そして翌668年正月、中大兄皇子は43歳でようやく天智(てんじ)天皇として即位されましたが、このご即位も決してスムーズに行われたわけではありませんでした。
同じ668年に、新羅の僧である道行(どうぎょう)が三種の神器(じんぎ、天皇であることを証明する大事な神器のこと)の一つである草薙(くさなぎ)の剣を盗むという事件が起きました。道行は新羅まで逃げようとしましたが、途中で嵐にあって失敗に終わりました。
この事件は、新羅が天智天皇のご即位を妨害しようとした事実の一つとされています。天智天皇はかつて百済再興をめざして白村江の戦いを起こされました。ということは、天智天皇が百済を滅ぼした新羅に対して良い感情をお持ちでないことは明らかだったのです。
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まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる「近江令(おうみりょう)」を中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として我が国初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」がつくられました。
また、671年には漏刻(ろうこく)、つまり水時計が宮廷内に設置され、正確な時を告げるようになったとされています。この日は今の暦に直すと6月10日であり、いわゆる「時の記念日」として有名です。
こうした一方で、天智天皇のご在位中に中臣鎌足が669年に56歳で亡くなりました。鎌足の死の直前に、天智天皇は「大織冠(だいしょくかん)」の地位と「藤原(ふじわら)」の姓(かばね)を授けられました。鎌足は死後に「藤原鎌足」と呼ばれ、我が国の歴史にその名を残す藤原氏の始祖となったのです。
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我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我が国の唐に対する防波堤の意味も込めて、一切のしがらみを捨てて新羅と「大人の関係」を結ぼうというのがその真意でした。
しかし、こうした「現実的」な考えは「新羅憎し」の感情を優先させる天智天皇や大友皇子には受けいれられず、両者はいつしか対立するようになりました。そして671年旧暦10月、天智天皇は大海人皇子を宮廷内に呼びつけられると「天皇の地位を譲る」と仰られました。
「これは罠(わな)だ」と直感した大海人皇子はこの誘いを断り、直ちに出家して吉野へ向かい、政治的野心のないことをアピールしました。
天智天皇は、同じ年の旧暦12月に46歳で崩御されました。天皇の崩御は、単なる後継争いのみならず、我が国の今後の外交路線も含めた大きな流れの中で、避けることの出来ない波乱の予感を漂(ただよ)わせていました。
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東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが結局は敗北し、大友皇子は自殺しました。大海人皇子が大友皇子を破ったこの戦いを、当時の十干十二支(じっかんじゅうにし)から「壬申(じんしん)の乱」といいます。
大海人皇子が勝利できた最大の原因は、東国の下級役人や地方豪族が皇子に従ったからでした。一方、大友皇子は西国に対して自分の味方になるように説得しましたが、いずれも拒否されました。なぜこのようなことになったのでしょうか。
その理由の一つとしては、天智・大友父子の「反新羅」の外交政策に対する反発が挙げられます。我が国の未来のために、恩讐を越えて新羅との関係を修復しようとする大海人皇子の考えが全国に受けいれられたといえるでしょう。
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大海人皇子が勝利した理由のもう一つは「改新事業への支持」が考えられます。白村江の戦いに敗れて窮地(きゅうち)に陥(おちい)った天智天皇(当時は中大兄皇子)は、大化の改新によって土地や人民を取り上げられたことで不満の高まっていた中央の豪族と妥協するために人民の私有を復活させましたが、これは明らかな改新事業の後退でした。
一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立場からすれば、中央豪族の私有に甘んじるよりも、大海人皇子を支持して彼の下で国づくりを進めた方がはるかに理想的といえました。
これらの理由があったからこそ、一種のクーデターともいえる壬申の乱が成功したのでしょう。なお、大友皇子は、壬申の乱から約1200年後に、明治政府によって39代の「弘文(こうぶん)天皇」の名を贈られています。
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