信玄と謙信は川中島で5度戦っていますが、彼らは何と11年間(1553年~1564年)も戦いに費やしているのです。そもそも川中島の戦いは、信玄が信濃国(しなののくに、現在の長野県)の北部を征服した際に、前の領主であった村上義清(むらかみよしきよ)が領地回復を謙信に訴え、謙信がこれに応(こた)えたことで信玄の宿敵となったことから始まりました。
多くの血を流すなど、様々な苦労を重ねてせっかく手に入れた新たな領土ですから、信玄の必死の思いも分からないことはないですが、それでも10年以上も戦い続けるというのは、余(あま)りにも時間を浪費し過ぎてはいないでしょうか。
もし信玄が上洛の意思を早くから持っているのであれば、目先の利益である北信濃よりも、上洛のための通り道(例えば美濃)を早めに抑えることのほうが遥(はる)かに重要でした。極論すれば、北信濃は村上氏に返して恩を売り、また謙信とも同盟して後顧(こうこ)の憂(うれ)いを断てばよかったのです。
戦国時代きっての名勝負とうたわれた川中島の戦いも、天下統一のための重要な第一歩である上洛を目標と定めるのであれば、実は必ずしもやらねばならないものではなかったのでした。




いつも有難うございます。
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【クメゼミ[i:63716]】塾長 武田信玄が亡くなった後、仮に埋葬された時の石棺(モガリ?)が発見されています
場所は甲府の躑躅ケ崎館(現武田神社)から数百米の距離です
碑文の戒名で明らかになりました
躑躅ケ崎館の風林火山の旗
御旗楯無の鎧…
史跡を訪れると悠久の時間と歴史のロマンを感じますね
コメントありがとうございました
いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
以上、携帯からでした
こんばんは
スカイラインV35 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
.
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座の日でしたね。
相変わらず盛況だったことだと思います。
武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 信玄は、自身の死を隠すために仮埋葬させたという伝説がありましたからね。その史実を裏付ける資料が事後に発見される…まさしくロマンですよね。
> コメントありがとうございました
> いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
こちらこそお言葉有難うございます。
私も塾長さんのご講演をいつかは拝聴したいと思っております。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
> 史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
桶狭間の際には絶体絶命でしたから、乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負をかけたといわれていますが、確かにそれ以外は無難な戦をしているという印象がありますね。仰るとおり、それだけ合理的だったということでしょうか。
> 現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
戦国時代という枠に縛られない、自由な発想は確かに参考になりそうです。これもまた新たな発見ですね。有難うございます。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は講座の日でしたね。
> 相変わらず盛況だったことだと思います。
有難うございます。今回も盛況のうちに終えることができました。
> 武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
> 病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
おそらく上洛自体は成功したでしょう。
ただ、その後が続いたのかどうかが疑問に感じるところなんですね。
そのあたりについて詳しく紹介できればと思っております。
信長は、1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を滅ぼしましたが、通常の戦国大名なら真っ先に考えるのが、当主亡き後の今川氏の領土を奪い取ることでした。
今川氏の領土は三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)から遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)、駿河国と広がっており、これらの国は気候が温暖で収穫も多く、海の幸(さち)にも恵まれ、さらには金山もあるという経済力豊かな地域でした。
しかし、現実の世界においては、信長は今川氏の領土には目もくれず、徳川家康と同盟を結んで、家康に今川氏の攻略を任せたうえで、自らは美濃の征服を目指しています。なぜ信長はこういった手段を選んだのでしょうか?
実は、この選択こそが、信長による「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
とりあえず、半径1mのものにしか
目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
応援凸
.
まり姫 黒田さんこんばんは☆
先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
ぽち
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、
> とりあえず、半径1mのものにしか
> 目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
> その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
なかなか絶妙な例え方ですね(^^ゞ
仰るとおり、視野の広さが二人の明暗を分けたのだと思います。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
> 黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
> 連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
有難うございます。
あと一ヶ月ですから、まずは近い目標に向かって頑張っていきますね(^_^)v
.
紗那 なるほど!
上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
答え合わせしなければ……
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
そういうことです。
上洛を目指すのであれば、わざわざ反対方向へ行くこともないですよね。
> 答え合わせしなければ……
いかがでしたでしょうか?(^^♪
この講座はまだまだ続きますよ(笑)。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦国時代は、今よりも、今日、生き延びるのに
精一杯な武将が当たり前だと思います。
ということは、武田信玄、上杉謙信が普通で
信長が天才のような気がします。
これと似たような事例として、源義経は戦上手でも
ビジョンがなかった。
源頼朝は、ビジョンがあり、最後に鎌倉幕府を開きました。
最近、テレビ番組などで、『政治家には、ビジョンがないとか、経営者には、ビジョンがない。』とか、話題になりますが、
最近の政治家は、目の前の対処療法ばかりで、
ビジョンがないように思います。
やはり
政治家というリーダーには
絶対に必要ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明確なビジョンがあってこその政治家と言えるでしょう。
今の政府の信用が低くて、橋下氏の維新の会が人気があるのも、氏の言葉に明確なビジョンが見られるからだと思います(実現性は未知数ですが、民主党のマニフェストのようなことにはならないでしょうし)。
ということは、信長は自己の領地を守るために、信玄や北条氏への抑えとして常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになります。そんな「防衛するのが精一杯」の情勢において、天下取りの第一歩として上洛を目指すようなことが可能でしょうか?
そこで、信長は奪えるかもしれない今川氏の領土をあっさりと捨てて、家康に三河の攻略を勧めることで、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧の憂いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保したのです。
これらの事実から、信長には早くから上洛を目指すという、明確で先見性のあるビジョンがあったといえるでしょう。一方、信玄は上洛を決意してからわずか半年後に、病に倒れて亡くなってしまいます。北信濃という「目先の利益」にこだわり、天下取りへのビジョンを持たなかったがゆえの、信玄の「余りにも遅すぎる」上洛への決断でした。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 私は光栄の歴史シミュレーションウォーゲームのファンで、「信長の野望」は新作が出るたびにやっています。
よくできたゲームで、信長が三河をとらなかった理由が具体的に解りますよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 私は光栄の歴史シミュレーションウォーゲームのファンで、「信長の野望」は新作が出るたびにやっています。
> よくできたゲームで、信長が三河をとらなかった理由が具体的に解りますよ。
信長の野望は私も昔はよくプレイしました。
確かに、戦国時代の流れが良く分かるゲームですよね。
.
HANA子 あまり同意してくれる人がいなくて寂しいんですけど、
信長とビスマルクってけっこう共通点のある人じゃないかなーとか思ってます
必要であれば大いに戦争もやり、そうでなければ戦争に拠らない方法で解決をはかり、
その時々で最も合理的で現実的な手法でぶれずに目的を達成していく
戦国時代の武将で最も「勝ちやすきに勝つ」を実践している人じゃないかなと
あらためて感心しました
ゲームといえば、ボードゲームですけど「ディプロマシー」をよく遊びました
第一次大戦の欧州を舞台にした国獲りゲームですけど、これって国によっては歴史授業の教材にもなってるんだそうです
「信長の野望」もですけど、ゲームと歴史って相性がいいのかもしれませんね~
.今晩は
りら やっと訪問出来ました
信長は女性にはかなり人気です
私のブログを持っていない
友達も楽しみにしています
これからも勉強させて下さいね
また明日お逢いしましょう
HANA子さんへ
黒田裕樹 なるほど、ビスマルクですか。「鉄血宰相」の合理性は確かに信長に通じるところがありますね。
余談ですが、私はビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言がお気に入りです(笑)。
> ゲームといえば、ボードゲームですけど「ディプロマシー」をよく遊びました
> 第一次大戦の欧州を舞台にした国獲りゲームですけど、これって国によっては歴史授業の教材にもなってるんだそうです
> 「信長の野望」もですけど、ゲームと歴史って相性がいいのかもしれませんね~
戦いのボードゲームを授業にするとは、柔軟な発想ですね。歴史をゲームで学べれば楽しいと私も思います。ただ、それとなく歪んだ知識をもたらす恐れもありますので、注意が必要ですね。
りらさんへ
黒田裕樹 確かに、信長は女性に持てる要素を持っていそうですね。秀吉の妻のおねに書いた手紙の繊細さなどは素晴らしいですし。
貴重なお知らせを有難うございます。より多くの方に私のブログをご覧いただけて、本当に嬉しいです。
.
桃源児 よく短気で、何ごとも急いで進めそうなイメージを持たれている信長ですが。実際はものすごく気長というか、長期的なビジョンを確かに持っていましたね。
姉川の後も、浅井、朝倉を一気に攻めず、長篠の後も武田家が自壊するのを待って、軍を進めた。
鳴くまで待とうホトトギスという言葉は、家康よりも信長にこそ相応しいですね。
使用されている信長と信玄の肖像、一般に知られている物ではなく、より実物に近いと言われている物を使われているんですね。
リンクの件、OKです。
桃源児さんへ
黒田裕樹 > よく短気で、何ごとも急いで進めそうなイメージを持たれている信長ですが。実際はものすごく気長というか、長期的なビジョンを確かに持っていましたね。
> 姉川の後も、浅井、朝倉を一気に攻めず、長篠の後も武田家が自壊するのを待って、軍を進めた。
> 鳴くまで待とうホトトギスという言葉は、家康よりも信長にこそ相応しいですね。
仰るとおりですね。見た目はせかせかして短気であっても、天下統一という長いスパンで物事を見ることのできる稀有(けう)な政治家だったと思います。
> 使用されている信長と信玄の肖像、一般に知られている物ではなく、より実物に近いと言われている物を使われているんですね。
そのとおりです。
せっかく東京で講座を行う機会を得ましたので、同じ開くのであればいつもとは違った肖像を使おうと思って採用しました。皆様の評判も良かったので嬉しかったです。
> リンクの件、OKです。
有難うございます。今後ともよろしくお願いいたします。
ということは、もし信玄の軍勢が兵農分離を可能として傭兵を雇うことで一年中戦うことができるようになり、また信玄が早くから天下取りへの明確なビジョンを持ち、寿命のあるうちに上洛を果たすことができれば、信玄による天下統一は可能だったのでしょうか?
答えは残念ながら「No」です。実は、信玄は信長との決定的な違いの1つめや2つめを克服できたとしても、それらよりももっと重要で、かつ致命的(ちめいてき)ともいえる「3つめの違い」があったのです。そして、この3つめが存在する以上は、仮に信玄が天下を統一できたとしても、その政権は決して長続きできないと断言できる事情もありました。
では、その「3つめの違い」とはいったい何でしょうか?
カギを握るのは「信玄」という彼の名前です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
何でしょう??
全く想像が付きません(苦笑)
名前がヒントなんですか・・。
明日に期待したいと思います(^0^
それでは、応援凸
.
桃源児 武田信玄は中世の枠を抜け切ることが出来なかったという点があるでしょうね。
結構な年齢になったら出家というのも、中世の武士のやること。
後の天下人、信長、秀吉、家康などは誰も出家していない。
つまり、信玄は宗教に囚われ、それを従えることは難しい。それどころか、彼自身が宗教に従えられていることにもなりかねない。
そんな所でしょうか?
甲斐源氏の血を引いているので、征夷大将軍になる資格はあったのですが、仮に武田幕府が出来ても、宗教勢力に協力はさせられても、従えることは出来ず、破綻したかもしれない?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんです、名前がヒントです(笑)。
信玄は、なぜ信玄なのか?
改名したからですよね。
では、なぜ改名したのか…ということです(^^♪
桃源児さんへ
黒田裕樹 さすがに着眼点が鋭いですね。
詳しくは明日以降の更新にご期待ください。
今晩は
りら カギを握るのは「信玄」という彼の名前
明日を期待しています
いつも楽しみにしています
私の知的好奇心を刺激してくださいます
りらさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつも有難うございます。
一から全部説明するよりも、多少のヒントを残した方が皆様にお楽しみいただけるかなと考えております。たまにひねり過ぎのときもありますが(笑)。
明日も是非お越しください。
.
- しばらくバタバタしていて訪問もできませんでしたが、なるほど、信長の経営能力の高さに感心しました。
明確な戦略がないといかに無駄が多く、結果がでないかですね。
でも、3つ目の違いはヽ(。_゚)ノヘッ!サッパリ???
名無し?さんへ
黒田裕樹 (※ホストからしておそらくリンク先のいつもの方と思われますが、念のために名無し扱いとさせていただきます)
> しばらくバタバタしていて訪問もできませんでしたが、なるほど、信長の経営能力の高さに感心しました。
> 明確な戦略がないといかに無駄が多く、結果がでないかですね。
そうですね。人生には無駄がつきものとはいえ、多過ぎれば時間がかかるだけ不利ですね。
> でも、3つ目の違いはヽ(。_゚)ノヘッ!サッパリ???
明日(3日)以降の更新ではっきりしますよ(^o^)丿
.
紗那 名前?
そういえば、武田信玄って改名してたっけ……?
あぁ、まったく分からない。次回に期待します!
でも、当時は名前って、現代以上に重要だったんでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 名前?
> そういえば、武田信玄って改名してたっけ……?
はい、してますよ(^^♪
正しくは「信玄に改名した」です。
> あぁ、まったく分からない。次回に期待します!
今日(3日)から順に更新していきますので、是非ご覧下さいね(^o^)丿
> でも、当時は名前って、現代以上に重要だったんでしょうね。
名前に魂が存在すると考えられていたこともあって、江戸時代の頃までは本名というものは滅多に名乗らないものでした。その一方で、出世魚のようによく改名していったものです。