8世紀の農業は、鉄製の農具の普及が広がるなど進歩を見せました。当時の農民は班給(はんきゅう)された口分田(くぶんでん)を耕作したほか、口分田以外の公(おおやけ)の田である乗田(じょうでん)や、寺社あるいは貴族の土地を原則として1年間借りて耕作し、収穫の5分の1を地子(じし)として朝廷や持ち主に納めました。これを「賃租(ちんそ)」といいます。
農民の生活は、調(ちょう)や庸(よう)あるいは雑徭(ぞうよう)に加えて兵役の負担に苦しみ、また疫病(えきびょう)の流行や凶作による影響もあって、口分田を捨てて本籍地から他国へ浮浪(ふろう)したり、あるいは完全に姿をくらませて逃亡(とうぼう)し、地方豪族などのもとに身を寄せたりする者が後を絶ちませんでした。
なお、浮浪は他国に移住しているものの所在が明らかになっており、調や庸を納めるのに対して、逃亡は所在そのものが不明で調や庸を納めないという違いがあります。また、男性に比べて女性のほうが税負担などの軽減があったためか、戸籍の性別や年齢を偽(いつわ)るという「偽籍(ぎせき)」も行われました。
ちなみに、当時の農民の生活の窮乏(きゅうぼう)ぶりは、山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」に収められています。
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なぜなら、いくら計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、朝廷は翌養老7(723)年に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」を発布しました。
これは、新たに灌漑(かんがい)施設を設けて未開地を開墾した場合は三世(さんぜ)にわたり、旧来の灌漑用地を再開発した場合は本人一代を限りに田地(でんち)の保有を認めるというものでしたが、それでも開墾はなかなか進みませんでした。
確かに自分の代や三世の間は所有が認められますが、いずれは国に返還しなければならないことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうからです。自分が汗水たらして開墾した土地は、やはり自分の子孫のものにしたいのが人情というものですからね。
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これによって田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。
有力な貴族や東大寺などの大寺院は地方の豪族らの協力のもとに広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大していきました。これを「初期荘園(しょきしょうえん)」といいます。
なお、当時の私有地の管理のための事務所や倉庫が「荘(しょう)」と呼ばれたことから、やがて周囲の墾田を含めて「荘園」と呼ばれるようになりました。新たに開墾された荘園には多くの浮浪人が流れ込んだほか、班田農民が先述した賃租によって荘園を耕作することもありました。
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