太政官の下には政務を分担する八省が設けられ、政治は「太政大臣(だいじょうだいじん、または「だじょうだいじん」)」・「左大臣(さだいじん)」・「右大臣(うだいじん)」の三公(さんこう)や「大納言(だいなごん)」以下の公卿(くぎょう)による合議制で行われました。
ちなみに、八省とは「中務省(なかつかさしょう)」・「式部省(しきぶしょう)」・「治部省(じぶしょう)」・「民部省(みんぶしょう)」・「兵部省(ひょうぶしょう)」・「刑部省(ぎょうぶしょう)」・「大蔵省(おおくらしょう)」・「宮内省(くないしょう)」のことです。
具体的には、中務省は天皇周辺の業務などを、式部省は文官の人事などを、治部省は貴族や僧の儀式あるいは外交などを、民部省は戸籍の管理や財政などを、兵部省は軍事一般や武官の人事などを、刑部省は裁判や刑罰などを、大蔵省は財務や貨幣(かへい)の管理などを、宮内省は宮中の一般的な事務などを担当しました。
なお、大蔵省は明治維新以後も国家財政を担当する官庁として存続し、平成13(2001)年の中央省庁再編によって「財務省(ざいむしょう)」と「金融庁(きんゆうちょう)」にその業務が引き継がれるまで、約1300年の長きにわたって「大蔵省」の名称が用いられました。
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また、五衛府は「衛門府(えもんふ)」と左右の「衛士府(えじふ)」、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」のことであり、こちらは宮城(きゅうじょう)の警備や都の巡察などを担当しました。
地方の組織としては、まず全国が「五畿七道(ごきしちどう)」に区分され、その下に国郡里制(こくぐんりせい)として、地方行政区である「国(くに)」の下に「郡(ぐん、または「こおり」)」が、さらにその下に「里(り、または「さと」)」が置かれ、それぞれ「国司(こくし)」・「郡司(ぐんじ)」・「里長(さとおさ、または「りちょう」)」が任じられました。
なお、里は霊亀(れいき)元(715)年に「郷(ごう)」と改称され、里長も「郷長(ごうちょう)」と呼ばれるようになりました。また、国司は中央の貴族が6年(後に4年に短縮)の任期で派遣され、郡司や里長は在地の有力者が任命されました。
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五畿のうち「山背」は平城京(へいじょうきょう)から見て「奈良の山の背後」であることが由来であり、後に桓武(かんむ)天皇が平安京(へいあんきょう)に遷都された際に「山や川に囲まれ、敵の攻撃を受けにくい城のような要害の地」という意味を込めて「山城」と改称されました。
「七道」は「東海道(とうかいどう)」・「東山道(とうさんどう)」・「北陸道(ほくりくどう)」・「山陽道(さんようどう)」・「山陰道(さんいんどう)」・「南海道(なんかいどう)」・「西海道(さいかいどう)」に分かれており、このうち東海道は現代においても道路や鉄道など交通の要衝(ようしょう)として知られています。
また、関西の有名な私鉄である「南海電気鉄道」の「南海」は、現在の和歌山県がかつて「紀伊国(きいのくに、三重県南西部も含む)」であり、その紀伊国が南海道に属することにちなんで名付けられています。
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ところで、大宰府は現在の福岡県太宰府市にありましたが、いわゆる「大宰府」と「太宰府」の表記の違いについては、現存する古代の印影が「大宰之印」となっていることから、当時の正式な表記が「大宰府」であったと考えられています。
しかし、実際には奈良時代から既(すで)に「太宰府」と表記されているものもあるなど、これらの表記の使い分けについては現在でも研究が続いています。
なお、今から約半世紀前に、一般には古代律令時代の役所およびその遺跡に関する「ダザイフ」は「大宰府」、中世以降の地名や天満宮(てんまんぐう)などについては「太宰府」と表記されるようになりました。現状では行政的な表記もこれにならって「大宰府政庁跡」「太宰府市」というように明確に使い分けています。
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官人は正一位(しょういちい)などの位階(いかい、官人の序列を示す階級のこと)を与えられ、位階に対応する官職(かんしょく)に任じられました。これを「官位相当制(かんいそうとうせい)」といいます。
官人は位階や官職に応じて、封戸(ふこ、または位封=いふ、職封=しきふ)・田地(でんち、または位田=いでん、職田=しょくでん、功田=こうでん)・禄(ろく、または位禄=いろく、季禄=きろく)などの給与が与えられたほか、後述する調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)などの負担が免除されました。
上級官人には供人(ともびと)としての資人(しじん)が与えられたほか、自己の一族の地位を維持させるため、特に五位以上の官人が優遇されており、五位以上の子(または三位以上の子や孫)は父(または祖父)の位階に応じた位階を与えられるという「蔭位(おんい)の制」もありました。
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なお、賤民の割合は良民の1割にも満たなかったと推定されている一方で、中央の大寺院や地方の豪族の中には数百人の奴婢を所有する者もありました。
当時の刑罰には「五刑(ごけい)」と「八虐(はちぎゃく)」がありました。五刑とは「笞(ち)」・「杖(じょう)」・「徒(ず)」・「流(る)」・「死(し)」のことであり、それぞれ笞は細いムチでうつ刑、杖は太いムチでうつ刑で、徒は強制労働で今の懲役(ちょうえき)刑にあたり、流は強制移住で後の流罪(るざい)に相当します。死は文字どおり死罪のことです。
八虐とは天皇や国家あるいは尊属(そんぞく、自分より上の世代の親族のこと)に対する罪のことであり、これらは有位者でも減刑されずに重罪となりました。
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口分田は6歳以上の男女に支給され、その広さは6歳以上の良民の男子には2段(1段は約11.7アール)、女子にはその3分の2、さらに私有の賤民(家人・私奴婢)には良民男女のそれぞれの3分の1でした。
口分田は売買が禁じられ、死者の田は6年ごとの調査によって国に収公(しゅうこう、取り上げるという意味)されました。この制度を「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」といいます。なお「班田収授」とは「(口分)田を班(くば)り、(死んだら国に)収め、(6歳になったら口分田を)授ける」ことであり、また「班」という字には「分けて配る」「分かち与える」という意味があります。
班田収授法は豪族による土地や人民の支配を防ぎ、国家がこれらを直接管理する「公地公民」の考えに基づいており、政府は班田収授を円滑に行うため、田地の区画整理を全国的に実施しました。これを「条里制(じょうりせい)」といいます。
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調は男子の人頭税として絹・布・綿・塩など各地方の特産物を納め、庸は都での10日の歳役(さいえき、律令国家で課される労役のこと)のかわりに麻布(まふ)2丈(じょう)6尺(しゃく)(=約8m)を納めるものであり、それぞれ中央の財源となりました。なお、庸は都や畿内では課されませんでした。
調や庸は成人男性に課せられ、都まで自己負担で運びました。これを「運脚(うんきゃく)」といいます。また雑徭は1年に60日間(後に30日間に短縮)を限度に、国司の命令によって地方での水利・土木事業や国府の雑用に従事する労役制度でした。
なお、当時の成人男性は21歳以上60歳以下の「正丁(せいてい)」と61歳以上65歳以下の「老丁(ろうてい)」、17歳以上20歳以下の「少丁(しょうてい)」または「中男(ちゅうなん)」に分かれており、老丁と軽い身体障碍(しょうがい)を持つ男子を合わせて「次丁(じてい)」とも呼ばれました。
ちなみに調及び雑徭の負担は、老丁(次丁)は正丁の2分の1、少丁(中男)は正丁の4分の1でした。また、庸に関しては老丁(次丁)が正丁の2分の1を負担したほか、少丁(中男)は免除されていました。
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我が国の治安と国防にも民衆の力が必要でした。正丁3~4人に1人の割合で兵士が徴発され、兵士は諸国の「軍団(ぐんだん)」に配属されました。農閑期(のうかんき)に訓練を受けた兵士の一部は「衛士(えじ)」となって都での1年間の警備に就き、一部(主に東国出身)は「防人(さきもり)」となって九州の沿岸の警備に3年間就きました。
兵士たちは食料と武装を自分で調達しなければならず、また家族内での主要な労働力を奪われることから、民衆には大きな負担となった一方で、衛士や防人は調・庸・雑徭などの課役(かえき)を免除されました。
なお、故郷を遠く離れた九州で兵役に就いた防人たちの詠(よ)んだ和歌が、現存する我が国最古の和歌集である「万葉集(まんようしゅう)」に多く伝えられています(詳細は次回の講演で紹介します)。
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