4-1.藤原不比等[藤原氏]から長屋王[非藤原氏]へ
天武(てんむ)天皇が崩御された後の、いわゆる飛鳥時代の末期から奈良時代の初期にかけては、皇族や中央の有力貴族がお互いに協力しあって律令制度の確立を目指していましたが、その中で一歩抜けた存在となったのが、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。
659年に生まれた不比等は幼い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後は着実に出世を重ね、大宝元(701)年に大宝律令、養老2(718)年には養老律令の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わるなど、朝廷からの厚い信任を得ました。
当時の朝廷では慶雲4(707)年に文武天皇が崩御されると、先述のとおり文武天皇の母親で天智天皇の娘でもある元明天皇と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正(げんしょう)天皇の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
女性天皇がしばらく続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)には自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる光明子(こうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我(そが)氏と同じ方法で政治の実権を握ることに成功したのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
長屋王が政権を担当してから数年後の神亀元(724)年に、首皇子が聖武(しょうむ)天皇として即位されましたが、長屋王は同じ日に左大臣(さだいじん)に出世しており、政治への発言権がさらに高まりました。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、聖武天皇の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきましたが、そんな折にとんでもない事件が起こってしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、翌神亀5(728)年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
神亀6(729)年旧暦2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は自らの無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
長屋王の変の直後に、光明子は聖武天皇の皇后となりました。皇族以外の人間が皇后になったのは我が国史上初めてのことであり、これ以降の彼女は「光明皇后」と呼ばれることになります。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は武智麻呂(むちまろ)が南家(なんけ)、房前(ふささき)が北家(ほっけ)、宇合(うまかい)が式家(しきけ)、麻呂(まろ)が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
天平9(737)年、九州地方から発生した疫病である天然痘(てんねんとう)が都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
橘諸兄は唐から帰国した留学生の吉備真備や僧の玄ボウ(げんぼう・注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、天平12(740)年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
(注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています)
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
次いで天平15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、天平17(745)年に平城京に都が戻ると場所を移して再開されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして天平勝宝4(752)年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
行基は668年に和泉国大鳥郡(いずみのくにおおとりぐん、現在の大阪府堺市西区)で生まれ、15歳で出家して24歳で受戒(じゅかい、仏の定めた戒律を受けること)すると、飛鳥寺(あすかでら)で10数年修行した後に、40代から民間への布教を始めたほか、橋を架(か)けたり道路を整備したりするなどの土木事業の指導や、貧しい人々に対する社会事業を行いました。
しかし、当時の僧は「寺院の中に籠って、仏の力で国を護ってくれるように祈る」のが一般的であり、寺院を出て様々な活動を行う行基は「異端」の存在であるとして、朝廷から弾圧を受けました。
その後、行基の活躍が民衆が民衆の支持を受けていたことや、大仏造立という国家の一大プロジェクトの実現のためには、むしろ行基と和解して彼の行動力を活用すべきであると判断した朝廷は、天平17(745)年に行基を僧侶の最高職である「大僧正(だいそうじょう)」に任命しました。
行基は全国を行脚して寄付を募るなど大仏造立に積極的に関わりましたが、惜しくも大仏完成前の天平21(749)年に82歳で死去しました。なお、現在の近鉄奈良駅前には「行基広場」があり、行基菩薩(ぼさつ)像が待ち合わせ場所のシンボルとしてよく知られていますが、この像は、彼が心血を注いだ東大寺の大仏殿の方を向いていることでも有名ですね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
聖武天皇が天平勝宝元(749)年に皇女の孝謙(こうけん)天皇に譲位されると、孝謙天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が自分を補佐する役所である紫微中台(しびちゅうだい)を新設して、その長官に藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を就任させました。
この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。天平勝宝8(756)年には朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって橘諸兄に左大臣を辞職させました。また翌天平勝宝9(757)年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ天平勝宝9(757)年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。
この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
天皇に準ずる権力を持つことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に皇族以外で初めて就任しました。
藤原仲麻呂改め恵美押勝の権力が絶頂期にあった755(天平勝宝7)年、唐で安史(あんし)の乱が起きて政情が不安定になりました。これを好機と見た恵美押勝は、長年対立関係にあった新羅を唐が混乱している間に征討(せいとう)しようと計画を進めました。
しかし、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)の戦いの悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
焦(あせ)った恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと天平宝字8(764)年に反乱を計画しましたが未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。
また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島など)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。乱の後、孝謙上皇が重祚(ちょうそ、一度退位された天皇が再び即位されること)されて称徳(しょうとく)天皇となられました。
なお、淳仁天皇は崩御後も称徳天皇のご意向によって長らく天皇と認められず、「廃帝(はいたい)」または「淡路(あわじ)廃帝」と称されました。「淳仁天皇」と追号されたのは明治になってからのことです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
称徳天皇は自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は700年に河内国若江郡(かわちのくにわかえぐん、現在の大阪府八尾市)で生まれ、葛城山(かつらぎさん)などで厳しい修行を積んだほか、修験道(しゅげんどう)や呪術にも優れていたとされています。
仏教勢力を背景として自らの地位を高めた道鏡は、天平神護(てんぴょうじんご)元(765)年に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)となり、翌天平神護2(766)年には法王(ほうおう)に任じられました。
また、天平神護元(765)年にはそれまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐため、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して冷ややかな目で見ておられましたが、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
この当時の女性は、男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そのようなお自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は自らの後継者として僧である道鏡を指名する決意をされました。
ちょうどそのとき、神護景雲3(769)年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は泰平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、その真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は、称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武(じんむ)天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、神護景雲4(770)年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)に追放となり、宝亀(ほうき)3(772)年に73歳で亡くなりました。
称徳天皇が後継をお決めにならずに崩御されたため、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷間で協議されました。右大臣の吉備真備は天武天皇の血を引く臣籍降下した元皇族を推挙しましたが、土壇場(どたんば)で藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)が支持した白壁王(しらかべおう)が光仁(こうにん)天皇として即位されました。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申(じんしん)の乱以来、天武系で占(し)められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。なお、光仁天皇の血統は現代の皇室にも受け継がれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって律令政治の再建が目指されました。なお、藤原百川は四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして、100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは最終的に藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。
ちなみに、称徳天皇と道鏡が禁止した墾田の私有は光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
俗説として一般的に有名なのは「称徳天皇は始めのうち藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まるのですが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力はそんな彼を支持したでしょうか。
それに、称徳天皇が崩御された後に道鏡が下野国に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
加えて、先述したように「道鏡が天皇になろうとした」のではなくではなく「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、また称徳天皇にしても、もし男性と深い関係に陥(おちい)るような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があったとしても、称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを天皇の周囲が許すことは決してなかったでしょう。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。
歴史は正しく伝えられ、かつ評価されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは現代でもよくある話です。
私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら真実を導き出していきたいものですね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。