第一次防衛力整備計画を決定して、我が国の自衛力の強化に努めた岸内閣は「日米新時代」のスローガンを掲げて、片務的な内容だった従来の日米安全保障条約の改定に意欲を見せました。
岸首相の努力もあって、我が国とアメリカは昭和35(1960)年1月にワシントンで「日米相互協力及び安全保障条約(=新安保条約)」を調印しました。新安保条約は、アメリカの日本防衛義務を設けるなど対等な内容に近づけたほか、在日アメリカ軍の軍事行動における事前協議制や、固定有効期限を10年とすることなどが規定されました。
しかし、新安保条約の批准(ひじゅん、全権委員が署名して内容の確定した条約に対して締結権をもつ国家機関が確認のうえ同意を与えること)をめぐって、日本国内で激しい闘争が繰り広げられるようになるのです。
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また、当時の国会で審議されていた警察官職務執行法の強化や、教員の勤務評定などをめぐって、岸信介内閣は革新勢力と対立していましたが、これらと同時期に新安保条約の調印が行われたため、条約を批准する国会審議において与野党の意見が激突しました。
このため、岸内閣はやむを得ず昭和35(1960)年5月19日に衆議院で条約批准案を野党欠席のまま強行採決に踏み切りましたが、これを契機として院外の「安保改正阻止闘争(=安保闘争)」は激しさを増し、安保改定阻止国民会議や全学連(=全日本学生自治会総連合)による10万人を超えるデモ隊が連日のように国会を取り囲むようになりました。
そして、6月15日には全学連主流派の約1万人が国会に乱入し、警官隊と衝突(しょうとつ)して死者を出す惨事となってしまったのです。
新安保条約は参議院の承認を得られぬまま、6月19日に自然成立となりましたが、この騒ぎによって予定されていたアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日が中止されたほか、混乱の責任を取って岸内閣が総辞職しました。
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新安保条約をめぐる闘争は、当時の国論を二分する激しいものとなりましたが、この背景には、新安保条約の発効によって日米間の軍事同盟が強化され、ソ連(現在のロシア)などが目論(もくろ)んでいた日本の共産主義化に大きな影響を与えるという側面があったと考えられています。
しかしながら、日米が対等の関係に近づいた新安保条約によって、アメリカの「核の傘」に入るという選択を強いられながらも我が国の安全保障が飛躍的に高まったことが、その後の平和と繁栄をもたらしたのが歴史の真実なのです。
とはいえ、新安保条約批准以後の歴代自民党政権が、さらに大きな混乱を招きかねない憲法改正や再軍備といった重要な問題を棚上げして、経済成長に偏重(へんちょう)する政策に終始するようになるなど、安保闘争が保守陣営に与えた影響は大きなものがありました。
なお、安保闘争をめぐって意見が対立した社会党右派の西尾末広(ひしおすえひろ)が離党し、昭和35(1960)年1月に民主社会党(後の民社党)を結成しています。
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