天武天皇は、大臣(おおおみ)を置かずに自らが先頭に立たれて政治を行われました。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には、皇族出身者を中心とする新しい身分秩序である「八色(やくさ)の姓(かばね)」を定められました。
その他にも、チャイナの法体系にならった律令や我が国の歴史書である国史の編纂(へんさん)を開始されたり、我が国初の銭貨(せんか)となる「富本銭(ふほんせん)」の鋳造(ちゅうぞう)を行われたりしました。
外交面では新羅との国交を回復させて遣新羅使を何度も派遣される一方で、唐との国交を一時的に断絶されました。この結果、我が国は新羅という独立国家をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのです。なお、遣唐使の復活は8世紀当初まで待つことになります。
また、天武天皇はご自身(=天皇)が中心となる力強い国家体制の確立を目指されて、チャイナの都城(とじょう)にならった本格的な宮都である「藤原京(ふじわらきょう)」の造営を開始されましたが、その完成を見られることなく朱鳥(しゅちょう)元(686)年に崩御されました。
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天武天皇の諸政策を次々と引き継いでいかれた持統天皇は、689年に法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行(しこう)させ、690年には「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」を作成されました。なお、庚寅年籍は先に作成された670年の庚午年籍と非常に紛(まぎ)らわしいので注意が必要です。
694年に藤原京が完成すると、持統天皇は飛鳥浄御原宮から遷都されました。その後、697年に草壁皇子の子で自身の孫にあたる42代の文武(もんむ)天皇に譲位されると、大宝(たいほう)2年旧暦12月(703年に1月)に崩御され、天皇として初めて火葬されました。
ちなみに、女優でタレントの神田うのさんの名前は、持統天皇のご即位前のお名前である「鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」が由来です。
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我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わって国が途絶えたり、あるいは他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。その意味においても、我が国は世界でもっとも長い歴史を持つ国であるといえるでしょう。
文武天皇の治世(ちせい)の大宝元(701)年、我が国初の本格的な法令である「大宝律令」が、天武天皇の子である刑部親王(おさかべしんのう)や藤原鎌足の子である藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって完成しました。
律とは刑罰の規定であり、令とは行政法や民法などの法規のことです。大宝律令の完成によって、我が国は法に基づいて政治を行う律令国家となりました。また、唐の律令にならって作られた大宝律令は、この後の我が国の政治の基本となりました。なお、これより後の養老(ようろう)2(718)年には、大宝律令を一部改修した「養老律令」がつくられています。
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