我が国における中央集権的な律令国家の確立は、必然的に国家意識を高めることとなり、天武天皇の時代に始められた歴史書の編纂(へんさん)が続けられ、まず和銅5(712)年に「古事記(こじき)」が、続いて養老4(720)年には「日本書紀(にほんしょき)」が完成しました。
古事記は、古くから朝廷に伝えられてきた「帝紀(ていき)」や「旧辞(きゅうじ)」をもとに、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に詠(よ)み習わせた(=暗記させた)内容を、太安万侶(おおのやすまろ)が漢字の音訓を用いて筆録したもので、神話伝承の時代から推古天皇までの物語となっています。
日本書紀は、天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編纂され、チャイナの歴史書の体裁(ていさい)にならって漢文の編年体(へんねんたい)により、神代から持統天皇までの歴史が記載されています。
なお、編年体とは年代を追って出来事を記述していく方法であり、歴史全体の流れがつかみやすくなっています。これに対して、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法は「紀伝体(きでんたい)」と呼ばれ、チャイナの「史記(しき)」などが例として挙げられます。
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今日では、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)・播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県南西部)・豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)・肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県・長崎県)の4か国で風土記の一部が伝えられているほか、出雲国(いずものくに、現在の島根県東部)の風土記はほぼ完全なかたちで残っています。
当時の教育機関としては、官吏(かんり)養成のために中央に「大学(だいがく)」が、諸国には「国学(こくがく)」が置かれ、経書(けいしょ、儒教で重要視される文献の総称)や律令・書道・算術などが教授されました。
また、当時は漢詩文(かんしぶん)の教養が貴族に必要とされました。石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子孫である淡海三船(おうみのみふね)が著名な漢詩文の文人(ぶんじん)として知られており、天平勝宝3(751)年には現存最古の漢詩集である「懐風藻(かいふうそう)」が成立しています。
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万葉集の歌には心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく示されています。また、万葉集は漢字の音訓を巧(たく)みに組み合わせて日本語をあらわした万葉仮名(まんようがな)で表記されているのも大きな特徴です。
万葉集の歌の作者は上記のとおり天皇や貴族、役人から農民や防人、貧しい人々にまで及ぶほか、年齢や地域も様々であり、男女の区別もありません。今から1200年以上も前に、我が国では身分や地域を超えた国民的歌集が完成していたのであり、これは当時の人々が共通の言葉を使い、感動を共有することが出来たことを示しています。
これこそが「和歌の前の平等」であり、すぐれた歌をつくれば立場に関係なく歌集に採用されるという伝統は、毎年の新年に皇居で行われる「歌会始(うたかいはじめ)の儀(ぎ)」において中学生や高校生が招待されることもあるなど、今日も引き継がれています。
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「梅花の歌三十二首の序文」は以下のとおりです。
「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」。
現代語訳すると「季節は初春のよい月で、大気もよく風も穏(おだ)やかになり、梅の花は鏡の前の(美女たちが化粧に使う白い)粉のように(白く)開き、蘭は(身にまとう)装飾品の香りのように薫(かお)っている」となります。
安倍晋三(あべしんぞう)首相(当時)は「令和という元号には、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇(ほこ)る梅の花のように、日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたい、との願いを込めた」と述べています。
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南都六宗とは三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)のことです。このうち律宗は先述した唐の高僧であった鑑真が我が国に戒律を伝えたのが始まりとされています。また、仏教とともに儒教(じゅきょう)の経典(きょうてん)も重んじられました。
当時の仏教は朝廷から厳しい統制を受けていましたが、その一方で先述した行基のように様々な社会事業を行い、多くの民衆に支持された僧もいました。社会事業は「善行(ぜんぎょう)を積むことで福徳(ふくとく)を生む」という仏教思想に基づいており、例えば光明皇后は平城京に「悲田院(ひでんいん)」を設けて孤児(こじ)や病人を収容したり、「施薬院(せやくいん)」を設けて医療を行ったりしています。
なお、仏教が日本社会との結び付きが強くなるにつれて、信仰した結果がこの世において実現し、欲望が達せられるという「現世利益(げんぜりやく)」を求める手段として仏教が活用されたり、神と仏とを同一視する思想である「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」がおこったりしました。
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奈良時代には美術面においても唐の様式を受容して大いに発達し、多くの美術作品がつくられました。建築面では寺院や宮殿に礎石(そせき)や瓦(かわら)が用いられるなどの技術の進歩によって、東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)や唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)などの壮大な建物が建てられました。
彫刻では、表情豊かで調和の取れたものや、写実的ながらも宗教的な雰囲気をかもし出すものが多く造られました。造像(ぞうぞう)の技術も発達し、従来の金銅像(こんどうぞう)や木像のほかに、木を芯(しん)として粘土を塗り固めた塑像(そぞう)や、原型の上に麻布(あさぬの)を漆(うるし)で塗り固めた後に原型を抜き取るなどの技法を用いた乾漆像(かんしつぞう)が用いられました。
塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)が、乾漆像には興福寺(こうふくじ)の阿修羅像(あしゅらぞう)や唐招提寺の鑑真和上像(がんじんわじょうぞう)があり、中でも鑑真和上像は先述のとおり我が国最初の肖像(しょうぞう)彫刻として有名です。
絵画も唐の影響を強く受けており、聖武天皇の時代の宝物(ほうもつ)が寄進された東大寺の正倉院(しょうそういん)に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ、または「とりげりつじょのびょうぶ」)や、薬師寺(やくしじ)の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名です。
また、三角材を横に組んだ校倉造(あぜくらづくり)で建築された正倉院には多数の宝物が完全な状態で今日まで伝えられており、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)や漆胡瓶(しっこへい)などの工芸品の様式や製作技術には、唐のみならずペルシアやローマなどの要素が取り入れられています。
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