源義経(みなもとのよしつね)という名前を聞いて、「知らない」という人はまずいないでしょう。平氏(へいし)を滅ぼした実力者でありながら、悲劇的な最期を迎えた英雄として、今までに数え切れないほど小説や映画、TVドラマなどで紹介されており、我が国で五本の指に入るほど有名な歴史上の人物です。
しかし、義経の実像については案外ご存じない人が多いのではないでしょうか。実際、義経という人物の生き様ほど「ドラマチック」と呼ぶにふさわしいものはないのです。
義経は1159年に源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれました。彼が後に「九郎(くろう)義経」と呼ばれたのはこのためです。ところで、彼が生まれた1159年は、時代の節目ともなった非常に重要な年でした。
この年には、天皇を退位した後に上皇(じょうこう)として政治の実権を握るという院政(いんせい)を始めた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の近臣内の勢力争いから「平治の乱」(へいじのらん)が起きました。




いつも有難うございます。
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えめる 歴史講座、お疲れ様でした。義経の人物像がゆがめられて伝わったのはなぜなのかなという疑問。
今後の記事を読んでいけばわかるかニャ。楽しみにしています。
有名な5人???だれがいたかにゃ……。
義経。聖徳太子。信長。利休。あ、卑弥呼。
偏った知識でごめんなさーいっ(笑)
えめるさんへ
黒田裕樹 > 歴史講座、お疲れ様でした。義経の人物像がゆがめられて伝わったのはなぜなのかなという疑問。
> 今後の記事を読んでいけばわかるかニャ。楽しみにしています。
有難うございます(^^♪
今週土曜日まで続けますので、宜しくお願いしますm(_ _)m
> 有名な5人???だれがいたかにゃ……。
> 義経。聖徳太子。信長。利休。あ、卑弥呼。
> 偏った知識でごめんなさーいっ(笑)
いえいえ、人によって様々だと思いますから。
私の場合、5人というより3人ならすぐに挙げることができますよ。
そのうちの二人はえめるさんがお書きになっております(^_^)v
平治の乱の勝者となった平清盛(たいらのきよもり)は、政治上での発言力をますます高め、やがては平氏で朝廷内の要職を独占するという形で政治の実権を握りました。いわゆる「平氏政権」(へいしせいけん)の誕生です。
一方、義経の父である義朝は戦いに敗れ、逃げる途中に家臣の裏切りにあって無念の最期を遂げました。当時赤ん坊であった義経も母とともに捕らえられ、清盛の前に引き出されました。
ここで殺されてもおかしくはなかったのですが、絶世の美女であった義経の母が、清盛の愛人となることで義経は助命されたと伝えられています。このとき、清盛の継母(ままはは)の「死んだ息子に似ているから」との嘆願(たんがん)で、同じく殺されずに済んだ若者がいました。
助命された若者こそが、義経の兄である源頼朝(みなもとのよりとも)でした。頼朝・義経兄弟を結果的に生かしてしまった清盛の判断が、その後の平氏の運命を大きく狂わせていくのです。




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さすらい こんばんは。
五本の指に入るほど有名な歴史上の人物ですか。
義経の他に
黒田さんでしょ、私でしょ、あとは。。。(笑)
この辺の歴史ミステリーもたくさんあるんでしょうね。
楽しみにしてます!
応援♪
智里 ここから平家の運命が変わっていくんですね。
義経だけだったら、きっと歴史はそんなに変わってなかったんじゃないかな?
頼朝が北条政子と結婚して、北条に動かされてただけなんだろうね。
もし、頼朝が北条じゃなく静御前と一緒になってたら、歴史はもっと面白くなってたかも!
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 五本の指に入るほど有名な歴史上の人物ですか。
> 義経の他に
> 黒田さんでしょ、私でしょ、あとは。。。(笑)
その発想はありませんでした(^^ゞ
あとは…42年組と43年組から選びましょうか(笑)。
> この辺の歴史ミステリーもたくさんあるんでしょうね。
> 楽しみにしてます!
> 応援♪
明日から本格的なストーリーに入りますのでご期待下さい。
応援有難うございます!
智里さんへ
黒田裕樹 > ここから平家の運命が変わっていくんですね。
> 義経だけだったら、きっと歴史はそんなに変わってなかったんじゃないかな?
仰るとおりだと思います。頼朝・義経兄弟がそろったからこそ、平家の滅亡が早まったといえるからです。その理由は…これから分かりますよ(^_^)v
> 頼朝が北条政子と結婚して、北条に動かされてただけなんだろうね。
鋭いですねぇ。いずれ「頼朝伝」も紹介できればと思います。
> もし、頼朝が北条じゃなく静御前と一緒になってたら、歴史はもっと面白くなってたかも!
その発想はなかったです(^^ゞ
ただ、静御前では頼朝の「大出世」はありえなかったと思いますよ。その理由は…。
ぴーち こんばんは!
義経の母親はそんなに美しい方だったんですか!
しかも頼朝は死んだ息子さんに似ているから・・といういづれも、外見だけで判断されたというのも、かなり安易な印象を受けました。
それゆえに、自らの首を絞めることとなろうとは。。
物事を表面で判断した結果から出た、つまり「身から出た錆」だったということでしょうかね・・?
応援凸
来年の話をすると鬼が笑うというけれど、
笑うどころか、もしかしたら、また侍に斬られちゃいますわよw(もちろん、冗談ですw)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 義経の母親はそんなに美しい方だったんですか!
> しかも頼朝は死んだ息子さんに似ているから・・といういづれも、外見だけで判断されたというのも、かなり安易な印象を受けました。
> それゆえに、自らの首を絞めることとなろうとは。。
> 物事を表面で判断した結果から出た、つまり「身から出た錆」だったということでしょうかね・・?
義経の場合は自分の欲望からですから、まさに「身から出た錆」ですね。頼朝の場合は継母のわがままから出たものですが、例えば追放する途中で殺害することもできたわけですから、いずれにせよ清盛の油断が生んだ結果でしょう。
応援有難うございます。命が惜しいので(笑)、今年は大人しくします(!?)
えめる やはり世の中を動かしているのは、大もとを正せば女性だニャね。
しかも、美しくないといけない。
……あーあ。世の中って言うか、権力を持った男ってみんなそんなもの(苦笑)
現代にも通ずるのよね。権力者。エリートサラリーマン。
あれ、偏見が過ぎました。失言でした。でも送信。
えめるさんへ
黒田裕樹 えめるさんの仰るとおり、いつの時代も結果として世の中を動かしているのは女性なのかもしれませんね。
権力を持った男ですか。私には縁のない話ですが(笑)、一度権力の虜(とりこ)になると、自分の力でどうにでもなるとでも思っているんですかねぇ。あれ? 私も偏見かも(笑)。
およよのよ こんばんは。
信長や秀吉、家康が敵方の息子を赦さなかったのは(浅井万福丸だとか豊臣国松だとか)
このあまりにも有名な前例があったからなんですよね。
頼朝も義経も恩を仇で返すようなこともしなくていいのにな、と思うこともありますが当時の平氏に対する不満は凄かったから仕方の無い事でしょう。
でももしも頼朝、義経は仏門に入り、他の人物が平氏を倒していたら、後の戦国乱世も厳しさが少しゆるくなっていたのだろうか…と思うこともあります。
でも古代中国から裏切り等は一族皆殺しですし変わらなかったかもしれませんね。
コメント遅くてごめんなさい、でも返信してくれると嬉しいです。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 信長や秀吉、家康が敵方の息子を赦さなかったのは(浅井万福丸だとか豊臣国松だとか)
> このあまりにも有名な前例があったからなんですよね。
そのとおりです。これぞまさに「歴史に学ぶ」。残酷ではあっても、「殺るか、殺られるか」の世の中では致し方がないですね。
> 頼朝も義経も恩を仇で返すようなこともしなくていいのにな、と思うこともありますが当時の平氏に対する不満は凄かったから仕方の無い事でしょう。
彼らにとっては、生命を助けてくれた恩よりも、一族に対する恨みの方が深かったのでしょう。仰るとおり、仕方のないことです。
> でももしも頼朝、義経は仏門に入り、他の人物が平氏を倒していたら、後の戦国乱世も厳しさが少しゆるくなっていたのだろうか…と思うこともあります。
> でも古代中国から裏切り等は一族皆殺しですし変わらなかったかもしれませんね。
いずれ後の講座で書きますが、義経でなければあそこまであっけなく平氏が滅びたとは考えにくいんです。だとすれば、その後の世の中も相当変化したと思われます。
武士の世の中は厳しいですから、「一族皆殺し」も致し方ないかもしれませんね。
> コメント遅くてごめんなさい、でも返信してくれると嬉しいです。
いえいえ、受験生という厳しい環境にありながらのコメント、有難く思ってますよ(^_^)v
さて、義経は母の元で数年過ごした後に、僧になるため京都の鞍馬寺(くらまでら)に入れられましたが、やがて父の復讐のために山を脱出し、諸国を転々とした後に、奥州(おうしゅう、現在の東北地方)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼りました。
秀衡は、平泉(ひらいずみ、現在の岩手県)を中心として平安末期に栄華を誇った奥州藤原氏の三代目でした。義経が22歳のとき、兄の頼朝が挙兵したと聞くと、義経は家臣を引き連れて頼朝に面会し、以後は頼朝の指揮下に入りました。
ところで、義経の家臣のなかで一番名前が知られているのは、何といっても武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)でしょう。弁慶は実在の人物ですが、義経が牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた少年の頃に、京都の五条大橋で弁慶と対決した物語はあまりにも有名ですね。
しかし、この話はあくまで伝説であり、鞍馬寺を抜け出してから秀衡の保護を受けるまでの数年間の義経の行動は、未だに謎に包まれたままになっているのです。ただ、間違いなくいえることは、義経が頼朝に会うまでの間に類(たぐい)まれな「戦術」を身に付けていた、ということです。
なぜそんなことがいえるかというと、時間をかけて培(つちか)われた彼の才能は、この後の平氏との戦いの中で遺憾(いかん)なく発揮(はっき)されていくからなのです。




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MAHHYA 義経、平泉に行くまでどこで何をしていたのでしょうね・・・。それらしき史料もないのですか? もともと、義経に関しては、活躍した期間が短いせいか、史料そのものが少ないとは聞きますが・・・そのあたりも、人々の興味を駆り立てるところなのかもしれませんね。
藤原氏が気になるオバです
オバrev やはり五条大橋の話は伝説上の話なんですね。でも弁慶は実在したんだ。弁慶も伝説上の人物かと思ってました。
しかし義経に謎が多いのは、確かに話としては面白いけど、鎌倉幕府設立から見ればさほど重要な人物でもなかったのかなという気もします。
気になったのは奥州藤原氏。あの鎌足からの流れの藤原氏なのでしょうか?
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 牛若丸時代の伝説などは、室町時代に書かれた「義経記」が元になっているんですよね。従って史実とはかけ離れていると考えるべきかと思われます。
悲劇的な生涯、謎に満ちた前半生…。確かに興味を駆り立てますね(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やはり五条大橋の話は伝説上の話なんですね。でも弁慶は実在したんだ。弁慶も伝説上の人物かと思ってました。
弁慶の名前は信頼できる歴史書に書かれていますので、実在は間違いないかと思われます。でも名前しか載っていないんですよね。
> しかし義経に謎が多いのは、確かに話としては面白いけど、鎌倉幕府設立から見ればさほど重要な人物でもなかったのかなという気もします。
いえいえ、幕府設立にしっかりと関わっていますよ。ただ、建物の新築に例えれば、基礎工事をしっかりと成しとげたようなものでしょうか。義経がいなければ、幕府そのものの土台がグラグラと揺れ続けた可能性があります。なぜなら、平氏を倒すことは、義経でなければ到底できなかったでしょうから…。
> 気になったのは奥州藤原氏。あの鎌足からの流れの藤原氏なのでしょうか?
鎌足の血統かどうかははっきりしませんが、後の摂関家の一族に数えられるだけの実力はあったと思われます。
平清盛の時代に摂関家と同じ手法によって全盛期を迎えた平氏政権は、貴族ばかりでなく同じ武士の反感も買い、1170年代の後半に入ると衰えを見せ始めました。
やがて平氏は源氏との戦いに敗れ、幼君であった安徳天皇(あんとくてんのう)を引き連れて都落ちをしましたが、本拠地である西国ではまだまだ力を持っており、東国を抑えた源氏との勢力争いは当分の間続くと思われていました。
ところが、その予想は大きく外れ、都落ちからわずか2年足らずで平氏はあっけなく滅亡してしまうのです。その原因をつくった男こそが義経その人であり、天才ともいえる彼の戦術がそうさせたのでした。
平氏は都落ちした後に勢力を回復すべく、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣をかまえていました。平氏は伝統的に水軍が強く、逆に山育ちの源氏は水軍を苦手としていました。平氏は山を背後に軍勢を巧(たく)みに配置し、万全の体制で源氏を迎え撃とうとしていました。
一ノ谷の背後の山は急坂になっており、通常なら馬が駆け下りるなど不可能と思われていました。しかし、地元の猟師から「鹿なら通る」との話を聞いた義経は、「鹿に通れて馬が通れないはずがない」とばかりに山の頂上から騎馬隊全軍を率いて坂を一気に下り、平氏の背後を奇襲しました。
後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と呼ばれたこの作戦は見事に成功し、不意をつかれた平氏は大混乱となり、敗走せざるを得ませんでした。騎馬軍団のスピード能力を最大限に活かした義経による奇跡の大勝利でしたが、奇跡はこれだけではありませんでした。




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ぴーち こんばんは!
義経は奇襲攻撃を主体とした攻撃が得意だったんですね!
所で、もっと先のお話になるかと思いますが、
蝦夷地から、モンゴルに渡って現地でジンギスカンとして活躍した人物こそ
実は義経だったのではないかという説を説いた本が
出版された事があり、ロマンを感じた覚えがありましたが、
実際に科学的観点からは間違いであると後日発表されたようですね。
私としては、そのロマンの説の方を信じていたかったのですけれど^^
黒田さんは、いかがですか?
それでは、応援!
弁慶の泣き所~突き(^m^)ちょん、ちょん ちょん凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「義経=ジンギスカン伝説」については、いずれ今回の講座で紹介しますが、基本的にはジンギスカンの残虐ぶりと義経の名武将ぶりとは似ても似つかないと思われます。ロマンはあるとは思いますが…。
ではなぜそのような伝説ができたのかについては…今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
痛い、痛い~(>_<)
…って、何言わせるんですか(^^ゞ
およよのよ 一の谷での奇襲は有名ですね。
ナポレオンを思い出します。
ナポレオンよりは早いんでしたっけ?
義経=チンギスハン説は…ちょっと夢みすぎな気もしますね。
あそこで清く散ってこそって気がします。私的には。
人の散り際ってのは重要ですよね。
織田信長とか。逆に織田信長を討った光秀の最後は…。
でも真田幸村といい、英雄にはかならずと言って良いほど生存説がありますよね。
皆、心の中では「英雄生存願望」ってのがあるんだと思います。得に当時の人々には。
私もこの武将がここでこうなって生きていれば…などと頭の中でSF妄想することがあります。
でもそういう俗説は信じてません。
そのままの英雄を信じたいですね。
私の学んでる歴史には分からない事や間違っていることも沢山ありますがそれを何年もかけて穴を埋めていくってのが良いとおもいます。
そうそう、珍説、俗説だったら「上杉謙信女性説」を先生にいつか触れて頂きたいです(笑)
ありえないとは思いつつちょっと強引な裏付けが多く、調べていて凄く面白かったですねーあの説は。
まさに珍説。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 一の谷での奇襲は有名ですね。
> ナポレオンを思い出します。
> ナポレオンよりは早いんでしたっけ?
ナポレオンは18世紀末~19世紀当初に活躍しましたから、そのとおりですね。ナポレオンについては、高校の世界史で詳しく学習できますよ。
> 義経=チンギスハン説は…ちょっと夢みすぎな気もしますね。
> あそこで清く散ってこそって気がします。私的には。
> 人の散り際ってのは重要ですよね。
> 織田信長とか。逆に織田信長を討った光秀の最後は…。
およよのよさんのお考えもごもっともです。「潔さ」の考えも我が国らしいですよね。光秀については…来月(8月29日)までお待ち下さいm(_ _)m
> でも真田幸村といい、英雄にはかならずと言って良いほど生存説がありますよね。
> 皆、心の中では「英雄生存願望」ってのがあるんだと思います。特に当時の人々には。
仰るとおりで、我が国の中では「悲劇的な最期を遂げた英雄を死なないことにしたい」という思想があるんですよね。これについては後に書きます。
> 私もこの武将がここでこうなって生きていれば…などと頭の中でSF妄想することがあります。
歴史の「if」の考えは大いに結構ですよ。そこから我々が生きていく知恵を見出すこともありますし。
> でもそういう俗説は信じてません。
> そのままの英雄を信じたいですね。
> 私の学んでる歴史には分からない事や間違っていることも沢山ありますがそれを何年もかけて穴を埋めていくってのが良いとおもいます。
およよのよさんはまだ中学生ですから、いくら歴史好きでも分からないことが多いかもしれませんね。
仰るとおり、「そのままの英雄」の状態から、少しずつ穴埋めして知識を深め、それを自分のものにしていければ、もっと視野が広がりますよ。
> そうそう、珍説、俗説だったら「上杉謙信女性説」を先生にいつか触れて頂きたいです(笑)
> ありえないとは思いつつちょっと強引な裏付けが多く、調べていて凄く面白かったですねーあの説は。
> まさに珍説。
これはまた新たな注文ですね…。「天地人」にもつながりますが、謙信の特集には確かに興味がありますね(^^♪
さすらい こんばんは。
安徳天皇とは
「耳なし芳一」を思い出してしまいますな(笑)
実際の平家の無念と怨念は
凄まじかったのでしょうね。
対して繁栄する源氏
そして義経による奇跡
次回を期待します。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 安徳天皇とは
> 「耳なし芳一」を思い出してしまいますな(笑)
> 実際の平家の無念と怨念は
> 凄まじかったのでしょうね。
怪談話が有名になっているほどですからね。それなのに、平家を滅ぼした張本人のはずの義経が英雄といわれているのも不思議な話です。
> 対して繁栄する源氏
> そして義経による奇跡
> 次回を期待します。
はい、どうぞご期待下さい(^_^)v
応援有難うございます!
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待ってました!
ふとかつ こんばんは。
待ちに待った源義経のお話、とうとう始まりましたね。
朝夕の更新のため、ペースがすごく早くて付いていくのがやっとです。
このままだと、あっという間に義経が去ってしまいますね。
この後も楽しみにしております!
ふとかつさんへ
黒田裕樹 そこまでご期待いただき、本当に有難いです。
ブログ上の歴史講座を優先させる意味で、実際に行った講座については一日2度の更新とさせていただいております。予定では土曜日の朝まで講座が続く予定ですので、今後も是非ご覧下さい!(^o^)丿
う、うまい!
オバ 無謀とも言える義経の「鵯越の逆落とし」は痛快ですね。
しかし、奇跡はこれだけではなかかった(゜ロ゜)エェッ
・・・こ、こりゃぁ、明日も絶対続きを読まなきゃ(*゚▽゚*)
・・・って、う、うまい!黒田先生、益々冴えてきましたね。
ところで広島には、マツダズムスタ以外にも平氏に縁のある厳島神社があります。
是非、3塁外野2階席以外は熱狂的カープファンで埋まるスタジアムとともに、訪れてみられるといいと思います(^^)/
一ノ谷を放棄した平氏は、四国の屋島(やしま、現在の香川県高松市)に本拠をかまえました。屋島の北側には瀬戸内の海が広がっており、平氏は源氏が当然海を渡ってやって来るであろうと待ちかまえていたのです。ところが、ここでも義経が自慢のスピードで奇襲をかけてきました。
義経は嵐の中、少数の騎馬武者とともに荒海を馬ごと船出しました。ある意味自殺行為ともいえた義経の無茶な行動は、嵐だったのが逆に幸いして、極めて短時間で上陸を果たすことができました。そして、海岸伝いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所を急襲したのです。
平氏にとって、安徳天皇と、天皇であることを証明する大事な三種の神器(さんしゅのじんぎ)は、自らの政権の正当性を証する重要な切り札であり、これらを源氏に奪われるのは絶対に許されないことでした。
人間はいきなり急所を狙われれば、誰だって避けようとしますよね。この場合の平氏も同じであり、とりあえず逃げるしか選択肢(せんたくし)が残されていませんでした。こうして平氏はまたしても大混乱となり、屋島も放棄せざるを得なくなったのです。
ちなみに、源氏の武者の那須与一(なすのよいち)が、平氏が所有する一艘(そう)の船に立てられた、日の丸が描かれた扇を見事に射抜いたとされる平家物語での有名なエピソードはこのときのものです。このエピソードこそが、後の平氏の運命を象徴していたように思われてなりません。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。ご無沙汰しております。
この辺りの記憶を辿ることが出来ませんでした。
授業中に遊んでいたのかな?w
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いえいえ、日本史についてすべての記憶をお持ちであるというのはなかなか大変ですし、お気になさることはないと思いますよ。
今回の講座で新たに記憶してくだされば幸いです(^^♪
ぴーち こんばんは!
那須与一にちなんで、私のところでは毎年、
弓道部所属の学生が集まり、与一が放った弓のように、船に向かって、矢を射る行事を行っているようです^^
実際には、見物に出向いた事はないんですけれどね!
平家落人村があり、そちらには何度か出向いた事があります^^
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、那須与一や平家の落人の伝説は、様々なところで色々な施設や行事を残しているんですね。それだけ人々の心に深く印象付けられている、ということでしょうか。
応援有難うございます!
平氏はついに本州と九州とを結ぶ関門海峡(かんもんかいきょう)沿いの壇ノ浦(だんのうら、現在の山口県下関市)に追いつめられました。しかし、ここでの戦いは今までとは違って、完全な海戦となります。平氏は無敵ともいえる海軍を所有しており、一方の源氏は本格的な海戦は未経験でした。
ここまで驚異的なスピードにより、奇跡の連続で勝利を収めてきた義経といえども、さすがに苦戦するかと思われたのですが、何とここでも義経は完勝してしまうのです。いったいどんなマジックを使ったというのでしょうか?
義経は、平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺し、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は非戦闘員であり、殺してはいけない、というより戦いにそもそも参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。かくしてあれほどの栄華を誇った平氏はついに海の藻屑(もくず)と消え、義経は会心の大勝利を収めたのですが、皮肉なことに、このときすでに義経には破滅の兆(きざ)しが見えていたのでした。
義経の活躍により、平氏は確かに滅亡しました。 「戦術」としては申し分のない完全勝利だったのですが、彼の兄である頼朝は、義経の「ある行為」に激怒しました。いったい義経のどんな行動に激怒したというのでしょうか?




いつも有難うございます。
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相模守高時 やはり軍事にいて義経の才能は日本の歴史上でも
特筆すべきものですね。
ただ、自分の立場がわからないというかKYというか。。。。。。
頼朝の登場で彼の人物像の核心に入っていくのでしょうか。
楽しみです。
智里 きたー!!
壇ノ浦の戦い!!
すごいよね~、当時ではおきて破りの戦いだっかたもしれないけど、それが普通と言えば普通なんだろうね。
ちゅーか、熊野水軍は出てこないの?
平家、源氏、両方についていたけど、平家についていた湛増が源氏側について勝利したんですよね。
この頃の歴史って、戦国時代の次に興味のある時代です。
常識を打ち破る!
タイクーン 黒田裕樹さん、こんにちは

もともと、「船の船頭は非戦闘員ゆえ、
射てはならない

という、当時の戦における「暗黙の了解」
を打ち破った、義経の発想は凄いですね~

おそらく当時の人達のなかには、「義経のやり方は卑怯だ

言っていた人もいたのでしょうかね~

さすらい こんばんは。
なるほど
平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺とは
たいへんおもしろい話です。
義経の戦略による話は
さらにこの後波乱に及ぶのですね。
明日を待っています。
応援♪
相模守高時さんへ
黒田裕樹 > やはり軍事にいて義経の才能は日本の歴史上でも
> 特筆すべきものですね。
私もそう思います。講座にも書きましたが、おそらくは幼い頃の数々の経験が、彼に様々な戦術を身につけさせたのでしょう。
> ただ、自分の立場がわからないというかKYというか。。。。。。
> 頼朝の登場で彼の人物像の核心に入っていくのでしょうか。
> 楽しみです。
仰るとおり、次回からはあまり知られていない「義経の最大の欠点」が明かされることになります。
ご期待下さい!
智里さんへ
黒田裕樹 > きたー!!
> 壇ノ浦の戦い!!
> すごいよね~、当時ではおきて破りの戦いだっかたもしれないけど、それが普通と言えば普通なんだろうね。
そのとおりです。戦い方というのは時代によって変わるもの。その変化の扉をこじ開けたのが義経なんですね。
> ちゅーか、熊野水軍は出てこないの?
> 平家、源氏、両方についていたけど、平家についていた湛増が源氏側について勝利したんですよね。
> この頃の歴史って、戦国時代の次に興味のある時代です。
熊野水軍が味方についたことにより、源氏が有利になったのは事実ですが、今回は義経に関する講座ですので割愛させていただきました。お詳しいですね。このあたりの時代は智里さんに代行してもらいましょうか?(^^ゞ
タイクーンさんへ
黒田裕樹 > もともと、「船の船頭は非戦闘員ゆえ、
> 射てはならない

> という、当時の戦における「暗黙の了解」
> を打ち破った、義経の発想は凄いですね~

他人が思いつかないことを思いつき、涼しい顔で実行する能力も併せ持つ。まさに「戦術の天才」の名に相応しい義経の活躍ぶりですね。
> おそらく当時の人達のなかには、「義経のやり方は卑怯だ

> 言っていた人もいたのでしょうかね~

義経の常識破りの戦い方に批判があったのは確かなようですが、義経が没落した真の理由はもっと他にあるんですよね…。明日からの講座で明らかにされますよ!
さすらいさんへ
黒田裕樹 > なるほど
> 平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺とは
> たいへんおもしろい話です。
当時の人々は「そんな手があったのか!」と感嘆したと同時に「卑怯者」と思ったかもしれませんね。
> 義経の戦略による話は
> さらにこの後波乱に及ぶのですね。
> 明日を待っています。
はい、また是非お越し下さい(^^♪
応援有難うございます!
えめる 勝つ為には、大きな事をやるためには、
ルールさえ破る必要がある、ということですね。
厳しい戦いの世界ですニャ。
勝ったのにお怒りを買ってしまったの?なんだろ?
出るくいは打たれるって感じ。中間管理職は辛いニャね(^^;
えめるさんへ
黒田裕樹 > 勝つ為には、大きな事をやるためには、
> ルールさえ破る必要がある、ということですね。
> 厳しい戦いの世界ですニャ。
確かに厳しいですね。でも、その厳しさがなかったら、平氏はこれほどまでにあっけなく滅びることもなく、戦いはもっと長引いていただろうと思われます。
> 勝ったのにお怒りを買ってしまったの?なんだろ?
> 出るくいは打たれるって感じ。中間管理章は辛いニャね(^^;
出る杭の話も当てはまりそうですが、もっと根本的な理由があるんですよ…。
明日をお楽しみに!
頼朝にあって、義経に欠けていたのは「戦略」でした。戦術とは「戦いに勝つための具体的な方法」であり、戦略とは「戦争に勝つための総合的・長期的な計略」のことです。では頼朝の「戦略」とは何であったのでしょうか?
頼朝が目指していたのは「武士の、武士による、武士のための政治」でした。自分たちが汗水たらして開墾した土地を、自らの手で所有するという当たり前のことを実現することを目指していました。
一方、平氏が安徳天皇を引き連れて都落ちした際に、三種の神器も一緒に持ち去られてしまった朝廷側は、後白河法皇(ほうおう、出家した上皇のこと)が自らの権威で後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を神器なしで強引に即位させたものの、やはり神器なしではまずいのでは、という後ろめたさを持っておられました。
そこに目をつけた頼朝は、三種の神器を自らの手で取り返して後白河法皇に引き取らせることによって、武士側の要求を認めさせようと考えていたのでした。
頼朝とて人の子です。父の義朝を死に追い込んだ平氏は憎みても余りある存在ですが、有能な「政治家」でもあった彼は、自己の欲求よりも武士全体の利益を重視していたのでした。それに、神器さえ奪ってしまえば、正当性を失った平氏政権は放っておいても自滅する、と読んでもいました。
だからこそ義経に「どんなことがあっても三種の神器を必ず取り戻してこい」と命令していたはずなのです。




いつも有難うございます。
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オバrev 戦略と戦術、どこかで聞いたことがあると思っていたら思い出しました。
私の尊敬している経営コンサルタントの神田昌典氏が「戦略はキングであり、戦術はクイーンである」と言っていたのです
・・・忘れてるってことは経営に生かされてなかった?(^^;)ヘヘヘ。
つまり、ビジネスが継続的に成功するためには、まず戦略が正しいこと。
そして、次に戦術が正しいことが大事である。
戦略が完璧だったら、戦術は稚拙でもなんとかなる。
しかし戦略が稚拙であれば、戦術が完璧であっても、成功できない。
まさに頼朝と義経にピッタリ当てはまるかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。戦術で局地的に勝利を収めても、長い目で見た戦略が誤っていれば意味がなくなってしまう。
次の記事でも書きましたが、義経の場合は「平氏を倒すこと」こそが戦略と見誤ったことがつまずきの原因ですね。
しかし、もっと深刻な戦略ミスがあって、それこそが義経の命取りになってしまったんですよね…。
ところが、三種の神器の重要性を理解せず、平氏さえ倒してしまえばよいとしか考えていなかった義経には、頼朝の政治的センスがまるで理解できませんでした。壇ノ浦の戦いの後、三種の神器は清盛の未亡人が、安徳天皇とともに抱えて海の中へ飛び込んでしまいました。
神器のうち、勾玉(まがたま)と鏡は取り戻せましたが、剣は海の底に沈んでしまい、ついに取り戻せなかったのです。三種の神器に注意を引いていなかった義経の明らかな油断でした。しかし、義経は平氏を滅亡させたことの方がよほど重要であると信じ込んでおり、頼朝がなぜ自分に激怒するのか分からないままでした。
さらにもう一つ、義経は致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇から検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当)への任官(にんかん)を受けてしまったことです。尚、任官後の義経は「九郎判官」(くろうほうがん)と呼ばれました。これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになります。
それはともかく、義経の行為は頼朝のそれまでの血のにじむような苦労を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか?
頼朝が「武士の、武士による、武士のための政治」を目指していたことは先述しましたが、これは要するに朝廷から独立した軍事政権をつくろうというものです。政権の独立性を維持しようとすれば、当然部下への「人事権」も、頼朝側で独自のものを持たなければなりません。




いつも有難うございます。
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タイクーン 黒田裕樹さん、こんにちは

なるほど

才覚を持っていたけれど、政治的センスに欠けて
いますね

戦争に「勝つ」ことと戦勝に対する「勲章」しか
頭にない

(義経の場合は官位)
これってどことなく、第二次大戦前の軍部の独走
と似ている感がありますよね

ぴーち こんばんは!
義経の「九朗判官」から「判官贔屓」という言葉が生まれたんですか^^また、一つ勉強になりました^^
「武士の、武士による、武士の為の政治」
なぜかリンカーンを思い出してしまうセリフです^^;
もっとも、リンカーンは日本でいえば、江戸時代末期の頃の
話ですものね^^;
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね^^
さすらい こんばんは。
いつの時代も
良きにつれ悪きにつれ
軍事政権樹立とは難しいものですね。
義経と頼朝のそれぞれの葛藤。
それからそれから?(笑)
応援♪
タイクーンさんへ
黒田裕樹 > なるほど

> 才覚を持っていたけれど、政治的センスに欠けて
> いますね

> 戦争に「勝つ」ことと戦勝に対する「勲章」しか
> 頭にない

> (義経の場合は官位)
そうなんですよ。頼朝のためになると思ってやった軽率な行為が、結果として頼朝の足を引っ張っている…。これではどうしようもありません(´・ω・`)
> これってどことなく、第二次大戦前の軍部の独走
> と似ている感がありますよね

私もそう思います。戦争は始めることよりも終わらせることの方が大切ですから。それなのにズルズルと戦争を続けて、結果として何もかも失ってしまった…。我が国に確固とした「戦略」があれば、と悔やまれてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 義経の「九郎判官」から「判官贔屓」という言葉が生まれたんですか^^また、一つ勉強になりました^^
日本語の語源は意外と知られていませんからね。お役に立てて何よりです(^^♪
> 「武士の、武士による、武士の為の政治」
> なぜかリンカーンを思い出してしまうセリフです^^;
> もっとも、リンカーンは日本でいえば、江戸時代末期の頃の
> 話ですものね^^;
そうですね。武士の利益を追い求めた頼朝の思想は、リンカーンにも通じるところがありますね。我が国がそれだけ先を進んでいたというところでしょうか。だとすれば、そんな先人の努力を無にしないように、現代の我々もいろんな意味で祖国をしっかりと護っていきたいものです。
応援有難うございます!
さすらいさんへ
黒田裕樹 > いつの時代も
> 良きにつれ悪きにつれ
> 軍事政権樹立とは難しいものですね。
軍事政権のバックボーンは、武力だけではなく、権威や配慮も必要ですからね。すべてが揃わないと、平氏のように「はかない政権」で終わってしまう訳です。
> 義経と頼朝のそれぞれの葛藤。
> それからそれから?(笑)
明日をお楽しみに(笑)。
応援有難うございます!
頼朝の嫉妬じゃなかった?
オバ 頼朝が義経を討ったのは、義経が自分より優れているという嫉妬からだと思っていましたが、どうも違うようですね。
実際は頼朝の方に大義名分があったんですね。
相模守高時 勝手に官位を得たのは致命的ですね
もっとも義経自身には、それがなぜ問題なのかがわからないわけで。。。
俺は頼朝の弟、源家の血を引く者。
他の御家人とはちがうんだから、官位をもらって何が悪い、てなところだったんでしょうか。
頼朝にしてみれば、他の御家人と一緒なんですけど、そのあたりは義つてにはわからんかったんでしょうね。
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オバさんへ
黒田裕樹 > 頼朝が義経を討ったのは、義経が自分より優れているという嫉妬からだと思っていましたが、どうも違うようですね。
一般的にはそう思われているようですが、実際には違うんですよ。我が国で初めて武家政権をつくり上げた頼朝ほどの人物が、嫉妬ごときで判断を誤るとは思えませんし。
> 実際は頼朝の方に大義名分があったんですね。
仰るとおりです。次回のブログで詳細な理由を書くことになりますよ。
その一方、官位は朝廷から授かるものですから、それを安易に受け取るということは、政権を担当しようとする頼朝の権威をまるつぶれにしてしまう愚かな行為なのです。それなのに、よりによって頼朝の実の弟である義経があっさりと官位を受けてしまったのですから、頼朝にとってはたまったものではありません。
現実問題として、この後多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けてしまいました。これらに対する頼朝の怒りは凄まじいものであったと伝えられています。
しかし義経は、三種の神器と同様に、自分が犯した大きな過ちに全く気がついていなかったのでした。後に頼朝に送った手紙のなかで「私が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいです。
義経は、生け捕りにした平氏の落ち武者を引き連れて、京都に凱旋(がいせん)しました。平氏を憎く思っていた民衆からは「救世主」として歓迎されましたが、激怒した頼朝からは「鎌倉には二度と戻って来るな」と突き放されてしまいました。怒りの収まらない頼朝は、義経の領地をすべて取り上げたのみならず、彼の暗殺まで謀(はか)りました。
これらの仕打ちを受けて、義経はついに頼朝との断交を決意し、朝廷から「頼朝追討」(ついとう)の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)をもらって九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに勇躍(ゆうやく)船出しましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。




いつも有難うございます。
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タイクーン 黒田裕樹さん、こんにちは

武士による一元的な政権を築くという発想は
当時の社会背景からすると凄く奇抜な発想
ですよね

にもかかわらず、義経はこの意図がちっとも
わかってない

頼朝は「オレの弟であろうものが、なぜ分からん


タイクーンさんへ
黒田裕樹 > 武士による一元的な政権を築くという発想は
> 当時の社会背景からすると凄く奇抜な発想
> ですよね

そうですね。でもそれこそが「武士の、武士による、武士のための政治」であって、それまで不安定な地位であった武士たちを満足させるものだったんですよね。
> にもかかわらず、義経はこの意図がちっとも
> わかってない

> 頼朝は「オレの弟であろうものが、なぜ分からん


弟だからこそ期待し、また身を律しなければならないはずが、ことごとく頼朝の考えに逆らうわけですから、どうしようもないですね(´・ω・`)
振り返れば義経の人生は、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させるまでは幸運の連続だったのですが、平氏が滅亡した途端に、まるで手のひらを返したようにツキに見放されてしまいました。
精鋭の大半を失った義経に残された道は、わずかの手勢を率いて奥州の藤原秀衡を頼ることしかありませんでした。尚、この逃亡の際に、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳」(かんじんちょう)の伝説が残されており、現代でも歌舞伎を通じて有名になっています。
義経一行は何とか秀衡のところまでたどり着くことができました。秀衡は義経の戦術の巧みさを、来るべき頼朝との戦いの切り札にしようと考え、義経を手厚く保護しましたが、一年も経たないうちに秀衡は病死してしまいました。これも義経にとっては大きな不運だったのです。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は父ほどの器量を持っておらず、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という甘い誘いに乗ってしまい、1189年に義経の住んでいた館(やかた)を急襲しました。義経主従は奮戦しましたが、多勢に無勢ではどうしようもなく、ついに義経は妻子とともに自害して果てました。わずか31歳の若さでした。
なお、義経の最期の際に弁慶が義経をかばい、屋外で体中に矢を浴びて、立ったまま死んだとされる「立往生」(たちおうじょう)の話が伝説として残されています。また、義経を自ら殺したことによって切り札を失った泰衡は、結局この後に頼朝によって倒され、約100年続いた奥州藤原氏は滅亡してしまいました。




いつも有難うございます。
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海豚 勧進帳、2年の時の音楽でちょっとだけ見ました!!
懐かしいです~~。
何て言ってるのかよく聞き取れなかった記憶がありますが。。。
智里 可哀想な最後です。
この時に藤原家も義経を守っていたら、頼朝は手を出せなかったでしょうね。
この時に義経は逃げのびて、北海道に行った話やモンゴルに行った話が有りますけど、事実はどうなんでしょうね?
ホントの話だったら面白いと思いません?
こんばんは
スカイラインV35 「幸運の連続~ツキに見放され」ですか。天才といえども、人智を超えた何か逆らえない運命みたいなものがあるんですかねぇ~。
何かしんみりしてしまいますね。。。
marihime 黒田さんこんばんは☆
いつも訪問&コメントありがとうございます。
骨肉の争いは、どうも源氏の本質のように思えます。
足利も最後は尊氏、直義兄弟の争いになり、結局弟直義が殺されていますよね。
力量のある方が殺されているのも同じで、ともに側近の告げ口で大事な一族をなくしてしまうことになる。
(頼朝=梶原景時、尊氏=高師直)
歴史には不可思議なことが多いのではと思います。
海豚さんへ
黒田裕樹 勧進帳を見たことがあるんですか!
いかにも日本人が好みそうな「お涙頂戴」のストーリーなんですが、残念ながら史実の裏づけが見られない「伝説」なんですよね…。
歌舞伎ですから、セリフのしゃべり方も独特ですし、聞き取りにくかったのは良く分かります(^^ゞ
智里さんへ
黒田裕樹 > 可哀想な最後です。
> この時に藤原家も義経を守っていたら、頼朝は手を出せなかったでしょうね。
そのとおりです。義経の戦術があれば、頼朝は奥州藤原氏を倒すことはできなかった可能性がありますね。そうなると我が国の歴史も相当変わったかもしれません。
> この時に義経は逃げのびて、北海道に行った話やモンゴルに行った話が有りますけど、事実はどうなんでしょうね?
> ホントの話だったら面白いと思いません?
この件については、明朝の最後の講座で見解を述べたいと思いますので、いましばらくお待ち下さい。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 「幸運の連続~ツキに見放され」ですか。天才といえども、人智を超えた何か逆らえない運命みたいなものがあるんですかねぇ~。
> 何かしんみりしてしまいますね。。。
義経の一生をたどると、まさに仰るとおりかと思います。自業自得の一面があるとはいえ、誰かフォローしてあげられなかったのかと思うと、確かに切なくなります。
marihimeさんへ
黒田裕樹 こちらこそ有難うございます!
権力を握った場合は、仰るとおり「骨肉の争い」がつきませんね。
血統は怪しいですが(笑)、徳川家も同じように家光VS忠長の後継者争いが見られますし。
ぴーち こんばんは!
まさしく事実は小説よりも奇なり。。
義経は、波乱万丈な人生だったんですね~。
しかも、奥州で自害を果たしてしまったというのが
事実なんですね。。
それが事実だとすると、北海道や、モンゴルの話など
まるきりのでっち上げ話ですよね。
例えば、アメリカが初めて月面に着陸した!という
映像の中で、アメリカの旗が無風状態の宇宙で
どうして、はためいていたのか・・とか、事実だと
思っていた事が実はねつ造では無かったのか・・という
噂も出ていますが、
そう思うと、義経も、もしかしたら。。
なんて、またまた、しつこく拘るぴーちでした^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、仰る気持ちは良く分かりますよ(^^♪
日本人としてはむしろ自然な感情だと思いますし。
その辺りも含めて、明日朝の最後の講座で解説したいと思いますので、またご覧になって下さいね。
応援有難うございます!
源義経という存在は、いうならば「歴史の神」が「平氏を倒すため」、ただそれだけのためにこの世に遣(つか)わした「英雄」でした。だからこそ平氏が滅亡した後、役割を終えた彼は、それまでの幸運から一気に奈落の底に突き落とされる不運を味わい、この世から「退場」させられたようにも見えます。
そんな彼のドラマチックな人生は、一般民衆の心にも深く刻まれて、「判官贔屓」(ほうがんびいき、「はんがんびいき」ともいう)という、敗者や弱者をいたわる特別な感情をもたらしました。
また、彼をこのまま死なせるのは余りにもかわいそうだし、この世に恨みを残して死んだら怨霊(おんりょう)としてたたるかもしれない、という思いが、様々な「義経不死伝説」を生み出しました。その中には、義経が海を渡ってジンギスカン(チンギス=ハーン)となり、モンゴルを統一したという想像力豊かな話まであるほどです。
いずれにせよ、名高い歴史作家である司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、義経は「我が国史上初めての人気者」、すなわち「アイドル」となったのです。義経は、これからも「悲劇のアイドル」として、我々日本人の心の中で永遠に生き続けることでしょう。
(これで第3回歴史講座は終了です)




お蔭様でカウンターが6000を突破しました! いつも有難うございます!
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相模守高時 興味深く拝読しました
私の義経観も黒田様と同じです。
ただ義経のために弁解してあげれば、頼朝の弟というのは難しい立場であった、ということでしょうか。
兄の阿野全成はうまくやりましたけど、範頼もまた殺されていますしね。
それに後白河法皇の存在もやっかい。義経はうまく利用されてしまいましたね。
彼に残された手は出家だけだったかも。
鎌倉の名刹でも開いて経を読みながら、鎌倉幕府の行く末を見守る。
いやいや、軍人の義経には無理か。
とすれば、彼にはこの行き方しか選択肢はなかったでしょう。
つくづく悲運です。
相模守高時さんへ
黒田裕樹 確かに義経の立場は微妙ですね。加えて後白河法皇という義経にとって厄介な人物も現れましたし。類まれなる軍事力も、結局は周囲のために利用されてしまっただけなのかもしれません。
軍人が出家は仰るとおり不可能だったでしょう。本当に運命だったとしか言い様がないのでしょうね…。
ケンシロウ こんにちは。
やはりこの辺りの記憶はよみがえりません。
今後の記事の展開に不安を覚えました。
↑ ↑
ちと大げさすぎますね。
ということで話題を変えて梅雨明けは何時なんでしょうね?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > やはりこの辺りの記憶はよみがえりません。
> 今後の記事の展開に不安を覚えました。
> ↑ ↑
> ちと大げさすぎますね。
大丈夫ですよ(^_^)v
忘れたのであれば、覚えなおせばよいのですから。今後の記事の展開次第で、ケンシロウさんの記憶力が高まればBestですね。
> ということで話題を変えて梅雨明けは何時なんでしょうね?
関西は3日くらいですかね?
ひょっとしたら「梅雨明けナシ」なんてことも考えられますが…。
美人薄命。
えめる 31歳の若さでなくなったヒーロー。
容姿も端麗だったのでしょう。
えめるは長生き出来るニャ(笑)
ぴーち 人はこの世に生を受けた時点で、
既にこの世で全うすべき役割が決められているといいますが、
その役目を無事遂行した暁には、その命の灯も
共に消えてしまうのは、なんとも不条理な気がします。
義経も自害した人物なんですね。
私はどんなに生前大活躍したヒーローであったにせよ
自害という道を選ぶものに対して、褒め称える事を嫌う方なのですが、止むに已めなぬ理由で、自害となってしまった義経に憐れみを感じずには居られません。
彼を死んだ後もヒーローに祭り上げるような奇談が
出来あがってしまっても、それはそれで
義経の供養のために、語り継がれて行って欲しいです。それは真実!という見出しではなく、あくまで「美談」「珍談」として・・。
それでは、応援凸
blogramを設置されたんですね^^ありがとうございます♪
こちらも別窓にしていただけると、ありがたいのですが・・
(すみません。勝手な事ばかり申しています^^;)
えめるさんへ
黒田裕樹 えめるさんが長生きできるのなら、私も長生きできそうです(笑)。
特に私の場合は「憎まれっ子世に憚(はばか)る」とも言いますし(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。義経の生き様は我々に様々な影響をもたらしています。それだけに「義経不死伝説」にもそれなりの評価をするべきなのかもしれません。ただ、ジンギスカンになったというのはあまりにも想像力がたくましすぎるような気もしますが…。
いつも応援有難うございます。blogramも楽しいものですね。
MAHHYA 義経=ジンギスカン説で、トラックバック失礼しますm(_ _)m
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 トラックバック有難うございます。喜んでお受けしますよ(^_^)v