国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、第一次世界大戦後の1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、国際平和を維持するための具体的かつ有効的な措置(そち)を取り得ぬまま、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)してしまいました。
こうした流れを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心とした戦争終結後の国際秩序構築への動きが高まり、1945(昭和20)年6月に開かれたサンフランシスコ連合国会議で調印された「国際連合憲章」に基づき、同年10月に、第二次世界大戦の戦勝国である51か国を原加盟国として「国際連合」が発足しました。
先の国際連盟の反省に基づいて、国際連合では侵略国に対して国際連合軍(=国連軍)を組織し、紛争解決のために対処し得るものとされました。
しかし、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連(後のロシア)・中華民国(後に中華人民共和国に交代)に拒否権があるため、大国同士の利害の衝突(しょうとつ)がしばしば起きています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
このため、国際連合すなわち「United Nations(連合国)」には、日本やドイツなど旧枢軸(すうじく)国、すなわち旧「敵国」に対して軍事行動を起こす場合は、安全保障理事会の許可を必要としないという例外的規定(これを「敵国条項」といいます)が設けられており、いまだに削除されていません。
また、我が国が神話の時代を含めれば2680年以上の歴史と伝統を誇るとともに、かつての国際連盟では常任理事国を務めるなど世界有数の大国であり、さらには国連に対して多額の分担金(世界第3位)を負担しながら、安全保障理事会の常任理事国に就任できないという問題も抱えています。
なお、我が国は国際連合の設立時にはソ連の反対もあって加盟できず、日ソ共同宣言によってソ連との国交が結ばれた昭和31(1956)年にようやく加盟しました。ちなみに、令和5(2023)年現在の国連加盟国は193か国となっています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、国力を飛躍的に高めたのはアメリカだけではありませんでした。1917(大正6)年のロシア革命によって、1922(大正11)年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(=ソ連)も、アメリカと同じように世界に対して圧倒的な影響力を持つまでにのし上がっていたのです。
自由主義(または資本主義)国家のアメリカと、共産主義(または社会主義)国家のソ連という、国家体制の全く異なる両大国は、第二次世界大戦末期以降、次第に相互不信と利害対立を深めました。
かくして、国際平和維持のために国際連合が設立されながら、戦後の国際秩序をめぐって米ソ両国の対立が激しさを増すという、何とも皮肉めいた展開が戦後世界を形成するようになってしまいました。なお、これを「米ソ対立」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ソ連は1947(昭和22)年にコミンフォルム(=共産党・労働者党情報局)を結成し、ルーマニアやアルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)など、戦後に次々と誕生した共産主義国家を従えて、東欧圏(けん)とも呼ばれる共産主義陣営を形成しました。
ソ連のこうした動きに対して、イギリスのチャーチルが1946(昭和21)年に「鉄のカーテン演説」を行い、ソ連の脅威(きょうい)に対する警戒を訴え、自由主義諸国の協力を呼びかけました。
さらに翌1947(昭和22)年には、アメリカのトルーマン大統領が「共産主義的な全体主義の拡張に対抗するには、それと戦う自由な諸国民を援助することをアメリカの政策とすべきである」と議会で述べ、自由主義陣営の中核として、ソ連の「封じ込め」を宣言しました。これを「トルーマン=ドクトリン」といいます。
また、世界で共産主義がはびこる背景の一つとして「貧困」が挙げられると判断したトルーマンは、同年6月に、ヨーロッパの経済復興資金として3年間で120億ドルもの巨額の経済援助を行うことを決定しました。これは「マーシャル=プラン」と呼ばれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ソ連によって陸路を封鎖された西ベルリンでしたが、アメリカやイギリスを中心とする西側諸国が徹底した空輸作戦を展開したため、封鎖そのものは翌1949(昭和24)年5月に解除されました。
しかし、ベルリン封鎖によってドイツの分断が決定的となり、同年にドイツは自由主義国家のドイツ連邦共和国(=西ドイツ)と、共産主義国家のドイツ民主共和国(=東ドイツ)とに分割されました。
また、ソ連からの軍事的脅威に共同で対抗するため、1949(昭和24)年4月に西側諸国は「北大西洋条約機構(=NATO)」を結成し、アメリカ・カナダ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・イタリア・デンマーク・ノルウェー・アイスランド・ポルトガルの12か国(後にギリシャ・トルコ・西ドイツが加盟)による集団安全保障体制が敷(し)かれました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これ以降、アメリカやソ連を中心とする東西二大陣営が、軍備や経済力・イデオロギーなどあらゆる面で激しい競争を展開することになりましたが、こうした緊張関係の構築は、いつしか「冷たい戦争」あるいは「冷戦」と呼ばれるようになりました(The cold war)。
もっとも、アメリカを中心とした西側諸国による「封じ込め」政策が功を奏したことによって、ヨーロッパにおける共産圏のこれ以上の拡張が望めなくなったソ連が、以後の矛先(ほこさき)をアジアに向けたことによって、東アジアの共産主義化が進むことにつながったのです。
なお、ワルシャワ条約機構はソ連が崩壊した1991(平成3)年に解散しましたが、北大西洋条約機構は、旧社会主義国の東欧諸国などを含めた31か国で今も存続しています(2023年現在)。また、平成30(2018)年にはNATOの日本政府代表部がブリュッセルの在ベルギー日本大使館に設置されたほか、我が国はNATOの「グローバル・パートナー国」と位置付けられています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に展開し、敗れた蒋介石は1949(昭和24)年に台湾に逃れ、中華民国政府として存続しました。
一方、毛沢東は、同年10月に北京で「中華人民共和国」の建国を宣言し、自らが主席となりました。共産党が最終的に内戦で勝利を得た背景には、ソ連のコミンテルンによる「日本と蒋介石とを戦わせて、両者を疲弊(ひへい)させたうえで『漁夫の利』を得る」という作戦が成功した流れが存在していると考えられています。
なお、台湾はかつて我が国の領土でしたが、戦後に国民党による一方的な支配が行われるようになると、この動きに反発した台湾民衆が抗議行動を起こした際に、政府が軍事力で徹底的に弾圧して、多数の犠牲者を出した「二・二八事件」が1947(昭和22)年に起きています。
また、アメリカとソ連によって分割占領された朝鮮半島は、北部に金日成(キム・イルソン)を首相とする「朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)」が、南部に李承晩(イ・スンマン)を大統領とする「大韓民国(=韓国)」が1948(昭和23)年にそれぞれ成立し、翌年に建国された中華人民共和国や、戦前からのモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国)、さらにはソ連の存在とともに、東アジアの共産主義化がますます加速することになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対立の激化が、いわゆる「トルーマン=ドクトリン」などの対ソ封じ込め政策を招いたことによって、アメリカは「日本の弱体化」を目論(もくろ)んだ従来の方針を改めざるを得なくなりました。
アメリカは、我が国を政治的に安定した工業国として復興させるとともに、東アジアにおける自由主義陣営の防波堤として共産主義陣営に対峙(たいじ)させ、西側陣営にとっての東アジアの友好国と位置づけようとしました。
しかし、アメリカが考えた「東アジアにおける自由主義陣営の防波堤」という我が国の立場は、戦前からの本来の姿と全く同じでした。「日本憎し」という感情から、そんな我が国を自らの手で徹底的に潰(つぶ)したアメリカがわざわざ再構築しなければならなくなるという現実は、皮肉以外の何物でもなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行家のドッジは、同年度に赤字歳出を許さない超均衡予算を編成させ、財政支出を大幅に削減させました。
また「1ドル=360円」の単一為替レートを設定し、日本経済を国際経済へと結びつけることで、我が国の国際競争力を強化しようとしました。ドッジによるこうした一連の施策は、今日では「ドッジ=ライン」と呼ばれています。
なお、ドッジ=ラインを税制面から裏づけるため、昭和24(1949)年と翌昭和25(1950)年の2度にわたって来日したシャウプを団長とする税制使節団の指導によって、直接税中心主義や法人税の減税、累進(るいしん)課税制度など税制の大改革が実施されました。こちらは「シャウプ勧告」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労働組合や共産党に向けられたことで、労働運動は大きな打撃を受けました。なお、これらの事件の真相はいまだに謎に包まれています。
この他、不況の深刻化以前の昭和23(1948)年には、GHQの命令による政令201号によって国家公務員法が改正され、当初は認められていた官公庁職員のストライキが禁止されました。
また、産別会議(=全日本産業別労働組合会議)内における共産党の党勢拡大に反発した勢力を中心に、昭和25(1950)年に「日本労働組合総評議会(=総評)」が結成されるなど、内部分裂を起こした労働運動が次第に沈静化しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。