しかし、我が国の侵略をあきらめなかったスペインは、我が国以外にアジアで広大な領土を持つ中国の明(みん)に注目しました。現代でもそうですが、人口が多く、資源も豊富にある明は、スペインにとっては魅力的な領地の候補でもありました。
ただ、明を攻めようにも、多数のスペインの軍隊を遠い明まで運ぶことは物理的には不可能な話ですが、彼らには我が国での布教に成功したキリシタン大名による兵力がありました。彼らを使って明を征服し、そこを拠点(きょてん)にして我が国を攻めることができれば、困難な征服も可能になると考えたのです。
こうしたスペインの動きをつかんでいた秀吉には、危機感(ききかん)と焦燥感(しょうそうかん、イライラしてあせる気持ち)がありました。もし明がスペインに征服されてしまえば、次は我が国が狙われるのは明らかだったからです。その構図は、まさに鎌倉時代に起きた元寇(げんこう)そのものでもありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
鎌倉時代の元寇と類似しているとしたら、ここでも自然現象の奇跡が
起こってくれるのかしら(苦笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鎌倉時代の元寇と類似しているとしたら、ここでも自然現象の奇跡が
> 起こってくれるのかしら(苦笑)
なるほど、起こってくれれば随分と流れが変わったかもしれませんね(^^ゞ
現実はいつも厳しいものです(´・ω・`)
今晩は
りら 当時の日本が類のない
多数の鉄砲を備えて
いたとは以外でした
ヨーロッパと比べたら
微々たるものだと思っていました
私の拙いブログに補強説明いつも
感謝しています
これからもご指導下されば
幸いです お願い致します
今ブログアップする気力が出ません
.現代に例えれば
オバrev なるほど、10万挺の鉄砲は今で例えれば核の抑止力ですかね。
しかし、さすが秀吉。戦国時代を勝ち抜いた武将のカンでしょうか。
しかし、毎月1500万円の小遣い貰ってた今のトップよりとほど世界や時代が見えていたような気がします。
.
スカイラインV35 ヨーロッパの歴史も、黄禍論における、ヨーロッパは「古来からモンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた」や、オスマン・トルコ帝国の成立で(軍事的に劣勢で)地中海が完全に通行出来なくなった。さらにアジア、その他と交易したくとも、交易のための物品が、その当時のヨーロッパにはなかった(でしたっけ?)。
などなど、総合的に見なければいけないとは思いますが、それにしてもねぇ~、という思いがしてきました。この後、500年に及ぶ彼らの悪事の数々・・・、現実は直視しないと、と思ってきています。
りらさんへ
黒田裕樹 ポルトガル人からしてみれば「売りつける」ために伝えた鉄砲が、まさか日本人が短期間でここまでつくり上げるとは夢にも思わなかったことでしょう。
日本人の優秀さがうかがえるエピソードです。
りらさんもご無理なさらずに、ご自身のペースで更新を続けて下さいね(^o^)丿
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、10万挺の鉄砲は今で例えれば核の抑止力ですかね。
> しかし、さすが秀吉。戦国時代を勝ち抜いた武将のカンでしょうか。
この時期の覇者は、数々の死線をくぐり抜けた傑物ですからね。侵略の野望に気づいた以上、対策を練るのは当然の行為だったことでしょう。
> しかし、毎月1500万円の小遣い貰ってた今のトップよりよほど世界や時代が見えていたような気がします。
まさしく仰るとおり。為政者としての覚悟が違いすぎますね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > ヨーロッパの歴史も、黄禍論における、ヨーロッパは「古来からモンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた」や、オスマン・トルコ帝国の成立で(軍事的に劣勢で)地中海が完全に通行出来なくなった。さらにアジア、その他と交易したくとも、交易のための物品が、その当時のヨーロッパにはなかった(でしたっけ?)。
そのとおりです。交易の目玉がなかったからこそ、奴隷という名のとんでもないものを「現地調達」しようとしたのがそもそものきっかけだったんですよね…。
> などなど、総合的に見なければいけないとは思いますが、それにしてもねぇ~、という思いがしてきました。この後、500年に及ぶ彼らの悪事の数々・・・、現実は直視しないと、と思ってきています。
善悪のバランスは確かに重要ですが、まさに「それにしても…」という感じですよね。
500年はあまりにも長すぎます。
.
明天会更美好 これは1580年にスペイン王がポルトガル王を兼ねるようになったことも大きいですね。
これによって、スペインは、当時ポルトガル領だったマカオやインド、ティモールなどアジアの拠点を一気に得ることになり、アジア進出がやりやすくなりました。
このあと秀吉がどのような行動にでたのか非常に興味があります。楽しみにしています。
梅棹氏。
晴雨堂ミカエル 梅棹氏が数十年前に書いた著作では、信長政権が続いていればベンガル湾が激突点になると推論していました。
仮に南へ進出しても、海軍力と補給路に難があり、困難でしょうね。
後に明を征服した満州族の兵力は秀吉の軍隊より少なかった事を考えると、やはり南より明がとりやすいと感じたかもしれません。
オスマン・トルコがウィーンやドイツを陥落させたり、モンゴルがロシアからドイツやフランスをとったり、秀吉の世界征服が成功とまでいかなくても世界を席巻したら、西洋と東洋は対等になり、キリスト教の世界支配を阻止できたのに、残念です。
これらの点に目をつけた秀吉は、まずはスペインとの外交による妥協(だきょう)を目指しました。つまり、スペインと我が国とが同盟を結ぶことによって、両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、スペイン所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示したのです。
しかし、秀吉の提案はスペインによって拒否されました。スペインは武力による我が国の征服を断念していなかったからです。
スペインとの同盟に失敗した秀吉は、明がスペインに征服されるのを黙(だま)って見ているよりも、機先(きせん)を制して自分が明を征服してしまう以外に、我が国をスペインによる侵略から救う道はないと覚悟を決めました。全国を統一した彼の兵力は、全体で数十万人にまで膨(ふく)れ上がっており、これらの精鋭(せいえい)を投入すれば、我が国単独での中国大陸の征服も不可能ではないと考えたからです。
そして、こうした秀吉の決断は、天下が統一されたことで力を持て余(あま)していた兵士たちにとっても、新たな領土を手に入れる可能性が出てきたことで好意的に迎えられました。秀吉の決断は、古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンと同様に、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征(えんせい)でもあったのです。




いつも有難うございます。
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りら 秀吉の明 出兵は自分の子供が死ん
で生きがいを失っての愚弄と
どのドラマでも
伝えています
今回は特に興味深かったです
映画お好きですか?
今日は太宰治の人間失格アップです
宜しければ御出で下さい
.
ぴーち こんばんは!
秀吉の朝鮮出兵劇の裏には
スペインの一件が絡んでいたなんて
初めて知りました!
やはりそれなりの理由・原因があって、結果があるものなんですね。
続きを楽しみにしています。
応援凸
りらさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵の真の理由が分からないからこそ、秀吉の個人的なことを挙げて「これが理由に違いない」と邪推する。邪推だからこそ愚弄する。そしていつの間にか「史実」となる。
歴史の真実や事実を探ることは、時として困難なこともありますね。
映画ですね。またブログを拝見させていただきます(^^♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはりそれなりの理由・原因があって、結果があるものなんですね。
仰るとおりです。理由や原因のない結果はあり得ませんから、いくら知られていないからといって、適当な理由を考えることは許されません。
> 続きを楽しみにしています。
有難うございます。明日はいよいよ本番です!
.
miwa すごくすごーく面白いです(=゚ω゚)=3
国民が奴隷として売られるのを防ぐためにキリスト教を禁じた事は知っていましたが、朝鮮出兵とも関係があったのですね。
miwaさんへ
黒田裕樹 > すごくすごーく面白いです(=゚ω゚)=3
有難うございます。そう仰っていただけると光栄ですm(_ _)m
> 国民が奴隷として売られるのを防ぐためにキリスト教を禁じた事は知っていましたが、朝鮮出兵とも関係があったのですね。
結果としてカトリックの信仰が世界侵略と結びついていましたからね。秀吉もある意味では苦渋の決断だったと考えられます。
半信半疑
スカイラインV35 こんばんは。不可解なSubjectですみません。
当時の中国大陸の国家、明にしても、その後の清にしても、欧州で産業革命が起こるまでは、GDP的なものがあるとすれば世界一だといった記憶があります。そんな大国に戦いを挑むのが、ちょっと半信半疑の部分があるのですが。
但し、その後の清にしても、(少数の)満州民族が(多数の)漢民族を従えてしまったと考えれば、合点がいくのでしょうか?
チンギス=ハーンも最初は一部族程度だったんですよね?
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 スカイラインV35さんのご意見も一理あると思います。
ただ、ヌルハチにせよ、チンギス=ハーンにせよ、相手が大国であっても征服に成功しているという事実や、時代が違うとはいえ日清戦争における明暗を鑑みれば、スペインや我が国にも十分に勝機はあったと私は考えております。
逆に言えば、滅びない国はどこの世界にも存在しないわけであり、我が国にも重要な教訓になっているといえるでしょう。
.
HANA子 後の日清戦争前後の状況で考えれば、遥かに広大な国土と国民を有する清の方がアジア随一の大国であり、国土も人口も少ない日本が勝つわけがないというのが道理でしたが、フタを開けてみれば日本のほぼ圧勝だったわけで
考えてみるに「勝因のある勝利」とは国の“大きさ”ではなく“強さ”の結果だってことですよね
国が“大きい”からといって、その国が“強い”こととはならない
それを考えれば秀吉の「大陸侵攻」は決して勝算のない計画ではなかったとも思えてきます
次回もまた楽しみに待ってますネ!
HANA子さんへ
黒田裕樹 そうですね。仰るとおり、国の大きさで勝負が決まるわけではありませんから、秀吉の決断も決して無謀ではなく、それなりの勝算があったと思います。
ただ結果的に失敗に終わったことが、後々までに影響を与えているのだと考えられます。
そのあたりの流れはもうしばらくしたら登場しますので、よろしくお願いしますね(^^♪
秀吉は当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国(そうしゅこく)と仰(あお)いでいた李氏朝鮮には出来ない相談でした。
進退きわまった秀吉は、明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役の本当の理由でした。
当初は我が国が圧倒した戦いでしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢(う)えや寒さに苦しんだりするなど、戦いは膠着(こうちゃく、ほとんど動きがなくなること)した状態になり、やがて休戦となりました。
その後、我が国と李氏朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、失敗に終わったことで、1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これが慶長の役です。戦いは一進一退を繰り返しましたが、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退(てったい)しました。
こうした二度にわたる朝鮮出兵は、秀吉の悲願であった当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしただけでなく、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまいました。さらに、この「失敗」が戦後の人々の間に「ある空気」をもたらすことになったのです。




いつも有難うございます。
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クメゼミ塾長 「唐入(からい)り」の真相ですか…びっくりしました
秀吉は九州佐賀(私の故郷)の名護屋城を拠点にしましたね
そういえば、今でも佐賀では、「さつまいも」のことを「唐(から)いも」といいますよ
また「かささぎ」のことを「かちがらす」と呼んでいます
秀吉が「かささぎ」を朝鮮から持ち帰り「かちがらす」=戦勝、とした
言い伝えがあります
今もロマンは続きますね(^~^)/
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 > 「唐入(からい)り」の真相ですか…びっくりしました
> 秀吉は九州佐賀(私の故郷)の名護屋城を拠点にしましたね
一般にはなぜか知られていない、朝鮮出兵、いや「唐入り」の真実です。
仰るとおり、名護屋城を前線基地にしていましたね。
> そういえば、今でも佐賀では、「さつまいも」のことを「唐(から)いも」といいますよ
> また「かささぎ」のことを「かちがらす」と呼んでいます
> 秀吉が「かささぎ」を朝鮮から持ち帰り「かちがらす」=戦勝、とした
> 言い伝えがあります
> 今もロマンは続きますね(^~^)/
サツマイモは文字どおり薩摩から伝播してきましたが、元はといえば外来種ですからね。同じように外来種といわれているカササギですから、秀吉の伝説もあながち眉唾物とはいえませんよね。
確かにロマンを感じます(^^♪
.
ぴーち こんばんは!
なるほど、明を征服する為の
足がかりに使われてしまった朝鮮半島に住む人々にとっては、迷惑千万だった事でしょうね。
このお話を伺っただけでしたら、
朝鮮の人々の恨みは、致し方ないようで気の毒に思います。
その後は、どうなるのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、明を征服する為の
> 足がかりに使われてしまった朝鮮半島に住む人々にとっては、迷惑千万だった事でしょうね。
> このお話を伺っただけでしたら、
> 朝鮮の人々の恨みは、致し方ないようで気の毒に思います。
この点では私も同感です。我が国を取り巻く歴史的経緯を知ることは重要であり、外国から我が国がどう思われているかを正確に知らなければ、我が国の本当の針路は見えてこないでしょう。
> その後は、どうなるのでしょうか。
秀吉の朝鮮出兵が起きてしまったことは現実として受け止めるとして、その後はどうなったのかを知ることも重要ですからね。
今晩は
りら いつも楽しくお話し
聞かせて頂いています
私へのコメントも素晴らしく
有り難く思っています
りらさんへ
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます。
りらさんのブログも画像をふんだんに用いた素敵なブログで、コメントするのが楽しみです(^^♪
結果だけを見れば
オバrev なるほど、その志は高かったけど、焦りすぎたんでしょうか。
結果だけを見れば、日本が朝鮮に侵略してきたとしか残りませんね。
しかし、当時の日本の兵力のレベルが高かったとは意外でした。
ある空気とは、豊臣離れ?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、その志は高かったけど、焦りすぎたんでしょうか。
> 結果だけを見れば、日本が朝鮮に侵略してきたとしか残りませんね。
秀吉にとって最大の誤算は朝鮮半島の攻略から開始しなければならなかったことですが、それならそれでもう少し準備を整えてからの方が良かったのではとも思えます。
また、確かに「結果だけを見れば」朝鮮侵略の一面もありますが…この件については後日に再び取り上げます。
> しかし、当時の日本の兵力のレベルが高かったとは意外でした。
> ある空気とは、豊臣離れ?
100年以上続いた戦国時代を乗り越えた精鋭中の精鋭でしたからね。
空気については…まずは次回(17日)の内容をご覧下さい。