さて、政府に対する「徴税請負人」(ちょうぜいうけおいにん)としての性格が強まった国司は、課税率の決定を自らの裁量で行うことによって、その地位を利用して任期中に私腹を肥やす者が後を絶たなくなったのですが、なぜか分かりますか?
地方に派遣された国司の役目は、一定の税を集めて政府へ送ることでした。ということは、定率の税さえ納めれば、後は自分の取り放題となるわけです。例えば、本来であれば4分の1の税を納めれば済むはずが、2分の1の税をかき集めることによって、差額の4分の1はそっくりそのまま自分の懐(ふところ)に入ってしまうというカラクリなんです。




いつも有難うございます。
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オバrev 天皇中心の公地公民という社会主義国家に、自由経済を導入したようなものですね。
地位を利用して私服を肥やすというのは、水戸黄門では定番ですし、現在も世界各地で行われています。交通違反をしても賄賂を渡せば見逃してくれるとか(^^;)
人間の欲望って、変わらないですね。
ストーリーは全然違いますが、「欲望という名の電車」のタイトルを思い出しまして、当てはめてみました。名付けて「欲望という名の荘園」・・・普通過ぎ?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 天皇中心の公地公民という社会主義国家に、自由経済を導入したようなものですね。
そうですね。公地公民は古代の理想ではありましたが、現実にはそぐわなくなったというところでしょうか。
> 地位を利用して私服を肥やすというのは、水戸黄門では定番ですし、現在も世界各地で行われています。交通違反をしても賄賂を渡せば見逃してくれるとか(^^;)
> 人間の欲望って、変わらないですね。
人類がこの世に存在する限りはなくならないでしょうね(苦笑)。モラルハザードの国や地域ほどひどくなる傾向にありますが。
> ストーリーは全然違いますが、「欲望という名の電車」のタイトルを思い出しまして、当てはめてみました。名付けて「欲望という名の荘園」・・・普通過ぎ?
普通過ぎるところが真実をついていることもありますよ(笑)。そんな欲望まみれ(?)の荘園に関する講義がしばらく続きますので、どうぞお付き合い下さいm(_ _)m
紗那 私腹を肥やす流れは知ってましたが、ほかにもいろいろと国司さん、やってたんですね。さしずめ、民衆を酷使するというところでしょうか(ぁ
ayumi うわあ、国司ってワル~い。
そんな感想ですみません。
いつも勉強になります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 私腹を肥やす流れは知ってましたが、ほかにもいろいろと国司さん、やってたんですね。さしずめ、民衆を酷使するというところでしょうか(ぁ
そうなんですよ。自分の利益のためなら何でもする、という事実(?)を皮肉った話を今日(4日)の記事で紹介しております。
国司だけに酷使ですか。座布団1枚!(^ω^)
ayumiさんへ
黒田裕樹 > うわあ、国司ってワル~い。
> そんな感想ですみません。
> いつも勉強になります。
いえいえ、素直に思っていただけることが全体の理解につながりますので、今後ともよろしくお願いしますね(^_^)v
ぴーち こんばんは!今日は時間が少しありましたので、
ゆっくり読ませていただきました^^
国司の裏工作、今の時代も
政治や企業で、たまに発覚することですよね^^;
時々、何億と言うお金が何処かの川や、空き地に捨てられていたという事件が報じられますから、
使途不明金の出所が気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!今日は時間が少しありましたので、
> ゆっくり読ませていただきました^^
毎日お忙しいところを、時間をつくって下さって有難うございます!(^o^)丿
> 国司の裏工作、今の時代も
> 政治や企業で、たまに発覚することですよね^^;
> 時々、何億と言うお金が何処かの川や、空き地に捨てられていたという事件が報じられますから、
> 使途不明金の出所が気になります。
役人が陰でやっていることは、基本的に昔も今も変わらないということでしょうか( ゚д゚ )
使途不明金ほど怪しいものはないですね。自分が汗水たらして稼いだお金でないからこんなことが出来るのでしょうけど。
清少納言(せいしょうなごん)による随筆として有名な枕草子(まくらのそうし)の第二十五段「すさまじきもの」(=興ざめするもの、という意味)では、国司などの任官に関して大勢の人が集まる様子や、任官できないと分かった家の主人に対する冷たい態度や、早くも来年の任官を当てにしている様子などが描かれており、当時の任官に対する大きな期待感がうかがえます。
こうして国司の地位を得た貴族は、自らは現地へ行かず、目代(もくだい)と呼ばれた代理人を派遣することが一般化しました。これを遙任(ようにん)といいます。国司が現地に赴任(ふにん)しない国衙(こくが、または国府=こくふ、国の役所のこと)は留守所(るすどころ)と呼ばれ、地方豪族などのその国の有力者が世襲的に役人として実務に従事しました。これを在庁官人(ざいちょうかんじん)といいます。
一方、現地へ自ら赴任する国司も存在しました。彼らは受領(ずりょう)と呼ばれ、中央で出世の望みを絶たれた貴族たちが、その腹いせ(?)に慣例を超えた重税を取り立てて、巨利を得ようとしました。このため、これを不満とする在地の有力農民との争いが絶えない一方で、国司の有様を比喩(ひゆ)的に描いた文献も残されています。




いつも有難うございます。
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ぴーち 清少納言。ほんの触りの部分の「春は曙~」は有名ですよね!
今の時期は、
秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近くなりたるに・・・
ですかね^^
「すさまじきもの」の内容は存じませんが、
「にくきもの」(酔っ払いがお嫌いだったのかなw。私と同じだけど^^)や「うつくしきもの」などは、少しだけ存じています。
清少納言ではなく、紫式部の声が、女優の長山藍子さんの声と似ているなんて、言われてますが、(日本音響研究所調べ)清少納言は何方の声に似ているんでしょうかw
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 清少納言。ほんの触りの部分の「春は曙~」は有名ですよね!
> 今の時期は、
> 秋は夕暮。夕日のさして、山の端いと近くなりたるに・・・
> ですかね^^
そうですね。大相撲の春場所で優勝したかつての横綱曙が「春は曙」を文字っていたのを思い出します。枕草子は1000年経った今でも我々の心に深く浸透していますね。
> 「すさまじきもの」の内容は存じませんが、
> 「にくきもの」(酔っ払いがお嫌いだったのかなw。私と同じだけど^^)や「うつくしきもの」などは、少しだけ存じています。
枕草子の随筆は色んな思いが込められていますよね。
酔っ払いが嫌いですか?
う~ん、ぴーちさんの前ではお酒を飲んではいけないな…(^^ゞ
> 清少納言ではなく、紫式部の声が、女優の長山藍子さんの声と似ているなんて、言われてますが、(日本音響研究所調べ)清少納言は何方の声に似ているんでしょうかw
確か肖像画の骨格からの連想でしたっけ?
清少納言のはっきりと描かれた肖像画があったという記憶がありませんので、再現は難しいかもしれませんね。織田信長は甲高い声だったらしいですが…私と同じかな?
ぴーち こんばんは!
なるほど!肖像画が残されていたために、骨格を推測し、そこから、判明した訳ですね~。
話は反れますが、よく科捜研などで事件で亡くなられた方の骸骨を粘土で肉付けしていくと、生前の顔が現れて来たりしますが、一番難しいのは、一重か二重かという点らしいですね。関西人の方の方が、一重の確立が高いというデータをもとに、決めているそうですが、本当にそうなんでしょうかね?
あ、そうそう、
黒田さん、私の前では、しらふで宜しくお願いします(笑)
でも、きっと、黒田さんは、お酒を飲まれても、お酒に飲まれるような事はないかと思います・・・・が?ww
それでは、凸
また、お邪魔しますね^^
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > 話は反れますが、よく科捜研などで事件で亡くなられた方の骸骨を粘土で肉付けしていくと、生前の顔が現れて来たりしますが、一番難しいのは、一重か二重かという点らしいですね。関西人の方の方が、一重の確立が高いというデータをもとに、決めているそうですが、本当にそうなんでしょうかね?
う~ん、どうなんですかねぇ。知り合いは一重と二重が半々のようですが…。ちなみに私は二重です(^^ゞ
> あ、そうそう、
> 黒田さん、私の前では、しらふで宜しくお願いします(笑)
> でも、きっと、黒田さんは、お酒を飲まれても、お酒に飲まれるような事はないかと思います・・・・が?ww
深酒することは滅多にないんですが、やはりエチケットですからね。いずれにせよご用心(笑)。
随行者たちが言われたとおりにしてかごを引き上げると、かごには陳忠ではなく山のようなヒラタケが載っていました。すると「もう一度降ろせ!」と言う声が聞こえて、もう一度かごを降ろして引き上げると、今度こそ陳忠が乗っていましたが、片手には一杯のヒラタケをつかんでいました。
随行者たちが安心し、かつ陳忠の行動にあきれ返っていると、陳忠は言い放ちました。「転落した途中で木に引っかかったので助かったのだが、見ればすぐそばにとんでもない量のヒラタケが生えているではないか。宝の山に入って手ぶらで出てくるのは悔やみきれない。『受領は倒るるところに土をつかめ』と言うではないか」。いやはや、凄まじいまでの陳忠の強欲ぶりですが、今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)に残されたこのエピソードは、当時の国司の有様を伝えた貴重な史料とされています。
このような国司の横暴ぶりに、地元の農民が耐えかねてついに朝廷に訴えるということもありました。988年の「尾張国郡司百姓等解文」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)によって訴えられた藤原元命(ふじわらのもとなが)はその一例です。尚、訴えられた藤原元命は国司を辞めさせられていますが、その後も政界に留まっています。




いつも有難うございます。
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JJSG こんばんは。
リンクさせていただきました。
毎日、訪問させていただき、勉強させてもらいます♪
ポチポチ応援させていただきますね~。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > リンクさせていただきました。
> 毎日、訪問させていただき、勉強させてもらいます♪
有難うございます。当方からもリンクさせていただきましたので、よろしくお願いします。
皆さんも是非高尚な「親鸞聖人のブログ」をご覧下さい。
永田町や霞ヶ関でも
オバrev 藤原元命のようなことは、永田町や霞ヶ関では日常茶飯事だったけど、政権交代に期待することは、そこを切り込んでもらいたいことです。
逆にマニフェストの一つ一つについては、よくよく検討して欲しいし、自民党はその不十分な内容を徹底的に突いてもらいたい。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原元命のようなことは、永田町や霞ヶ関では日常茶飯事だったけど、政権交代に期待することは、そこを切り込んでもらいたいことです。
そうですね。昔話と笑っていられない情けない現実がある以上、可能ならばバッサリとやってもらいたいものです。それと経済対策ですね。国民が期待する優先順位を守ってもらいたいです。
> 逆にマニフェストの一つ一つについては、よくよく検討して欲しいし、自民党はその不十分な内容を徹底的に突いてもらいたい。
マニフェストの現実性もしっかり見極めたうえで、本当に必要なものから手をつけてほしいですね。
管理人のみ閲覧できます
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ぴーち なるほど、
少しニュアンスは違いますが、「転んでもただでは、起きぬ」の境地ですかね^^
陳忠のように、抜け目ない性格には
ある意味、尊敬致しますが、
人を困らせるような事だけは、避けたいですね^^;
「憎まれっ子・・・世にはばかる・・・・』プッ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、
> 少しニュアンスは違いますが、「転んでもただでは、起きぬ」の境地ですかね^^
> 陳忠のように、抜け目ない性格には
> ある意味、尊敬致しますが、
> 人を困らせるような事だけは、避けたいですね^^;
文字どおりですね(^^ゞ
確かに尊敬できますが、友達にはなれそうもないです(´Д`)
> 「憎まれっ子・・・世にはばかる・・・・』プッ
なるほど。では私は長生きできそうって、あれ?( ゚д゚ )
そんな彼らにとって、まさに「救いの神」となったのが、摂関家などの中央の有力貴族、または寺社でした。彼らは自己の所領を有力貴族や寺社に名目上(めいもくじょう、名前の上だけ、という意味)寄進(きしん、寄付と似た意味)して領家(りょうけ)となってもらい、自らは下司(げし)などの荘官(しょうかん)となりました。
寄進された領家では、保護をさらに強力なものとするために、自らよりもさらに上級の有力者に重ねて寄進することもあり、寄進された上級の領主は本家(ほんけ)と呼ばれました。開発領主たちはこのようにして荘官による所領の私的支配を強化するとともに、摂関家をはじめとする有力貴族や寺社には数多くの荘園が集中するようになりました。こうした荘園を、以前に紹介した初期荘園(しょきしょうえん)に対して寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)といいます。
尚、初期荘園は貴族や寺社が人手を使って自ら開墾したり(自墾地系荘園=じこんちけいしょうえん)、他人から買収したり(既墾地系荘園=きこんちけいしょうえん)した墾田(こんでん)からなり、付近の農民を使用して経営していたので、寄進地系荘園と対比する意味で墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)とも呼ばれています。




いつも有難うございます。
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オバrev 寄らば大樹の陰と、結局大手の藤原氏に、下請け、孫請けが集まっていった感じですね。
こういう構図は、今も変わらず続いているような気もします。日本人の特性なのかもしれませんね┐(´∀`)┌
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 寄らば大樹の陰と、結局大手の藤原氏に、下請け、孫請けが集まっていった感じですね。
> こういう構図は、今も変わらず続いているような気もします。日本人の特性なのかもしれませんね┐(´∀`)┌
確かにそうですね。自分ひとりでは何もできずに周囲の力を頼りに大きな顔をするあたりは、現代の政治家との共通点もあるような気がします(´・ω・`)
歴史
JJSG こんばんは。
難しいですが、とっても勉強になりますね。
歴史って、楽しいですよね。
ポチポチっと!
おじゃましました~♪
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 難しいですが、とっても勉強になりますね。
> 歴史って、楽しいですよね。
今日の記事は語句が多いので、いつもよりもわかりづらくなっているかもしれませんが、近いうちに詳しく説明させてもらうことになると思いますので、また是非お越し下さい。
応援有難うございます。
いくら荘園といえども、その大半は税の負担がかかる輸租田(ゆそでん)でした。しかし、名目上の荘園領主の権威を手に入れた開発領主らは、以前に紹介した官物(かんもつ)や臨時雑役(りんじぞうやく)を免除してもらうという不輸(ふゆ)の特権を認めさせるようになりました。不輸の特権は、政府の公文書(こうぶんしょ)である太政官符(だいじょうかんぷ)や民部省符(みんぶしょうふ)によって認められたため、このような荘園は官省符荘(かんしょうふしょう)と呼ばれました。
また、国司が地方の支配を任せられた平安中期には、国司(=受領)によってその任期中に免税の認可が行われるようになり、このような荘園は「国司が免除する」ことから国免荘(こくめんのしょう)と呼ばれました。ただし、国免荘には国司の交替時には取り消されるなどの不安定な要素もありました。
「税をよこせ」という国司と「払いたくない」という開発領主との対立が深まってくると、国司が荘園の状況を調査するために派遣した検田使(けんでんし)の立ち入りすら認めないとする不入(ふにゅう)の特権を得る荘園が増えていきました。これも荘園領主の権威あればこそ成し得たことであり、不入の特権は、やがて警察権の不介入にも広がっていきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
よく荘園という名前は耳にして来ましたが、
こんなに詳しく解説していただいたことは、初めてです^^
それまで、知ろうともしなかった自分を今、無性に恥じています(><)
やはり、長生きはするもんですね~^^
明日は、台風が襲って来るようですが、どうぞ
お気をつけください。
何事も無く、過ぎ去ってくれることを祈ります。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > よく荘園という名前は耳にして来ましたが、
> こんなに詳しく解説していただいたことは、初めてです^^
> それまで、知ろうともしなかった自分を今、無性に恥じています(><)
そうですね。普通は荘園やそれにまつわる「不輸」や「不入」の特権の語句だけを説明して終わりですから、無理もないことだと思います。荘園はいわゆる「金のなる木」ということを理解させなければ無意味なんです。明日(8日)にはもっと詳しく説明できると思いますよ。
> やはり、長生きはするもんですね~^^
「佳人薄命」といいますから、ぴーちさんの場合は用心に越したことはないですよ(^ω^)
> 明日は、台風が襲って来るようですが、どうぞ
> お気をつけください。
> 何事も無く、過ぎ去ってくれることを祈ります。
日付が変わるのが近づくにつれて、雨が強くなってきました。そのうち風も強く吹くことでしょう。
明日以降も気軽にコメ返できますよう、無事で過ごしたいものです。
marihime 黒田さんこんばんは~♪
歴史の話は省略して``r(^^;)ポリポリ
台風が紀伊半島に上陸しそうですが、大阪は影響ありませんか?
私の地方も雨が強くなってきました。
東海地方は大きな台風の被害によく遭います。
今度は私のところも危ないようで、根尾川の水位がもう上がってきています。
山の中は怖いです~(´∵`)
いつの時代にも
JJSG こんばんは。
いつの時代にも、それぞれの立場で、それぞれの権利を主張し、権利を守るために、引っぱりあい、攻防があるんですよねぇ。
内容こそ違え、本質的には、現代も同じですね。
歴史は繰り返される~ですかね。
国債発行?
オバrev 荘園がこういう形になると、税が有力貴族や寺社に行く変わりに、朝廷の税収は大幅に減少するんじゃないでしょうか。
しかし国債を発行するわけにもいかないし。
藤原氏と手を握るしかなかったんですかね?
marihimeさんへ
黒田裕樹 こんばんは。
こちらも強い風が吹いておりますが、台風はどうやら大阪よりも東海地方のほうへ向かっているようですね。
山の中と仰いますが、土砂災害にも注意されたほうがよいのではないでしょうか。
いずれにせよお互いに無事でありたいものですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > いつの時代にも、それぞれの立場で、それぞれの権利を主張し、権利を守るために、引っぱりあい、攻防があるんですよねぇ。
> 内容こそ違え、本質的には、現代も同じですね。
そうですね。その攻防が国民のためであればまだ救いがあるのですが、少なくとも現代ではどうでしょうか…。
> 歴史は繰り返される~ですかね。
現代でも似たような状況ですからね。未来もおそらく同じなのでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 荘園がこういう形になると、税が有力貴族や寺社に行く変わりに、朝廷の税収は大幅に減少するんじゃないでしょうか。
鋭いですね。その辺りは次回(8日)以降に詳しく紹介するとともに、さらに後日にはその影響を考察することになると思います。
> しかし国債を発行するわけにもいかないし。
> 藤原氏と手を握るしかなかったんですかね?
おそらくそれが現実だったでしょう。政治面のみならず、資金面でも優位に立っていたわけです。
ぴーち 黒田さん、こんばんは♪
佳人薄命・・。
了解しました(笑)
そちらは大丈夫だったようですね^^
安心しました♪
荘園の更に詳しいからくり、解説してくださり
感謝します^^
今の世の中の裏事情も良くは判りませんが、
きっと似たような事例が茶飯事?なのかもしれませんね^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > そちらは大丈夫だったようですね^^
> 安心しました♪
ぴーちさんもご無事なようで何よりです。久しぶりの上陸でしたからね…。
> 荘園の更に詳しいからくり、解説してくださり
> 感謝します^^
> 今の世の中の裏事情も良くは判りませんが、
> きっと似たような事例が茶飯事?なのかもしれませんね^^;
いえいえ、お言葉有難うございます。
私も裏事情はよく分かりませんが、同じようだったら寂しいものがありますね。歴史に学んでいないことが…。
こうすると、表向きは有力貴族らの「荘園」となりますから、国司から税は取られません。もっとも「名義貸し」による一定の「名義使用料」は有力貴族らに支払わなければなりませんが、本来の税よりは格安ですから、喜んで負担する、というカラクリなのです。
私たちのこの行為が何を意味するか分かりますか?
「荘園」といえば聞こえがいいですが、その実は有力貴族らが公認した「脱税行為」でもあったのです。上記のようなシステムがあれば、耕作者の多くはこぞって領家(りょうけ)に自らの田地を寄進しますよね。寄進された領家は、荘園の特権を確固たるものにするために、さらに上級の本家(ほんけ)に寄進しますから、その先にあるのは…そう、当時の実質的な権力者の頂点たる摂関家に行き着きます。
以前に紹介した藤原道長(ふじわらのみちなが)や藤原頼通(ふじわらのよりみち)らが、あれだけ強力な政治の実権を握り続けることができたのも、寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)の集中という財政面の裏付けがあったればこそだったのです。その一方で、本来の国税の納入が激減したことで、この当時の国家財政は破綻(はたん)状態であったという厳しい現実もありました。




いつも有難うございます。
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JJSG 脱税行為、いけませんよねぇ。
当時は、よかったのかな???
今も昔も、政治は難しいですねぇ。
しかし、なにより、人間の欲というのは、深いものです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 脱税行為、いけませんよねぇ。
> 当時は、よかったのかな???
もちろん良くはありません。しかし、脱税といっても政治のトップが堂々と行い、それを取り締まる法律もなければ権力もない有様では、まさにやりたい放題でした。このようなモラルハザードが意外なところに影響を及ぼしているんですよね。10日以降には紹介できると思います。
> 今も昔も、政治は難しいですねぇ。
> しかし、なにより、人間の欲というのは、深いものです。
本当にそうですね。摂関家なんて、我が国の富をこれだけ自分に集中させておきながら、これ以上何を望んだというのでしょうか…。
ayumi おおお、分かりやすいです。
いかんぞ、摂関家。
藤原氏のその後
オバrev 日本の政治って、この頃から変わってないんですね。もしかして、日本人のDNAかなと思ってしまいます(^_^;)
藤原氏について言えば、やがて勢力は衰えていくんでしょう。鎌倉~室町と名前が歴史の表舞台から消えたように(あてにならない)記憶してます。
でも、これだけの権力者が本当に没落してしまったのか、はたまた密かに陰で権力持ち続けていたのか、鎌倉以降の藤原氏については・・・先の話ですか?
ayumiさんへ
黒田裕樹 > おおお、分かりやすいです。
有難うございます。私にとっては最も嬉しい一言です!(・∀・)
> いかんぞ、摂関家。
実際そのとおりですね。摂関家ばかりに富が集中した弊害については、数日後に改めて紹介する予定です。その際に再び「分かりやすい」と仰っていただけますように…。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 日本の政治って、この頃から変わってないんですね。もしかして、日本人のDNAかなと思ってしまいます(^_^;)
全く変わっていませんね。脱税行為が公認(?)されているこの時代の方がよりひどいのかもしれませんが…。
> 藤原氏について言えば、やがて勢力は衰えていくんでしょう。鎌倉~室町と名前が歴史の表舞台から消えたように(あてにならない)記憶してます。
> でも、これだけの権力者が本当に没落してしまったのか、はたまた密かに陰で権力持ち続けていたのか、鎌倉以降の藤原氏については・・・先の話ですか?
ヒントを申し上げれば、オバrevさんの前半の記憶は当たっていますね。後半については…為政者が武家に移った段階でどうなるか、ということになると思います。ただ、平安後期には劇的な(?)政権交代もありますよ。
う~む
h.hamauzu こんばんは!
う~む!いまと何もかわってないじゃないか!
いや今は合法的に、ズルをしとるヤツが多いから、
もっとタチがわるいか?
黒田先生が国政に打って出る日を楽しみにしております!?
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > う~む!いまと何もかわってないじゃないか!
> いや今は合法的に、ズルをしとるヤツが多いから、
> もっとタチがわるいか?
どんなに規制しても、法の網をするりと抜けて…というやつですね。首相の献金問題も注目を集めつつありますし、まさに仰るとおりだと思います。
> 黒田先生が国政に打って出る日を楽しみにしております!?
わ、私が国政!?(゚Д゚)
それよりも教師としての「先生」に復帰することが第一目標ですので…。
名主は、荘園などの領主に対して年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ふやく)などを納めました。年貢は以前の租(そ)や公出挙(くすいこ)にあたる米などの現物納付であり、公事は以前の庸(よう)・調(ちょう)に相当する各地の特産物や手工業品の物納で、夫役は以前の雑徭(ぞうよう)にあたる労役奉仕(ろうえきほうし)でした。
一方、国司も荘園の増加を指をくわえて見ていたわけではありませんでした。国の支配下においていた公領(こうりょう)である国衙領(こくがりょう)を郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほう)という行政単位に再編成して、開発領主を郡司(ぐんじ)・郷司(ごうし)・保司(ほうじ)に任命して徴税を請け負わせました。
要するに、政府の公領たる国衙領を、国司の私領的な色彩を強めることによって、荘園と同様の構成としたわけです。以前に紹介した、かつての律令制における国(くに)・郡(ぐん)・里(り)という上下の区分で構成されていた一国の編成は、荘(しょう)・郡(ぐん)・郷(ごう)などが並立する荘園と公領とで構成される体制へと変化していきました。こうした変化後の体制のことを荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)といいます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昔は「名主」(みょうしゅ)という音読みで呼ばれていたんですね。「名主」を(なぬし)と呼ばれるようになったのは、ずっと後なんでしょうか?それとも、よく時代劇などで話されている言葉は、現代人でも容易に理解出来るように、その当時に使われていた言葉は極力判り易く、編集されてしまってると聞いた事があるので、そういう習いで行くと、なぬしという読み方は、元々存在しなかったのでしょうか・・。
労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昔は「名主」(みょうしゅ)という音読みで呼ばれていたんですね。「名主」を(なぬし)と呼ばれるようになったのは、ずっと後なんでしょうか?それとも、よく時代劇などで話されている言葉は、現代人でも容易に理解出来るように、その当時に使われていた言葉は極力判り易く、編集されてしまってると聞いた事があるので、そういう習いで行くと、なぬしという読み方は、元々存在しなかったのでしょうか・・。
平安時代に成立した名主(みょうしゅ)は、その後も地位を維持してきましたが、室町時代の守護大名やその後の戦国大名が強い軍事力などで領国を支配するようになると、その力は次第に衰えていきました。
しかし、各地の村落としての自治能力は残っていたので、江戸時代の幕府や各藩は旧名主層を指導者として、ある程度の自治を任せました。指導者は西日本では庄屋と呼ばれましたが、東日本では名主(なぬし)と呼ばれるようになりました。
以上のことから、はっきりとした時期は分かりませんが、遅くとも江戸時代の頃には「みょうしゅ」が「なぬし」と呼ばれるようになったと考えられます。おそらくは昔の名残だったのでしょう。
> 労役奉仕・・簡単に袖の下などに入れるもので無いという事が好感が持てる制度ですね?w
労働の内容にもよると思われます。仮に朝から晩まで休みなくこき使われるとすれば、「袖の下」の方がマシかもしれませんし。物納だろうが肉体労働だろうが、いつの時代も「喜んで負担する」税というのはなかなかないものかなのかもしれません。
このままいくと荘園だらけ?
オバrev この頃の荘園と公領の割合というのはどのくらいだったんでしょうか。
想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の荘園と公領の割合というのはどのくらいだったんでしょうか。
> 想像では、荘園の方が多くなったような気がします。
はっきりとした割合は分かりませんが、明らかに荘園の方が多いですね。それも摂関家の分が圧倒的です。
> そして荘園の増加と伴に、朝廷の実質的な力は衰えていったんでしょうね。
> 金の切れ目が縁の切れ目という諺もありますし・・・
摂関家が平等院鳳凰堂のような豪華な建築物を建てる実力がある一方で、朝廷は門の修理すらできなかったというエピソードが残っていますからね。まさにお言葉どおりです(´・ω・`)
> しかしこのままいくと、荘園だらけですが、実際はどうだったんでしょうか。
確かにこのままでは…ですが、摂関家の天下はいつまでも続くかどうか、ということがカギを握ることになると思います。
う~ん。。。
JJSG こんばんは。
やっぱり難しいかも。。。
教科書読んでるみたいでした!(笑)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > やっぱり難しいかも。。。
> 教科書読んでるみたいでした!(笑)
申し訳ありませんm(_ _)m
出来る限り分かりやすさを心掛けてはいるのですが、高校の日本史レベルを基調としている関係もあって、時々は今回のようにどうしても語句が中心の内容になってしまうんですよ。
次回(10日)からは単元がかわりますので、少しは理解しやすくなるかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
ぴーち 私、ちょっと勘違いをしてしまいました^^;
納税の話だったんですもんね(><)
現物の方が、判り易くて良いという単純な解釈をしてしまいました^^;
失礼しました~。。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、お気になさらずに。
私もぴーちさんをはじめとする他の皆様の記事の中味を勘違いしてコメントすることはよくありますから(笑)。
今後も気楽にコメントしてくださいね(^^♪
経済的な理由や家庭的な理由などで、必ずしも満足できない日常を過ごす人々もおられるでしょうが、それでも毎日を「生命の危険」と隣り合わせで生きている、ということは少ないと思います。一昔前に比べればかなり悪化しているとはいえ、我が国の警察組織はまだまだ信頼できますし、諸外国との平和条約などによる外交努力や我が国の法律の整備、加えて日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)によるアメリカ軍の駐留(ちゅうりゅう)と自衛隊(じえいたい)とによって、我が国自体の防衛力も健在です。
しかし、過去の我が国では少なくとも2回は、国の内外で治安が大いに乱れた時代がありました。一つは言うまでもなく戦国時代(せんごくじだい)です。中央の室町幕府(むろまちばくふ)の弱体化によって、力があれば身分の上下に関わらず出世ができるという下剋上(げこくじょう)の時代を迎えたことで、結果として当時の多くの人々の血が流されました。
また、大航海時代(だいこうかいじだい)を迎えていた西洋では、白色人種(はくしょくじんしゅ)による宗教(=カトリック)を利用しての諸外国への侵略が「正義」として当然のように行われていました。我が国では評価の低い豊臣秀吉(とよとみひでよし)によるいわゆる朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)も、実は欧州(おうしゅう、ヨーロッパのこと)からの侵略を回避(かいひ)するためだったという側面があったのです。尚、この話はいずれ機会を改めて紹介します。
では、もう一つの「治安が大いに乱れた時代」とはいつだったのでしょうか?
それは、今私たちが学習している「平安時代」なのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち 平安時代というと、名前の通り、平安な時代
だと想像してしまいますが、違って居たようですね^^;
そして、仰る通り、日本は一頃に比べると
治安が悪くなったとはいえ、まだまだ犯罪の少ない国ですもんね。先日もアジアに旅行へ行った女性が、惨い事に
殺害された状態で見つかる事件がありましたが、外国は
いつ襲われても不思議じゃないという事をいつも念頭に置いて、旅しなければいけませんものね。。
これからの展開を楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 平安時代というと、名前の通り、平安な時代
> だと想像してしまいますが、違って居たようですね^^;
残念ながらそのとおりです。今回からしばらくはこの話が続きます。
> そして、仰る通り、日本は一頃に比べると
> 治安が悪くなったとはいえ、まだまだ犯罪の少ない国ですもんね。先日もアジアに旅行へ行った女性が、惨い事に
> 殺害された状態で見つかる事件がありましたが、外国は
> いつ襲われても不思議じゃないという事をいつも念頭に置いて、旅しなければいけませんものね。。
かつての我が国では「水と安全はタダ」という皮肉めいた言葉がありました。今はそのメッキがはがれつつあるとはいえ、根底では変わっていませんからね。空気のように当たり前な常識が、実は我が国でしか通用しないという現実を直視する必要もあるのかもしれません。
> これからの展開を楽しみにしています^^
有難うございます。よろしくお付き合いくださいm(_ _)m
mapことクワトロ猫 いつも楽しく読ませていただき、ありがとうございます。
歴史講座、感心しております。
わかりやすいのに奥が深い、と。
秀吉の朝鮮出兵が欧州からの侵略を回避した、という話、面白そう。楽しみにしています。
ブログ「真面目に笑えるリサイクルショップの謎」にリンクさせていただきました。
できましたら、こちらの末席にも相互リンクさせていただけたら嬉しく思います。
今後ともよろしくお願いします。
mapことクワトロ猫さんへ
黒田裕樹 > いつも楽しく読ませていただき、ありがとうございます。
> 歴史講座、感心しております。
> わかりやすいのに奥が深い、と。
お言葉有難うございます!
> 秀吉の朝鮮出兵が欧州からの侵略を回避した、という話、面白そう。楽しみにしています。
光栄です。来年の1月か2月あたりの「本物の歴史講座」で取り上げられれば、と思っております。
> ブログ「真面目に笑えるリサイクルショップの謎」にリンクさせていただきました。
> できましたら、こちらの末席にも相互リンクさせていただけたら嬉しく思います。
> 今後ともよろしくお願いします。
重ね重ね有難うございます。喜んで相互リンクさせていただきましたので、こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。
治安悪化の時代
徳薙零己 前作「北家起つ」では薬子の乱から冬嗣の死までを記し、今は1ヶ月間の中断期間(軽めのフィクションの小説)を挟みながら、11月から公開予定の藤原良房を主人公とする小説「中納言良房」を書いているところです。
書いているときに大きく感じたのは治安の悪化、それも、天災だけではなく人災の側面もある治安の悪化でした。黒田先生のおっしゃった平安時代の治安の悪化、私は今、原稿の上で実感しているところです。
予定では冬嗣の死から承和の変まで、良房が22歳から38歳になるまでの16年間を「中納言良房」では描く予定ですが、現在、原稿用紙500枚を突破、大変な目に遭っています。
ですが、何とか11月からのスタートには間に合わせますので、よろしければお立ち寄りいただければ幸いです。
p.s.勝手ながら、貴ブログを弊ブログ「いささめ」の相互リンクに設定させていただきました。お手数ではございますが、貴ブログにも弊ブログを設定いただけませんでしょうか。
こういうの
JJSG こんばんは。
こういう展開、好きですねぇ。
とっても興味深く読めます♪
続きを楽しみにしてまーす。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 > 前作「北家起つ」では薬子の乱から冬嗣の死までを記し、今は1ヶ月間の中断期間(軽めのフィクションの小説)を挟みながら、11月から公開予定の藤原良房を主人公とする小説「中納言良房」を書いているところです。
大作が続きますね。くれぐれもご自愛下さい。
> 書いているときに大きく感じたのは治安の悪化、それも、天災だけではなく人災の側面もある治安の悪化でした。黒田先生のおっしゃった平安時代の治安の悪化、私は今、原稿の上で実感しているところです。
そうですね。まさに人災といえる一面があると思います。私のブログでも明らかにしていくつもりです。
> 予定では冬嗣の死から承和の変まで、良房が22歳から38歳になるまでの16年間を「中納言良房」では描く予定ですが、現在、原稿用紙500枚を突破、大変な目に遭っています。
> ですが、何とか11月からのスタートには間に合わせますので、よろしければお立ち寄りいただければ幸いです。
膨大な枚数ですね。読み応えがあると思うので、期待しております。
> p.s.勝手ながら、貴ブログを弊ブログ「いささめ」の相互リンクに設定させていただきました。お手数ではございますが、貴ブログにも弊ブログを設定いただけませんでしょうか。
有難うございます。喜んでお受けしますので、今後ともよろしくお願いします。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > こういう展開、好きですねぇ。
> とっても興味深く読めます♪
> 続きを楽しみにしてまーす。
有難うございます。こちらもホッとしました。
この単元はしばらく続きますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
あひるの代理人 楽しく読ませていただいてます。
先の展開がとても楽しみですね。期待しています。
現代も隠然と存在する「差別」の始まりでもある時期なので書きづらい点が出てくるかもしれませんが、いつも通りシャープに切り込んでくださいね。
なぜこのような結果になってしまったのでしょうか?
それは、桓武天皇によって軍隊が廃止され、嵯峨天皇(さがてんのう)によって死刑が廃止されたからです。
桓武天皇が軍隊の廃止に踏み切られたのは以前にも書きましたが、東北地方の蝦夷(えみし)の征討(せいとう)が一段落したことで、国内の争乱がほとんどなくなり、滅多に起こらない戦争に備えて軍隊を常時持つことが不経済と考えられたからでした。
その後、軍隊廃止の替わりに置かれた警察組織に相当する検非違使(けびいし)によって、朝廷周辺では文字どおりに平和が続くうちに、血を流すことが避けられず、また死と常に隣り合わせであった軍事自体が「ケガレ」として嫌われるようになり、嵯峨天皇が死の象徴でもあった死刑の廃止を決断されたのでした。
しかし、検非違使が存在した朝廷周辺では曲がりなりにも治安が保たれたとしても、事実上何の警察力も存在しなかった地方はどうなったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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オバrev 平安時代というより不安時代ですか。
やはり治安維持のための警察なり軍隊は必要ですね。そして死刑も。それは現代も続いていると思います。
しかしそれが行きすぎてもいけないし、まあ、そのバランスなんでしょうね。
今の日本は、海外のスパイから見れば天国らしいです。治安の良さは世界有数なのに、表だった犯罪を犯さなければ、お金さえあればスパイ活動がもうやりたい放題できるという話を聞きました。
今の時代は、世界的なレベルで治安を考えないといけないかも?
管理人のみ閲覧できます
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オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平安時代というより不安時代ですか。
その発想はなかったですが(笑)、まさにそのとおりですね。
> やはり治安維持のための警察なり軍隊は必要ですね。そして死刑も。それは現代も続いていると思います。
> しかしそれが行きすぎてもいけないし、まあ、そのバランスなんでしょうね。
同感ですね。行き過ぎはともかく、全くなしではどうやって国民の生命と財産が守れるのでしょうか。そして、当時の為政者にはまだその発想を持ち得ることが出来なかったのでしょうか。
> 今の日本は、海外のスパイから見れば天国らしいです。治安の良さは世界有数なのに、表だった犯罪を犯さなければ、お金さえあればスパイ活動がもうやりたい放題できるという話を聞きました。
> 今の時代は、世界的なレベルで治安を考えないといけないかも?
これも同感です。ただ、世界レベルで物事を考える前に、まずは自国の足元を見つめないことには始まらないと思います。
ぴーち 激動の時代であった昭和が平成な世の中でありますようにという意味合いで、現代は「平成」という元号が付けられたと言われていますが、何だか似たような話ですね^^;
オバrevさんのコメントを受けてですが、
日本の路上にあるATM機械は、道端にお金が落ちているのと同じだと外国人犯罪グループは、笑って答えたと言いますように、余りに日本は治安の良さ・・という言葉に
妄信過ぎては居ないでしょうか・・。
軍備に関しては、やはり強力な槍は持たずとも、
守れるだけの頑丈な盾は必要ですね。
応援です凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 激動の時代であった昭和が平成な世の中でありますようにという意味合いで、現代は「平成」という元号が付けられたと言われていますが、何だか似たような話ですね^^;
皮肉ですよね。ちなみに、元号で「平」がつく時代もあまりよくない、という話を聞いたことがあります。歴史上の争いごとでも3つありますからね(そのうちの一つはもうすぐ出てきます)。
> オバrevさんのコメントを受けてですが、
> 日本の路上にあるATM機械は、道端にお金が落ちているのと同じだと外国人犯罪グループは、笑って答えたと言いますように、余りに日本は治安の良さ・・という言葉に
> 妄信過ぎては居ないでしょうか・・。
妄信の面は否定できないと思います。やはり「水と安全はタダ」という神話から抜け切れていないんでしょうね。
> 軍備に関しては、やはり強力な槍は持たずとも、
> 守れるだけの頑丈な盾は必要ですね。
軍備は戦うだけのものではありません。むしろ「防衛」のためにこそ必要なんです。この原則も現代の日本人には理解が難しいのでしょうか…。
必要
JJSG 歴史から学ぶ、ですね。
軍隊、死刑というと、平和、平安とは逆のような気がするけど、そういう制度、システムがないと、平安、平和は維持できない。
それが、人間の限界、ということなのでしょうねぇ。
かなしい現実でございますね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、哀しいけれどこれが現実なんですよ。
理想は崇高なものだけれど、それだけで世の中は渡っていけないんですよね。歴史は時として非常に冷酷ですが、そういった側面も学んでいかないと、結局は同じことの繰り返しになってしまいます。
だからこそ、私たちは歴史に学び、歴史を学ばなければならないんです。それは教える立場の人間も同様です。
また、仮に警察組織が存在したとしても、以前に書いたように荘園が劇的に増加して国の収入が著(いちじる)しく減った現状では、組織の維持も不可能といえました。このような状態が長く続けば、地方の治安はどうなってしまうのでしょうか?
警察力や防衛力が存在しない世の中では、結局は力の強い者の天下となりますから、弱者は強者によって常にひどい目にあわされるという地獄の日々を送るしかないのです。加えて「中央権力によって殺されない」という死刑制度の廃止は、治安が乱れた世の中ではかえって犯罪の増加を生み、強盗や殺人事件の多発をもたらしました。
こんな乱れた世の中で、弱者は強者のなすがままにやられっぱなしで良いのでしょうか。誰の助けも期待できないからといって、泣き寝入りで終わって本当に良いのでしょうか?
答えは言うまでもありません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昨日、少年法を題材にした映画を鑑賞して参りましたが、
このところ、少年による犯罪が増加の傾向にあるようですね。しかも、殺人という極刑にも値する程の重罪事件が多く、更に年々その年齢が若年化しているのも、困りものです。
その少年たちは「少年法」により、極刑は免れてしまう為に、
少年たちは、やりたい放題の悪さをする・・・。
この分野の法改正も必須なように感じました。
応援です凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 少年法のそもそもの成立趣旨は、終戦直後の貧しい時代に、主に保護者のいない孤独な少年による食べていくための犯罪が多発したために、彼らを大人と同じ罪に問うには忍びないというものだったと聞いています。
時が流れるにつれて、成立当時のままの運用では現状とのズレが広がっていくばかりなのに少年法は容易に改正されることはありませんでした。そうこうしているうちに少年による犯罪は年々凶悪化し、少年法を悪用した遊び感覚での犯罪も多発しているのが現状です。
その背景には、仰るように極刑が滅多に科されない(18歳未満は死刑には絶対なりません)ことによる「やりたい放題」があると思われます。
「犯罪のない世の中」という理想に近づくためには、少年法の改正を含めた厳罰化が必至というのは矛盾するような話ですが、今回の平安時代の話も考慮すれば、やむを得ないのではないかと思います。
歴史に学ぶ
JJSG こんばんは。
やはり、歴史に学ばねばならない。
歴史は繰り返される。
同じ過ちを繰り返してはならない。
そのために、歴史という学問がある。
ということですね。
難しい問題がたくさんありますが、歴史のなかにヒントがたくさん隠されているんですね。
平和維持のため、戦争をおこさないために、核兵器や銃や武器があると考えるべきか。。。
死刑は大反対ですが、死刑を廃止すると犯罪が増える。。。
人間とはなんと愚かな。。。
なぜ人を殺してはいけないのか。
なぜ犯罪がけないのか。
なぜ人の命は尊いのか。
歴史から学ぶことは大切、重要ですね。
根本的なことを教え、伝えていくことが、もっとも大切だと思います。
それは、宗教の役割ですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 信仰の世界に身を置かれるJJSGさんならではの深いコメント、有難うございます。
仰るとおり、平和を達成するために血を流すか、あるいは抑止力のために手に武器を持つという大きな矛盾を抱えているのが、人間の深い業だと感じております。
ただ、私たちは現状を嘆き、あきらめる前に、先人が残してくれた財産から何がしかのヒントを得て、それを機会により素晴らしい世の中を未来の人のために残す努力を惜しんではいけないでしょう。
その手助けになり得るのが歴史であり、あるいは宗教であるといえるのではないかと思います。
泣き寝入り
オバrev 岡田外相は、日中韓共通の歴史教科書制作を提案したらしいですね。
理想論としては分かりますが、あまりに違いすぎる日中韓の歴史教科書の統一など、日本が妥協しない限り不可能だと思います。
そうなったときに、我々日本人の誇りは何処へ行ってしまうのでしょうか。泣き寝入り?
オバrevさんへ
黒田裕樹 残念ながら、現状では「泣き寝入り」以外は「あり得ない」でしょう。岡田外相の過去の発言などを振り返れば、彼がどんな思想の持ち主であるかがよく分かります。そんな人間が外務大臣であることが、我が国の誇りを守ろうとする人々から見れば「あり得ない」わけですが…。
相手と友好関係をもつことは、決して相手の言いなりになることではありません。過去に卑弥呼が魏に対して朝貢外交を展開した屈辱を忘れずに、様々な困難を乗り越えて、聖徳太子が隋に対して対等外交を達成したという我が国の苦難の歴史を理解していれば、このような発想にはならないと思うのですが…。
21世紀になって、我が国が再び朝貢外交を展開して他国の軍門に下るのであれば、それこそ聖徳太子に対して顔向けができませんね。
なみなみ こんばんは。
お祝いメッセージ、ありがとうございました。
現代にも通じる深い話です!
死刑制度廃止・核の戦争抑止力等の事を
考えてしまいます。
現代にそのまま当てはめるわけにはいきませんが、
考えるヒントやきっかけになります。
歴史を学ぶのはほんとに大事ですね。
今日も勉強になりました。
なみなみさんへ
黒田裕樹 > お祝いメッセージ、ありがとうございました。
いえいえ、どういたしまして。100話の積み重ねは素晴らしいと思いますよ。
> 現代にも通じる深い話です!
> 死刑制度廃止・核の戦争抑止力等の事を
> 考えてしまいます。
> 現代にそのまま当てはめるわけにはいきませんが、
> 考えるヒントやきっかけになります。
同感です。重要なのは、是非をはじめから決め付けるのではなく、我々が自分自身で時間を費やして検討することだと思います。
> 歴史を学ぶのはほんとに大事ですね。
> 今日も勉強になりました。
お言葉有難うございます。今後ともよろしくお願いします。
彼らは、家子(いえのこ)と呼ばれた一族や、郎党(ろうとう、または家人=けにん)と呼ばれた従者(じゅうしゃ)を率いて武装集団を形成するようになり、やがては侵略防止ばかりでなく、所領の秩序も維持するようになりました。これが武士団(ぶしだん)の起こりなのです。
こうして誕生した地方の武士ですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。「おいしい」職務である国司=受領(ずりょう)がその原因です。彼らは任期制ですから、一定の年数が過ぎると都へ戻らなければなりませんが、ここで一つの問題が起きました。何か分かりますか?
受領たちは自己の任期中に土地を開墾できるだけ開墾して巨利を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることは不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪われるのは納得がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着(どちゃく)し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
武士たちは、各地の豪族が次第にまとまって地方武士団を形成していきましたが、やがては受領から土着した貴族の出身者たちがその中心となっていきました。その中でも特に有名だったのが、桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんにちは☆
留守中コメントありがとうございました。
昨晩は帰るのが遅くなったので、お礼に伺うのを遠慮させていただきましたσ(゚ー^*)
毎日の更新ほんとにお疲れさまです。
ポチ
marihimeさんへ
黒田裕樹 お帰りなさいませm(_ _)m
marihimeさんこそ、「今日は何の日」の記事の更新、お疲れ様です。自分の誕生日までまだ先がありますが、楽しみに待っております(笑)。
平氏と源氏の由縁
オバrev 桓武平氏ってのは、桓武天皇の子孫という意味ですか。そうすると平氏ってのはどこからきたんでしょうか。
同じく、清和と源氏もそれぞれちゃんとした意味があるように思いますが、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 桓武平氏ってのは、桓武天皇の子孫という意味ですか。そうすると平氏ってのはどこからきたんでしょうか。
仰るとおり、桓武天皇の子孫です。桓武天皇の孫の中で身分の低い者が「平姓」を与えられて臣籍降下したのがそもそもの始まりです。平氏の血はその後公家と武家に分かれて、武家の方の子孫がやがて歴史に名を残すことになります(まずは次回で紹介することになります)。
> 同じく、清和と源氏もそれぞれちゃんとした意味があるように思いますが、どうでしょうか?
清和源氏は清和天皇の皇子が「源姓」を与えられて臣籍降下したことが始まりです。こちらの系統は、鎌倉幕府を創設したある人物に行き着くことになります。
尚、平氏も源氏もそれぞれの天皇以外の系統から臣籍降下しています。例えば、以前に紹介した源高明は醍醐源氏になります。
たすじゅう こんばんは。この時代は脱税対策のためか名称や実態が把握しにくく、権力階層も次々と変わっていくので学生時代に理解するのに苦労しました。こうやって順番に解説していただくととてもよく分かります。
コメント、ありがとうございました。とても励まされました。次回の講義がよりいっそう楽しみになりました。
面白い
JJSG こんばんは。
面白い展開になってきた!
とってもわかりやすくて、楽しいです。
歴史は好きですが、教科書みたいな歴史は嫌い。。。
よみやすくて、わかりやすい、楽しい歴史が好きでございます。
たすじゅうさんへ
黒田裕樹 > こんばんは。この時代は脱税対策のためか名称や実態が把握しにくく、権力階層も次々と変わっていくので学生時代に理解するのに苦労しました。こうやって順番に解説していただくととてもよく分かります。
そうですね。武士の起こりにせよ、荘園の発展にせよ、それぞれがバラバラで教えられると訳が分からなくなるので、「歴史の流れ」の重要性が一番問われる段階でもありますから特に注意したつもりなんですが、そういったお言葉をいただくと嬉しく思います。
> コメント、ありがとうございました。とても励まされました。次回の講義がよりいっそう楽しみになりました。
いえいえ、そう仰っていただけると恐縮です。今後ともよろしくお願いいたします。
JJSGさんへ
黒田裕樹 武士の起こりは特に重要なので、前振りに多少の時間を費やしましたが、いよいよ武士に関する本格的な話に突入しますので、ご期待いただければと思います。
時には重要語句の説明のためにどうしても教科書的な内容になることもありますが、基本的には「教科書で詳しく取り上げない」内容を重視していく心づもりです。
将門はその後も下野国(しもつけのくに、現在の栃木県など)や上野国(こうずけのくに、現在の群馬県の大部分)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから新皇(しんのう)と自称しました。しかし、翌940年に同じ東国の武士である平貞盛(たいらのさだもり)や藤原秀郷(ふじわらのひでさと)によって将門は滅ぼされました。
同じ頃、西国でも伊予国(いよのくに、現在の愛媛県)の国司であった藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国の国府や大宰府を攻め落としました。こちらの戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれています。こちらは941年に清和源氏の始祖である源経基(みなもとのつねもと)や小野好古(おののよしふる)によって純友が倒されました。ちなみに、小野好古は遣隋使(けんずいし)で有名な小野妹子(おののいもこ)の子孫です。
同時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は何とか制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与えるとともに、地方武士の組織が一層強化されるきっかけになりました。尚、この二つの乱は当時の年号から承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)とも呼ばれています。




いつも有難うございます。
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オバrev 平将門は桓武平氏、小野好古は小野妹子の子孫なんですね。
この頃は姓を持っていること自体が有力な家系ということですかね?
となると、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷や同じく反乱を起こした藤原純友は藤原氏の子孫で、平将門の乱を鎮めた平貞盛は桓武平氏の子孫と考えていいのでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃は姓を持っていること自体が有力な家系ということですかね?
姓は皇室から与えられる由緒あるものですから、当然貴族かその出身ということになりますね。従って(かつては)有力な家系といえると思います。
> となると、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷や同じく反乱を起こした藤原純友は藤原氏の子孫で、平将門の乱を鎮めた平貞盛は桓武平氏の子孫と考えていいのでしょうか?
仰るとおりです。藤原秀郷や藤原純友は藤原北家の出身で、平貞盛は将門の従兄弟に当たります。血縁といえども仲が良い訳ではなく、貞盛の父親は将門に殺されています。将門の討伐は「仇討ち」という側面もあったんですね。
ぴーち こんばんは!
今日は、歯医者に行って遅くなってしまいました^^;
私のブログへいただきましたコメントへのお返事は、また後ほどさせてくださいね^^
所で、平将門は、私の住んでいる県に深い縁がある
人物だったのですね(@@
何も知らないとは、本当におめでたいものです(苦笑)
北部の方に「平家落人村」と呼ばれている所がありますが、
一度「平清盛」の湯という温泉に浸かった事があります^^
こちらの方へお出での際は、是非、お湯に浸かって
いただきたいですね~(u u *)
と・・記事と関係ない方向へまたまた脱線しちゃいました(笑)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「ゆかりの人物」というのは、知ってるようで結構知らないものですね。灯台下暗しの一面もありますし。
将門の場合は、一時は関東全体を支配したわけですが、「開拓者の悲劇」ともいうべきか、あまりにもうまれた時期が早すぎたような気がしますね。
温泉は大好きです(^^♪
清盛のお湯ですか。そのまま高熱を出して倒れそうになったりして…って、この時期は冗談でも言ったらまずかったでしょうか?
久しぶりの脱線(?)ですが、やはりいいものですね(^_^)v
へぇ~
JJSG こんばんは。
今日もお勉強になりました。
へぇ~、そうなんだぁ~、と思うばかりでございます。
JJSGさんへ
黒田裕樹 いつもコメント下さって有難うございます。
これを機会にこの分野にも興味を持っていただければ幸いです。
紗妃ママ ayumiちゃんの義妹のmiyuです。
すごい勉強になるブログですね!!!
歴史好きなのでまた遊びにきます☆
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございますm(_ _)m
歴史好きとは何よりです。今後の参考になれますよう更新を続けますので、どうぞよろしくお願いいたします。
平将門の真意
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
この平将門の乱ですが、
これは、考えようによっては、朝廷から
独立して、武士による独立した政権を関東に創ろうと考えのではないかと思いました。
しかし、小さな軍事力だけで、それを実現することが出来ず、結局、単なる反乱になった気がします。
ただ、この時代から、地方の武士には、中央とは
独立したいというニーズがあったということは
地方の武士にとって、土地問題は、昔から、願っていた悲願だったんですね。
やはり、源頼朝のように優れた政治力・リーダーシップ力がないと中央から、全く、独立した
武家政権を創るのは、出来ないですね。
それにしても、源頼朝は、恐ろしいくらいの優れた政治家ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、将門は関東における独立政権の樹立を考えていたのだと思います。
だからこそ「新皇」を名乗ったのでしょうし、その背景に土地制度があったのも間違いありません。
しかし、彼はあまりにも早すぎましたし、清盛も土地制度の矛盾が理解できず、自らが搾取する側に回ってしまったのですから話になりませんでした。
頼朝が凄いのは、将門や清盛の失敗を肌で感じていたからでしょう。
源氏の御曹司が約20年という途方もない「実地訓練」によって、凄味のある政治家となったいったんですね。
また、地方の国司も盗賊などを追捕(ついぶ、追いかけて捕まえること)する追捕使(ついぶし)や、内乱が起きた際に兵士を統率する押領使(おうりょうし)として武士を使用するようになりました。尚、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は押領使として、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古は追捕使としてそれぞれ任命されたうえで戦っています。
このようにして、軍隊を持たなかった朝廷や国司は治安の維持のためにやがて武士を積極的に利用するようになりました。当時の武士は政府の求めに応じて各地で起きた反乱を鎮圧するのが主な役目であり、朝廷を脅(おびや)かすまでの実力には至っていませんでした。承平・天慶の乱から約100年後に藤原道長(ふじわらのみちなが)や藤原頼通(ふじわらのよりみち)らが栄華の頂点を極めたのが何よりの証拠です。武士団の更なる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくるのでした。
余談ですが、今回紹介した「滝口の武士」と非常に紛らわしい言葉がこの後2つ出てきます。11世紀の北面の武士(ほくめんのぶし)と13世紀の西面の武士(さいめんのぶし)ですが、それぞれの時代で改めて紹介します。また、これは意外な事実ですが、平将門は若い頃に以前に紹介した藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えたことがあり、その縁で滝口の武士として雇われているのです。朝廷に仕える武士であった将門が、やがては朝廷に対して反乱を起こしたわけですから、何とも皮肉な話ではありますね。




いつも有難うございます。
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h.hamauzu こんばんは!
・・・用心棒に雇ってたんですね~
官の世界では、なんかこのシステムはほんとに現代と変わってないですね。
下克上すら現代はない分、もっとひどいか・・・?
権力のイヌ、では終わりたくない、どころか、
終生安定にどっぷりつかってしまうのでしょうか・・・
・・・すみません、なんかワケが分からぬことを言ってしまいました。ではまたです
武士
JJSG 日本の歴史は、武士の歴史なんでしょうかね。
今の時代、武士はどこにいるのか???
サラリーマン?
警察?
自衛隊?
それとも・・・。
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 この頃の武士は、将門のように反乱は起こしても、朝廷の命令で動く武士によってつぶされるという繰り返しでした。
まだ朝廷や貴族の権威が高かったのと、武士自体が未成熟だったことが考えられますが、「武士のためのの政権」がまだできていなかったことも大きな理由です。そのカギを握るのは、土地…おっと、これはまた後日に紹介しましょう(笑)。
犬で終わって安定を望むか、滅亡覚悟で逆らうか…。曲がりなりにも「食える」世の中である限りは反乱は起こりにくいかもしれませんね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 今の世の中に必要なのは、武士というよりも「志士」でしょうね。
それは、我が国の将来を考えたときに「何かをしなければ」と思える人々すべての中に芽生えていると思います。
その中から本当の「武士」が生まれてくることでしょう。
下級武士は
オバrev この頃の武士は、上級武士は貴族ですが、下級武士は農民と考えていいんでしょうかね。
何か、山賊や倭寇と大差ないような気もしますが・・・
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の武士は、上級武士は貴族ですが、下級武士は農民と考えていいんでしょうかね。
上級武士は、貴族というよりは「貴族出身の武士」または「貴族が先祖の武士」と言えるでしょう。下級武士に関しては仰るとおりの傾向があると思います。
> 何か、山賊や倭寇と大差ないような気もしますが・・・
微妙な表現ですね(笑)。ちなみに、倭寇はもっと後の時代(室町以降)ですが、倭寇の後期は外国人が中心となっています。
藤原氏
kazu 武士の力も藤原氏にはかなわなかったようですね。
絶大な権力だったようですが、おかげで源氏物語や枕草子などの文学も栄えたのでよかったのかもしれませんね。
そういえば西行も北面の武士だったという話をなにかで読んだ記憶があります。
kazuさんへ
黒田裕樹 > 武士の力も藤原氏にはかなわなかったようですね。
> 絶大な権力だったようですが、おかげで源氏物語や枕草子などの文学も栄えたのでよかったのかもしれませんね。
武士が登場したばかりの頃は、まだまだ貴族の「権威」が幅を利かせている時代でしたので、将門や純友があれだけの反乱を起こしてもびくともしなかったのです。文化の発展は経済的や精神的な余裕があればこそですから、藤原氏の栄華とともに文学の隆盛もあったといえるでしょう。
> そういえば西行も北面の武士だったという話をなにかで読んだ記憶があります。
西行法師は俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といって、仰るように出家前は北面の武士として活躍していますね。いずれ平安末期の文化で取り上げることになると思います。
その背景には、いつまでも中国大陸からの文明に頼らなくても、独立国として自力の文化を発展させることができるという強い自負もありました。そして、894年に菅原道真が遣唐使の大使に任命された際に派遣の中止を建議して認められた直後の907年、唐はついに滅亡しました。
唐の滅亡後は五代十国(ごだいじっこく)による諸王朝の興亡が続いた後に、960年に宋(そう)が建国されました。既に独自の文化が発展しつつあり、大陸からの積極的な文化の交流の必要性がなかった我が国は、臣下(しんか)の礼をとらなければならない朝貢外交(ちょうこうがいこう)を嫌って、宋とは正式な国交を結びませんでした。
我が国では商船が宋へ渡航することも禁じましたが、その一方で北九州に来航した宋の商人が私的な貿易を行ったことにより、書籍や陶磁器などの工芸品や薬品などが輸入されました。また、我が国の僧侶(そうりょ)が新たな教えを求めるために朝廷の許可を得て宋に渡ることも珍しくありませんでした。
尚、宋は後の12世紀に一旦滅亡した後に再興されましたので、後代(こうだい)と区別するために、この時代では北宋(ほくそう)とも呼ばれています。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんばんは♪
コメントありがとうございました。
更新を毎日続けるのって大変ですね~。
ほんとに頭が下がります。
でも「継続は力」ということもありますから、頑張ってくださいねσ(゚ー^*)
ポチポチ
marihimeさんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント&応援有難うございます(^o^)丿
> 更新を毎日続けるのって大変ですね~。
> ほんとに頭が下がります。
> でも「継続は力」ということもありますから、頑張ってくださいねσ(゚ー^*)
こんなブログではありますが、毎日のように訪問下さる有難い方々ばかりですので、皆様のご期待に応えるためにも更新を続けようという気概にもなっています。
何事もそうですが、自分ひとりだけでは何もできないんですよね。
そうかぁ
JJSG そう(宋)なんですかぁ。。。(笑)
平安時代、に限らず、歴史は、深い。。。
JJSGさんへ
黒田裕樹 諸外国の歴史も日本史に密接にかかわってきますからね。
宋は北宋と南宋がありますから要注意です。
紗那 なるほど。
道真さんは、僕達受験生の味方と言う認識でしたが、やはり先見の明があったんですねー。
ただ、宋と貿易をしなかったのは、そのだいぶ後の足利義満とは違うスタンスですか。 みんな考えることが似ているようで、違う・・・
ぴーち おはようございます!
昨日はブログがなかなか開示してくれなくて、コメント断念してしまいました(><)
今日は仕事なので、早目にコメントを^^
(昨日は、何とか応援だけは出来ました♪)
といつつ、言い訳のようなコメントで、すみません^^;
また、続きを楽しみにお邪魔しますね^^
応援凸
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日本の外交力
オバrev 宋とは国交を結ばなかったんですね。
中国の歴史には疎いオバですので、菅原道真遣唐使廃止、日宋貿易と言えば平清盛、日明貿易といえば義満という関係から、唐~宋~明と政権が変わったことを理解してます(^^;)
ただ、中国というのは大陸ですから、政権交代も、日本が国内だけで天皇を頂点とした政権交代であるのに対して、外国を含めたダイナミックで激しいものだったんじゃないかと想像します。
この辺の経験の積み重ねが、今の日本の外交力のなさに繋がっているのではないでしょうか。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 道真さんは、僕達受験生の味方と言う認識でしたが、やはり先見の明があったんですねー。
菅原道真の賢明な判断がなければ、政権末期で非常に不安定になっていた唐から脱出できずに、滅亡による大混乱に巻き込まれた可能性が十分に考えられますからね。そうなってしまえば何のための留学なのか。
何かを始める決断も大切ですが、「止める」決断はそれ以上に重要なんですよね。
> ただ、宋と貿易をしなかったのは、そのだいぶ後の足利義満とは違うスタンスですか。 みんな考えることが似ているようで、違う・・・
(我が国からすれば)肩を並べるほどに国力が充実している相手(=宋)に対して、わざわざ頭を下げる必要はないというプライドがあったんですね。ただ、貿易自体は非常にもうかりますから、私的に交流を続けていたわけです。後に紹介する平清盛も日宋貿易を積極的に行っていますし。
仰るように、足利義満の場合はかなりスタンスが違います。義満は「将軍たる自分こそが我が国の代表だ」とする強い自負と、交易のためなら頭を下げることもいとわないという現実路線から、自らを「日本国王」として臣下の礼をとった日明貿易を行っています。義満については(いつできるか分かりませんが)いずれ機会を改めて紹介しますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^o^)丿
昨日はなぜかブログが開きにくかったようで、ぴーちさんの他にも同じようなご連絡がありました。FC2は非常に便利で有難いんですが、たまにこういう事態があるのが玉に瑕ですよね。ご迷惑をおかけしてすみませんでしたm(_ _)m
またお帰りになられた際に時間がございましたら、是非ご覧になって下さいね(^_^)v
また、朝鮮半島では我が国と複雑な外交関係となっていた新羅(しらぎ)が9世紀末に衰えて分裂した後に、10世紀始めに建国された高麗(こうらい)によって滅ぼされました。高麗は後に朝鮮半島を統一しましたが、我が国は高麗とも正式な国交を結ぼうとはしませんでした。
我が国と隣国との正式な外交関係は、こうして10世紀の間にぷっつりと途切れました。その背景には、後に紹介する我が国独自の文化が発展し、諸外国からの文化の交流を必要としなくなるほどに隆盛を極めたという事実が確かにありました。
しかし、いかに我が国が海で囲まれているからとはいえ、諸外国と正式な国交を結ばなかったうえに、軍隊すら持っていなかったという現実は、あまりにも無防備でしかありませんでした。では、後の元寇(げんこう)のように、この時代に我が国が諸外国の軍勢や海賊などに襲われたことはなかったのでしょうか?
実はあったのです。




いつも有難うございます。
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うにた 「・・・なかったのでしょうか? 実はあったのです」
問いかけのテクニックが
超一流ですね。
事務職員にしておくのは
どう考えてももったいない。
続き
JJSG 続きが気になる。。。
さて、どんなことがあったのか?
ひょっとして鎖国してましたか?
オバrev 日本の10世紀って、鎖国だったんですか?
元寇は13世紀ですから、この10世紀頃に攻めてくるとしたら、高麗が対馬あたりを攻める(?_?)
全く見たことも聞いたことも読んだこともないので分かりません
うにたさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
現状に満足せず、常に上昇志向であり続けたいと自分にハッパをかけております(笑)。
今後ともよろしくお願いします。
JJSGさんへ
黒田裕樹 平安時代の対外関係についてはご存じない方が多いですからね。
私個人としては「意識的に忘れられた」点もあると思っております。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 日本の10世紀って、鎖国だったんですか?
当時の朝廷は意識してませんでしたが、実質的には似たような状態になっていましたね。いずれにせよ、鎖国の状態は、江戸時代に始まったことではないのです。
> 元寇は13世紀ですから、この10世紀頃に攻めてくるとしたら、高麗が対馬あたりを攻める(?_?)
> 全く見たことも聞いたことも読んだこともないので分かりません
次回(18日)をご期待下さい。我が国で「忘れ去られた歴史」のひとコマでもあります。
こうした非常事態に当時の大宰権帥(だざいごんのそち)であった藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、各地の地方武士を率いて奮戦し、わずか十数日間で刀伊を撃退しました。記録上、我が国の領土に上陸した敵軍を倒した初めての出来事であったこの戦いは、後に刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼ばれています。
さて、海賊による我が国への侵略を撃退した藤原隆家の勇敢な行為は、現代から見ても表彰ものですが、当時の朝廷は、隆家にどんな褒賞(ほうしょう)を与えたと思いますか?
実は何も与えていないのです。それどころか、隆家の行為を叱責(しっせき)すらしているのです。
その理由としては、刀伊の入寇が起こったことの朝廷への報告が遅れて、朝廷が侵略を知ったときには既に女真族が撃退された後だったから、という「手続上の問題」が挙げられていますが、そんな形式的な理由よりも、当時の朝廷による「鉄則」が背景にあったからでした。
では、その「鉄則」とは何でしょうか。カギを握るのは、我が国固有の文化である「和歌」です。




いつも有難うございます。
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JJSG こんにちは。
海賊を撃退したんだから、よさそうなものなのに。。。
なぜ?
それも、「和歌」が鍵をにぎるとは。
なんだろう。。。
怒った理由
オバrev 刀伊の入寇、うーん、初めて知りました。
朝廷の和歌に関する鉄則?
・・・まず、どんなことがあっても和歌を詠んでから始める。和歌は記録という面を持っていた??
つまり、この海賊退治のことが和歌に詠めなかったと言って怒った(^^;)
JJSGさんへ
黒田裕樹 ヒントを挙げれば、「海賊を撃退したのは誰のお陰か?」ということなんです。
そして、その過程に「和歌」が存在しています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 刀伊の入寇、うーん、初めて知りました。
やはり有名ではないみたいですね。ここにも我が国の問題点が存在しているのですが…。
> 朝廷の和歌に関する鉄則?
> ・・・まず、どんなことがあっても和歌を詠んでから始める。和歌は記録という面を持っていた??
> つまり、この海賊退治のことが和歌に詠めなかったと言って怒った(^^;)
海賊かどうかはともかく、我が国に危害を与えるものは存在しないのが大前提になっているんですよ。
なぜなら…。
なるほど
JJSG ふたたびこんばんは。
ヒントでわかった気がします。
答えは、この先の記事を楽しみにしています♪
JJSGさんへ その2
黒田裕樹 お分かりになられましたか(^^ゞ
明日の記事で是非ご確認下さいm(_ _)m
ぴーち こんばんは!
先程から、私もブログコメンの不具合があって、
コメント欄を承認性にしてみたりと、色々と
試行錯誤を施していたら、こんな時間に^^;
和歌ですか。
しかも、九州と言えば「防人歌」が和歌では有名
かと推測しますが、どうでしょか??
応援です^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先程から、私もブログコメンの不具合があって、
> コメント欄を承認性にしてみたりと、色々と
> 試行錯誤を施していたら、こんな時間に^^;
お互い忙しいですね(´・ω・`)
> 和歌ですか。
> しかも、九州と言えば「防人歌」が和歌では有名
> かと推測しますが、どうでしょか??
さぁ、どうでしょうか?(^^ゞ
次回(19日)の更新をお楽しみに!
「力の一つも入れずに天地の神々を動かし、目に見えないあの世の霊魂(れいこん)を感激させ、男女の仲を良くして、武人の心すら和やかにすることができるのが和歌なのです」。
要するに、和歌さえ詠(よ)んでいれば、それに潜(ひそ)む超自然的な存在によって、自分たちの思いどおりに世の中を動かすことができる、ということなのです。
当時の朝廷では、和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる、と本気で信じていた傾向がありました。その「鉄則」からすれば、藤原隆家が武力で海賊が撃退したことは「余計なこと」であり、だからこそ当時の朝廷は隆家に恩賞を与えなかったばかりか、彼を叱責すらしたのでした。
当時の朝廷の行為には理解しがたいものがありますが、冷静に考えれば、現代の私たちも「悪いことが起きませんように」と日々を過ごすことはあっても、万が一のための備えをついつい忘れがちなことはないでしょうか。あるいは法律の効力を過信して、我が国がいつまでも平和であり続けると思い込んではいないでしょうか。
何事も起きなければ良いに越したことはありません。しかし、危機管理を普段から施(ほどこ)すとともに、私たちも「万が一」のことを常日頃からしっかりと意識しておかなければ、いざというときの災害や侵略を防ぐのが難しくなることは明らかです。
刀伊の入寇は、現代にも通じる我が国にとっての大きな教訓を与えているといえるでしょう。




いつも有難うございます。
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JJSG こんにちは。
神信心かなぁ、と思っていたら、和歌信心でしたか!
予想とちょっとはずれたけど、まあ、似たようなものですね。
時代がかなり昔とはいえ、和歌さえ読んでいれば、なにもかも願いがかない、災いもなくなる、といった迷信が本気で信じられていたとは知りませんでした。
時代が移って、科学が進歩した現代でも、迷信・邪信はあいかわらず根強く横行していますね。
万が一に備える、危機管理。
大切だと、勉強になりました。
もうひとつ突っ込んで言わせていただくと。
万が一に対する備えさえ大切なのですから、全人類の100%確実な未来に対する「死」に対する備えはいかがでしょうか?
いざ、「自分の死」に直面してからでは遅いです。
生きている今、「自分の死」に対して万全に備えるために教えられたのが、真実の仏法です。
友愛
オバrev いったい誰がそんなことを言い始めたんでしょうか。なにかF氏が意図的にそうしたか、たまたま和歌に詠んだようにうまくいくことがあったか?
まあマスコミ報道に流されている現代も大差ありませんが >_<;
危機管理に関しては、今の民主党政権は非常に危ないと思います・・・友愛精神で何とかなるとでも(;^ω^)?
JJSGさんへ
黒田裕樹 和歌の世界で「良いこと」ばかりを詠むことによって、悪いことが起きないようにする…まさに言葉に魂が宿るという「言霊(ことだま)」の世界だと思います。
政治の世界で言霊を盲信することは、今回のように非常に危険なことです。悪いことが起きることを想定することは縁起でもないことですが、危機管理ができないような政治はやはりお断りですね。
もちろん、政治とは関係なく我が国の繁栄を和歌に託して祈る行為は崇高なことだと思っております。
仏法のお話、有難うございました。自分の身のこともきちんと考えなければいけませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > いったい誰がそんなことを言い始めたんでしょうか。なにかF氏が意図的にそうしたか、たまたま和歌に詠んだようにうまくいくことがあったか?
誰が言い出したというよりも、「言葉に魂が宿る」という考えは、我々日本人が古来より意識していることだと思います。雨が降らないように「晴れてほしい」と祈るとか…。
> まあマスコミ報道に流されている現代も大差ありませんが >_<;
> 危機管理に関しては、今の民主党政権は非常に危ないと思います・・・友愛精神で何とかなるとでも(;^ω^)?
仰るとおりだと思います。いい加減な報道に流される姿勢は、「ある出来事」にも共通すると思います。それは何かというと…24日までお待ち下さいm(_ _)m
こんばんは
スカイラインV35 日本は海に囲まれ平和に恵まれていた(過去形)とはいえ、対馬は約4回ほど直に侵攻を受けているんですよね。
それが戦争だとはいえ、蹂躙の歴史は正視に堪えませんね。
現代は安全保障の分野が、エネルギー、食糧、サイバーテロ、生物テロ、自爆テロ、核兵器、歴史問題、その他多岐にわたりますが、危機管理の観点から十分教訓として受け止めたいですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 日本は海に囲まれ平和に恵まれていた(過去形)とはいえ、対馬は約4回ほど直に侵攻を受けているんですよね。
> それが戦争だとはいえ、蹂躙の歴史は正視に堪えませんね。
確かに学ぶに忍びないものがあります。しかし、良いことも悪いことも直視してこその歴史教育ですから、特に教える側が逃げる訳にはいきません。
> 現代は安全保障の分野が、エネルギー、食糧、サイバーテロ、生物テロ、自爆テロ、核兵器、歴史問題、その他多岐にわたりますが、危機管理の観点から十分教訓として受け止めたいですね。
全くもって同感です。今の我が国には仰るような危機管理がなされているのでしょうか…。
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ぴーち >和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる
日本人は、結構そう言う所がありますよね。
無宗教の方が、たった年に一度だけ元旦に神社、仏閣に出向いて、とりあえずはお賽銭を授けて、お願いだけすれば、願いが叶う・という
。。正直、誰もがそれだけで幸せになれるのなら、苦労はいらないと思います。地獄の沙汰も金次第?
お金を積めば、幸せになれる?
人間の業なんて、それだけじゃ経ち切れませんし、
そんなに単純なはずが無いと思えてなりませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > >和歌によって我が国の「平安」を祈っていれば、その力によって我が国が平和になる
> 日本人は、結構そう言う所がありますよね。
他の皆様へのコメントにも少し書きましたし、次回(21日)に詳しく記事にする予定ですが、日本人は古来より「言葉に霊魂が宿る」と真剣に考えているところがありますからね。縁起の良いことばかりを口にして、「あって欲しくないこと」は口にしないどころか、考えもしないのが普通です。それが危機管理の認識不足の原因にもなっているんですよね。
> 無宗教の方が、たった年に一度だけ元旦に神社、仏閣に出向いて、とりあえずはお賽銭を授けて、お願いだけすれば、願いが叶う・という
> 。。正直、誰もがそれだけで幸せになれるのなら、苦労はいらないと思います。地獄の沙汰も金次第?
> お金を積めば、幸せになれる?
> 人間の業なんて、それだけじゃ経ち切れませんし、
> そんなに単純なはずが無いと思えてなりませんね。
私もそう思います。日本人の多数が「宗教」について真剣に考えておらず、信仰心もほとんどない状態になっていますから、逆に「地獄の沙汰も金次第」という発想に行き着いてしまいますよね。
世界には宗教同士で血で血を争う紛争が絶えない地域が今でもありますし、かつての我が国もそうでした(いずれ私の講座でも紹介します)から、そんな状態に比べれば、政教分離がしっかりしている今の状態は歓迎すべきだとは思いますが、それにしても極端ではありますね。
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こうした動きの中で、平安時代の中期から後期には我が国独自の文学や美術などが数多く生まれ、後世の文化にも多大な影響を与えるようになりました。10世紀から11世紀にかけての我が国における新しい文化は、国風文化(こくふうぶんか)と呼ばれています。
国風文化の大きな特徴の一つに、仮名文字(かなもじ)の発達がありました。仮名は、奈良時代の万葉仮名(まんようがな)の草書体(そうしょたい)から変化した平仮名(ひらがな)と、漢字の扁(へん)や旁(つくり)の一部からとられた片仮名(かたかな)とに分かれ、それぞれ10世紀頃にはほぼ形が一定するようになりました。
平仮名と片仮名の使用によって、日本人特有の感情や感覚を生き生きと表現することが可能になり、和歌や物語の隆盛をうながし、結果として文学における飛躍的(ひやくてき)な発展をもたらしました。




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文化、文字
JJSG 文化はとっても大切。
文字は発達、ひらがな、カタカナは、とっても大切。
平安時代の中期~後期にかけて、発達、発展したんですねぇ。
親鸞聖人がお生まれになられた時代が平安末期。
文字、ひらがな、カタカナが発達、発展したなればこそ、親鸞聖人のお言葉が、今の私にも伝わり、今の私にもわかる。
感動です♪
大発見
オバrev 平仮名も片仮名も、もっと簡単にということで、いくつかの変遷を経ながら生まれたんでしょうけれど、これで、漢字だけではできない繊細な表現が多くの人に可能になったし、まさにニュートンが重力を発見したくらいの大発見だと思います。
日本独自の国風文化ですね、枕草子やら源氏物語やら・・・他に何かあったけ(;^_^A アセアセ…
JJSGさんへ
黒田裕樹 本当にそうですね。仮名文字の発達は我々日本人にとって何物にも換えがたい文化だと思います。
仰るとおり、親鸞聖人の有難いお言葉も、仮名文字があればこそ理解できるのですから。
> 感動です♪
私もそう思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平仮名も片仮名も、もっと簡単にということで、いくつかの変遷を経ながら生まれたんでしょうけれど、これで、漢字だけではできない繊細な表現が多くの人に可能になったし、まさにニュートンが重力を発見したくらいの大発見だと思います。
私もそう思います。インド人による「0(ゼロ)」の発見にも負けない大転換ですよね。
> 日本独自の国風文化ですね、枕草子やら源氏物語やら・・・他に何かあったけ(;^_^A アセアセ…
次回(21日)から次々と紹介していきますので、楽しみにお待ち下さい(^_^)v
佐佐木あつし こんにちは。
漢字で思い出したんですが、
司馬遼太郎先生の本の中に
本来「いじめ」という漢字は中国本土にはなく
後の当て字として「苛め」や「虐め」が作られたと
いう話を読んだ記憶ががあります。
平かなと、漢字の間に流れる文化の深みを感じた一文でした。
ほかにもそういった言葉もあるんでしょうか?
もしご存知でしたら教えてください。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 恥ずかしながらお話下さったことは初耳でしたm(_ _)m
漢字の世界にも逆輸入があったんですね。他の漢字といえば…詳しくは存じませんが、「辻」とか「峠」とか「働」などの国字は、ひょっとしたら同じように逆輸入されているものがあるかもしれません。
古今和歌集に見られる歌風は繊細(せんさい)かつ技巧的(ぎこうてき)であり、古今調(こきんちょう)と呼ばれて長く和歌の模範とされました。また、この頃には優(すぐ)れた歌人が次々と登場し、特に在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町(おののこまち)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、大伴(大友)黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)らは後世には六歌仙(ろっかせん)と称(たた)えられました。
平安時代の頃までには、和歌は貴族の教養や社交になくてはならないものとされましたが、和歌そのものに人智(じんち)を超える力があると信じられたことにより、以前に述べたように和歌さえ詠(よ)んでいればこの世で平和が続くという迷信を生む原因となってしまいました。しかし、言葉に霊魂(れいこん)が宿るとされる、いわゆる「言霊」(ことだま)を信じていた古来の日本人からすれば、むしろ自然と抱かれるようになった感情でもありました。
朝廷が政権を奪われた中世以後になると、和歌は貴族たちの数少ない心の支えになったことでさらに発展し、政治の世界から離れたことで和歌の神秘性がむしろ高まったこともあって、現代に至るまで和歌は我が国の伝統文化として広まっています。
尚、古今和歌集から鎌倉時代(かまくらじだい)の初期に完成した新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)まで、合計8回にわたって勅撰和歌集が編集されており、これらを総称して八代集(はちだいしゅう)といいます。




いつも有難うございます。
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えめる お久し振りのコメントニャからっ。
湯治、和歌にそんな力を期待していたとはね~。
ほんと。ビックリの事実でした。
っでも、茶の湯だって、ちょこっと似たようなものでしょ?
文化と政治のふかーい関係。
あ。宗教と政治ってのもあるニャ。
またきまーす。
えめるさんへ
黒田裕樹 和歌も茶の湯も我が国固有の文化ですよね。
歴史の真実はどこに隠れておるか分かりません(笑)。
次回(22日)以降の「物語」でも「え?」と思われるかもしれませんよ(^^♪
政治と宗教についても、いずれご紹介できると思います(^_^)v
イルカ お久しぶりです。
前ブログ「自分らしくあれ」ではお世話になりました。
ご迷惑おかけしてスイマセン汗
とある事情により新たに作り直しましたので…。
コピペ失礼いたしましたm(_ _)m
あーーー!!
万葉集・古今和歌集・新古今和歌集じゃないですかっ。
今国語でやってます。
イルカさんへ
黒田裕樹 お帰りなさいませm(_ _)m
心機一転頑張りましょう!
> あーーー!!
> 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集じゃないですかっ。
> 今国語でやってます。
国語(古典)でも勉強しますよね。いい機会ですからしっかり理解しておきましょう(^_^)v
ぴーち こんばんは!
>和歌さえ詠(よ)んでいればこの世で平和が続くという迷信。。
そうですよね。
とある宗派は、歌って、踊れば、極楽浄土へ行けるという教えがありますが、まさにこのことかもしれません。
それと、言霊を信じていた古来の日本人。。とありますが、確かに「信じるものは救われる」そういう確固たる信心深さがあるのなら、それはそれで、自分への心の支えにもなりうるので、昨日の私のコメントの中の、元旦に一度だけお参りに行く行為云々の様に、それによって自分には、災難が降りかからず、一年中、健康、安全でいられるんだという暗示を掛ける事が出来たのなら、それはそれで、一理ある行為なのかもしれませんよね。
「病は気から」と言うように、絶対大丈夫という暗示も時には必要であるという気もしますね。勿論、過信はいけませんし、それだけで平和や幸せは決して約束されるものではないものだとも思います。
それでは、凸
はじめまして!
nyaaomi 「言霊」いまでもあると思っています。
日本の言葉、漢字にしても使いこなすのほんと難しいですよね。
それを繋いで気持ちを表す=心を表すものだと。
いつでもそういう文章を書ける人でありたいと思います。(まだまだ修行中。)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > とある宗派は、歌って、踊れば、極楽浄土へ行けるという教えがありますが、まさにこのことかもしれません。
鎌倉仏教の一つである、一遍(いっぺん)が広めた時宗(じしゅう)ですね。宗教の究極のかたちの一つだと思います。
> それと、言霊を信じていた古来の日本人。。とありますが、確かに「信じるものは救われる」そういう確固たる信心深さがあるのなら、それはそれで、自分への心の支えにもなりうるので、昨日の私のコメントの中の、元旦に一度だけお参りに行く行為云々の様に、それによって自分には、災難が降りかからず、一年中、健康、安全でいられるんだという暗示を掛ける事が出来たのなら、それはそれで、一理ある行為なのかもしれませんよね。
何事にもウラとオモテがあるように、言霊にもオモテの素晴らしい部分があるということですね。
暗示をかけることで心の支えになるのであれば、それはそれで良いと私も思います。やはり私も日本人ですね(^^ゞ
> 「病は気から」と言うように、絶対大丈夫という暗示も時には必要であるという気もしますね。勿論、過信はいけませんし、それだけで平和や幸せは決して約束されるものではないものだとも思います。
自信と過信は紙一重ですし、平和に限らず何かをなそうと思えば、まず自分から行動を起こすべきでしょうね。
nyaaomiさんへ
黒田裕樹 > 「言霊」いまでもあると思っています。
私も思います。何かを実現したいときに、自分の努力以外に求めるものがどうしてもあるんですよね。
> 日本の言葉、漢字にしても使いこなすのほんと難しいですよね。
> それを繋いで気持ちを表す=心を表すものだと。
> いつでもそういう文章を書ける人でありたいと思います。(まだまだ修行中。)
良いお言葉を有難うございます。
仰るような日本の言葉を見事に使いこなせるような本当の日本人に、私もなりたいものです。
ケンシロウ こんにちは。
ご無沙汰しちゃって申し訳ないです。
ちとバタバタしているのが現実ですが・・・。
朝晩冷えるようになりました。
良からぬ病気も流行の直前でしょうか?
お体には十分お気をつけ下され。
ブログに関係ないコメントで申し訳ないです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > ご無沙汰しちゃって申し訳ないです。
こちらこそ、いつも読み逃げばかりで申し訳ないですm(_ _)m
> ちとバタバタしているのが現実ですが・・・。
> 朝晩冷えるようになりました。
> 良からぬ病気も流行の直前でしょうか?
> お体には十分お気をつけ下され。
> ブログに関係ないコメントで申し訳ないです。
いえいえ、お言葉有難うございます。ケンシロウさんもご自愛くださいね。