何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原種継の娘である藤原薬子(ふじわらのくすこ)であり、彼女は藤原氏の式家(しきけ)の血を引いていました。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
大同(だいどう)4(809)年、平城天皇は病気のために弟の嵯峨(さが)天皇に譲位されました。平城上皇(じょうこう)は旧都の平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると再び政治に意欲を持たれ、嵯峨天皇と対立し始められました。
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大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を始祖(しそ)とする式家は没落し、藤原房前(ふじわらのふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について鎮護(ちんご)国家のための大祈祷(だいきとう)を行い、後の大出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。
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また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝(たいほう)律令や養老(ようろう)律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する「格(きゃく)」と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である「式(しき)」とに分類・編集されました。
弘仁(こうにん)11(820)年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式(きゃくしき)」と呼ばれました。その後、清和(せいわ)天皇の時代に「貞観(じょうがん)格式」が、醍醐(だいご)天皇の時代に「延喜(えんぎ)格式」が相次いで編纂(へんさん)されました。これら三つの格式をまとめて「三代格式」と呼びます。
なお、格は三代の格をまとめた「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」が、式は「延喜式」がそれぞれ伝えられています。
また、令(りょう)の解釈を公式に統一するため、弘仁格式の完成後の天長(てんちょう)10(833)年に淳和(じゅんな)天皇が清原夏野(きよはらのなつの)らに作成を命じた、法的効力を持つ「令義解(りょうのぎげ)」がまとめられました。一方、法的効力は持たないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解(りょうのしゅうげ)」も伝えられています。
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