それは、黒船来航以前から開国のチャンスがいくらでも存在したにもかかわらず、鎖国(さこく)の状態が我が国の祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)であるという誤解を信じ込み、何の手も打たなかった江戸幕府の失政でもありました。
開国から明治維新(めいじいしん)までの十数年間、我が国は未曾有(みぞう、今までに経験したこともないこと)の混乱期を経て幕府が倒れ、新しい政府が樹立(じゅりつ)されることになりますが、こうした経緯には「失政をした幕府に政権は任せられない」という大きな流れが背景にあったといえるでしょう。
さて、幕府に代わって政治の実権を新たに握った明治新政府には、なさねばならない課題が山積(さんせき)していましたが、なかでも最大の問題は「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということでした。




いつも有難うございます。
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伝次郎 幕府側の我が国の祖法というのは、思うに、主に江戸幕府の歴史を守ることだと予想します。
新・政府側は欧米の国家体制を多分に取り入れたと思っています。
ブラス面は神道の復活。
私の持論は愛郷心、愛国心の両輪が日本国民としてバランスよく動くとベストだと思います。
当時の欧米との格差は絶望的な程あったと思いますが、諦めず国家の将来を思い描けたと感心します。
この変革時は、色々興味深く感じます。
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なみなみ こんにちは!
明治憲法といえば、
やっぱり、シビリアンコントロールの欠如でしょうかw
陸海軍大臣の人事から、
内閣を簡単に操れたりして、
制度上の欠陥が目立つような気がします。
でも、憲法自体は今と変らない
権利が保障されていたりして、
当時としてはリベラルな側面も
数多くあったと思うんです。
ただ、結果は全体主義が吹き荒れる時代となりました。
なぜ憲法のリベラルな側面は成長しなかったのか?
そういうところにも焦点をあてて書いていただければ嬉しいです!
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ぴーち こんばんは!
日本人は伝統を重んじ、先祖が守り通して来たものを大切に継続していこうとする気持ちは時には大切だと思いますが、それに余りにも固執してしまうのは、どうかなとは思いますね。(今回の相撲理事問題にも通じるものが)
明治新政府の他国からに植民地化問題は、確かに深刻ですよね。
黒田さんが、常日頃から懸念されている問題でもありますね。
応援凸
伝次郎さんへ
黒田裕樹 幕府の歴史を守ることは決して悪いことではありませんが、行きがかりの都合で鎖国状態になってしまったことで、あたかも「一国平和主義」に走ってしまったことがそもそもの失敗だったと思っております。
無論、平和なのは素晴らしいことですが、せめて世界の流れにもっと目を向けることで自主的に開国が出来ていれば、江戸幕府の運命は違ったものになっていたでしょう。
新政府については今後の講座の中で明らかにしていきますが、伝次郎さんのお考えには共感できるところがあると感じております。
なみなみさんへ
黒田裕樹 シビリアンコントロールは、明治憲法を語るうえで欠かせないキーワードだと私も思います。
明治憲法における様々な権利も、意外と知られていないんですが重要な問題ですね。
いずれにせよ、講座では歴史的経緯を述べた後の公民的考察の中で明らかにしていく予定ですので、なみなみさんのご期待に添えられればと思っております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本人は伝統を重んじ、先祖が守り通して来たものを大切に継続していこうとする気持ちは時には大切だと思いますが、それに余りにも固執してしまうのは、どうかなとは思いますね。(今回の相撲理事問題にも通じるものが)
仰るとおり先祖伝来にこだわりすぎるのも問題ですし、鎖国状態のように、家康が考えもしなかったことを「祖法」と頭から信じ込んでいるんですから、その点での幕府の失政は動かしがたい事実だと思います。相撲協会ももっとしっかりして欲しいですね。
> 明治新政府の他国からに植民地化問題は、確かに深刻ですよね。
> 黒田さんが、常日頃から懸念されている問題でもありますね。
当時は「力こそ正義」の世の中でしたから、余計に恐怖感があったと思います。
明日(6日)以降で詳しく紹介していきますので、またお越しくださいね(^^♪
それにしても、植民地化の問題は水面下ではどこの国でもいつ危機状態になってもおかしくないような気がしますね(無論我が国も例外ではありません)。
黒田裕樹さん.
りら 日本が鎖国制度を取らなかったら
どんなに良かったかと思います
「いかにして我が国の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」
なんて心配はなかったでしょう
そして戦争する必要も無かったと思います 信長が生きていたら
鎖国はしなかったろうと思う事があります
明日は江戸時代から小江戸と呼ばれた佐原アップします
お知恵拝借お願いします
りらさんへ
黒田裕樹 鎖国をするならするで他にもっとやり方があったはずですし、史実のような「なしくずし」の鎖国状態ではあまりにもデメリットが大きすぎました。
詳しくは今日(6日)の講座で紹介しますが、明治新政府の当時の苦悩は私たちの想像の域をはるかに超えたものであっただろうと察します。
信長であれば、仰るとおり鎖国はなかったでしょうし、逆に日本人が世界中に進出していた可能性がありますね。
りらさんの次回の記事を楽しみにしております。
そんな大変な時期に、我が国の命運を託(たく)された明治政府の責任感や重圧、それに周囲を外敵に囲まれての心細さは、現代の私たちには想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。
このままでは我が国も他国の植民地とされてしまう―。危機感をもった明治政府は、欧米列強と肩を並べるためにも、一刻も早い近代国家の確立を目指さなければなりませんでした。その政策の中には強引な手段もありましたが、植民地化を防ぐという大義のためにはなりふり構(かま)っていられないのがその実情でした。
しかし、版籍奉還(はんせきほうかん)から廃藩置県(はいはんちけん)、あるいは四民平等(しみんびょうどう)などという、維新の功労者であるはずの士族(しぞく)にとって不利となる政策には反発も多く、全国各地で不平士族の反乱が相次ぎました。その最たるものが、明治10(1877)年に起きた、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心とする西南戦争(せいなんせんそう)でした。
そして、西南戦争の終結後には士族の反乱が治まり、代わって議会の開設などを求める自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が活発化し、その圧力によって政府は憲法制定に取りかかった―と従来の歴史教育では語られてきましたが、これは事実ではありません。
実は、明治政府はその成立の段階から、将来の憲法制定に向けての布石(ふせき)を着実に打っていたのです。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
お江戸での講座1週間前ですね。
今日の名古屋は雪が降っております。
先生の方からお江戸に向かうには
関ヶ原の辺りの雪が心配ですね。
無事に当日の講座を迎えられることを
お祈りいたします。
(;゚д゚)アッ....関ヶ原の合戦の跡地を見ようと
米原で途中下車しないようにw
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まり姫 黒田さんこんにちは☆
明治憲法の見方については私と少々違いがありますから、コメントは差し控えますけど、東京での歴史講座が成功するといいですね~
私の地方は大雪です^^
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 いつもご心配いただきまして有難うございます。
確かに東海地方は雪のようですね。
大阪は晴れてこそいますが、風がメチャクチャ冷たいです(´・ω・`)
講座当日は朝から新幹線で移動しますが、雪で遅れないことを祈っております。
関ヶ原は…在来線の方が近くまでいけそうですね(笑)。
まり姫さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
東京講座まであと一週間と迫ってまいりましたが、しっかりと準備をして当日に備えたいと思います。
雪で新幹線が遅れていましたからね…。一週間後がちょっと心配です(^^ゞ
.
shana おー!
違うのですか?士族叛乱→国会の流れは間違いなのですか?
うわー、騙されたー(笑)
これは今後の記事に期待なのです。
いつもいい意味で期待を裏切られますけどw
shanaさんへ
黒田裕樹 > おー!
> 違うのですか?士族叛乱→国会の流れは間違いなのですか?
> うわー、騙されたー(笑)
「士族叛乱→国会の流れ」は、残念ながら正確な答えとはいえません。
現状の歴史教育では、自由民権運動が有力視されるあまり、当時の政府の行動を正しく評価していない一面がありますから、今回の講座ではそのあたりをしっかりと見極めたいと考えております。
> これは今後の記事に期待なのです。
> いつもいい意味で期待を裏切られますけどw
有難うございます(^o^)丿
今回もshanaさんのご期待にお応えできると思っておりますよ(^^♪
「政治をなすには広く会議を行い、公(おおやけ)の議論によって決めるべきである」という意味のこの御誓文は、新政府による強権的な政治ではなく、公の議論、つまり議会政治によって何事も決めるべきであるという強い決意を、天皇が神前(しんぜん)にて誓われるというかたちで示されたものです。
つまり、明治政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していたのです。また、同年に出された政体書(せいたいしょ)においても、五箇条の御誓文を国家の基本方針と改めて規定し、近代憲法の基本方針である三権分立が規定されています。
加えて、岩倉具視(いわくらともみ)を団長とする使節団(しせつだん)が欧米各国を訪問した際には、我が国と諸外国との大きな差を痛感するとともに、従来の不平等条約を解消し、我が国が近代国家として諸外国と肩を並べるためには、憲法などの国の基本となる法律の制定が不可欠であることを思い知りました。
しかし、その頃の政府には不平士族の反乱への対策などの解決すべき問題が山積しており、憲法制定や議会開設に着手するどころではなかったのです。




いつも有難うございます。
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オバrev 五箇条のご誓文という言葉は記憶にありますが、中身は記憶の彼方に・・・○十年も前のことですので(^^;)
しかし、短い言葉で根本をついている、なかなか素晴らしい文章ですね。今でもそのまま通用しますというより、今こそ政治家にはこの言葉をかみしめて欲しいです。
原案やこれをまとめた人物の理念や歴史観などに興味が起こりますね。
この状況でできた明治憲法もじっくり読んだことないので、その解説が楽しみです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 五箇条のご誓文という言葉は記憶にありますが、中身は記憶の彼方に・・・○十年も前のことですので(^^;)
五箇条の御誓文が出されたという歴史上の事実としては以前から有名ですが、肝心の中身についてはなぜか歴史教育では触れられないんですよね…。我が国における民主政治の根本が秘められているのですが。
> しかし、短い言葉で根本をついている、なかなか素晴らしい文章ですね。今でもそのまま通用しますというより、今こそ政治家にはこの言葉をかみしめて欲しいです。
> 原案やこれをまとめた人物の理念や歴史観などに興味が起こりますね。
私もそう思います。権謀術数は国家としての戦略あってこそであり、党利党略、あるいは売国のためではありません。
五箇条の御誓文を起草したのは由利公正(ゆりきみまさ)であり、最終的にまとめたのが木戸孝允(きどたかよし)といわれています。
> この状況でできた明治憲法もじっくり読んだことないので、その解説が楽しみです。
有難うございます。これからいよいよ本題に入っていくことになります。
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ぴーち こんばんは!
岩倉具視のお名前で思い出したエピソードですが、
当時のこの一団は、英会話が余り堪能では無かった為に、終始、言葉少なめに交渉を推し進めていたらしいですが、そんな無口な日本人をアメリカ人は、威厳のある人物と捕らえて、深く敬ったと伺った事がありました。今の日本人は語学に精通し過ぎて、余計な事までしゃべり過ぎ、逆に足元を見られている傾向があるのでは無いでしょうか。
黙っていて、何を考えているのか判らない態度が、当時の日本人の腹の内を探る手立てが困難で、威風堂々とした貫禄を印象付けていたように思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに必要以上のことを話さないほうが、相手にとっては何を考えているのか分からずに警戒するとともに、畏敬の念を抱くという側面がありますよね。
だとすればおしゃべりな私は失格かもしれません(笑)。
いずれにせよ、明治の人間が各国から尊敬を受けたことが、その後の我が国にとっては良かったことなのでしょうね。
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満柚子 コメありがとうございます!
怪我は不思議と全くないので
大丈夫ですよ(*^∀^*)
五箇条の御誓文は知ってますが
詳しいことまでは知りませんでした~
勉強になります♪
満柚子さんへ
黒田裕樹 > コメありがとうございます!
> 怪我は不思議と全くないので
> 大丈夫ですよ(*^∀^*)
それは良かったですね(^^♪
身体が丈夫なようでうらやましいです。
> 五箇条の御誓文は知ってますが
> 詳しいことまでは知りませんでした~
> 勉強になります♪
有難うございます。単なる暗記だけでない、歴史的な真実を皆さんにもっとご理解いただかないといけませんね。
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欧米視察団
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この欧米視察団が凄いことは
① 政府の主要メンバーが中心になっていた。
(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)
② 海外の長所だけではなく、短所もしっかり
学んできた。
◆ アメリカで、外交の難しさを痛感。
◆ イギリスで、資本主義の光と影を観る。
(貧富の格差の激しさ、金融の怖さ)
◆ ベルギーが小さな国なのに、なぜ、経済力が
成り立っているのか、その秘密を知る。
◆ 元々、後進国家だったプロイセンのビスマルクから、『国際ルールは、大国が勝手に創ったこと。工業化で、大事なこと。』を学ぶ。
今の日本の政治家のように安易に北欧型がイイと
考えるのとは、全く、違いますね。
外国から、学ぶことは、大事ですが、
それが、日本に適応しやすいものがどうかと
いうことを考えないと、国が混乱するだけです。
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
鹿鳴館などで誤解されがちですが、明治政府は「何が何でも」と闇雲に近代化を推し進めたわけではありませんでした。
明治憲法一つにしても、どの国の方式が一番我が国に合っているかを慎重に考えた末に制定されています。
戦後の「何でもアメリカナイズ」と決定的に違っていますし、その結果は皆さんご存じのとおりですね。
それでも政府は翌年の明治8(1875)年に漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり、詔とは天皇の命令による文書のこと)を出して憲法制定に向けての意欲を示し、西南戦争が終わった後の明治14(1881)年には国会開設の勅諭(ちょくゆ、天皇による訓示に相当)が出され、明治23(1890)年に国会を開設することを公約するなど、憲法制定に向けて着実に前進していきました。
つまり、政府は自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指したわけではなかったのです。また、両者の最終目的にも大きな差はなく、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」との違いがあっただけでした。
政府の立場で考えてみれば、諸外国による植民地化を防ぎながら、あらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢のなかでは、政府による強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動とはしばしば対立関係となり、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりもあったのです。




いつも有難うございます。
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りら 自由民権運動真の意味がやっと分かりました
明治時代は激動の時代で歴史を語る
に面白いですよね
私は今江戸時代 水郷を利用して
江戸へ荷物を運んで栄えた
佐原をアップしています
当時の繁栄が今もしのばれました
りらさんへ
黒田裕樹 自由民権運動に関しては、反体制運動という姿勢が理想とされるのか、過大評価されすぎているような気がします。
平和な時代とは異なり、一歩間違えれば植民地化という危機のもとでは、強い政府による政治主導も致し方ないと考えなければなりません。そして、その原因は政府ばかりでなく、開国のチャンスをみすみす潰して我が国を極度の混乱に巻き込んだ江戸幕府にもあります。
まさに激動の歴史ですね。
佐原の風景は昔の面影が残っていて素晴らしいですね(^o^)丿
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欧州各国の憲法を調査した結果、伊藤博文が選択したのはプロイセン(現在のドイツ)型の憲法でした。憲法制定以降も条約改正などの問題が山積している情勢では、政府主体で引き続き強い意思で政治を行う必要があり、そのためにも君主が現行の政府に任命するという形式の憲法にしたほうがよいと判断したからです。なお、明治憲法が欽定憲法(きんていけんぽう)となったのもこうした経緯からであり、天皇に強い権限を与えるという意味ではありません。
伊藤博文の帰国後、明治18(1885)年に内閣制度が設けられて憲法制定後の政治路線が明確化される一方で、憲法も時間をかけて慎重に草案(そうあん、下書きや原案のこと)が練(ね)られ、明治21(1888)年につくられた枢密院(すうみついん)で審議するという着実な段階を経た上で、明治22(1889)年2月11日、明治憲法はついに公布されました。この瞬間、我が国はアジア初の立憲国家(りっかんこっか、憲法を持つ国家)となったのです。
憲法発布の当日は祝賀行事が各地で行われ、国民がこぞって憲法の発布を祝いました。普段は反政府的な立場をとっていた新聞でさえ、「聞きしに優(まさ)る良憲法」「大体においては実に称賛(しょうさん)すべきの憲法」と評価しており、また自由民権運動家でもっとも急進的な私擬憲法(しぎけんぽう、憲法発布以前に民間で検討された憲法試案のこと)を発表したことで知られる植木枝盛(うえきえもり)も、我が国に憲法ができたことを祝福する言葉を残しています。
さらに、有色人種のアジア人の国家が憲法を、それも明治維新からわずか20年余りでつくったことに対して、欧米諸国からは感嘆(かんたん)の声が上がるとともに、憲法に対して高く評価しました。明治憲法の発布は、世界史上においても燦然(さんぜん)と輝く、画期的な出来事だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
明治憲法は、20年余り・・と在りますが、むしろ、私は「20年も掛かるものなのか!」という思いを抱きました^^;
けれど、確かに一国の憲法を制定するという事は、大変な時間と労力を要するものなんですね。
制定された後までも、後々、その時代にそぐわなくなって来てしまう場合もありますものね^^;
勉強になりました(^0^
応援です凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 明治憲法は、20年余り・・と在りますが、むしろ、私は「20年も掛かるものなのか!」という思いを抱きました^^;
なるほど、いわれてみれば確かに「逆もまた真なり」ですね。新政府の樹立からそれだけ苦労を重ねてきたわけでもありますが…。
> けれど、確かに一国の憲法を制定するという事は、大変な時間と労力を要するものなんですね。
> 制定された後までも、後々、その時代にそぐわなくなって来てしまう場合もありますものね^^;
> 勉強になりました(^0^
有難うございます(^o^)丿
明治憲法までの我が国、そして時の政府の苦労を思えば、憲法制定までの道のりがもっと評価されてもいいと個人的には思っています。ただ、どれだけ素晴らしい法律であっても、仰るとおり時代とともにそぐわなくなってくる部分もあるんです。
そのあたりについては講座の最後の方で紹介できると思います。
非常に健全な日本の歴史
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
最近、
『アメリカ史の真実 なぜ「情容赦のない国」が生まれたのか』を読みました。
その本を読んで、逆に日本の歴史が非常に健全なプロセスを辿っていると感じました。
神話→古代→中世→近世→近代(明治憲法の成立)
という流れがあります。
しかし、アメリカの歴史は
いきなり、
近世→近代になっています。
つまり、人間の精神的な過程に影響を及ぼす
神話の時代、中世の歴史もないわけです。
だから、古代エジプトで認められていた奴隷制度として、時代錯誤の黒人奴隷をつい100年前まで、近代国家を標榜するアメリカで存在していました。
それに
第二次世界大戦後の東京裁判などのアメリカの
騎士道精神が全くないことが何となく、理解できました。
余談ですが、中国は、逆に
古代中国→ 中世の中国
その中世の中国のまま、カタチだけ市場経済を導入。(1回も選挙をしたことがなく、憲法もない国)
こう考えると、歴史というのは、単なる過去の話ではなく、国家の成長の記録ですね。
(赤ちゃんが、スグに大人になれないとの同じように)
『歴史とは、国の成長の物語り』と思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国の健やかな成長をうながした我が国の長い歴史。
その歴史を抹殺すれば、その後どうなるかは自明の理のはずですが…。