大宝律令(たいほうりつりょう)を大宝元(701)年に制定された42代の文武(もんむ)天皇が慶雲(けいうん)4(707)年に25歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、後継とされた文武天皇の子である首皇子(おびとのみこ)が7歳とまだ幼かったので、文武天皇の母親で天智(てんじ)天皇の娘でもある阿閇皇女(あへのひめみこ)が中継ぎで43代の元明(げんめい)天皇として即位されました。
元明天皇は和銅(わどう)3(710)年に都をそれまでの藤原京(ふじわらきょう)から奈良の平城京(へいじょうきょう)へと遷(うつ)されました。この後、延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京に遷都(せんと)されるまでの80余年間を「奈良時代」といいます。
平城京はチャイナの唐(とう)の首都である長安(ちょうあん、現在の西安)にならってつくられており、碁盤(ごばん)の目のように東西南北に走る道路で整然と区画されていました。これを条坊制(じょうぼうせい)といいます。都は中央を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)によって東の左京(さきょう)と西の右京(うきょう)とに分けられ、北部の中央には平城宮(へいじょうきゅう、または「へいぜいぐう」)が位置していました。
平城京の内部には貴族などの邸宅のほか、飛鳥(あすか)から移された大安寺(だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)などの寺院や、市司(いちのつかさ)が管理した官営の市(いち)が設けられ、大いに賑(にぎ)わいました。市では地方から運ばれた特産物や、官吏(かんり)たちに現物給与された布や糸などが交換されました。なお、市は左京と右京に分かれており、それぞれ東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)と呼ばれました。
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これをきっかけとして、朝廷は全国への普及を目指した新しい銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)しました。いわゆる「和同開珎(わどうかいちん、または「わどうかいほう」)」のことです。ちなみに、我が国初の銭貨は前回(第96回)の講座で紹介した7世紀の富本銭(ふほんせん)ですが、和同開珎は我が国で最初に実際に流通した貨幣とされています。
朝廷では銭貨の流通を目指して和銅4(711)年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出し、貯蓄した額に応じて位階(いかい)を与えるなどの施策(しさく)を行いましたが、銭貨は都や畿内(きない)などでわずかに流通したに過ぎず、地方では相変わらずコメや布などの物品によって交易が行われました。
ちなみに、朝廷では和同開珎の後も天徳(てんとく)2(958)年に発行された乾元大宝(けんげんたいほう)まで12回にわたって銅銭の鋳造が続けられました。これらをまとめて「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」または「本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)」といいます。
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国司(こくし)の政務地であり、地方に置かれた国府(こくふ)には様々な設備が設けられ、一国内の政治や経済の中心地となりました。国府の近くには後に国分寺(こくぶんじ)が建立(こんりゅう)され、こちらは文化的な中心となりました。また、各郡の郡司(ぐんじ)の政務の拠点となった郡家(ぐうけ、または郡衙=ぐんが)も置かれました。
鉱山の開発や農具の改良とそれに伴う農地の拡大、織物技術の向上による生産性の増大などで国力を充実させた朝廷は、奥羽地方の経営と蝦夷(えみし)の平定を進めました。7世紀に日本海側に渟足柵(ぬたりのき、または「ぬたりのさく」)や磐舟柵(いわふねのき、または「いわふねのさく」)を設けると、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣しました。
8世紀に入ると、和銅5(712)年に日本海側に出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県)が置かれ、天平(てんぴょう)5(733)年には秋田城(あきたじょう、現在の秋田県秋田市)が築かれました。また神亀(じんき)元(724)年には太平洋側に陸奥国(むつのくに、現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県)の国府となる多賀城(たがじょう、現在の宮城県多賀城市)が築かれ、秋田城とともに政治や軍事の拠点となりました。
一方、九州南部では隼人(はやと)と呼ばれた人々を服属させて、和銅6(713)年に大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)を設置しました。また、種子島(たねがしま)や屋久島(やくしま)などの南西諸島も服属させて、朝廷と交易する関係となりました。
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