大宝律令(たいほうりつりょう)を大宝元(701)年に制定された42代の文武(もんむ)天皇が慶雲(けいうん)4(707)年に25歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、後継とされた文武天皇の子である首皇子(おびとのみこ)が7歳とまだ幼かったので、文武天皇の母親で天智(てんじ)天皇の娘でもある阿閇皇女(あへのひめみこ)が中継ぎで43代の元明(げんめい)天皇として即位されました。
元明天皇は和銅(わどう)3(710)年に都をそれまでの藤原京(ふじわらきょう)から奈良の平城京(へいじょうきょう)へと遷(うつ)されました。この後、延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京に遷都(せんと)されるまでの80余年間を「奈良時代」といいます。
平城京はチャイナの唐(とう)の首都である長安(ちょうあん、現在の西安)にならってつくられており、碁盤(ごばん)の目のように東西南北に走る道路で整然と区画されていました。これを条坊制(じょうぼうせい)といいます。都は中央を南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)によって東の左京(さきょう)と西の右京(うきょう)とに分けられ、北部の中央には平城宮(へいじょうきゅう、または「へいぜいぐう」)が位置していました。
平城京の内部には貴族などの邸宅のほか、飛鳥(あすか)から移された大安寺(だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)などの寺院や、市司(いちのつかさ)が管理した官営の市(いち)が設けられ、大いに賑(にぎ)わいました。市では地方から運ばれた特産物や、官吏(かんり)たちに現物給与された布や糸などが交換されました。なお、市は左京と右京に分かれており、それぞれ東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)と呼ばれました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これをきっかけとして、朝廷は全国への普及を目指した新しい銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)しました。いわゆる「和同開珎(わどうかいちん、または「わどうかいほう」)」のことです。ちなみに、我が国初の銭貨は前回(第96回)の講座で紹介した7世紀の富本銭(ふほんせん)ですが、和同開珎は我が国で最初に実際に流通した貨幣とされています。
朝廷では銭貨の流通を目指して和銅4(711)年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出し、貯蓄した額に応じて位階(いかい)を与えるなどの施策(しさく)を行いましたが、銭貨は都や畿内(きない)などでわずかに流通したに過ぎず、地方では相変わらずコメや布などの物品によって交易が行われました。
ちなみに、朝廷では和同開珎の後も天徳(てんとく)2(958)年に発行された乾元大宝(けんげんたいほう)まで12回にわたって銅銭の鋳造が続けられました。これらをまとめて「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」または「本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
国司(こくし)の政務地であり、地方に置かれた国府(こくふ)には様々な設備が設けられ、一国内の政治や経済の中心地となりました。国府の近くには後に国分寺(こくぶんじ)が建立(こんりゅう)され、こちらは文化的な中心となりました。また、各郡の郡司(ぐんじ)の政務の拠点となった郡家(ぐうけ、または郡衙=ぐんが)も置かれました。
鉱山の開発や農具の改良とそれに伴う農地の拡大、織物技術の向上による生産性の増大などで国力を充実させた朝廷は、奥羽地方の経営と蝦夷(えみし)の平定を進めました。7世紀に日本海側に渟足柵(ぬたりのき、または「ぬたりのさく」)や磐舟柵(いわふねのき、または「いわふねのさく」)を設けると、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣しました。
8世紀に入ると、和銅5(712)年に日本海側に出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県)が置かれ、天平(てんぴょう)5(733)年には秋田城(あきたじょう、現在の秋田県秋田市)が築かれました。また神亀(じんき)元(724)年には太平洋側に陸奥国(むつのくに、現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県)の国府となる多賀城(たがじょう、現在の宮城県多賀城市)が築かれ、秋田城とともに政治や軍事の拠点となりました。
一方、九州南部では隼人(はやと)と呼ばれた人々を服属させて、和銅6(713)年に大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)を設置しました。また、種子島(たねがしま)や屋久島(やくしま)などの南西諸島も服属させて、朝廷と交易する関係となりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
中国大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡り、特に吉備真備(きびのまきび)や僧の玄ボウ(げんぼう・注)は、帰国後に我が国の政界で活躍しました。
白村江の戦いを経て我が国との国交を回復させた新羅でしたが、8世紀に入ると新羅が我が国と対等の態度を示すようになり、両国の関係が悪化した一方で、貿易の利を求めて民間商人たちによる交易が引き続き行われました。
また、698年には旧高句麗(こうくり)領を含む中国東北部に渤海(ぼっかい)が建国されました。渤海は唐や新羅と対立することが多く、我が国へ支援を求めて神亀4(727)年に使節を派遣して国交を求めたのをきっかけとして友好的な関係が結ばれ、日本海では交易が活発に行われました。まさに「敵の敵は味方」ですね。
(注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています)
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
養老(ようろう)元(717)年に吉備真備らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得ましたが、才能が高かったゆえに、皇帝がなかなか仲麻呂の帰国を許しませんでした。
やがて、入唐した遣唐大使(けんとうたいし)の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らの要請によって、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5(753)年にようやく仲麻呂の帰国が許されましたが、清河らとともに彼を乗せた船が無情にも暴風雨にあって難破し、安南(あんなん、今のベトナム)に漂着しました。
命からがら長安まで戻った仲麻呂はその後もついに帰国することなく、神護景雲(じんごけいうん)4(770)年に唐で73歳の生涯を閉じました。
そんな彼が残した望郷の和歌は「小倉百人一首」にも取り上げられ、長く我が国で知られています。
「天(あま)の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
仏教を学ぶ際に重要であった戒律(かいりつ)を日本に広めるために、我が国の留学僧が鑑真を訪問しました。鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決意しました。
しかし、鑑真のような高僧が日本へ渡るということは、大変な苦難を伴いました。弟子たちの密告などによってことごとく失敗し、ようやく船に乗ったと思ったら嵐にあって難破してしまいました。5度にわたる渡日に失敗するうちに、鑑真の両目は失明状態になったと伝えられています。
752(天平勝宝4)年に遣唐大使の藤原清河らが来唐し、翌年に帰国する際に、鑑真は船に同乗させてくれるよう依頼しましたが、渡日を許さない玄宗皇帝の意を受けた藤原清河はこれを拒否しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、天平宝字(てんぴょうほうじ)7(763)年に76歳の生涯を終えました。ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう)は我が国最初の肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされています。
余談ですが、大伴古麻呂は唐における753(天平勝宝5)年の新年の儀式の際に、我が国の席次が新羅より下になっていることに対して猛烈に抗議し、結果的に席次を入れ替えさせたというエピソードが残っています。
席次の件といい、また鑑真を密かに渡日させたことといい、気骨(きこつ)ある人物でなければ外交官は務まらないのは今も昔も同じなのかもしれませんね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
8世紀の農業は、鉄製の農具の普及が広がるなど進歩を見せました。当時の農民は班給(はんきゅう)された口分田(くぶんでん)を耕作したほか、口分田以外の公(おおやけ)の田である乗田(じょうでん)や、寺社あるいは貴族の土地を原則として1年間借りて耕作し、収穫の5分の1を地子(じし)として朝廷や持ち主に納めました。これを「賃租(ちんそ)」といいます。
農民の生活は、調(ちょう)や庸(よう)あるいは雑徭(ぞうよう)に加えて兵役の負担に苦しみ、また疫病(えきびょう)の流行や凶作による影響もあって、口分田を捨てて本籍地から他国へ浮浪(ふろう)したり、あるいは完全に姿をくらませて逃亡(とうぼう)し、地方豪族などのもとに身を寄せたりする者が後を絶ちませんでした。
なお、浮浪は他国に移住しているものの所在が明らかになっており、調や庸を納めるのに対して、逃亡は所在そのものが不明で調や庸を納めないという違いがあります。また、男性に比べて女性のほうが税負担などの軽減があったためか、戸籍の性別や年齢を偽(いつわ)るという「偽籍(ぎせき)」も行われました。
ちなみに、当時の農民の生活の窮乏(きゅうぼう)ぶりは、山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」に収められています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、いくら計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、朝廷は翌養老7(723)年に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」を発布しました。
これは、新たに灌漑(かんがい)施設を設けて未開地を開墾した場合は三世(さんぜ)にわたり、旧来の灌漑用地を再開発した場合は本人一代を限りに田地(でんち)の保有を認めるというものでしたが、それでも開墾はなかなか進みませんでした。
確かに自分の代や三世の間は所有が認められますが、いずれは国に返還しなければならないことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうからです。自分が汗水たらして開墾した土地は、やはり自分の子孫のものにしたいのが人情というものですからね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これによって田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。
有力な貴族や東大寺などの大寺院は地方の豪族らの協力のもとに広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大していきました。これを「初期荘園(しょきしょうえん)」といいます。
なお、当時の私有地の管理のための事務所や倉庫が「荘(しょう)」と呼ばれたことから、やがて周囲の墾田を含めて「荘園」と呼ばれるようになりました。新たに開墾された荘園には多くの浮浪人が流れ込んだほか、班田農民が先述した賃租によって荘園を耕作することもありました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
4-1.藤原不比等[藤原氏]から長屋王[非藤原氏]へ
天武(てんむ)天皇が崩御された後の、いわゆる飛鳥時代の末期から奈良時代の初期にかけては、皇族や中央の有力貴族がお互いに協力しあって律令制度の確立を目指していましたが、その中で一歩抜けた存在となったのが、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子である藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。
659年に生まれた不比等は幼い頃に父である鎌足を亡くしましたが、成年後は着実に出世を重ね、大宝元(701)年に大宝律令、養老2(718)年には養老律令の編纂(へんさん)事業に携(たずさ)わるなど、朝廷からの厚い信任を得ました。
当時の朝廷では慶雲4(707)年に文武天皇が崩御されると、先述のとおり文武天皇の母親で天智天皇の娘でもある元明天皇と、元明天皇の娘で文武天皇の妹でもあり、皇室の血を引く元正(げんしょう)天皇の二人の女性天皇が相次(あいつ)いで即位されました。
女性天皇がしばらく続いたことは、結果として不比等の存在を朝廷内で大きくしました。さらに不比等は娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇に嫁(とつ)がせると、二人の間に産まれた首皇子(おびとのみこ)には自分の娘で宮子の異母妹(いぼまい、母親のちがう妹のこと)にあたる光明子(こうみょうし)をさらに嫁がせて、皇室と密接な関係を築きました。
こうして不比等は自分の血を引く娘を皇室に嫁がせることで自らの地位を固めるという、かつての蘇我(そが)氏と同じ方法で政治の実権を握ることに成功したのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
長屋王が政権を担当してから数年後の神亀元(724)年に、首皇子が聖武(しょうむ)天皇として即位されましたが、長屋王は同じ日に左大臣(さだいじん)に出世しており、政治への発言権がさらに高まりました。
巻き返しを図りたい藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、聖武天皇の后(きさき)であり、自分らの妹でもある光明子を皇后(こうごう)にしようと計画しました。
皇后は天皇の代わりに政治が行えるほか、場合によっては自らが天皇として即位できるという大変重い地位でした。しかし、律令では「皇后は皇族に限る」と明記されており、藤原氏出身の光明子が皇后になれる資格はなく、長屋王もそれを理由に四兄弟の願いを退けました。
このこともあって、長屋王と藤原四兄弟との仲は次第に険悪になっていきましたが、そんな折にとんでもない事件が起こってしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、翌神亀5(728)年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
神亀6(729)年旧暦2月、天皇に対する反逆の罪で邸宅を軍勢に取り囲まれた長屋王は自らの無実を訴えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を「長屋王の変」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
長屋王の変の直後に、光明子は聖武天皇の皇后となりました。皇族以外の人間が皇后になったのは我が国史上初めてのことであり、これ以降の彼女は「光明皇后」と呼ばれることになります。
藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は武智麻呂(むちまろ)が南家(なんけ)、房前(ふささき)が北家(ほっけ)、宇合(うまかい)が式家(しきけ)、麻呂(まろ)が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。彼らには過酷な運命が待っていたのです。
天平9(737)年、九州地方から発生した疫病である天然痘(てんねんとう)が都の平城京でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然に、当時の朝廷では「長屋王のタタリが起こった」と恐怖におびえました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
橘諸兄は唐から帰国した留学生の吉備真備や僧の玄ボウ(げんぼう・注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、天平12(740)年に北九州の大宰府(だざいふ)で大規模な反乱を起こしました。これを「藤原広嗣の乱」といいます。
乱自体は間もなく平定されたものの、相次ぐ凶事や政情不安に動揺された聖武天皇は、平城京から山背国相楽郡(やましろのくにそうらくぐん、現在の京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(せっつのくになにわ、現在の大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(おうみのくにこうかぐん、現在の滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と相次いで都を遷(うつ)されました。
そして、長屋王のタタリを鎮(しず)め、政情不安をなくすためには仏教への信仰を深めることが大切と考えられた聖武天皇は、仏教に国家を守る力があるとする鎮護国家(ちんごこっか)の思想のもとに、仏教の興隆を政策の最重要課題とされました。
(注:玄ボウの「ボウ」の字は正しくは「日+方」ですが、機種依存文字のためにカタカナで表記しています)
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
次いで天平15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。
当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんどうぶつ)の造立は、天平17(745)年に平城京に都が戻ると場所を移して再開されました。
8世紀当時の最新の技術によって造られた大仏は、約10年の歳月を費やして天平勝宝4(752)年にようやく完成し、東大寺(とうだいじ)で僧侶(そうりょ)1万人が参列した盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
行基は668年に和泉国大鳥郡(いずみのくにおおとりぐん、現在の大阪府堺市西区)で生まれ、15歳で出家して24歳で受戒(じゅかい、仏の定めた戒律を受けること)すると、飛鳥寺(あすかでら)で10数年修行した後に、40代から民間への布教を始めたほか、橋を架(か)けたり道路を整備したりするなどの土木事業の指導や、貧しい人々に対する社会事業を行いました。
しかし、当時の僧は「寺院の中に籠って、仏の力で国を護ってくれるように祈る」のが一般的であり、寺院を出て様々な活動を行う行基は「異端」の存在であるとして、朝廷から弾圧を受けました。
その後、行基の活躍が民衆が民衆の支持を受けていたことや、大仏造立という国家の一大プロジェクトの実現のためには、むしろ行基と和解して彼の行動力を活用すべきであると判断した朝廷は、天平17(745)年に行基を僧侶の最高職である「大僧正(だいそうじょう)」に任命しました。
行基は全国を行脚して寄付を募るなど大仏造立に積極的に関わりましたが、惜しくも大仏完成前の天平21(749)年に82歳で死去しました。なお、現在の近鉄奈良駅前には「行基広場」があり、行基菩薩(ぼさつ)像が待ち合わせ場所のシンボルとしてよく知られていますが、この像は、彼が心血を注いだ東大寺の大仏殿の方を向いていることでも有名ですね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
聖武天皇が天平勝宝元(749)年に皇女の孝謙(こうけん)天皇に譲位されると、孝謙天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が自分を補佐する役所である紫微中台(しびちゅうだい)を新設して、その長官に藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を就任させました。
この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と倒していきました。天平勝宝8(756)年には朝廷を誹謗(ひぼう、悪口を言うこと)したという密告によって橘諸兄に左大臣を辞職させました。また翌天平勝宝9(757)年には皇太子であった道祖王(ふなどおう)をその地位から引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王(おおいおう)を皇太子に立てました。
これらの動きに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が、同じ天平勝宝9(757)年に仲麻呂を除こうと反乱を企(くわだ)てましたが、事前に発覚して失敗しました。
この事件を「橘奈良麻呂の乱」といいます。かくして自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂は、ますます自己の権力を高めていきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
天皇に準ずる権力を持つことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に皇族以外で初めて就任しました。
藤原仲麻呂改め恵美押勝の権力が絶頂期にあった755(天平勝宝7)年、唐で安史(あんし)の乱が起きて政情が不安定になりました。これを好機と見た恵美押勝は、長年対立関係にあった新羅を唐が混乱している間に征討(せいとう)しようと計画を進めました。
しかし、仮に新羅征討に成功したとしても、やがて勢力を立て直した唐によって巻き返されるのは必至なうえに、我が国が唐に攻め込まれる口実を与えてしまいかねないという極めて危険なものであったことから、およそ100年前に起きた白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)の戦いの悲劇をまた繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が次第に高まりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
焦(あせ)った恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと天平宝字8(764)年に反乱を計画しましたが未然に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。
また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位となり、淡路国(あわじのくに、現在の兵庫県淡路島など)に追放されました。これらの事件を「恵美押勝の乱」といいます。乱の後、孝謙上皇が重祚(ちょうそ、一度退位された天皇が再び即位されること)されて称徳(しょうとく)天皇となられました。
なお、淳仁天皇は崩御後も称徳天皇のご意向によって長らく天皇と認められず、「廃帝(はいたい)」または「淡路(あわじ)廃帝」と称されました。「淳仁天皇」と追号されたのは明治になってからのことです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
称徳天皇は自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は700年に河内国若江郡(かわちのくにわかえぐん、現在の大阪府八尾市)で生まれ、葛城山(かつらぎさん)などで厳しい修行を積んだほか、修験道(しゅげんどう)や呪術にも優れていたとされています。
仏教勢力を背景として自らの地位を高めた道鏡は、天平神護(てんぴょうじんご)元(765)年に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)となり、翌天平神護2(766)年には法王(ほうおう)に任じられました。
また、天平神護元(765)年にはそれまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐため、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して冷ややかな目で見ておられましたが、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
この当時の女性は、男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。