朝鮮戦争によって、我が国に駐留していたアメリカ軍が国連軍として出動しましたが、その際にアメリカ軍と我が国の業者との間で、国連軍への物資の提供やサービスの調達が直接契約で結ばれました。
この契約は、我が国が戦地に近いこともあって、アメリカ軍から繊維(せんい)・金属・機械などの発注が急増し、巨額の発注高となったほか、対価の大半がドルで支払われたため、日本政府の手持ちの外貨が戦争前の約2億ドルから約9億4000万ドル余りまで一気に増加しました。
かくして、我が国の経済は朝鮮戦争による特需によって急激に上向きとなったのです。これを「特需景気」といいます。
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しかし、もし当時の我が国の工業力などが不足していれば、アメリカ軍を中心とした巨額な発注を到底受けいれることはできなかったでしょう。逆に言えば、戦争という悲劇を経験してもなお高い水準を保っていた我が国の生産力が、特需景気を支えるとともに我が国の経済を復興させたとも言えるのです。
この他、当時の吉田茂(よしだしげる)首相がアメリカのダレスからの再軍備の要請を断ったことも、戦争によって生産を支える人手を失ったり、あるいは経済に多大な負担を強いる軍備によって復興が遅れたりすることを防いだとも考えられますし、また朝鮮戦争そのものは昭和28(1953)年に休戦となりましたが、アメリカの沖縄基地建設に関する需要などによって、特需景気はその後も長期間にわたって続いています。
いずれにせよ、敗戦後の混乱の中で国際競争力に乏(とぼ)しかった我が国の産業に対して、特需景気が巨大な外需をもたらし、日本経済の発展を促(うなが)す基盤(きばん)となったことは間違いないでしょう。
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IMFや世界銀行は「世界金融の公正かつ円滑な運営」を目的として設立されたほか、GATTは加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税の障壁(しょうへき)を取り除くことで「自由で平等な国際貿易を促進する」ことが主な目的でした。
これらは、1930年代から40年代にかけてアメリカやイギリスなどで行われた「ブロック経済」などによって、資源を持たない我が国などが経済的に追いつめられ、第二次世界大戦や大東亜戦争を引き起こす原因の一つとなったことを反省して設立されたものでした。
IMFや世界銀行、あるいはGATTの加盟によって、我が国は経済的な面での国際社会復帰を実現させるとともに、自由主義経済の世界的な一員となったことで、貿易上の問題で戦争が起きることを未然に防ぐという抑止力を手に入れることとなったのです。
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その後、戦争終結によって働き手が増えたことや、生産技術の向上などによってコメの生産が史上空前の豊作を繰り返したことで、昭和30(1955)年頃までにはコメの自給が可能となり、食糧難はようやく克服されました。
また、特需景気によって我が国が経済面での国際社会の復帰を果たしたこともあって、国民の個人所得が増加して消費水準も向上し、物価も安定したほか、公営住宅の供給が進んだことで住宅事情も改善され始めました。
昭和31(1956)年度に発行された我が国の経済白書において、政府が「もはや戦後ではない」と宣言し、当時の国民にも同じような意識が広がったことで、昭和30(1955)年から同32(1957)年にかけて「神武(じんむ)天皇以来」とうたわれた「神武景気」を迎えたのです。
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