また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン-沖縄-日本-アリューシャン列島までであり、それ以外の地域は責任を持たない」と発言しました(これを「アチソンライン」といいます)。
アチソンラインの意味を「韓国はアメリカの防衛圏内ではない」と判断したソ連のスターリンが、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)に韓国への侵略を指示すると、同年6月25日に北朝鮮軍が突然38度線を越えて韓国へ侵攻を開始しました。いわゆる「朝鮮戦争」の始まりです。
開戦3日後の6月28日に韓国軍を撃破した北朝鮮軍が、韓国の首都であるソウルを占領すると、国際連合の安全保障理事会は、北朝鮮を侵略国とみなして即時停戦を要求する決議を採択し(拒否権を持つ常任理事国のソ連は欠席でした)、マッカーサーを総指揮官とする「国連軍」を結成しました。
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しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、その後の戦局は一進一退を繰り返しました。
ところで、この朝鮮戦争を通じて、マッカーサーは「日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地であったか」ということを嫌(いや)というほど思い知らされました。
なぜなら、北方から強大な勢力が朝鮮半島に現れた際に、半島を守らなければ日本の安全が保障できないうえに、朝鮮半島から敵の勢力を完全に追い払おうと思えば、それこそ満州(現在の中国東北部)に出て行かざるを得ないということが、自分がその立場に追い込まれて初めて分かったからです。
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解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上院軍事外交合同委員会において、以下のように証言しています。
「日本が戦争へと向かった動機は、その大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった」。
それにしても、これだけの重要な証言が、教科書を含めた我が国の歴史教育においてほとんど知らされていないというのは、いったいどういうことでしょうか。
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その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調印されました。
朝鮮戦争による死傷者は、民間人を含めれば数百万人にまで及ぶ膨大(ぼうだい)な数となりました。また、朝鮮戦争はあくまでも「休戦中」であり、北朝鮮と韓国との間はいまだに戦闘状態が継続されています。
また、朝鮮戦争のドサクサに紛(まぎ)れて、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領が、1952(昭和27)年に国際法を無視して沿岸から60海里(カイリ)までの権利を主張し(これを「李承晩ライン」といいます)、我が国固有の領土である竹島もラインの中に含まれるとして強引に占領しました。これ以降、韓国はいまだに竹島への不法占拠を続けています。
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朝鮮戦争によって、終戦までの我が国の安全保障の真意をようやく悟(さと)ったアメリカは、それまでの占領方針を大きく転換して、反共政策をとるようになりました。
多くのアメリカ軍が朝鮮半島へ出動することで、日本に軍事力の空白ができることを恐れたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭和25(1950)年に我が国に「警察予備隊」の設置を指令しました。これが自衛隊のルーツとなります。
また、戦後の強引な公職追放によって、各界において左翼勢力が大幅に増加していましたが、これを危惧(きぐ)したGHQが、朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)直前に共産党幹部全員を公職から追放すると、第三次吉田茂内閣によって追放の範囲が広げられ、官公庁から民間企業まで多くの共産主義者が追放されました。これを「レッド=パージ」といいます。
レッド=パージの拡大に伴って、服役中の戦犯容疑者の釈放や各界保守層の公職追放解除が進められましたが、以前にも述べたように、一度追放された者が同じ職に復帰することは難しく、各層の左傾化の流れを止めるには至りませんでした。
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