「徳川家康によって戦国時代は完全に終わり、江戸時代の平和な世の中がやって来ました」。歴史の勉強で必ずと言っていいほど聞かされる一節ですね。表面上は確かにそのとおりですが、綱吉の治世を迎えるまでの現実は、必ずしもそうではありませんでした。
そもそも戦国時代というのは「下剋上」(げこくじょう)の名の下に「力あるものが勝つ」という世の中でした。極論すれば「人を殺せば出世する」時代でもあり、戦国武将から一般庶民に至るまで、出世を夢見て争いごとが絶えませんでした。
人々の意識がそのような殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)になっているなかで、徳川家がやって来て「これからは平和な世の中だからおとなしくしなさい」と言われたところで、誰が額面どおりに受け取るというのでしょうか。
身分社会に固定されて出世の望みが絶たれた人たちは、その腹いせとばかりに集団で着飾って町を練り歩き、気に入らないことがあれば周囲の人々に容赦なく当たり散らしました。旗本は「旗本奴」(はたもとやっこ)、町人は「町奴」(まちやっこ)と呼ばれたいわゆる「傾き者」(かぶきもの)の抗争によって、町には放火や辻斬りが横行していたのです。
殺伐とした雰囲気は道徳心の低下ももたらしました。子供が生まれても生活に困れば捨てたり、あるいは間引(まび)くことが多く、人間や牛馬が病気になれば、まだ動けるうちから山野に追放して死なせたりすることがよくありました。
また、この当時は町の衛生状態も最悪でした。江戸の人々はゴミを平気で周囲に散らかし、時には江戸城のお堀にまでゴミがたまる有様でした。また野ざらしにされた死んだ牛馬を野犬が食べ、その野犬が人々に噛(か)み付くなど、犬などが町中で病原菌をまき散らすことによって、疫病(えきびょう)がたびたび発生していました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
汚れていて、異臭が酷かったようですが
現代の整備された環境になるまでは、
何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
応援凸です^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
ご都合の宜しいときで十分ですよ(^^♪
> 18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
> 汚れていて、異臭が酷かったようですが
> 現代の整備された環境になるまでは、
> 何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
そうですね。現在のような綺麗な環境というのは、従前では考えられないでしょうね。環境が良くなった分、伝染病は減りましたが、人間はかえって弱くなったような気がしますね。
そうなんですかぁ
JJSG こんばんは。
家康が世の中をうまいこと治めたと思っていましたが。。。。
違っていたのかぁ。
歴史の教科書も、いいかげんなもんですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 教科書は紙面が限られていますから、どうしても全体的に薄めに表現せざるを得ないんですよね。その分各時代の「本質」までにはなかなか突っ込めないのが実情です。
とはいえ、型どおりの授業さえ済ませておけばよい、というのでは歴史の先生失格です。歴史が面白くなるのも、つまらなくなるのも先生次第ですから、私も特に気をつけているつもりではあります。
こうした「戦国の遺風」が原因と見られる数々の問題に対して、真正面から取り組んでいったのが時の為政者(いせいしゃ)であった綱吉だったのです。綱吉は、まず武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めさせるために、1683年に武家諸法度(ぶけしょはっと)を改訂して、冒頭(ぼうとう)の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝(ちゅうこう)の道」に改めました。
それまでは弓馬、すなわち武芸に励むことこそが武士の心得とされていたのが、忠孝の道、すなわち人として生きる道や道徳に励むことこそが重要であるという意識の変革をはかったのです。綱吉自身が若い頃から学んだ儒学に基づいた、新たな社会秩序の制定でもありました。
さらに綱吉は、武士ばかりでなく町人に対しても「忠孝の道」を定着させようとしました。そのためには何をなすべきなのか。考え抜いた綱吉の結論が、武家諸法度のように法令によって庶民に道徳心を身につけさせることでした。
こうして1685年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出され、以後約20年間に渡って次々と新しい法令が出されました。
世にいう「生類憐みの令」の始まりです。




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紗那 ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
やはり勉強になるです。
かすやぶひ こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。。
でも、こうして詳しくお話を伺っていると
それまでの歴史上に存在する「悪法」と呼ばれる
法も、その時代に制定されなければいけないそれなりの理由があったのかもしれないと思うと、それまでの固定観念が
覆されそうですね^^;
生まれるべくして、生まれた法。。
なるほど。。奥が深いです。
それと同時に事実というのは、どうして、こうも
歪められてしまうものかと、不思議な感じがしますね~。。よく何十人かが輪になって、最初の出題者が、最初の人に口伝えで、ある一文を耳打ちし、その一文が全部の人に回され、一巡した頃には、最初の内容と
微妙に違っていたり、時には正反対の答えが戻って来てしまうと言ったゲームを思い出してしまいました^^
(お判りになりましたか?w説明が下手ですみません)
あ、それと、
動画のカメラの位置が、少し前方になりましたでしょうか?とても、お顔が良く拝見出るし、黒板の字も見えやすくなりました^^
それでは、応援凸
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紗那さんへ
黒田裕樹 > ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
> なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
誤解させる材料がそろいすぎていますからねぇ…。無理もないと思います。
> やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
エスカレートしたのは事実ですが、そうしないとなかなか定着しなかったという一面もありますからね。一概には言えないのかもしれません。
> ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
> やはり勉強になるです。
有難うございます。歴史の教師である以上は、教科書に書かれていないような「真実」を伝えることも大事ですからね。
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 > こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
イメージが先行しているところが、綱吉公の不幸なところでもありますね。もっとも、そうなってしまったのには、綱吉公にはどうすることもできない理由があったのですが…。
> しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
> 位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
間接的な証拠というのも重要ですね。事実を見るだけではなく、事実から考察することも歴史の楽しみの一つです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「悪法」といえども「法」であるうえに、当時と現代の善悪観の違いや、当時の複雑な事情も考慮しないと、今回のような歴史の「落とし穴」にはまってしまいますね。仰るように「生まれるべくして、生まれた法」というのもこの世には存在しますから。
伝言ゲームのことですね。確かに、自分の本当の思いが他人に正しく伝わらないことはままありますね。
今回の会場は、場所そのものは同じですが教室が変わったんですよね。その影響もあって一から設定し直したことが奏功しているのかもしれません。ご覧いただき有難うございますm(_ _)m
そうでしたか
JJSG こんばんは。
忠孝の道
忠は、主人への忠義。
孝は、親孝行。
だと思っていますが、人として生きる道、道徳に励むことですか。。。
この忠孝の意味の捉え方だけで、綱吉のやろうとしていたことの理解、ニュアンスが変わってきますね。
とはいえ、これまでの講義で、とりあえず、綱吉はお馬鹿将軍ではないことがわかってきました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 儒学に精通していた綱吉だからこそ気づいたのかもしれませんが、忠も孝も日本人にとっては道徳の道へとつながると思います。
記事でも書きましたが、生類憐みの令は、綱吉にとっては自己の理想を実現するための切り札でもありました。これだけのことを考えられる綱吉が愚かなわけがありませんよね。
生類憐みの令は、そういう名前の法令が出されたわけではありません。約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その種類は広い範囲にわたっており、犬に関するものは33件と、全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には、鳥類などを口にしてはいけないという食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは事実です。しかし、法令の底辺にあったのは、まぎれもなく「動物愛護」から「人命尊重」へとつながる確固たる綱吉の意思でした。
例えば犬に関する様々な法令には、先述した野犬化による病原菌のまき散らしを防ぐとともに、人々を襲うようになる前に保護しようという考えがありました。同じく先述した病気になった牛馬をきちんと療養させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
中野の巨大な犬小屋ですが、これは「いくら禁令を出しても捨て犬などの行為が後を絶たないため、幕府でまとめて保護をする」という考えから造られた「野犬化防止施設」でもありました。しかも犬小屋の運営費用は幕府が出す一方で、エサ代は飼い主から出させているのです。
飼っていた犬や猫を捨ててしまうことで野生化し、問題になることは現代でもありますね。それを公費で養う一方で、飼い主にも相応の負担をさせているのですから、綱吉の考え方は結果として現代よりもよっぽど進んでいるといえると思います。




いつも有難うございます。
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JJSG ものすごいたくさん、細かい法律を作ったんですね。
細か過ぎて、理解されなかったのでは、とも思いますが、根底には、ちゃんと考えがあったのですね。
とはいえ、やっぱり細か過ぎて、理解されなかったんだろうなぁ。。。
政治、法律とは難しいものです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 135もある法令は、確かに日常生活の細かいことまで書いてありました。
自らの理想の実現という大きな理想はありましたが、仰るとおり細か過ぎるがゆえに、趣旨が理解されぬままに時間だけがむなしく過ぎていったところが見受けられます。
政治や法律の難しさや限界といったところでしょうか。ただ、長年続いた法令によって、確実に変化していったものもあったのです。
h.hamauzu こんばんは!
天下の悪法のように習った一人です。
黒田先生がここで書いてあるようなことは、
学校の先生方は、もちろんご存知なんでしょうね…?
教えることが多すぎて、深く掘り下げることが出来ないのも有るでしょうが、
果たしてそれだけでしょうか…?
いろいろと勘ぐりたくなりますね…
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 他の先生方にはそれぞれの教え方もありますので、私がとやかく言うべき立場ではないのですが、仰るとおり教えることが多くなると、どうしても表面上のみを取り上げてしまうことになりがちな点があると思います。
浜渦さんのように「勘ぐられない」ように、普段からの努力は欠かさないようにすべきではあると思います(もちろん私を含めて)。
では、生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したという話はどう説明できるのでしょうか。実は、これも真っ赤なウソなのです。
生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間で69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。加えて69件のうち死罪になったのがわずか13件しかなく、流罪(るざい)も12件のみという、伝説を信じ込んできた人々には耳を疑いたくなる現実もあります。
さらに、生類憐みの令を勧めたとされる僧の隆光ですが、隆光が綱吉と面会したのは1686年ですから、それ以前の1685年に発布された生類憐みの令に関係しているはずがないですし、柳沢吉保もこの頃には身分が低く、政治に直接関係する立場ではありませんでした。従って、この二人もある意味「いわれなき罪」を着せられているといえます。
ここまで生類憐みの令に関する真実を追究してきましたが、それよりももっと重要なことに私たちは目を向けなければなりません。何だと思いますか?
それは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。




いつも有難うございます。
先述したように、生類憐みの令以前の江戸時代の社会は、戦国の遺風の影響で殺伐とした雰囲気が残っていました。町では些細(ささい)なことから喧嘩が起きるだけでなく放火や辻斬りが横行し、病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、ゴミは散らかし放題で、動物も役に立たなければ捨てられるというひどい有様でした。
そんな風習が、生類憐みの令によって綺麗さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありました。しかし、年月の経過とともに骨の髄(ずい)にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要だったのも事実なのです。
例えば、戦国時代の武将であった織田信長(おだのぶなが)の領地では、たとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶ「一銭斬り」というとんでもない法令がありました。しかし、この法令があったお陰で、信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長による無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方がよほどマシだと思いませんか?
江戸時代には長屋の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと言われていますが、初期はむしろ全く逆でした。それが綱吉の出した法令によって180度転換し、生命を大切にするとともに、相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、それが現代にまで続いているのです。
ここまで生類憐みの令について色々と述べてきましたが、法令だけで人々の意識を完全に、それも良い方へ変えてしまうなんて、本当に凄いことなんですよ。
しかし、人間は「空気のように当たり前」のことであれば、その原因を忘れてしまうことがよくあります。いずれ別の機会で紹介しますが、織田信長が政教分離(せいきょうぶんり、政治と宗教とを分けて互いに干渉することを禁止すること)を果たしたのと同様に、綱吉の奇跡ともいえる法令による人々の意識の大変革も、歴史の流れの中で忘れ去られてしまっているのです。




いつも有難うございます。
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なみなみ こんばんは。
歴史は一部分だけをつまみとって
どうこう言ってはダメですね。
流れと背景をきちんと把握しないとダメだって
のがよくわかる例だと思いました。
生類憐みの令も、
今の価値判断基準で見ると奇異に映りますが、
当時の世相を鑑みるとある程度理解が出来るんですねー!
今回も、勉強になりました!
marihime 黒田さんこんばんは☆
よく講座で採り上げてくれましたね。
私の調べてたことがそっくり話されていて嬉しく思います。
この後が面白くなりそうで期待してますよ。
そろそろ吉宗が紀州で牙を剥いている時代と重なりそうですね。
ポチ
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スカイラインV35 最近、初心に帰って歴史を学ぼうと思って、NHKの”高校講座 日本史”をインターネットで視たりもしているのですが、その中で確かに”生類憐みの令”は捨て子や病人など弱者の保護や、野犬対策などの(戦国時代の遺風を改める的な)意味も含まれていると出ていました(10/24以前の放送だったのですが、営業妨害になるかと思いコメントは控えていました..)。
それにしても”天下の悪法”と言われていたのに(何百年もかかったとはいえ)時代は変わったのですね。という事は政治とは厳しいもので、ポピュリズムだけではダメという事だと思いました。
えめる どんな事柄も、見る角度を変えるとまったく別の姿が浮かび上がってくる……。
うーん。政治家のお偉いさん達、世の中のオリコウな人たち。いや、みんなだニャ。
歴史、勉強しなおしたらいいと思った。って、いつも言ってる気がする。
歴史って、面白いニャね(^^
歴史が面白いと思えるニャンて、先生のおかげニャ。
物覚えの極端に悪いおねこより。にゃは。
ふぃる 歴史の苦手な息子の為に
ここでのブログで得た知識を息子に披露しようと
時々見せてもらってましたが
私が思ってた生類憐みの令とは全く違ってて
この法令は良かったんだと思いました。
それに約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件って
数字が驚きです!
テレビや歴史の小説などは、すごく多くの人が
処罰や死刑をされてると思ってました。
驚きでしたのでコメントさせて頂きました^^
なみなみさんへ
黒田裕樹 全く仰るとおりです。時代背景や流れが理解できない歴史教育は、単なる暗記科目になってしまいますから、覚えたとしてもすぐに忘れるし、一面からしか歴史を見ないがゆえに、偏った考えが身についてしまいます。
また、一見訳の分からない制度であっても、それを現代の価値観で見るのでなく、当時の事情をよく理解しないと、まさに「木に竹をつぐ」おかしな知識しか得られない。
生類憐みの令が我々に残した課題は、実はとてつもなく大きなものかもしれませんね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 marihimeさんのお考えとほぼ一致しているとは光栄です(^_^)v
この後はしばらくは生類憐みの令から離れて、綱吉の「もう一つの顔」について取り上げる予定ですので、こちらもご期待下さいね(^o^)丿
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 そうですか。NHKでも綱吉の功績が見直されているのは嬉しい限りですね。コメントに関するご配慮、感謝いたしますm(_ _)m
ポピュリズムは一時は庶民の喝采を呼ぶものの、衆愚政治の温床となりがちですから、長い目で見れば、やはり「良薬は口に苦し」という厳しい姿勢も必要ですよね。人間としてのしつけや尊厳と一緒だと思います。
えめるさんへ
黒田裕樹 「自分が偉い人間だ」と思っている人間ほど、実は「世間知らずの歴史知らず」なんですよね。どこかの国のトップがそうであるかのように(笑)。
歴史に関するお言葉、光栄です。でもえめるさんがそう思えるのは、えめるさんご自身が歴史を学ぶ姿勢を完全に自分のものにされつつあるからこそですよ。私はそのきっかけをつくったのに過ぎません。