衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(はかま)を身に着けることが多く、肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いた簡単な礼服(れいふく)を用いる一方で、女子は小袖の着流しが普通になり、また男女ともに結髪(けっぱつ)するようになりました。食生活が朝夕の二食から三食になったのもこの頃のことです。
この時代に盛んになった南蛮貿易(なんばんぼうえき)によって、宣教師(せんきょうし)はキリスト教の布教の他に天文学や航海学・医学や地理学などの実用的な学問を伝えるとともに、油絵(あぶらえ)や銅版画(どうばんが)の技法ももたらしました。これらの技術によって、やがて日本人の手による西洋画の影響を受けた南蛮屏風(なんばんびょうぶ)が描かれるようになりました。
また、金属製の活字による活版印刷術(かっぱんいんさつじゅつ)が伝えられるともに印刷機も輸入され、キリシタン版や天草版(あまくさばん)と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われました。
南蛮人によって我が国にもたらされた文化を南蛮文化(なんばんぶんか)といい、カステラやパン、カルタ、コンペイトウ、シャボンなどのように、外来語として今でも残っているものがあります。
※これで戦国、安土・桃山時代は終了です。明日(3月29日)からは第24回歴史講座の内容の更新を開始します。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
外来語なら、納得です(^^)v
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
いつもご配慮いただいてありがとうございますm(_ _)m
> この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
二階建てや瓦葺は建築技術の進歩によるものですが、秀吉政権末期の1596年に京都や堺を中心に慶長伏見大地震が発生しており、多くの方々が亡くなられたり、あるいは被害を受けられたりされております。
> カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
> 確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
> 付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
> 外来語なら、納得です(^^)v
そうなんですよね。
この当時の外来語が結構使われているということは、いかに多くの人々に浸透していったかということだと思います。
ちなみにカルタはポルトガル語が由来ですが、英語ではcard=トランプになりますね。
衣服の変遷。
晴雨堂ミカエル 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
大河ドラマでも各々解釈が違います。
私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
「江」はあり得ない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
> 大河ドラマでも各々解釈が違います。
確かに解釈によって異なりますね。
髪形については「戦国=茶筅髷」が定着しているようですが。
> 私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
> 「江」はあり得ない。
「江」については時代考証そのものがとてつもない状態になっていますからね。
現状では視聴率の低下もやむなし、といったところでしょうか。
しー 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
(弥生時代に入るところまでですがw)
…やはり、細かいですね。。。
見知らぬ単語が沢山…(д)
早くこっちに追いつくのが目標です^^
しーさんへ
黒田裕樹 > 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
> (弥生時代に入るところまでですがw)
いよいよ始まりましたね(^^♪
> …やはり、細かいですね。。。
> 見知らぬ単語が沢山…(д)
確かに単語の一個一個は難敵です。
でも、流れで歴史をとらえることができれば自然と頭に入るものですよ。
> 早くこっちに追いつくのが目標です^^
頑張りましょう(`・ω・´)
ちなみにブログの通史は今回の講座の後に江戸時代に入りますが、まだ教科書の半分なんですよね(´・ω・`)
茶道は豊臣秀吉や他の有力大名の保護を受けて大いに流行し、茶室の建築や茶器の発達をうながしました。なお、秀吉は1587年に京都の北野(きたの)で身分の上下を問わずに民衆(みんしゅう)を自由に参加させた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を行っています。
当時の庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としては、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都で始めたかぶき踊(おど)りが阿国歌舞伎(おくにかぶき)としてもてはやされ、これがやがて女歌舞伎(おんなかぶき)となりました。
また、琉球(りゅうきゅう)から伝えられた三味線(しゃみせん)が普及(ふきゅう)したことで、三味線を伴奏(ばんそう)に人形を操(あやつ)って演じる人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)も始まりました。他にも堺の商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌(こうた)に節(ふし)をつけた隆達節(りゅうたつぶし)が民衆の人気を集め、盆踊(ぼんおど)りも各地で盛(さか)んに行われました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
そうですね。
世の中が平和であれば文化が育ちやすいとすれば、秀吉が天下統一を果たした頃もそうですし、また武力統一から来る力強さもあったといえるかもしれませんね。
城郭には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な要素が散りばめられていました。城の内部には書院造(しょいんづくり)をとり入れた居館(きょかん)が設けられ、広間(ひろま)には彫刻や濃絵(だみえ)の豪華な障壁画(しょうへきが)が描(えが)かれました。
なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤、あるいは緑などの原色を彩色(さいしょく)したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が彫刻されました。
障壁画の中心となったのは狩野派(かのうは)であり、狩野永徳(かのうえいとく)は室町時代に盛んになった水墨画(すいぼくが)と我が国古来の大和絵(やまとえ)とを融合(ゆうごう)させて、新しい装飾画(そうしょくが)を大成させ、洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)や唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)などの作品を描きました。
また、門人(もんじん、いわゆる弟子のこと)の狩野山楽(かのうさんらく)は松鷹図(しょうようず)や牡丹図(ぼたんず)などを描き、同じ頃に海北友松(かいほうゆうしょう)や長谷川等伯(はせがわとうはく)らも優(すぐ)れた作品を描きました。
この他、彫刻ではそれまでの仏像彫刻が衰(おとろ)えて欄間彫刻(らんまちょうこく)が盛んとなり、家具調度品(かぐちょうどひん)として豪華な意匠(いしょう、デザインのこと)の蒔絵(まきえ)が施(ほどこ)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
ブログ2周年、おめでとうございます!

これからも是非歴史を学ぶ楽しさを流布してくださいね^^
陰ながら、応援させていただきます!
応援凸
祝・二周年
クラチー 二周年、おめでとうございます!
これからも、歴史の奥深さ・楽しさを、
人々に広めていってください。
応援しています!
(>ω<)ノシ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今日の講座並びに記念講演も無事終了しました。
より一層の内容の充実を目指してこれからも頑張ります!
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
歴史好きのクラチーさんからのお言葉は励みになります。
今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m
しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があったため、城の周囲に幾重(いくえ)にも堀(ほり)や土塁(どるい)をめぐらすことで防御力を高めました。また、城の本丸(ほんまる)には重層(じゅうそう)の天守閣(てんしゅかく)を設けました。
こうして造られた城郭は、単なる防塁(ぼうるい)としてだけではなく、邸宅(ていたく)や政庁(せいちょう)を兼ねるようになりました。この頃の代表的な城郭としては安土城(あづちじょう)や大坂城(おおさかじょう)・伏見城(ふしみじょう)・姫路城(ひめじじょう)などが知られています。
このうち姫路城はその美しさから別名を白鷺城(はくろじょう、または「しらさぎじょう」)とも呼ばれ、また江戸時代初期の建築物が現存していることもあって、平成5(1993)年に世界遺産として登録されています。




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ぴーち こんにちは!
城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
応援凸
姫路城は江戸城に。
晴雨堂ミカエル 時代劇では姫路城の天守閣を江戸城に見立ててロケが行われました。子供の頃、それを指摘したのですが、周囲は信じてくれなくて歯噛みしたものです。江戸城には天守閣は無いと言ってもダメでした。江戸城と皇居の関係を知らぬ大人も多かった。きちんと説明したつもりなのに、子供(小学校低学年)の意見はこれ程までに軽んじられるのかと悔しい思いをしたものです。今は逆ですが。
人間というのは、本能的に目下の人間を割引で見てしまうものです。
今の時代劇なら姫路城を江戸城に見立てる事はせず、CGでリアル復元した江戸城をだすでしょう。 ただ、白の内部や守備兵が狭間から鉄砲を撃つ場面などは今でも姫路城は需要がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
> 姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
> お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
> 黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
姫路城は雄大ですからねぇ。よくぞ幾多の危機を乗り越えてくれたものです。
お城めぐりは昔から良く行きますが、皇居近辺は行ったことがないんですよね。
一般参賀に参加してみたいものですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 江戸城に天守閣がないのは意外と盲点のようですね。
焼け落ちた後に必要としなかったのは、それだけ平和な時代だったからでしょうか。
「暴れん坊将軍」などでは一話につき一回は姫路城が出ていましたね。
今も昔も時代劇の名ロケ地です。
この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商(ごうしょう)たちが文化の担(にな)い手となりました。そんな桃山文化の特色は、新興勢力の気風にあふれた新鮮味あふれる豪華(ごうか)で壮大(そうだい)かつ華麗(かれい)なものでした。
また、信長や秀吉の政策によって勢力の衰(おとろ)えた寺院勢力の影響を受けて仏教色が弱まったことで、現実的で力感のある絵画や彫刻などが多く制作されました。
さらにはポルトガル人の来航によって西欧文化(せいおうぶんか)との接触(せっしょく)が始まったことにより、桃山文化はそれまでにない多彩なものとなりました。




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晴雨堂ミカエル 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
ぴーち こんばんは!
確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
屏風絵などもキンキラキン

で華麗なイメージがあります(^^)v
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
> 奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
> 海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
言われてみれば、確かに時期が一致していますね。
「我が国だってこれくらいのものはつくることができる」という島国根性でしょうか。
それはそれで良いことだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
> 秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
> 屏風絵などもキンキラキン

> で華麗なイメージがあります(^^)v
仰るとおり、後年の秀吉のイメージがそのまま桃山文化を象徴していますね。
これから数回にかけて桃山文化を紹介しますが、その豪華さは出色(しゅっしょく)ですよ(^^♪
秀吉は1598年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼(ひでより)はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼(いらい)する直筆(じきひつ)の書状(しょじょう)が残されています。
間もなく秀吉は「露(つゆ)と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世(じせい)の句を残して62歳でこの世を去りましたが、秀頼と豊臣家の将来を託(たく)されて笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。
[※明日(2月28日)からは第23回歴史講座の内容の更新を開始します。]




いつも有難うございます。
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オバrev 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
> でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
秀吉が晩年にたくさんの側室を持っていたことは有名ですが、若い頃にはおね一筋だったのでしょうか?
いずれにしても不思議な話ですが、壮年の子供がいなかったのが仰るとおり致命傷になりましたね。
> それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
以前の講座にも書きましたが、家康ほど「歴史に学んだ平和主義者」はいないでしょう。
しばらく本編からは遠ざかりますが、いずれ家康について詳しく紹介できると思います。
寧々は悪女という説も。
晴雨堂ミカエル 時代劇では良妻賢母型キャラで描かれる北政所ですが、本当は独占欲の強い悪女という説があります。
もっぱら、寧々の牙は政治には向けられず家庭の中だけでしたから、家臣や大名の評判は悪くなく、豊臣恩顧の大名たちには親しみのある女将みたいなもの、家康に至っては親密な仲だったとか。
寧々の残酷さは、秀吉に近付く女や側室に向けられ、子ができると奪い取って殺したという。
根拠の薄い説ですが、可能性としては有り得る話です。女好きで名高い秀吉のわりに側室をもたず、子宝に恵まれないのが不自然。。人為的妨害が働いていても不思議ではありません。
それに家康が天下を握ったので、敗れた淀君が悪女になり、家康と友好関係にある北政所のスキャンダルは闇に葬られるのは有りそうな話です。
寧々を悪妻にするとツジツマが合いますね。それに江戸時代のように家制度が厳しくありませんし、その江戸時代でさえヨーロッパの諸侯のような厳格な血統主義ではなく、長子でも馬鹿なら廃嫡になり、遠縁の賢い子を擁立する事は多々ありました。
寧々に実子がいれば豊臣家存続に気を配ったでしょうが、自分の血筋が継がない豊臣にはあまり執着がなく、妾腹の子が天下を握る
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、北政所の陰謀ですか。確かにつじつまが合いそうですね。
これが本当の「おんな太閤記」でしょうか。
いずれにせよおねに実子がいれば、その後の歴史も大きく変わったことでしょう。
秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つという理想とはあまりにもかけ離(はな)れているような思いがします。
だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上は、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは許されませんが、逆にいえば我が国が他国に対してある意味へりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要もないということにもつながるのではないでしょうか。
秀吉による朝鮮出兵に限らず、私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
さて、朝鮮出兵の失敗は結果として豊臣家による支配に大きな悪影響を与えましたが、それに加えて豊臣家には後継者の不在という致命的(ちめいてき)な欠陥(けっかん)がありました。




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風早 りら 私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
私が 常に感じていることです
いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
のでしょうと 考えさせられることが
あまりにも 多いです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
> のでしょうと 考えさせられることが
> あまりにも 多いです
りらさんのお考えが、今の日本人の大多数の思いでしょう。
そもそもは30年前の「ある事件」がそもそもの引き金ですが…。
この件については28日からの「第23回歴史講座」で紹介することになります。
全くその通りです。
晴雨堂ミカエル 物事は多面的に見なければなりません。
よく私は対立する相手の弁護士になったつもりで事実関係を精査しなおすべきと訴えるのですが、運動に気をとられている輩は理解することを拒絶しますね。
30年前で思いつくのは、吉田清治氏の「慰安婦狩り」ですな。
日本人は外圧に弱い、そんな民族性を利用して左翼勢力はよく中国韓国の力を利用していました。
自分たちではなかなか巨大な自民党を抑えられないので、中国共産党の力を利用していたのです。
中韓が「発展途上国」のうちは大したことはなかったのですが、今は明らかに国益を損なっていますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
慰安婦の問題もしかり、他国の圧力を利用してまで自国を貶めようとする姿勢が私には理解できません。
それがどれだけの国益を損ねているのでしょうか。
ナオ 中華圏に住む私は歴史問題が取り上げられるたび肩身の狭い思いをしていましたが、黒田先生の解説を読んで罪の意識で謝罪を繰り返すばかりでもいけないのだと思いました。先生感謝!
しかしながら日本にもそれなにり長い歴史があるのに中国人民・韓国人の中には第二次世界大戦の一部分のみを取り出し、日本人を見つけては「日本人は歴史を知らない」と言う人々が少なくありません。それを聞く度 嫌な気分です。
ナオさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
中国や韓国が我々日本人に対して「押し付けてくる」歴史は、自国に都合よく編集されたものです。
もちろん自国の歴史を良く見せようとするのはどこの国も同じようなものですが、少なくとも一方的に相手国に認めさせて良いはずがありません。
お気持ちは私も理解できます。
しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからであり、可能性の有無(うむ)はともかくとして、仮に李氏朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。
秀吉の最終目標はあくまで明を征服することであり、朝鮮半島そのものを侵略するという概念はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断定することは、秀吉の真意を見誤るのみならず、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表現すべきなのです。
また、秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則である「ある民族にとっての英雄は、他民族にとっての虐殺者(=戦争勝利者)である」という視点からも眺(なが)める必要があるのではないでしょうか。




いつも有難うございます。
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風早 りら 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
ぴーち こんばんは!
確かに今でも朝鮮半島に住む人達は
秀吉の行動を恨んでいらっしゃるようですね。
秀吉の真意は黒田さんからこうして教えていただいたので、これまで誤解していた部分
を理解させていただきました。
ありがとうございましたm(_ _)m
人間がそのように考えるように
なってしまう理由には必ずそれなりの原因が
あるという法則に当てはめて考えてみますと、
朝鮮半島の人々が秀吉の思わぬ行動に恐れをなしたというのは、例えば、今、いきなり宇宙人が日本上空に現れたとして、得体のしれないものだけに恐怖や不安を感じ、「これは絶対攻撃される!殺されてしまう!侵略されてしまう!」と思われても仕方がないでしょう。
いきなり外国人が現れ、理由も判らないまま、
攻撃されたり、攻められたりされたら、恐怖心や、不信感ばかりが募る事でしょう。
けっして朝鮮半島の方達の肩を持つわけではありませんが、
朝鮮半島に住む人達が十分にその理由を後からでも理解していたのなら、きっともっと秀吉の行動の表現は緩んだのではないかと思いました。
(私も表現の仕方が下手で申し訳ありませんm(_ _)m
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
> お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
全くもってそのとおりだと思います。
恨(ハン)の精神が朝鮮半島の伝統とはいえ、国際関係ではお互いに歩み寄ることができるところを見つけてほしいものですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに攻め込むまでとはいかずとも通行させてほしいというのであれば、もう少し上手な方法があっても良かったかもしれません。
ただ、当時の国際的な関係では、軍事力が抜きんでた我が国と、明を宗主国として仰いでいた李氏朝鮮という立場の違いがありましたから、(あくまでも当時の関係としては)秀吉が強気に出る思いも分からないことはありません。
以上は秀吉の肩を持つのではなく、国際関係から冷静に判断したものではありますが、現在の関係とは全く異なるだけに難しいところではありますね。
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なおまゆ そうなんですよね。朝鮮は通り道だったんですよね。秀吉は、天皇の上になろうとしていましたね。だから、征夷大将軍にならずに、それより上位の関白になったんですよね。
明を征服し、皇帝になり、正しく『革命』を行い、血脈に関係なく国を実質支配したかったんじゃないかなと思ってます。
日本に居る限り、天皇家に代わることは不可能ですから。
もう一つは武士の失業対策の視点もあったと思っています。秀吉は、武士達を冷酷に切り捨てられなかった『熱い心』を持っていたと思います。
黒田さんはいかがお考えでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵のもう一つの説ですね。
秀吉は皇室をそのまま残して、自分は明において新たに「皇帝」となることで皇室を超えようとしたという「秀吉の野望」です。
後半は秀吉の「唐入り」が当時の武士たちに好意的に受け入れられた証拠ですね。ところが出兵に失敗したことによって、武士たちの間で戦争に対する嫌悪感が広がってしまう。皮肉なものですね。
翌1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを慶長の役(けいちょうのえき)といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退(てったい)しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまいました。
ところで、秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想(もうそう)」などといった扱(あつか)いを受けることが多いですが、これまで述べてきたように、イスパニアに明を攻め取られることによって我が国が侵略されるのを防ぐために明を先制攻撃しようと計画し、その前提として朝鮮半島から攻め込んだという目的が存在しています。
これらの事実は、最近の教科書に記載されることが多くなった「朝鮮侵略」という誤解についても同じことが言えるのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
私も今まで そう思っていました
ドラマ等では いつもそのような
筋立てになったいます
教えて頂いて 有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 >> 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
> 私も今まで そう思っていました
> ドラマ等では いつもそのような
> 筋立てになったいます
> 教えて頂いて 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
一般的なドラマとは全く異なる、歴史の真実をぜひご覧になっていただければと思います。
ぴーち こんばんは!
もしも朝鮮出兵の結果が日本国にとって
良好な結果として終わったのなら、世間からのこれ程の言葉を浴びせられなかったのでしょうね。(^^ゞ
秀吉ともあろう人が、どうしてだろう?という落胆した気持ちが込められた言葉の様にも受け取れました。
何事も理由も無く突発的に物事は起こるのではなく、必ずそこには原因が存在するものだという事ですね!
世間からの秀吉に対する濡れ衣を黒田さんがこの記事で事実を明らかにしてくれていることに対して、当の秀吉が一番感謝しているかもしれませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私の気持ちまでお察し下さって有難うございます。
仰るとおり、秀吉の朝鮮出兵の失敗は、彼のそれまでの評価を一気に貶(おとし)める結果となったのが残念でなりません。
とはいえ公正な目で歴史を評価しなければいけませんから、まずは失敗の原因やその結果を冷静に判断させていただきました。
次回(25日)からは朝鮮出兵の真実に迫ってみたいと思います。
ナオ ということは 秀吉の朝鮮出兵の理由は 大東亜戦争を始めた理由と同じではないですか! 歴史は繰り返すですね。
ナオさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
地政学的なものなど戦争をするには様々な要因がありますが、少なくとも一方的な侵略というのは我が国にはほとんど考えられません。
秀吉は対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国(そうしゅこく)と仰(あお)いでいた李氏朝鮮は秀吉の要請(ようせい)を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)の本当の理由でした。
肥前(ひぜん、現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率(ひき)いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、でしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢(う)えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
秀吉の朝鮮出兵に関しては、
四面楚歌の状態だった訳ですね。
その閉塞感を打破する為に、出兵を強行
したものの、思いもよらぬ日本とは違う自然環境や食料不足に、あえなく思いが絶たれてしまった・・。
秀吉の野望の前には、味方をしてくれるものは
無かったというのは、やはり秀吉の行動には
元々計画性がなく、無謀な事だったということなのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果だけを見れば、確かに無謀だったように見えますね。
実際のところ、秀吉の苦戦の主な原因は情報不足や作戦の失敗、あるいは戦いの一貫性のなさによるものです。
朝鮮半島について事前に情報を仕入れていなかったことで冬の対策がおろそかになっていたことや、朝鮮半島を経由して明へ攻め込むはずが、なぜか現在の北朝鮮の方まで突っ走ってしまうという不可思議な軍勢の進め方、そんな折に軍勢を寸断されたことで補給線が断たれて、多くの兵士が飢えや寒さで亡くなるという失敗があったのです。
これではどれだけ多くの兵力や鉄砲があっても勝てるはずがないですね。そういうこともあり、ぴーちさんが仰るように計画性のなさはありますが、少なくとも無謀ではなかったと思います。
オバrev なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
> でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
秀吉自身は勝てると思っていたようですし、兵力も圧倒していたのですが、いかんせん作戦が稚拙すぎましたね。ある意味では無謀と思われても仕方がないと思います。
> ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
その一面は確かにありますね。天下が統一されて新たな領地を獲得することが不可能となり、武士たちの間に高まっていた不満をそらすという目的があったことは間違いないようです。もっとも、これは秀吉に限らず、先述したようにアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンと同じく、世界史の常識でもある訳ですが…。
韓国の大河ドラマでは・・。
晴雨堂ミカエル 韓国の大河ドラマ「壬辰倭乱」では、徳川家康が秀吉の力を削ぐよう暗躍している描写でしたね。
明は女真族8万騎で滅びましたし、ヨーロッパは日本より少ない兵力で世界を征服しました。
日本軍は練度・装備・兵数は世界一です。作戦が上手ければ明を取ることはできましたね。占領維持が秀吉にできたかどうかは別にして。
イスパニア船を捕獲してコピーするのは技術的可能だったと思うのですが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ドラマによって観点が違うんですね。
仰るとおり、明の攻略は決して不可能ではなかったとは思います。ただし、第二次大戦のような「終わりのない戦い」で、我が国の体力が疲弊して他国に狙われる可能性も十分にありましたから、結果は何とも言えないのですが…。
鉄砲のように小さなものであればすぐにコピーができたと思いますが、船の場合はどうでしょうか。また気前よくもらった鉄砲とは違って、イスパニアの船をそう簡単に捕獲できるのか、失敗した場合のイスパニアとの関係の悪化をどう処理するのかなどを考えた場合に、あまりにもリスクが大きすぎるような気がしますね。
キリシタンを処刑する強攻策をとったのですから・・。
晴雨堂ミカエル 明を支配するよりは遥かにリスクは微少です。後に江戸幕府はポルトガルやイスパニア船を追い出しているのですから、騙して船を強奪するのは簡単であり、強攻策をとる力と技は十二分にありました。
黒田氏もご存知のように日本の大工は低レベルではありません。ヨーロッパの軍艦を模倣する技は船大工にもあると考えた方が自然でしょう。
ヨーロッパ人と同じくらい戦略眼があれば、手順と効率を重視して実行していたと思います。やはり日本人は「侵略者」には向かない民族なのでしょう。ヨーロッパ的独裁者になれる素質をもっていたのは信長だけですか。
信長の政策を理解していた秀吉でしたが、信長の厳しさは欠けていたかもしれません。
ところで「壬辰倭乱」では、秀吉が朝鮮半島南部の穀倉地帯を確保して兵站維持する作戦をとろうとすると、家康は北に逃れた朝鮮国王の生捕を優先するよう執拗に進言する場面があります。
韓国での家康評が気になりますね。朝鮮学校では家康・秀忠の平和路線・国交回復・朝鮮通信使を介しての交流事業を好意的に取り上げています。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 なるほど、強奪という手段も有効ではありますね。
だとすれば、仰るように日本人には「冷徹な侵略者」のDNAが(信長のような例外を除いては)入っていないがゆえの遠回りだったのかもしれません。
韓国においても「敵の敵は味方」なのでしょうか?
家康びいきは「秀吉憎し」の裏返しのような気がします。だとすれば、豊臣家が滅びたことは対朝鮮半島に限っていえば、皮肉ではありますが良かったことなのかもしれませんね。
これらの点に着目した秀吉は、イスパニアと我が国とが同盟を結んで両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、イスパニア所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示すことによって、外交によるイスパニアとの妥協(だきょう)を目指しましたが、武力による我が国の侵略を断念していなかったイスパニアに拒否されてしまいました。
進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国が侵略から免(まぬが)れる方法はないと覚悟を決めました。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での中国大陸の征服も不可能ではないと考えたからです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余(あま)していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑(いど)んだ、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征(えんせい)という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのでした。




いつも有難うございます。
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風早 りら 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
今まで 不可解でした
先生のご説明で 理解出来そうです
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
> 今まで 不可解でした
> 先生のご説明で 理解出来そうです
> 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
明へ攻め込むのにもそれなりの理由があります。
何が何でも「侵略」と決めつけるのではなく、その原因を探ることで、本当の歴史が見えてくるんですよね。
重要な問題です。
晴雨堂ミカエル 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
> どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
「日本」史の一番悪い面が出ていますね。
日本の歴史ではあっても海外にも常に目を配らなければいけないはずなのに、我が国主体の動きだけでお茶を濁そうとする。特に「地球市民」を標榜される方々であれば、地球レベルの動きはお得意のはずなのですが。
> 家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
なるほど、確かにそのような一面がありますね。平和主義者らしい家康の考えだと思います。
戦国バブル
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
作家の堺屋大一氏は、秀吉の朝鮮出兵は
戦国バブルで、明を攻めることが理由だと語っていました。
どういうことかというと
どこの戦国大名も、立身出世を前提にして、組織が成長することを前提に家臣を雇っているので
過剰人員状態でした。
日本国内は、天下が治まって、領土を広げることができないからです。
だから、秀吉の海外進出は、秀吉個人の考えというよりも、秀吉政権の体質のようなものですね。
(それは、秀吉自身、まだ、部下を持てる身分ではない時から、部下を持ったことからも宿命のようなもの。)
その余剰人員を大名の改易・断絶というカタチで
徹底的に行ったのが、徳川家康・秀忠・家光です。
たしかに、リストラをする人間は、嫌われますね。ただ、それをしないと、秀吉のように拡大戦略で、そのうち、組織が崩壊します。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
秀吉の失敗を教訓に、またしても家康が「歴史に学んで」政策を行った結果ですね。
だからこそ家康は嫌われるんですが、同時に我が国での平和が達成される大きな原因にもなっています。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着(ひょうちゃく)した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これ26聖人殉教=せいじんじゅんきょう、といいます)。
さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。全国統一によって当時の我が国は数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは直ちに我が国を侵略することは現実的には難しいと考えていました。
そこでイスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国での布教に成功したキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能になる、と考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙われるということなのです。
この構図は鎌倉時代に起きた元寇(げんこう)そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか―。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 朝鮮学校では、この事はけっこう学校の授業で取り上げているようです。もちろん、黒田氏のように秀吉側の立場では考察していませんが、ヨーロッパ人の侵略と布教はセットである事とキリスト教の脅威は教えているみたいですね。
日本は宗教批判を行うと、宗教弾圧だとか保守反動などと拡大解釈されかねないので、あまり踏み込めないのでしょう。
踏み込めないから学校教育では教えられない、だから誤った認識と無知が定着してしまう。
コロンブスのアメリカ侵略500周年に日本人がサンタ・マリア号復元船に乗って航海に出たなんて話を聞いたとき、「馬鹿か、こいつら」と思いました。
ところで、来月5日に映画「アレクサンドリア」が封切られます。大阪では難波パークスですか。キリスト教徒によって虐殺された女性科学者ヒュパティアの物語です。
多くの人がみて宗教の恐ろしさを認識してほしいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島側からしても、自分たちが結果として「攻められた」根本的な原因ですからね。
しっかり学ぶことは重要だと思いますし、むしろ我が国の教育が一方的なのが問題だと思います。
宗教は時として恐ろしい一面を持っていますからね。能天気に受け入れるだけでなく、歴史上においても真剣な考察が必要だと思います。少なくとも仰るような「無知から来る大失敗」だけは避けなければいけませんからね。
ぴーち こんばんは!
ふと秀吉の行動を考えたのですが、
こうしてイスパニアに侵略される以前に
秀吉の朝鮮出兵という行動は、行き過ぎた行動だったのではないか(本当に明を侵略する必要があったのか)という疑問が浮かびました。
勿論、それ以前の信長の意思を受け継いでの
事だったのでしょうけれど、野望を持ち、外国を支配しようとする気持ちにはやはり外国からも狙われるという諸刃の剣的なデメリットもあるという覚悟が秀吉には無かったのでしょうか。
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
日本が 宗教の名の元に
他国に侵略されなかったことが 幸いです
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る思い、よく分かります。
外国を支配するということは、別の外国から狙われる口実を与えること。
戦いが戦いを、さらには憎しみが憎しみを生み、憎しみの連鎖はいつかは断ち切らないと永遠に続く。
しかしながら、当時の状況は平和よりも侵略が当然とされていた時代でした。
我が国が狙わなかったとしても、よその国がいつか必ず狙うことになる。
仮に我が国が平和を望んでいても、その思いに応えられる土壌があったかどうか。
なぜ秀吉が明を侵略する決意をしたのか、そしてそれは無茶な行動だったのか。
次回(22日)以降の更新で明らかにしたいと思います。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
> 日本が 宗教の名の元に
> 他国に侵略されなかったことが 幸いです
私もそう思います。
政教分離は信長が築いた財産ですが、秀吉もしっかりと受け継ぎ、家康が完成させました。
我が国の平和の大きな理由の一つですから、大事にしていきたいですね。
- 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
というのが真相だと見る方もおられるようです。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 > 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
> 「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
> というのが真相だと見る方もおられるようです。
そういう見方もあるのですか。
参考にさせていただきます。有難うございました。
いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌(いや)でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が一神教(いっしんきょう)であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には我が国の伝統や文化を破壊(はかい)する許せない行動としか映(うつ)りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのは、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは白人にとっては当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には絶対に認められない行為でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
ありがとうございました^^
記事の件ですが、
外国の常識でも、日本には非常識な行為で
ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
秀吉の気持ちも判らなくはありません。
最近、中国が日本の山林を買収している
との事実が挙げられていますが、余り
いい気持ちではありません。。
応援凸
mochimochi 日本人の奴隷について、どこかの本で初めて知り(本の名前忘れました)びっくりしました。
たしかその本によると、日本人奴隷はよく働き、物も盗らないので評判が良かったと書いていた気がします。事実は知りませんが。
それで、実はポルトガルがキリスト教を日本に広めたかったので、ポルトガルの中でも日本人の奴隷を反対する人達がいたそうです。
日本人奴隷なんてなんだか不思議な感覚です。
西洋人の仕業(?)についておもしろい解説があるので時間がある時に見てください。
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/4/7n9BFo_Nmj4
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/3/7Q4cCa5IiGw
オバrev 東京講演 お疲れさまでした。
えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
ふとかつ こんばんは。
東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
浅草観光もされましたか?
講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
> そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
> ありがとうございました^^
いえいえ、こちらこそご丁寧なお言葉、ありがとうございます。
> 記事の件ですが、
> 外国の常識でも、日本には非常識な行為で
> ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
> いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
> あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
> 秀吉の気持ちも判らなくはありません。
そのとおりだと思います。
どんな理由であれ、我が国固有の領土を外国に任せる行為が許されて良いはずがありません。
> 最近、中国が日本の山林を買収している
> との事実が挙げられていますが、余り
> いい気持ちではありません。。
そこなんですよね。
日本国民の「お人好し」な一面が悪い方向に表れている思いがします。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 西洋人は昔から「白人至上主義」ですからね。
いくら礼儀正しいからといって、奴隷として異国に無理やり連れて来られ、厳しく働かされて一生を終わるなんて、当時でも決して許されるものではありません。
いつも参考になる資料をご提供くださってありがとうございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 東京講演 お疲れさまでした。
> えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
ありがとうございます。
広島講演ですか…。その場合はオバrevさんのご講演とダブルですね(笑)。
> しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
> 今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
この当時はスペインとポルトガルの天下でしたからね。
複数の言語が話せるのは良いことですが、ブラジルのように征服した国の言語が公用語になっているのは複雑な思いがしますね。
ふとかつさんへ
黒田裕樹 > 東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
> その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
> 浅草観光もされましたか?
> 講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ありがとうございます。
浅草寺へは久しぶりに行きましたが、相変わらずのにぎわいでしたね。
スカイツリーも近くから良く見えて感動的でしたよ。
懇親会もアットホームな雰囲気でしたし、可能ならば次もぜひ浅草で行いたいですね。
詳しくはまた別記事で紹介させていただきます。
南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。言わずと知れたキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、信長も貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。
信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、そんな彼がやがてカトリックに潜(ひそ)むイスパニアによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのでした。
1587年、島津氏(しまづし)を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師(せんきょうし)が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦(ぐんかん)を準備して出迎えました。その壮大(そうだい)さに驚(おどろ)いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
外来種。。
魚にしても、草花にしても
本当に繁殖能力も旺盛で
病気に対しても強く日本元来の貴重な
生き物が食いつくされてしまい
本当に困ったものです(;O;)
生態系を崩す要因の一つですが、
人も宗教も同様。
外国との交流は細心の注意が必要ですね(^^ゞ
必ずしも良い結果ばかりは得られないという
事ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国際化には良い面と悪い面があります。
そして、悪い方向へと向かう場合は、気がつけば取り返しのつかない事態になっているパターンが多いのも困ったものなんですよね。
秀吉は幸い早く気づくことができたので、被害はそれほど大きくなくて済みましたが、現代でも水面下でどうなっているのか分からないところが恐ろしくもあります。
国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易(なんばんぼうえき)も盛(さか)んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきました。
秀吉も貿易での莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出し、1588年に海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)を出して倭寇(わこう)を取り締(し)まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助(えんじょ)して貿易の保護と促進(そくしん)をはかりました。
当時の我が国は銀の産出が豊富であり、秀吉はこれらの天然資源を活かして東アジアの諸国と積極的に貿易を行いました。また、この頃には中国を支配していた明(みん)の国力が衰(おとろ)えており、世界情勢の変化を見抜いた秀吉は、我が国を中心とする東アジアの新しい秩序(ちつじょ)をつくることを視野に入れ、高山国(こうざんこく、現在の台湾)やゴアのポルトガル政庁(せいちょう)、マニラのイスパニア(=スペイン)政庁などに服属(ふくぞく)と朝貢(ちょうこう)を求めました。
しかし、明の衰退(すいたい)に対して新秩序を構築(こうちく)していたのは秀吉だけではありませんでした。全国統一によって数十万の兵力や鉄砲(てっぽう)による強大な火薬力を誇っていた我が国でしたが、その力を国内防衛にために使用するのか、あるいは攻められる前に先制攻撃(せんせいこうげき)を行うのか。遠く西洋の巨大な王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫りつつありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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天然中尉 黒田裕樹殿へ
ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 黒田裕樹殿へ
> ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
私も楽しみです。
明日はよろしくお願いします。
要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように、天下を統一してそれこそ数十万の兵力を持つようになったことで、初めて農民も抵抗をあきらめて検地や刀狩に黙(だま)って従(したが)ったのです。
また、秀吉は1591年に人掃令(ひとばらいれい、別名を身分統制令=みぶんとうせいれい)を出して、武士が町人や農民になったり、あるいは農民が商業を行ったりすることなどを禁止しました。これによって兵農分離(へいのうぶんり)が進むとともに、江戸時代における士農工商(しのうこうしょう)の身分制度の基礎が確立しました。
もっとも、中世の惣村(そうそん)によって発達した自治的な村の運営は太閤検地後も続けられ、年貢を村の責任で一括(いっかつ)して納める村請(むらうけ)の制度も江戸時代に受け継がれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この当時の「刀狩り」制度は、現代の
銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
人掃いとはこういう字をあてるのですね。
私はよく時代劇で内密な話をする時に
「どうかお人払いを」と依頼する場面が
ありますが、そちらの「人払い」かと
思いました(^_^;)
すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この当時の「刀狩り」制度は、現代の
> 銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
目的としては「治安の維持」は同じであっても、当時の「農民から武器を取り上げる真の理由」である「一揆の防止」というところが異なりますでしょうか。
まぁ結果としては同じことにはなりますね。
> 人掃いとはこういう字をあてるのですね。
> 私はよく時代劇で内密な話をする時に
> 「どうかお人払いを」と依頼する場面が
> ありますが、そちらの「人払い」かと
> 思いました(^_^;)
> すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
いえいえ(^^♪
時代劇の「お人払い」の字はこれで正解ですね。
「人払」も「人掃」も意味は同じですが、歴史用語としては「人掃令」と書かないといけないんです。
ややこしいですよね(´・ω・`)
オバrev 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
sakura1956 お久しぶりです。
テストがあったもので。
士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
知りませんでした。。。
参考になりました(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
仰る説は昔から有力視されていますね。
当事者だからこそ、立場がよく分かるものです。ただ、最近では「地侍だった」という説もありますし、よく分からないのが実情のようですが、以前に書かせていただきましたように、通常の武士ではなかったことは間違いないとにらんでいます。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
> テストがあったもので。
テストお疲れ様でしたm(_ _)m
無事に終わりましたか?
> 士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
> 知りませんでした。。。
> 参考になりました(^^;)
歴史の結果には必ず原因があります。
兵農分離が進んだからこそ、身分の違いがはっきりと分かるようになったんですよね。
こういう観点から理解していけば、忘れにくいんですよ(^_^)v
アクセス10万、おめでとう。
晴雨堂ミカエル 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 アクセス数へのお言葉有難うございます。本日(17日)、記念の更新をいたします。
> 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
> 一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
> 江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
そうですね。身分制度といっても地方に関してはその規制は緩かったようです。八王子千人同心のような人々もいましたからね。このあたりについて、一度ゆっくり研究したいものです。
太閤検地によって土地の生産力は、それまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって、米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを石高制(こくだかせい)といいます。
また、検地帳(けんちちょう)には実際の耕作者の田畑や屋敷地が石高で表記され、それに応じて年貢と労役が課せられるようになりました。これを一地一作人の原則(いっちいっさくにんのげんそく)といいます。この原則によって、一つの土地に何人もの権利が重なり合っていたのが整理され、その結果として長く続いた荘園制度(しょうえんせいど)は完全に消滅しました。
秀吉は天下統一後の1591年、全国の大名に対してその領国の検地帳(別名を御前帳=ごぜんちょう)と国絵図(くにえず)の提出を求めました。これによってすべての大名の石高が正式に定まり、大名に支配する石高に見合うだけの軍役(ぐんやく)が課される体制が出来上がるとともに、近世的な知行制度(ちぎょうせいど)である大名知行制(だいみょうちぎょうせい)の基礎が確立しました。
なお、太閤検地によって農民は自分の田畑の所有権を法的に認められるようになりましたが、その一方で自己のすべての土地財産を大名などに知られることで年貢の負担も厳(きび)しくなっていきました。天下統一が進んでいるとはいえ、いまだ戦国時代が続いているのですから、農民による抵抗があってもおかしくないはずなのですが―。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル おめでとうございます。私は奇しくも黒田氏のこないだの講演1月22日で45になりました。お互い40代、生き延びましょう。
安土桃山時代は現代日本人の性格を語る上で重要ですね。
宗教勢力だけでなく人民全体の武装解除と管理体制確立された時期、エジプトで比較的に平和な市民革命が起こりましたが、それでも貴重な人類の遺産が損傷強奪されていることを考えたら、民衆の武装解除と数百年の泰平は日本民族にとって世界史的に奇跡の体験です。多分、日本で同じ事が起こったとしても、民家や商店の火事場泥棒程度、博物館や国宝はあからさまに襲うまい。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 有難うございます。充実した40代でありたいものですね。
我が国の国民の気質は確かに奇跡ですよね。奈良時代の遺物がいまだに残っているのは素晴らしいと思います。
ぴーち こんばんは!
まずは(冒頭にも書かれていますね^^)
お誕生日おめでとうございます!

黒田さん、とうとう24歳ですか~これから2ヶ月間だけは同年ですね(笑)
益々のご活躍をお祈りいたしております!!
さて記事の方へ一言、コメントさせてください。
秀吉の時代は、現代の様々な制度にも
関係した様々な事が確立された時代でも
あったのですね。それだけ秀吉も先見の明に優れた人物でもあったということなんでしょうかね。
それでは応援凸
永遠の?24歳ぴーちより・・え?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
お互いまだまだ若いですね(^_^)v
秀吉の先見の明も素晴らしいですし、またそれを現実のものとするだけの彼の力も素晴らしいものがありました。詳しくは明日(16日)の記事をご覧くださいね(^^♪
サクラ お誕生日おめでとうございます。
荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
紗那 誕生日おめでとうございます!
秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
不覚にもちょっと思い当たりませんね……
サクラさんへ
黒田裕樹 > お誕生日おめでとうございます。
有難うございます。
> 荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
> いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
> こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
確かに制度の終わりというものはなかなか耳にしないですね。
荘園制度は800年以上も続いたわけですが、終わりは結構あっさりとしています。
巨大な権力者によってそれまでの制度が変更される好例かもしれませんね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 誕生日おめでとうございます!
有難うございますm(_ _)m
> 秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
> 不覚にもちょっと思い当たりませんね……
仰るとおり、アメとムチですよ。
アメは農民たちの暮らしを守ること、そしてムチは…。
ayumi お誕生日おめでとうございます!!
黒田先生の42歳が素敵な一年になりますよう、
お祈りしていま~す。
黒田先生は歴史講座で全国制覇してくださいませ。
陰ながら応援しております!!!
ayumiさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)/
全国制覇ですか(^^ゞ
これからも地道に頑張っていけば結果は後からついてくると思いますし、毎日精進ですね。
1582年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得(かくとく)した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を太閤検地(たいこうけんち)、または天正(てんしょう)の石直(こくなお)しといいます。
太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一するとともに、それまではバラバラであった枡(ます、体積を図る測定器のこと)も京枡(きょうます)に統一して、全国の村ごとに田畑(でんぱた)や屋敷地(やしきち)の面積や等級を調査しました。
なお、それまでは360歩を1段としていたのが、米の生産効率の上昇もあったことで、太閤検地によって300歩を1段に改められています。ちなみに段は反(たん)とも表記され、1段は10アール(=1,000平方メートル)とほぼ同じ大きさです。また、歩は坪(つぼ)と同じ面積であり、現代でも家や土地の面積の単位として「○○坪」と表現されることが多いですね。




いつも有難うございます。
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QQQ 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
QQQさんへ
黒田裕樹 > 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
大変失礼いたしました。仰るとおり、当方の記載誤りです。
このたびは申し訳ございません。ご指摘下さってありがとうございました。
ぴーち こんばんは!
確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
ピンと来ますものね^^
逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
> ピンと来ますものね^^
> 逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
> 近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
私も法律事務所に長い間いましたから「坪」の方がなじみがありますね。
世界標準のメートル法も便利ではありますが、TPOで使い分けたいものです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
知りませんでした
学校では ならったはずですが
忘れていることが 多く
先生の講座で また 学べて 幸せです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
> 知りませんでした
> 学校では ならったはずですが
> 忘れていることが 多く
> 先生の講座で また 学べて 幸せです
検地と刀狩は以前から行われてきましたが、秀吉が本格的に始めて、かつ成功しました。
その理由も含めて、これからお話していきたいと思います。
綾小路江府士麿 太閤検地はよく聞くのですが、
単位がなかなか飲み込めないんですよね。
綾小路江府士麿さんへ
黒田裕樹 > 太閤検地はよく聞くのですが、
> 単位がなかなか飲み込めないんですよね。
私もそうなんですよね。
最初に記事を書いた際にはメートル法を間違えましたし。
とはいえ、一段の単位が変更になるなど重要な事項ですから、少しずつ理解したいものです。
また、秀吉が天下を統一する頃までには京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や、佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山(こうざん)も支配して、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)しました。ただし、これらの貨幣は主に贈答用(ぞうとうよう)に使用され、いわゆる貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからのことになります。
信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に及ぼし、一里塚(いちりづか)を築(きず)くなどして、信長が進めてきた政策を完成させました。
豊臣政権は秀吉が独裁(どくさい)的な権力を握(にぎ)ることで成立しましたが、秀吉の晩年には腹心(ふくしん)の大名を五奉行(ごぶぎょう)として政務(せいむ)を担当させ、後に有力な大名を五大老(ごたいろう)に任命し、重要な政務を合議(ごうぎ)させましたが、これらの制度が確立したのは秀吉の死の直前でした。
ちなみに五奉行は石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)で、また大老は徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)であり、隆景の死後に五大老と呼ばれました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
これは結構盲点なんですよね。天正大判のイメージが強すぎて、この頃から国産の貨幣が流通していたと思われがちなんですが…。
> なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
> しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
仰るとおり、江戸幕府の場合はいかにして江戸へ攻め込まれないようにするかというのが大きな目的でしたから、関所を設けて当然でもある訳です。目的や動機が違うと、関所の有無まで変わってしまうんですよね。
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関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(ゆだ)ねられたと見なした秀吉は、1585年に諸国の大名に交戦停止を命じた惣無事令(そうぶじれい)を出し、これに違反(いはん)したとして1587年に九州の島津義久(しまづよしひさ)を降伏させました。
また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)を仰(あお)ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前(おんまえ)で秀吉自身への忠誠を誓(ちか)わせました。
そして1590年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼし、伊達政宗(だてまさむね)らの東北の諸大名を降伏させたことで、ついに天下統一の事業を完成させたのでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
これまでの秀吉の行動を拝見させていただいていると、最初に黒田さんが秀吉を「人たらし」と仰っしゃられた意味が見えて来ました。
信長亡き後、チャンスとばかりに天下取りという最終目的の為にあらゆる手練手管を用いた抜かりなき行動は、信長存命の時から虎視眈々とその座を狙っていたかのようですね。もしかして最初からではなかったのかも知れませんが、これまでずっとバネの様に折りたたまれて来た思いが、一気にびよよよ~んと飛び跳ねたような展開ですね(^_^;)
(表現が幼稚ですみません・・汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
秀吉の内心は本人にしか分かりませんが、何と言っても戦国の世ですから、隙(すき)あらば自分が取って代わろうという思いは常に心の奥底にあったのではないかと私も推察します。
そして「一気にびよよよ~ん」と…って、この表現良いですねぇ(^_^)v
黒田裕樹さん
風早 りら 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
ようですね
やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
信忠が生きていたら、また変わっていたでしょう。
晴雨堂ミカエル 信忠は信長の嫡子という血統の権威と、三位の位という朝廷の権威と、既に織田家の家督を相続した棟梁としての権威もあったうえに、捻くれた信長によって司令官としても随分鍛えられていましたから、織田政権は潰れなかったかもしれませんね。
家康とは異なる幕藩体制を築けたかもしれません。
ところで、天海和尚=光秀説をどう思いますか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
> ようですね
> やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
私もそう思います。
身分の低さによるハンデは、差別が当然の世の中だった戦国時代の頃には、現代の私たちが想像する以上のものだったでしょう。
ハングリー精神を発揮できる一方で、名誉へのこだわりは人一倍強かったのではないでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信忠が一緒に倒されてしまったことに関しては、織田家にとっては痛恨の出来事だったと思われます。信忠が生きていれば、かたき討ちの大義目分が秀吉に回ってくるはずがなかったですからね。
結果論ですが、秀吉の運の強さは相当なものだと思います。
光秀=天海拙については、状況的にうなずける部分もありますが、やはり構成の創作のような気がします。
いずれにせよ真相は闇の中と思われますが…。
1584年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いに挑(いど)みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に秀吉は信雄と和睦(わぼく)に成功し、戦いの目的を失った家康とも和睦しました。
やがて秀吉は家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を求め、自分の妹を家康の新たな正室(せいしつ、いわゆる正妻のこと)として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼(しんかのれい)をとりました。
さて、天下統一を目指して大名を次々と従(したが)えた秀吉でしたが、彼の元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁(とうりょう)たる征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任することは不可能でした。そのため、秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようと考えました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
家康に臣従を求める徹底した姿勢は
「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
応援凸
オバrev 小牧・長久手の戦いで敗れながら、織田信雄、家康と和睦し、尚且つ家康を臣下にしたってのが、どうしても理解できないんですが・・・
普通、負けたらそこで勝者の配下に下るのが当然と思うのですが、何故そうならなかったのか?
それに、そもそも小牧・長久手の戦いの大義名分はなんだったんでしょうか(?o?)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家康に臣従を求める徹底した姿勢は
> 「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
> 身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
家康に対しては小牧長久手の戦いで負けたことで、戦わずにして勝つ方法にこだわったということでしょうね。
そのあまりのしつこさに家康もとうとう音を上げたというところでしょうか。
身分の低さを他人の権威を借りるという発想で乗り切るあたりは、仰るとおりの抜かりのなさだと私も思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、通常なら信雄の軍門に下るのが普通だと思います。
しかし、秀吉は信雄の弱点、というよりも彼の性格を知り抜いていました。信雄は信長の子とは信じられないくらいの凡庸な武将で、その一方で信長の息子という金看板にこだわる、要するにプライドが高かった武将だったのです。
小牧・長久手の戦いの契機も、秀吉が信雄をないがしろにしたと思いこみ(実際にそうだったのですが)、家康に救援を頼んだのがそもそものきっかけでした。
その後、家康と組んだ信雄は秀吉に勝ちました。ところが、その直後に秀吉がお得意の「人たらし」によって信雄の機嫌を取り、家康の知らないところで勝手に和睦を結んでしまったのです。
信雄に振り回されたかたちになった家康は激怒しましたが、かといって戦いの大義名分を失ってしまった今となっては、秀吉と和睦する以外に道がなかったのです。
その後は本文のとおりの経緯で家康は秀吉の臣下となりましたが、長生きしたことで最終的に天下を取ったのは周知のとおりですね。