意次は若い頃から後に第9代将軍となる吉宗の子の徳川家重(とくがわいえしげ)の小姓(こしょう、身の回りの世話をする役目のこと)として抜擢(ばってき)され、家重の信頼を受けるとともに、実力を買われて出世していきました。1751年には将軍である家重の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任し、1758年には1万石の大名となりました。
家重は1760年に隠居して、子の徳川家治(とくがわいえはる)が第10代将軍に就任しますが、家重が「意次は優秀な人物だから引き続き用いるように」と家治に勧めたこともあって、意次は家治からも厚い信頼を受けました。
そして、1767年には正式に側用人(そばようにん)となり、1772年には老中(ろうじゅう)を兼任するまで出世を重ねたのみならず、石高(こくだか)も最終的には5万7,000石にまで増え、遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の相良(さがら)に新たに相良城(さがらじょう)を築くまでに至(いた)りました。意次が全盛期の頃の時代は「田沼時代」(たぬまじだい)と文字どおりに呼ばれています。
意次がここまで出世できたのは、二人の将軍に可愛がられたこともありますが、やはり意次自身の能力が極めて高かったのが主な原因でしょう。では、その意次の実力とはどのようなものなのでしょうか?




いつも有難うございます。
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miwa 明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します^^
>やはり意次自身の能力が極めて高かった
そうでしょうねー。そして信頼できる人物だったからこそ出世出来たのでしょうね。
すごいww足軽からの大出世ですね!!
戦国時代なら分かりますが、江戸時代でもこんな事が可能だったのですね。驚き。
.
ケンシロウ こんにちは。
おめでとうございます。
何時も記事と異なるコメントで
ほんと申し訳ないです。
も少し早く訪問出来ていれば
↓の記事でバッチリご挨拶のタイミングだったのに。
今年もこんな感じで出遅れそうなおいらですw
ほいじゃ今年もヨロシクです。
miwaさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
> そうでしょうねー。そして信頼できる人物だったからこそ出世出来たのでしょうね。
> すごいww足軽からの大出世ですね!!
> 戦国時代なら分かりますが、江戸時代でもこんな事が可能だったのですね。驚き。
戦国時代は主に武力での出世でしたが、平和な時代であっても世の中が変革を求めているときに、政府や国民のニーズに合った政治を実行できる人物が出世するのは至極当然のことだと思います。
意次の「ニーズに合った政治」については、この後じっくりと紹介していくことになりますので、よろしくお願いします。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
コメントを下さって感謝していますよ(^_^)v
今年もよろしくお願いしますm(_ _)m
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いします。
田沼意次も低い身分から登ってきた
人だった事にびっくりしましたね。
決して親の七光りだけで政治をしていたのでは
ない事が分かって勉強になりました。
ありがとうございます。
リンクの件ですが
私の方はいつでもOKで
私の方は黒田先生のブログのリンクを既に貼っているので
不備があれば仰って下さい。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 明けましておめでとうございます。
> 昨年は大変お世話になりました。
> 本年もよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
> 田沼意次も低い身分から登ってきた
> 人だった事にびっくりしましたね。
> 決して親の七光りだけで政治をしていたのでは
> ない事が分かって勉強になりました。
> ありがとうございます。
「親の七光り」でも立派な政治ができる人物も確かに存在しますが、意次のように身分の低かった人物が実力を買われて出世した方が確実に政治ができますね。実力がなければ出世できませんから。
> リンクの件ですが
> 私の方はいつでもOKで
> 私の方は黒田先生のブログのリンクを既に貼っているので
> 不備があれば仰って下さい。
有難うございます。今後ともよろしくお願いします。
.
なみなみ あけましておめでとうございます!
田沼意次、楽しみです!
他の人たちとはまったく違う日本を
見ていたのではないでしょうか。
意次を重用した二人の将軍は、
お目が高いですね。
なみなみさんへ
黒田裕樹 > あけましておめでとうございます!
明けましておめでとうございます(^_^)v
> 田沼意次、楽しみです!
> 他の人たちとはまったく違う日本を
> 見ていたのではないでしょうか。
> 意次を重用した二人の将軍は、
> お目が高いですね。
そのとおりです。意次=悪役説の影響で、二人とも「バカ殿」扱いされていますが、意次の実力を見抜いた家重、父の言うことに従ったのみならず全幅の信頼を寄せた家治とも、有能な将軍であったことは間違いありません。お上が支えてこその意次の政治ですからね。
.
こえめ 歴史に疎いので田沼意次ってどんな人か、
イマイチよく分からない私です。
でも、二人の将軍に取り立てられたということは、
確かにかなり有能だったわけですよねー。羨ましー^・ρ・^
お城も建てちゃったなんて。回りも認める人材だったということですよね。
わあ、歴史の謎解き、次回も楽しみにしていまーすッ!
こえめさんへ
黒田裕樹 > 歴史に疎いので田沼意次ってどんな人か、
> イマイチよく分からない私です。
> でも、二人の将軍に取り立てられたということは、
> 確かにかなり有能だったわけですよねー。羨ましー^・ρ・^
> お城も建てちゃったなんて。回りも認める人材だったということですよね。
今回の場合は、意次に関する先入観がないほうがすんなりと理解できるかもしれませんね。
城を建ててよいというのは有能な証拠でもありますよ(^_^)v
> わあ、歴史の謎解き、次回も楽しみにしていまーすッ!
明日(2日)からいよいよ意次の具体的な政治の話に入りますので、ご期待くださいね(^^♪
実は、当時の江戸幕府では賄賂を取ることはむしろ当たり前という感覚がありました。なぜなら、賄賂を取ればそれだけ、賄賂を贈ってくる側の諸大名や商人の勢力を削(そ)ぐことができるからです。従って、幕府の権力を保つためという口実のもとに、意次以外の幕閣(ばっかく、幕府の首脳のこと)も積極的に賄賂を受け取っていたのが現実の姿でした。
加えて、そもそも有力な政治家に対して金品を贈ることは、現代の法律で認められた「政治献金」も含めて、昔も今もある意味当然の感覚ですし、当時の幕閣の中で、意次に一番実力があると誰しもが思ったからこそ、彼に賄賂を贈っていたとも考えられます。
ちなみに、清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく、後ろ暗いところのないこと)で知られる松平定信も、幕閣入りを目指して意次にしきりに賄賂を贈っていたのは有名な話です。




いつも有難うございます。
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こえめ 「賄賂」の意味が今と違ったていたとは、目からウロコのお話でした。
今の感覚で歴史をみる危険性があること、よく分かりました。
文化は生き物。変化していますものねッ。
世界中の歴史も、新しい解釈で書き換えられているんでしょう?
人間の視野が狭いことは、常に頭の隅に入れておくことが必要だなって思いました。
私達が知っていると思っていること、正しいとされていること。
絶対の価値じゃないってことニャね。
あ。猫が出ちゃった(笑)
.
スズメ あけましておめでとうございます。
いつも、読んでぽち!にて失礼しています。
今年もよろしくお願い致します。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
当時の時代では「賄賂」が悪い事と思われていなかったばかりか
松平定信も田沼意次に「賄賂」をやっていたのは本当に吃驚しました。
現代の常識では信じられないような事ですが。
今日もまた一つ勉強させて貰いありがとうございました。
.明けましておめでとうございます。
オバrev なるほど、確かに賄賂が悪だという先入観がありますね。政治献金と考えればまた見方が違ってきます。
これは現代もありますからね。むしろ現代の方がもっと賄賂っぽいかもしれません。
知り合いの設計会社社長が施主から依頼を受けて、基本構想を決めて行政手続きを行って、さあ具体的な設計に入ろうとしたところで、某大物議員からその施主に「設計はこの業者を使ってくれ」という横やりが入ることがあったそうです(^^;
諦めるしかなかったそうです。
.
ふぃる 明けましておめでとうございます^^
今年こそは、黒田先生の歴史講座を聞きに行きたいと思います。
教科書には無い、心引き込まれる歴史をぜひ
子どもにも聞かせたいです^^
今年もよろしくお願いします。
.
HANA子 明けましておめでとうございます!
以前からおうかがいだけはしていたのですが、遅ればせながら初めてコメントさせていただきます
わたしは歴史好きを自称しているのですけど、
なんとも“好き”の枠から脱してないなぁと頭をかきかき毎回拝読してます
もっぱら近現代史ばかりのわたしは、中々中世以前・・・江戸時代や鎌倉時代には顔が向かないのですけど、こちらの記事を読んでてとても興味をひかれてきました
ブログ、講座ともにがんばってください^^
こえめさんへ
黒田裕樹 > 「賄賂」の意味が今と違ったていたとは、目からウロコのお話でした。
> 今の感覚で歴史をみる危険性があること、よく分かりました。
> 文化は生き物。変化していますものねッ。
そのとおりです。
現代の価値観で過去の物事を見極めることは非常に危険なんです。
例えば忠臣蔵なども、現代に当てはめれば単なる「集団による虐殺事件」になってしまいますし。
> 世界中の歴史も、新しい解釈で書き換えられているんでしょう?
> 人間の視野が狭いことは、常に頭の隅に入れておくことが必要だなって思いました。
> 私達が知っていると思っていること、正しいとされていること。
> 絶対の価値じゃないってことニャね。
> あ。猫が出ちゃった(笑)
日本史に限らず、世界史も「勝者が書く歴史」ということで見直す必要がありますね。
例えば、過去に「インディアン」と言われて不当な扱いを受けたアメリカの原住民も、最近では「ネイティヴアメリカン」と呼称するのが当然となっているように。
過去と現在との価値観の違いを意識したうえで歴史を見ないと、我々はとんでもない勘違いをしてしまいかねないということです。
ところで、最後の一言は聞かなかったことにしておきますね(笑)。
スズメさんへ
黒田裕樹 明けましておめでとうございます。
こちらこそいつも「読み逃げ」ばかりで恐縮です。
今年の更新も楽しみにしております。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 当時の時代では「賄賂」が悪い事と思われていなかったばかりか
> 松平定信も田沼意次に「賄賂」をやっていたのは本当に吃驚しました。
> 現代の常識では信じられないような事ですが。
江戸時代のような封建社会では、将来は敵になりそうな勢力をつぶすことも重要な役割でした。今回の話は、このような「当時の常識」が分かっていないと、本当の歴史を理解することができないという一つの例だと思います。
松平定信については、まだまだ私たちが目くらましされていることが今後もどんどん出てくることになりますので、今後もお付き合いいただければ幸いです。
> 今日もまた一つ勉強させて貰いありがとうございました。
今日も励ましのお言葉を有難うございますm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、確かに賄賂が悪だという先入観がありますね。政治献金と考えればまた見方が違ってきます。
> これは現代もありますからね。むしろ現代の方がもっと賄賂っぽいかもしれません。
そのとおりです。実力があると認めた政治家であるからこそ、便宜をはかってもらいたくて競って献金しようとするのが自然な流れですよね。「クリーン」を強調するのは、実は己の実力がないことを天下に知らしめていることでもあります。
> 知り合いの設計会社社長が施主から依頼を受けて、基本構想を決めて行政手続きを行って、さあ具体的な設計に入ろうとしたところで、某大物議員からその施主に「設計はこの業者を使ってくれ」という横やりが入ることがあったそうです(^^;
> 諦めるしかなかったそうです。
生々しい話ですが、それが現実なんですよね(´・ω・`)
あまり子供たちには話したくないですが、こういう現実を知ったうえで、将来どうするのかということを考えさせるのも一つの教育かもしれません。
重農主義だけではもはや幕府政治が機能しないということを悟(さと)った意次は、やがて政治の実権を握ると、現実的な重商主義(じゅうしょうしゅぎ)に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行していったのでした。
意次がまず行ったのは、一年間の予算の編成でした。現代では当たり前の予算制度ですが、江戸幕府においては、それまでは必要な際に幕府の金蔵(かねぐら)から金銀を引き出していたのです。このようないわゆるドンブリ勘定(かんじょう)を続けていては、いつまで経っても経費削減はできません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく、思い切った手段を実行する―。意次の 「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 私が意次を評価する点がまさにこれです。賄賂にまみれて腐敗政治をやっていたなんて、とんでもない事です。
現代の政治に例えたら、松平定信は中国四人組の文化大革命のような暴挙でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 私が意次を評価する点がまさにこれです。賄賂にまみれて腐敗政治をやっていたなんて、とんでもない事です。
仰るとおりです。物事の表面だけをとらえて非難するのではなく、実績を見極めたうえで評価をしてほしいものです。
> 現代の政治に例えたら、松平定信は中国四人組の文化大革命のような暴挙でしょう。
なかなか厳しいご意見ですね。
私も似たような評価を後日下すことになると思います。
.どこで学んだ?
オバrev なんと、意次は1年間の予算編成を初めてとりいれたんですか。
しかも、将軍家や大奥の予算を削減していったなんて。
重商主義や規制緩和などもいったい、いつ、どこでこういう経済学を学んだんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なんと、意次は1年間の予算編成を初めてとりいれたんですか。
> しかも、将軍家や大奥の予算を削減していったなんて。
これも知られていない事実ですね。
自分の予算を減らされても意次を出世させる、家治の太っ腹も凄いです。
> 重商主義や規制緩和などもいったい、いつ、どこでこういう経済学を学んだんでしょうか。
重農主義の限界を悟った頃から、独学で学んでいったのかもしれませんね。
あるいは、もともと頭脳のある人と思われますから、負の教訓から逆算して身につけたのかもしれません。
.
こえめ なんとなんと!
人民のためにいいことをしていたんですねっ。
そういう政策を打ち出して、将軍様に認めさせちゃうなんて、
凄腕ですねー。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
1年間の予算案を組んだのも
田沼意次が最初だったんですね
今日もまたひとつ勉強させて貰いました。
そしてこの田沼意次講座を拝見していて
私の中の田沼意次の印象がかなり変わりましたね。
田沼意次は現代の歴史教育の方針で
誤解された一人かもしれないと考えるようになりましたね。
こえめさんへ
黒田裕樹 > なんとなんと!
> 人民のためにいいことをしていたんですねっ。
> そういう政策を打ち出して、将軍様に認めさせちゃうなんて、
> 凄腕ですねー。
そのとおりですね。
民政部門は据え置きにして、一番カネがかかってしかも削減しにくい「奥向き」の費用を容赦なく下げ、しかもそれを将軍に認めさせる。
現代の政治家にも聞かせてやりたいエピソードですね(^_^)v
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 1年間の予算案を組んだのも
> 田沼意次が最初だったんですね
> 今日もまたひとつ勉強させて貰いました。
おカネが有り余っていれば、予算を組む必要はありません。
しかしこの頃の幕府は緊縮財政。にもかかわらず意次の時代まで予算の概念がないのがむしろ不思議ですよね。
意次の実行力の高さがうかがえるエピソードでもあります。
> そしてこの田沼意次講座を拝見していて
> 私の中の田沼意次の印象がかなり変わりましたね。
> 田沼意次は現代の歴史教育の方針で
> 誤解された一人かもしれないと考えるようになりましたね。
そうですね。
実は意次は江戸時代から嫌われていました。
その理由については今後紹介します。
「意次の印象」については、次回以降でさらに変化するかもしれませんよ(^^♪
.
紗那 なんとなく学校の先生の話とか授業内容でいい人っぽいイメージを漠然と抱いてましたが、ここまで先見の明を持っている人とは思いませんでした!
というより、予算を組んでいないことのほうが驚きです。今まで何をやってたんでしょうね?時の将軍様たちは。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なんとなく学校の先生の話とか授業内容でいい人っぽいイメージを漠然と抱いてましたが、ここまで先見の明を持っている人とは思いませんでした!
そうですね。でもこれはまだほんの序の口ですよ(笑)。
これから意次の「本当の政治」が始まります(^o^)丿
> というより、予算を組んでいないことのほうが驚きです。今まで何をやってたんでしょうね?時の将軍様たちは。
綱吉や吉宗も予算という概念までには気がつかなかったというところでしょうか。気がついていたとしても、意次のような本格的なものにまでは至っていなかったのかもしれませんね。
田沼時代の頃までには、物品ごとに仕入れから販売までの独自のルートが確立されており、複数の同業の商人によって運営されていました。意次は、これら物品のルートごとに税を、すなわち物品ごとに流通税(りゅうつうぜい)をかけることで、「儒教と商行為」の影響を和らげようとしたのです。
こうした発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と条件付きで税を支払うことに応じました。こうして幕府と商人たちとの思惑が一致したことによって、営業の独占権を与えられた株仲間(かぶなかま)が幕府の公認を受けることになりました。
株仲間が扱(あつか)った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみどんや)、大坂(現在の大阪)では二十四組問屋が結成されました。また、彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって幕府財政も潤(うるお)い、商業の繁栄(はんえい)は景気を上向かせる要素にもなりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この時代に営業の独占権が認められたんですね。
株仲間という言葉は、記憶にありましたが、こういうことだったんですね!
現代の独占禁止法との関わりは
あるのでしょうか?
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時代に営業の独占権が認められたんですね。
> 株仲間という言葉は、記憶にありましたが、こういうことだったんですね!
> 現代の独占禁止法との関わりは
> あるのでしょうか?
この頃は「独占禁止法」の概念はどちらかといえば薄かったと思われます。
田沼時代には、商人から税を集めることのメリットを重視していました。
株仲間は後に解散させられますが、その場合も「物価が下がらない元凶」とされたのが主な理由ですね。
.まいった!
オバrev すべてをうまくまとめた田沼意次の柔軟な思考にはまいった!ですね。
この流通税って、今の消費税と同じようなものですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > すべてをうまくまとめた田沼意次の柔軟な思考にはまいった!ですね。
本当にそうですね。取れるところから極力問題が出ないように取る。現代の政治家や官僚も、もっと頭をひねってほしいものです。
> この流通税って、今の消費税と同じようなものですか?
現代でいえば、財産や権利の取得、移転などに対して課される税のことで、印紙税や自動車重量税、登録免許税、不動産取得税、有価証券取引税などに相当しますね。
東日本では小判のような金貨が中心の「金遣い」(きんづかい)で、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」(ぎんづかい)であり、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で量をはかって通用させる方法を採用していました。このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は1765年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は、1772年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱(しゅ)という金の単位をもつ銀貨を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになりました。なお、南鐐とは上質の銀という意味です。




いつも有難うございます。
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とまと 今更ですが…あけましておめでとうございます(笑
年末・年始には、ご丁寧な挨拶を頂き、ありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いしますm(__)m
東西で、通貨の主流が、金と銀に分かれていたんですねぇ。
しかも、単位も違っていたなんて…
これを頭に入れておけば、時代小説を読む時、一段と理解が深まりそうです。
いつも、為になる記事をありがとうございますm(__)m
ぽち♪
とまとさんへ
黒田裕樹 > 今更ですが…あけましておめでとうございます(笑
> 年末・年始には、ご丁寧な挨拶を頂き、ありがとうございます。
> 本年もどうぞよろしくお願いしますm(__)m
明けましておめでとうございます。
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
> 東西で、通貨の主流が、金と銀に分かれていたんですねぇ。
> しかも、単位も違っていたなんて…
> これを頭に入れておけば、時代小説を読む時、一段と理解が深まりそうです。
> いつも、為になる記事をありがとうございますm(__)m
> ぽち♪
そうですよね。一国で通貨の主流が分かれているなんてそうありませんから、歴史上の盲点といえるかもしれません。それだけに意次の執念が感じられる政策でもあります。
お役に立てて何よりです(^_^)v
明けましておめでとうございます
スカイラインV35 今年もよろしくお願いします。
南鐐弐朱銀は江戸では銀座でつくっていたようですね。銀座の”座”が、織田信長の楽市・楽座の、あの”座”と同じ意味合い(同業者組合)だというのは、今調べて初めて知りました。(汗)
合併等で名称の変わる自治体も多いですが、歴史ある地名は残して貰いたいですね。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いします。
> 南鐐弐朱銀は江戸では銀座でつくっていたようですね。銀座の”座”が、織田信長の楽市・楽座の、あの”座”と同じ意味合い(同業者組合)だというのは、今調べて初めて知りました。(汗)
こんなところにも歴史のつながりがあるんですよね。銀貨を独占的に鋳造する組合だから銀座。特に東京の人には知っていただきたい知識ですね。
> 合併等で名称の変わる自治体も多いですが、歴史ある地名は残して貰いたいですね。
私もそう思います。お役所主義で伝統を破壊する行為は、歴史の軽視にもつながりますからね。
.
ぴーち こんばんは!
なんと!東西で通貨が違っていたとは、目から鱗がポロポロ・・・(@@
ちなみに、東日本の金貨は、佐渡の金山が近かった為?何て言う推測は
多分、的外れでしょうね(笑)
東京、銀座が銀と名のつくのだから、
東が「銀」でも良かったのでは・・
こちらも、すみません。お馬鹿な疑問ばかり抱いてしまいました^^;
それでは、応援凸
また、お邪魔します!
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
昔は同じ日本国内での通貨単位が違っていたんですね。
始めて知って勉強になりました。
そしてここでも
田沼意次は頑張っていたんですね。
講座が進めば進む程に意次の印象が変わっていきますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なんと!東西で通貨が違っていたとは、目から鱗がポロポロ・・・(@@
> ちなみに、東日本の金貨は、佐渡の金山が近かった為?何て言う推測は
> 多分、的外れでしょうね(笑)
> 東京、銀座が銀と名のつくのだから、
> 東が「銀」でも良かったのでは・・
> こちらも、すみません。お馬鹿な疑問ばかり抱いてしまいました^^;
なるほど、そういうお考えもありますね。
金はやはり最高の価値のある金属ですから、昔から伝統的に使われている関係で、江戸幕府も最高貨幣として採用したと考えられます。
銀座では西日本で使う銀も鋳造していたんですよ。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 昔は同じ日本国内での通貨単位が違っていたんですね。
> 始めて知って勉強になりました。
今からすれば奇妙な話ですが、通貨の完全な統一は明治以降なんですよね。意次の時代に統一できていれば…。
> そしてここでも
> 田沼意次は頑張っていたんですね。
> 講座が進めば進む程に意次の印象が変わっていきますね。
そうですね。意次の政治はまだ続きますよ(^_^)v
.
紗妃ママ あけましておめでとうございます!
今年も しっかりと勉強させていただきます!
同じ国内でも お金ってちがったんですか~
外国ですね!大学のときに友達が 東京に行くにはパスポートがいるんよと言ってたのは 昔だったらあながち嘘でもないか。
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 > あけましておめでとうございます!
> 今年も しっかりと勉強させていただきます!
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いしますね(^o^)丿
> 同じ国内でも お金ってちがったんですか~
> 外国ですね!大学のときに友達が 東京に行くにはパスポートがいるんよと言ってたのは 昔だったらあながち嘘でもないか。
仰るような感覚ですね。
パスポートに近い道中手形が必要なうえに、両替もしておかなければならない。
まさに外国で出かけるのと同じですが、少なくとも両替の手間だけは省きたいですよね。
意次はそのあたりをしっかりと考えていたというわけです。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路(すいろ)を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば、江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも1786年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨(がいか)の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅(どう)や、海産物(かいさんぶつ)としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった俵物(たわらもの)を使用しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。




いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
今までの政治はどちらかと言うと
「重農主義」が主流だった為に「重商主義」の効果が様々な所出ていますね。
田沼意次は教科書ではほとんど書かれていない人物ですが
かなり現代社会に近づく革新的な事をやっていますね。
.
ぴーち こんばんは!
利根川は、私の住んでいる地域にも関わる重要な河川ですが、意次が水路を開拓していたとは、存じませんでした!
けれど、自然の猛威の前では、人間の力は無力に等しいですね(^^A
過去の歴史の中でも、自然の力によって、計画倒れしてしまったお話が
多い様ですね。
意次は、こんなに大活躍した人物だとは思っていませんでしたので、
これからのお話も気になります^^
それでは、応援凸
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 今までの政治はどちらかと言うと
> 「重農主義」が主流だった為に「重商主義」の効果が様々な所出ていますね。
そうですね。意次の数少ない重農主義の印旛沼干拓事業も、商品流通の活性化という重商主義も兼ねていますので、より顕著です。返す返すも大洪水による失敗が惜しまれますね。
> 田沼意次は教科書ではほとんど書かれていない人物ですが
> かなり現代社会に近づく革新的な事をやっていますね。
意次の事業についてはそれとなくは記しているものの、どれだけ革新的かつ開明的であったかが明らかにされていないのが残念ですね。明日(7日)が一番画期的かもしれません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 利根川は、私の住んでいる地域にも関わる重要な河川ですが、意次が水路を開拓していたとは、存じませんでした!
> けれど、自然の猛威の前では、人間の力は無力に等しいですね(^^A
> 過去の歴史の中でも、自然の力によって、計画倒れしてしまったお話が
> 多い様ですね。
江戸時代には意次を含めて少なくとも三度の事業が進められたのですが、いずれも失敗しています。それだけ難工事だったのでしょうね。
> 意次は、こんなに大活躍した人物だとは思っていませんでしたので、
> これからのお話も気になります^^
意次の凄いところは、江戸時代にも関わらず、内政のみに目を向けていないところですね。今回の貿易もそうですし、その他にも…。
.
えめる 意次のおかげで、世の中を良くする方法を色々試せたわけですね。
近代化の祖?のような人だったのかな~?
この時は上手く行かなかった政策も、
あとあとの参考になったりしたはずですもんね。
こういう実行力、どこから沸いて出たんでしょう?
テツジン意次だニャなー。すごいっ!
本当にすごい人って、裏方的な存在だったりしますよねっ。
えめるさんへ
黒田裕樹 今まで紹介した意次の政策は、現代にもつながる創造力や実行力を伴っていますよね。
確かに失敗もありますが、後世の政治家がこの時の経験を生かして実現していることもありますし(明治時代の北海道の屯田兵など)。
このまま意次の時代が続けば、我が国はもっと近代化を早く実現できたかもしれません。
その意味でも、仰るとおり「近代化の祖」といえるでしょう。
表舞台で光り輝く人の裏では、必ず「縁の下の力持ち」が存在しますね。
聖徳太子における小野妹子や、徳川綱吉に対する荻原重秀などもそうですし。もし意次の改革が成功していれば、当時の将軍であった徳川家治が脚光を浴びたかもしれませんね。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画しました。1785年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地で暮らすアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの人々の生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も視野に入れていました。これは、それまで松前藩がアイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支える鮭(さけ)や毛皮などをとって来なくなるからという身勝手な理由で農民化を禁止していたのと全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし いつも楽しく拝見してます。
先生の講座は一人のキャラクターを通して歴史を見るので一貫性があり
読んでいても小気味よく、また楽しく歴史を感じられます。その分先生のいかにわかりやすくするかという苦心が伝わってきました。
これからもがんばってください。
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ぴーち こんばんは!
意次の齎した政策のお陰で
広大な北海道の土地を利用した
美味しいじゃがいもなどの農産物が今でもいただけるんだと思うと、
感謝したい気分になります。
まあ、実際的には意次の思惑は、
もっと違う次元のもので、先を見越したものだった様ですね。
ロシアとは、北方領土返還問題で
揉めている昨今ですが、意次だったら、どんなブルドーザー政策を
打ち出すのかしら。。
ちょっと想像してみたくなりました^^
それでは、応援凸
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HANA子 しばらくご無沙汰していました
歴史を学んでていつも思うのが、歴史はかならずどこかでつながっているってことです
田沼さんの頃のロシアはエカテリーナ二世と重なりますね
啓蒙君主である辺り、田沼さんと通じるところもあるのかも?
後の日露の戦いに至る道程がすでに見え隠れしていて、それに対して田沼さんの辺境統治が為されていたということに凄く感じ入るものがありました
また拝見しに来ますね^^
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
通常の更新のように時代の流れを様々な人物を通してとらえるのも一つの方法ですが、今回のように一人の人物だと確かに一貫性がありますね。
分かりやすさについては、やはり教師としての一年間の経験が大きいと思います。高校生にどうやって歴史を理解させるかという命題に取り組んでいるうちに、自然と身につけられたと実感しておりますし。
先生も益々のご活躍を願っております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治時代における北海道の開拓は意次の先見の明があればこそですからね。
アイヌへの政策も、交易重視の副産物だったという見方もできますが、人道的な発想がなければ、そもそも考えもつかなかったことでしょう。
北方領土問題ですか(^^ゞ
意次であれば、そもそも戦争にならないように協商の立場を取ることができたかもしれませんし、不幸な事態になったとしても、必ずや何らかの進展を見出そうと積極的な対策を行いそうですね。それこそが、綺麗事だけが政治でないと理解している人間の強みでもあります。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
田沼意次も開国の一環といえる政策を行っていたんですね。
吉宗もそうですが、優秀な政治家にはもう鎖国は限界だともう感じていたんでしょうね。
北海道開拓を考え、アイヌの独立をうながしたも意次だったんですね。
本当に幅広い活躍をしている人ですね。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > しばらくご無沙汰していました
いえいえ、お越し下さって有難うございますm(_ _)m
> 歴史を学んでていつも思うのが、歴史はかならずどこかでつながっているってことです
> 田沼さんの頃のロシアはエカテリーナ二世と重なりますね
> 啓蒙君主である辺り、田沼さんと通じるところもあるのかも?
なるほど、「上からの改革」としては似通っているところがありますね。ただ、皇帝であったエカテリーナ二世よりも、己の実力で老中にまで成り上がった意次の方がより世情に通じた政治を行えたとも考えられますね。
> 後の日露の戦いに至る道程がすでに見え隠れしていて、それに対して田沼さんの辺境統治が為されていたということに凄く感じ入るものがありました
さすがに近現代史がお得意のHANA子さんですね。
明治時代に北海道の本格的な開拓がなかったら、今頃はロシア(ソ連)の統治下に置かれていたかもしれません。そんな事態を阻んだのも、18世紀末という早い段階での、意次の開明的な政策といえますからね。
> また拝見しに来ますね^^
有難うございます。こちらもHANA子さんのブログへ参りますね(^^♪
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 田沼意次も開国の一環といえる政策を行っていたんですね。
> 吉宗もそうですが、優秀な政治家にはもう鎖国は限界だともう感じていたんでしょうね。
キリスト教(カトリック)対策としての「鎖国状態」でしたが、意次の頃には150年近く経っていますからね。通常の政治家なら、海外の変化に敏感になるのはむしろ当然のことだと思います。だからこその漢訳洋書の解禁であり、それを十二分に生かした意次の政治なんですね。
> 北海道開拓を考え、アイヌの独立をうながしたのも意次だったんですね。
> 本当に幅広い活躍をしている人ですね。
意次による内政・外交問題の積極的な取り組みや、それらにまつわる人道的色彩の濃い政策、どれをとっても一流以上の政治家といえるでしょう。
それだけに意次の失脚という歴史の結末が信じられなくなりますね。
意次公の感涙が見える
kikuzi 黒田先生の御話は分かりやすいですね。
意次公の無念も少しは晴らされたのかな、と思います。
あの世で、意次公が感激のあまり涙している姿が、目に浮かびました。
私も『天下最強馬鹿伝説』というブログをやっています。
今は記紀を元に書いているのですが、人に分かってもらうように、そして、楽しんでもらえるように書くのって大変なんだと、日々痛感しております。
私も歴史の教員免許を持っておりますが、黒田先生には敵いませんな。
これからも御体御自愛の程、恙無くおもしろい話をお聞かせ下さい。
応援しております。
kikuziさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生の御話は分かりやすいですね。
> 意次公の無念も少しは晴らされたのかな、と思います。
> あの世で、意次公が感激のあまり涙している姿が、目に浮かびました。
過分なるお言葉、有難うございます。
過去に実績を残しながら、誤解または曲解されて汚名を着せられている人物は多いですが、田沼意次の場合は極め付きですからね。
> 私も『天下最強馬鹿伝説』というブログをやっています。
> 今は記紀を元に書いているのですが、人に分かってもらうように、そして、楽しんでもらえるように書くのって大変なんだと、日々痛感しております。
ブログを拝見しました。しっかりしたスタンスをお持ちでうらやましく思います。
私も日々勉強の身です。
> 私も歴史の教員免許を持っておりますが、黒田先生には敵いませんな。
いえいえ、とんでもないことです。私も教師としての実績は一年しか持っておりません。
星の数ほどいらっしゃる名教師を目指して、まずは現場に復帰したいと切に願っております。
> これからも御体御自愛の程、恙無くおもしろい話をお聞かせ下さい。
> 応援しております。
こちらこそよろしくお願いいたします。
また、西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)を訳した解体新書(かいたいしんしょ)が、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成した(1774年)のも田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠(きょしょう)の一人であり、また画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
このように、画期的かつ斬新(ざんしん)な政治を行ったことで、経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、これらの政策の展開を苦々(にがにが)しい思いで見ている人々がいました。商人の力を借りることは恥(はじ)であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめる旧来(きゅうらい)の身分の高い人々でした。
そして、彼らの筆頭格といえる人物こそが、白河藩(しらかわはん、現在の福島県)の藩主である松平定信でした。定信は嫉妬の他にも、激しい憎悪(ぞうお)の目で意次を見ていました。そこには、意次と定信をめぐる抜き差しならない因縁(いんねん)が存在していたのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 意次に対する定信の憎悪、ふと思い出した事があります。
意次と定信ほどではありませんが、直弼と斉昭の確執もかなり厳しいものですね。
名君と讃えられている一方で、下の方も盛んで、あくまで俗説ですが嫁いじりはするは、将軍家の大奥にまで触手を伸ばすは、厄介な存在。しかしカリスマ性は大きくて旗本大名の精神的支柱でもあり、幕府の責任者にとっては嫌な奴だったことでしょう。
これも俗説ですが、彦根藩は当時から牛肉を密かに将軍家へ「精力剤」として献上、それが水戸藩にも贈られていたらしいですが、直弼の代で牛肉の贈呈を打ち切り、これに斉昭が激怒。
幕府最高の権限を持ちながらあくまで家来筋の直弼にとって、幕政に責任は無いが主君筋の権威を背景にやりたい放題の斉昭の存在は、頭痛の種だったことでしょう。
定信になるともっと厄介ですね。意次は身の危険も感じたのではないかと想像します。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 徳川斉昭はあと一歩で水戸藩の後継になりそこなるところでしたからね。
幕府に対して含むところもあったのではないかと思います。その後、自分の息子を後の将軍後継にすえることに成功しましたが、それが幕府崩壊の幕を開けることになろうとは―。
相続問題がこじれると、ろくなことがありませんね。
そして、「あの人」も同じような運命をたどることに…。
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馬人 お久しぶりですーっ^^*
田沼時代、確かに文化が栄えていましたね!
良い文化だと思うのですが、その中でも嫉妬や憎悪の目が向いていたのですか。
所詮、人間だから嫉妬はしょうがない・・・のかな?w
馬人さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりですーっ^^*
お久しぶりです。復活おめでとうございます(^o^)丿
> 田沼時代、確かに文化が栄えていましたね!
> 良い文化だと思うのですが、その中でも嫉妬や憎悪の目が向いていたのですか。
> 所詮、人間だから嫉妬はしょうがない・・・のかな?w
嫉妬をしない人間なんてこの世に存在しませんが、嫉妬をし過ぎるのも問題ですね。
これに憎悪がからむともっとややこしいことになるから困ったものです。
今回の場合も…(´・ω・`)
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ぴーち こんばんは!
そういえば、蕪村は私の住んでいる市に縁が深いということを昔、習ったことがあります。
確か、蕪村という名前を初めて名乗った事で有名だったかしら。・
ちょっと記憶が曖昧ですみません^^;
意次の件は、まさに「出る杭は、打たれる」ですね。
抜き差しならない因縁が気になりますね(^^9
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そういえば、蕪村は私の住んでいる市に縁が深いということを昔、習ったことがあります。
> 確か、蕪村という名前を初めて名乗った事で有名だったかしら。・
> ちょっと記憶が曖昧ですみません^^;
仰るとおり、蕪村を初めて名乗ったときにはぴーちさんの地元になじみが深いですね。ちなみに蕪村が生まれたのは私が住む区の隣なんですよ(^^♪
> 意次の件は、まさに「出る杭は、打たれる」ですね。
> 抜き差しならない因縁が気になりますね(^^9
いよいよ定信の登場です。果たしてどうなることやら…。
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オバrev 田沼意次の才能は素晴らしいですね。現代にも蘇って欲しい人材です。
でも1代で下からのし上がって来た人間は、やはり敵も多いだろうし、特に従来の特権階級の人間から見れば優秀であることは分かっていても、面白くないと思うものなんでしょうね。その気持ちも何となく分かります。
しかしそういう人間は多くいたと思いますが、松平定信には抜き差しならない因縁が存在していたって、いったいどういう因縁だったんですかね・・・これは明日のお楽しみ?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 田沼意次の才能は素晴らしいですね。現代にも蘇って欲しい人材です。
聖徳太子もそうですし、現代にも存在してほしい歴史上の人物は多いですよね。
> でも1代で下からのし上がって来た人間は、やはり敵も多いだろうし、特に従来の特権階級の人間から見れば優秀であることは分かっていても、面白くないと思うものなんでしょうね。その気持ちも何となく分かります。
私も理解はできますが、自分達の都合で国民の生活をメチャメチャにしてしまうのはどうも…。あれ? これって昔のことだけでしょうか?
> しかしそういう人間は多くいたと思いますが、松平定信には抜き差しならない因縁が存在していたって、いったいどういう因縁だったんですかね・・・これは明日のお楽しみ?
ハイ、お楽しみです(笑)。
明日からは意次と定信に関する話がしばらく続きますよ。