自由党総裁でもあった吉田の後を受けて首相になったのは、改進党と自由党の一部が結成して誕生した日本民主党の総裁を務めていた鳩山一郎(はとやまいちろう)でした。鳩山内閣は、自主憲法の制定と自主外交による領土回復、自衛軍の創設などを唱え、自主独立路線を基本として翌昭和30(1955)年2月に行われた衆議院総選挙に臨みました。
しかし、総選挙では、鳩山率いる日本民主党が第一党となり、第二次鳩山内閣が成立したものの、憲法改正や自主防衛に反対する革新勢力が衆議院全体の3分の1以上を占めたため、念願だった憲法改正は事実上不可能となってしまいました。
なぜなら、日本国憲法第96条によって、憲法改正のためには衆議院・参議院でそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成で発議し、さらに国民投票で過半数の賛成を得なければならないからです。結果的に「改憲阻止」に成功した革新勢力でしたが、それまでの流れは決して一筋縄ではありませんでした。
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その後、鳩山一郎が憲法改正を視野に内閣を組織すると、総選挙直前の昭和30(1955)年1月に左右両派がそれぞれ党大会を開き、改憲阻止を名目として結束しました。そして、両派を含む反対派が衆議院で3分の1以上の勢力を擁(よう)したことを受けて、同年10月に党大会を開いて再統一を果たしたのです。
社会党の一連の流れに危機感を募(つの)らせた保守政党の日本民主党と自由党は、同年11月に「保守合同」によって「自由民主党」を結成し、以後は衆参両院で3分の2近くを占める自由民主党が、社会党を中心とする野党と対立するという構図が出来上がりました。これを「55年体制」といいます。
55年体制は、その後も「過半数の議席を得た自由民主党と、それ以外の社会党などの野党」という構図で40年近くも続き、与党となった自由民主党(=自民党)が昭和30年代以降の我が国の政治を担(にな)うこととなりました。
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自主外交路線をめざし、対ソ問題の解決に取り組んでいた鳩山一郎首相は、第三次内閣の時の昭和31(1956)年10月に自らがモスクワを訪問し、ソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」に調印して国交を回復させました。
日ソ共同宣言によって、他の東欧諸国との国交が正常化したほか、ソ連が日本の国連加盟に反対しなくなったので、同年12月に我が国はようやく国際連合への加盟を実現させました。
しかしながら、日ソ共同宣言では領土問題に関して意見の一致を見出すことができなかったため、我が国固有の領土である国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)のいわゆる「北方領土」はいまだに返還されておらず、また、現在のロシアとのあいだには「平和条約」が締結されていません。
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