徳川綱吉は1646年、第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の四男として生まれました。1651年に家光が死んで、子の徳川家綱(とくがわいえつな)が第4代将軍になると、綱吉は将軍の弟として上野国(こうずけのくに、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。
しかし1680年、家綱が子をなさぬままに重病となってしまいました。家綱の弟のうち、成人したのは家光の三男の徳川綱重(とくがわつなしげ)と四男の綱吉だけでしたが、綱重は2年前の1678年に死去し、綱重の子である徳川綱豊(とくがわつなとよ)がまだ若かったので、綱吉が将軍後継に一番近いと考えられていました。
ところが、時の大老(たいろう)であった酒井忠清(さかいただきよ)が、こともあろうに朝廷から宮将軍を招いて第5代将軍にすると宣言しました。この計画は、当時の老中(ろうじゅう)の堀田正俊(ほったまさとし)によって阻止(そし)され、綱吉が無事に将軍職を継ぐことになったのですが、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
鎌倉幕府における北条氏(ほうじょうし)の執権(しっけん)と同じ路線をたどろうとした酒井忠清の野望という見方も確かにありますが、実は綱吉には将軍職として「ふさわしくない」と考えられたという一面も存在していました。それは一体何だったのでしょうか?
間接的な「証拠」が愛知県に今でも残されています。




いつも有難うございます。
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オバrev えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
> 家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
酒井忠清が全盛期の頃には、世の中が平和になって将軍自体の権力が薄れたことで、徳川家が完全に「飾り物」扱いになっていたんですね。こうなると古(いにしえ)の源氏と北条氏の関係と同様に、忠清ら幕閣が事実上の支配者になろうとしたと考えられます。
但し、鎌倉幕府と決定的に違うところは、徳川家にはれっきとした家康直系の後継者がいたことです。
愛知県岡崎市にある大樹寺(たいじゅじ)は、徳川家の菩提寺(ぼだいじ)としても有名であり、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌(いはい)が安置されていますが、このうち位牌については、各将軍の臨終(りんじゅう)の際の身長に合わせてつくられたとされています。
綱吉の位牌も当然安置されていますが、その長さが実は約124cmしかないのです。幼年で亡くなった第7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)を除けば、際立って低い数字です。
綱吉の悪政で庶民が迷惑を受けたから、嫌がらせでワザと低くしたとも考えられそうですが、徳川家ゆかりの寺がそんな曲がった考えで位牌をつくるわけがありません。有力な説として考えられるのは、綱吉が低身長症(ていしんちょうしょう)を患(わずら)っていた、ということです。
低身長症は成長ホルモンが正常に分泌(ぶんぴつ)されなくなることで身長が伸びなくなる病気であり、現代でも患っている人々がおられます。ただ、低身長症自体は身長が低いことを除けばそれ以外は健康体であることも多く、日常生活に何ら差し支えることはありません。
当然将軍職のような激務もこなせるはずなのですが、厳しい身分による制限のあった江戸時代は、現代では決してあってはならない「差別が当然」の世の中でもありました。従って、綱吉の低身長が「将軍としてふさわしくない」と一方的に決め付けられた可能性が高いのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
昨日は動画を拝見出来ませんでしたので、
とりあえず、黒田さんのブログにUPしている動画を
今日は一気に鑑賞させていただきました^^
綱吉に関しての様々な謎の部分が次第に明確になって来て、楽しく拝見させていただきました♪
ありがとうござます!
確かに現代でも「低身長症」でお悩みの方はいらっしゃいますものね。。
それでも、身長が低いくらいなら、まだしも、五体不満足でもしっかりとご活躍している方も
いらっしゃいますものね。
綱吉の今後の展開も、楽しみにまた、
勉強させてくださいね^^
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お忙しい中、ご覧下さって有難うございます!(^o^)丿
お言葉、ごもっともだと思います。現代でも様々なハンデを乗り越えてご活躍の方がたくさんおられるだけに、当時の世相の偏りが残念でならないですね。
綱吉に関する謎については、これからますます明らかになると思いますので、どうぞご期待下さい!(^_^)v
こみー こんばんわー☆
久しぶりです(^_^;)
・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
では、失礼します~。
MAHHYA 今では、「障害者団体」が、騒ぎ出しそうな差別が、昔は平気で行われていたんですね・・・。
人権なんて、第二次世界大戦後、何十年かの歴史しかないもの・・・。
それでも、人間ってどこかに「差別意識」を持ってしまうものなのかも・・・と、思うことがあります。
低身長でも、別にいいじゃないか!!と、言いたいですね(>_<)
赤岡町とさを いつも訪問ありがとうございます
ゆっくり拝見する機会が少ないのですが
また折々遊びにきます
こみーさんへ
黒田裕樹 > こんばんわー☆
> 久しぶりです(^_^;)
どうもお久しぶりです(^o^)丿
> ・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
> ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
> そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
歴史が面白くなるきっかけというのはいろいろありますよね。
たとえどんなことがあったとしても、立派に与えられた地位をまっとうできる。
それもまた人間なんですよね。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 江戸時代のような固定された身分社会では、差別がむしろ当たり前でした。そんな中でハンディキャップがあったというのは本当に大変だったと思います。
綱吉に対する我々の眼を曇らせているのも、いわれなき差別の幻なのかもしれませんね。
赤岡町とさをさんへ
黒田裕樹 こちらこそご訪問有難うございます。
とまとさんのブログでのご活躍は素晴らしかったですね(^_^)v
また是非お越し下さいm(_ _)m
おばか
JJSG 身長が高ければ将軍が務まるわけでもあるまいし。。。
お馬鹿な考えだなぁ。。。と。
JJSGさんへ
黒田裕樹 全くその通りだと思います。
一人の人間を、その一面だけでしか評価できないようなことがあってはならないのですから。
徳川家の正当な後継者でありながら、危うく将軍になり損ねそうになった綱吉ですが、ピンチはチャンスでもありました。堀田正俊を除けば自分を将軍後継に推さなかった人間ばかりが政権についているわけですから、遠慮することなく自分の思いどおりの政治をすることができたのです。
綱吉は将軍に就任すると、功労のあった堀田正俊を大老にする一方で、それまで大老だった酒井忠清や、他の老中を全員辞めさせました。また、酒井忠清の裁量で決着していた越後国(えちごのくに、現在の新潟県の本州部分)の高田藩のお家騒動を調べ直し、結果として高田藩を取り潰して関係者を厳罰に処しました。
綱吉が次々と打ち出す厳しい姿勢に、幕閣(ばっかく)も御三家(ごさんけ)も震え上がりました。こうして周囲を自分の実力で黙らせた綱吉は、自己の理想に燃えた政治を展開していくのです。
そのバックボーンは儒学(じゅがく)であり、キーワードは「忠孝」(ちゅうこう)でした。
なぜなら、江戸幕府を創設した徳川家康(とくがわいえやす)以来の「負の遺産」が、約80年経っても厳然(げんぜん)と残っていたからです。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
綱吉が何代将軍なのか一生懸命思い出してみましたが
おいらのショボイメモリは壊れておりました。
ただ家光の息子だったような記憶が・・・。
そうなると15代続いた徳川将軍の中では
古い方だということしか浮かばない。
┐(´д`)┌ヤレヤレ 年は取りたくないですw
淀君
オバrev 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
淀君の怨念では?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 綱吉は第5代将軍ですよ。家光の息子であることは正解です。
詳しくはこちらの記事をご覧下さいね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-270.html
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
そうですね。役に立たない存在であるのなら仕方ないのかもしれませんが、粛清じみたことをやりすぎると、後が恐いような気もします。
> 家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
> 淀君の怨念では?
少し時代が古すぎるようですね(^^ゞ
次回の記事以降で明らかになりますよ。