前回(第97回)の講座で紹介したとおり、天智(てんじ)天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇は、藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)らの協力のもとで律令政治の再建を目指されましたが、天応(てんおう)元(781)年に子の桓武(かんむ)天皇に譲位されました。
桓武天皇は道鏡(どうきょう)による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、それまでの都であった平城京(へいじょうきょう)から心機一転をはかるため、延暦(えんりゃく)3(784)年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都(せんと)されました。
長岡京の造営には天皇の側近であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、延暦4(785)年に種継が造営中に矢で射(い)られて暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺の背景には実行犯の他に大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)などの存在が疑われ、関係者が処罰されました。
早良親王も廃太子(はいたいし、皇太子などの皇嗣や最優先王位継承者を廃すること)のうえに淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島など)に配流(はいる、流罪に処すること)となりました。親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。
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新たに皇太子となった子の安殿(あて)親王も病気がちとなり、事態の深刻さに慌(あわ)てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、延暦13(794)年に平安京(へいあんきょう)に再遷都されました。
桓武天皇は平安京への遷都と同時に、都が置かれた山背国を「城で守る」意味から「山城国」と名を改められました。以後、鎌倉幕府成立までの約400年間を「平安時代」といいます。なお、桓武天皇は都を遷(うつ)した際に平城京付近の南都(なんと)の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力を抑えるため」であったとされています。
しかし、平安京に都を移した後に、新たな仏教の寺院は建立(こんりゅう)できたとしても、仏教のさらなる発展や平安京以後の国家の安定をどうするかという大きな課題がありました。このため、朝廷は唐(とう)へ渡った二人の僧に新たな仏教を広めさせることになります(詳しくは後述します)。
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解油状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったどうかを後任者が証明するものであり、これがないと前任者は別の職に就(つ)けないこととなり、結果として国司の交代の際の事務の引継ぎを厳しく監督することにつながりました。
次に、桓武天皇は農民の困窮(こんきゅう)などによって質が低下した兵士の改革を行われました。それまでの徴兵制による軍団(ぐんだん)の制度を見直し、延暦11(792)年には東北や九州など一部の地域を除いて軍団や兵士を廃止すると同時に、地方行政官の郡司(ぐんじ)の子弟や有力農民の志願制による健児(こんでい)として採用する制度を導入しました。
また、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)における班田をそれまでの「6年に一度」から実情に合わせて「12年に一度」に改めたほか、国司の命令で働く労役制度である雑徭(ぞうよう)も60日間から30日間に半減され、農民の負担を軽減しました。
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桓武天皇は延暦8(789)年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(=アテルイ)に大敗しました。ちょうどこの時期に長岡京で天然痘が流行していたことから、当時は「早良親王のタタリで敗北した」と考えられました。
平安京に遷都後の延暦16(797)年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられました。田村麻呂は蝦夷を征服して阿弖流為を降伏させると、延暦21(802)年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌延暦22(803)年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行して行われており、農民に大きな負担を強(し)いたほか、国家財政を圧迫したことから、延暦24(805)年に桓武天皇はこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌延暦25(806)年に70歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。
なお、桓武天皇が諸国の軍団や兵士を廃止したことをきっかけとして、やがて地方において警察権が機能しなくなりましたが、このことが武士の誕生の原因の一つとなります(詳しくは後述します)。
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何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原種継の娘である藤原薬子(ふじわらのくすこ)であり、彼女は藤原氏の式家(しきけ)の血を引いていました。安殿親王と薬子との不倫(ふりん)ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、やがて薬子は朝廷から追放されてしまいました。
しかし、桓武天皇が崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位されると、薬子は再び召(め)し出されました。二人の関係が深くなることで、薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
大同(だいどう)4(809)年、平城天皇は病気のために弟の嵯峨(さが)天皇に譲位されました。平城上皇(じょうこう)は旧都の平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると再び政治に意欲を持たれ、嵯峨天皇と対立し始められました。
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大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知された嵯峨天皇によって阻止されました。敗れた上皇が出家されると、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自殺しました。
この事件を「薬子の変」、もしくは「平城太上天皇(だいじょうてんのう、もしくは「だじょうてんのう」)の変」といいます。なお、太上天皇とは退位された天皇の尊号である「上皇」の正式名称です。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を始祖(しそ)とする式家は没落し、藤原房前(ふじわらのふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について鎮護(ちんご)国家のための大祈祷(だいきとう)を行い、後の大出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。
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また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝(たいほう)律令や養老(ようろう)律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する「格(きゃく)」と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である「式(しき)」とに分類・編集されました。
弘仁(こうにん)11(820)年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式(きゃくしき)」と呼ばれました。その後、清和(せいわ)天皇の時代に「貞観(じょうがん)格式」が、醍醐(だいご)天皇の時代に「延喜(えんぎ)格式」が相次いで編纂(へんさん)されました。これら三つの格式をまとめて「三代格式」と呼びます。
なお、格は三代の格をまとめた「類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)」が、式は「延喜式」がそれぞれ伝えられています。
また、令(りょう)の解釈を公式に統一するため、弘仁格式の完成後の天長(てんちょう)10(833)年に淳和(じゅんな)天皇が清原夏野(きよはらのなつの)らに作成を命じた、法的効力を持つ「令義解(りょうのぎげ)」がまとめられました。一方、法的効力は持たないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解(りょうのしゅうげ)」も伝えられています。
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平安時代の貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視されたために漢文学が盛んになったことから、この時代には嵯峨天皇や空海、小野篁(おののたかむら)、菅原道真(すがわらのみちざね)など大陸の文化にも引けを取らぬほどの文人が多く輩出(はいしゅつ)しました。
嵯峨天皇は漢詩文に優れ、我が国最古の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編纂=へんさんすること)漢詩集である「凌雲集(りょううんしゅう)」や「文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)」には嵯峨天皇の御製(ぎょせい、天皇がつくられた歌や詩のこと)の漢詩が多く収められています。
また、空海は漢詩文作成についての評論である「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」や詩文集である「性霊集(しょうりょうしゅう、正しくは遍照発揮性霊集=へんじょうほっきしょうりょうしゅう)」を著(あらわ)すなどの優れた文才を示したほか、菅原道真も漢詩文集である「菅家文草(かんけぶんそう)」を著しました。
空海は唐風(別名を唐様=からよう)の書道の達人としても知られており、最澄(さいちょう)に送った書状である「風信帖(ふうしんじょう)」が知られているほか、嵯峨天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆(さんぴつ)」と称されています。
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このため、有力貴族は大学で学ぶ一族子弟の寄宿と勉学の施設としての大学別曹(だいがくべっそう)を設けました。
主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かんがくいん)や和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)、在原(ありわら)氏の奨学院(しょうがくいん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)などが知られています。
また、空海は天長5(828)年に我が国初とされる庶民(しょみん)のための私立学校である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しました。綜芸種智院は空海の没後10年を経て廃絶されましたが、その伝統は現在の種智院大学に承継されています。
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なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王(ながやおう)などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来の仏教が「怨霊(おんりょう)封じ」に対処できなかったからだという説もあります。
しかし、先述したように平安京に遷都した後に新たな仏教の寺院は建立できたとしても、仏教のさらなる発展や平安京以後の国家の安定をどうするかという大きな課題がありました。そこで、桓武天皇は平安京の「鬼門(きもん、東北の方角をさし、不吉であるとされる)」に位置する比叡山(ひえいざん)に寺院を建立していた一人の僧に白羽の矢を立て、彼の求めに応じて唐に派遣させることにしました。
その僧こそが同時既(すで)に名声を得ていた最澄であり、また彼と同時期に遣唐使(けんとうし)として海を渡ったのが、当時はほぼ無名の存在であった空海だったのです。
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帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは「天台宗(てんだいしゅう、別名を天台法華宗=てんだいほっけしゅう)」として国家に認められましたが、彼が本格的に目指していたのは独自の「大乗戒壇(だいじょうかいだん)」の設置でした。
ちなみに「大乗」とは「あらゆる人々の大きな乗りもの」という意味であり、仏教の開祖である釈迦(しゃか)の教えに従って出家し悟(さと)りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという考えに基づいています。
前回(第97回)の講座で紹介したとおり、奈良時代に鑑真(がんじん)が来日して我が国に戒律(かいりつ)を伝えて以来、当時の僧は戒壇と呼ばれた場所で戒律を授けられることが必須の条件とされていました。当初は奈良の東大寺に戒壇がありましたが、最澄は、奈良仏教からの独立を確固たるものとするために、独自の戒壇を求めていたのです。
最澄の動きは南都の宗派からの激しい攻撃を受けましたが、最澄は「顕戒論(けんかいろん)」を著して反論しました。弘仁13(822)年に最澄は56歳で死去しましたが、その直後に大乗戒壇の設置が認められました。
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その後、貞観8(866)年には清和天皇より「伝教大師(でんぎょうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんにん)や円珍(えんちん)によって広められましたが、二人は後に教理上の争いから分裂し、円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名を三井寺=みいでら)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた円仁派と対立しました。
ところで、延暦寺に大乗戒壇を設置させることに成功した最澄は、生前から「大乗戒」を盛んに主張していました。最澄は大乗戒によって「僧に対しても大乗仏教独自の戒律があっても良い」と考えたのです。
「戒律による細かいルールよりも、実質や中味を重要視する」最澄の考え方は、時代が下るにつれて「信心(=仏を信じる心)さえあれば、戒律そのものが不要である」という形に発展していきました。
そして、その流れのもとに堂々と結婚を公表し、子までなした僧が鎌倉時代に現われました。彼こそが浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖である親鸞(しんらん)であり、若い頃に比叡山延暦寺で修行を経験しているのです。
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源信の教えは鎌倉時代に浄土宗(じょうどしゅう)を開祖した法然(ほうねん)や、先述した親鸞に大きな影響を与えましたが、彼らも若い頃に延暦寺で修行を積んでいます。さらには、同じ鎌倉新仏教で日蓮宗(にちれんしゅう)の日蓮、臨済宗(りんざいしゅう)の栄西(えいさい)、曹洞宗(そうとうしゅう)の道元(どうげん)といった開祖たちも、同じように若い頃に延暦寺で修行しているのです。
時宗(じしゅう)の開祖である一遍(いっぺん)も法然の孫弟子である聖達(しょうたつ)のもとで学んでいますから、最澄の影響を受けているといえるでしょう。
要するに、鎌倉新仏教は、すべて最澄の蒔(ま)いた種が実ったものであり、最澄の思想の影響を大きく受けているのです。
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地方官たる郡司を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で官吏育成機関であった大学に入りました。
しかし、大学での勉強に飽(あ)き足らなかった真魚は、やがて私度僧(しどそう)として山林での修行に身を投じ、その頃に「空海」と名乗るようになったと伝えられています。
そして延暦23(804)年、31歳になった空海は東大寺戒壇院で授戒を受け、派遣期間20年の私費留学僧として遣唐使船に乗り込みました。先述のとおり、彼と同時期に別の船に乗っていたのが最澄です。造船や航海技術が未熟であった当時は、遣唐使による航海は命がけであり、4艘(そう)あった船のうち、無事に中国大陸にたどり着いたのは、最澄と空海がそれぞれ乗っていた船のみでした。
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そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝授に取り掛かりました。
驚くべきスピードで密教を習得した空海は、わずか3か月後の同年旧暦8月に密教の最高位となる「阿闍梨位(あじゃりい)」を授かりましたが、その後、程なくして恵果は病に倒れました。
同年旧暦12月25日(806年1月12日)に60歳の生涯を閉じた恵果は、死の直前に空海を呼ぶと、「一刻も早く日本に帰り、密教を広めなさい。それが私への報恩になる」と諭(さと)しました。
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しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふどうみょうおうぞう)を帆先に立て、帰国できるように祈祷を行いました。すると、不動明王は右手に持った剣で押し寄せる波を次々と切り裂き、大同元(806)年旧暦10月に、空海らは無事に大宰府(だざいふ)に帰着しました。
空海が持ち帰ったとされる「波切(なみきり)不動明王」は、現在も高野山(こうやさん)南院の本尊として祀(まつ)られていますが、このエピソードにちなんで、同じ名を持つ不動明王が全国で海難除けあるいは航海安全の神様としてお祀りされるようになりました。
なお、高知県土佐市の青龍寺は、空海が師である恵果を偲(しの)んで唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したものですが、ここの本尊も波切不動明王であり、またモンゴル人初の横綱である朝青龍(あさしょうりゅう)の四股名(しこな)の由来にもなっています。
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弘仁7(816)年、空海は修行のための道場として、紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県伊都郡高野町)の高野山の下賜(かし、身分の高い人が身分の低い人に物を与えること)を嵯峨天皇に願い出ました。高野山は密教修行を行うのに理想的な場所であり、また空海が若き私度僧だった頃に山岳修行を積んだ場所でもありました。
程なくして下賜が認められると、空海は早速弟子たちを現地調査に差し向け、弘仁9(818)年には空海自身が高野山に登り、翌春には密教の秘法を7日間行って伽藍(がらん、寺院を構成する主要な建造物群のこと)の配置を決めました。
空海が独自の理論によって構想した根本道場たる「壇上(だんじょう)伽藍」は、高野山の自然の中に大日如来(だいにちにょらい)の宇宙観を創出するものであり、空海の没後、数十年を経て完成しました。空海によって「金剛峯寺(こんごうぶじ)」が開かれた高野山はその後も日本仏教の聖地の一つとされ、平成16(2004)年にはユネスコから世界文化遺産に登録されました。
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東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。
高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建てることを目指していた空海は、下賜された東寺を「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と号し、立体曼荼羅(りったいまんだら)をつくって国家鎮護の道場としました。
真言宗が公文書に登場するようになるのはこれ以降のことであり、その意味においても、宗教としての真言宗が確立したのはこの頃とされています。なお、東寺も平成6(1994)年に「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産に登録されました。
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実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」に収められているのを皆さんはご存知でしょうか。
空海が平安京の応天門(おうてんもん)の額を書いた際に、「応」の一番上の点の字を書き忘れたまま門に掲(かか)げられてしまいました。しかし、間違いに気づいた空海は、慌(あわ)てることなく筆を額に投げつけて点を打ったそうです。
ちなみに「弘法にも筆の誤り」の本来の意味は、空海のような書道の名人は、書き直し方も常人とは違うものだという称賛も込められているそうです。
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なお、空海は「入定(にゅうじょう)」したとされ、入定すると肉体もまた永続性を獲得するという考え方から、後に空海は死んだのではなく、永遠に現世に留まって、衆生(しゅじょう)の救済のための禅定(ぜんじょう)を続けているとする「入定信仰」が生まれました。
空海は高野山の奥の院の霊廟(れいびょう)で現在も禅定を続けているとされており、空海のもとには毎朝食事が運ばれ続けています。
また、四国八十八箇所を巡礼する「お遍路(へんろ)さん」の衣服あるいは笠や、巡礼コースの至る所に「同行二人(どうぎょうににん)」と記されているのは、自分は一人ではなく、常にお大師さん(=空海)が一緒に居てくれている、という意味です。
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ちなみに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」、天台宗の密教は「台密(たいみつ)」といいます。また、密教に対して、仏の教えを経典(きょうてん)など誰にでも明らかな言葉や文字で学び、修行によって悟りに達しようとする教えは「顕教(けんぎょう)」と呼ばれます。
天台・真言両宗の発展によって、神秘的な密教芸術が新たに生まれました。当時の寺院の堂塔が山間の地に建てられたことから、地形に応じた自由な伽藍(がらん)配置となりました。
当時の代表的な建築としては、女人(にょにん)禁制の高野山に対して女子の参拝が許されたことから「女人高野(にょにんこうや)」の別称で知られる室生寺(むろうじ)の金堂(こんどう)や五重塔(ごじゅうのとう)などがあります。
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