こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として唐との軍事同盟を選択しましたが、これは、ある意味非常に危険な賭けでした。
新羅が唐と同盟を結べば、間に挟まれた高句麗や百済と戦いやすくはなりますが、問題はその後です。高句麗や百済が滅んだ後は、唐と新羅の両国が残されます。ということは、唐は新羅のみを相手に、じっくりと時間をかけて滅ぼすことが可能となるわけです。
その後の展開が読めていた唐は、新羅からの誘いを喜んで受けました。唐から見て、遠く(=新羅)の相手と結んで、近く(=高句麗・百済)の敵を倒すという政策のことを「遠交近攻」といいます。
一方、新羅にしてみれば、将来の不安よりも「今そこにある危機」の打開のためにはやむを得ない選択でした。そして新羅は唐の信頼を得るために、常識では考えられない政策を始めるのです。
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つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてをチャイナ風に改めたのです。
百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)がそうであったように、それまでの新羅を含む朝鮮半島の人々の名字は、我が国の姓(かばね)である「中臣」「物部」などと同じく「二文字」が基本でした。
しかし、これ以降の新羅では、当時の武烈王(ぶれつおう)が本名を「金春秋(きん・しゅんじゅう)」と名乗るなど、名字を漢字一文字に統一し、これは現代でも「金正恩(キム・ジョンウン)」あるいは「尹錫悦(ユン・ソンニョル)」のように全く変わっていません。
この後、新羅は唐を追い出して統一国家を創立することに成功しますが、文化的には完全にチャイナに背骨をつくり変えられてしまっており、この点が、公地公民といった律令制をチャイナからほぼ完全なかたちで輸入しても、日本文明の基本を一切変えなかった我が国との非常に大きな違いといえるでしょう。
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こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。
百済の遺臣たちの多くは、かねてから同盟を結んでいた我が国に逃れ、百済の復興を訴えました。彼らに同意した朝廷は、翌年の661年に斉明天皇ご自身が先頭となって軍勢を率いて、百済救済のために九州へ向けて出発しました。
しかし、斉明天皇は九州から動けぬまま、病のためにその年の夏に68歳で崩御されました。斉明天皇の崩御後は、中大兄皇子が即位しないままで政治を行いました。これを「称制(しょうせい)」といいます。
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白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐れて、国境沿いの対馬(つしま)や壱岐(いき)、筑紫(つくし)に当時の兵士にあたる防人(さきもり)を置いたり、九州北部の行政機関であった大宰府(だざいふ)に大規模な水城(みずき、大宰府を守るための堀や土塁のこと)を築いたりしました。
なお、水城は今もその多くが残存しており、現地(福岡県太宰府市)に行けば当時の様子が容易に分かります。
さて、朝鮮半島では668年に高句麗が滅ぼされた後、ついに唐と新羅とが国境を接して争う事態となりました。我が国にも緊張感が高まりましたが、結局は唐や新羅が我が国に攻め寄せることはなく、逆に新羅が我が国の後ろ盾を求めて、唐へ朝貢(ちょうこう)すると同時に我が国へも朝貢するようになりました。
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その後、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は朝鮮半島の支配を諦め、やがては新羅の存在を認めたのでした。
長いあいだ勢力争いが続いた朝鮮半島は、結局は新羅による統一で幕を下ろしました。我が国は任那(みまな)や百済の問題などで、新羅とはかねてより敵対関係にありましたが、状況が変化すると、新羅は手のひらをかえして我が国に朝貢するなど後ろ盾として頼るようになり、また我が国も新羅を防波堤とすることで、唐の侵略を受けるのを防ぐことができました。
要するに、新羅は自国の生き残りのために唐と同盟を結び、唐と共に我が国と戦って勝利するや、今度は唐を裏切って我が国に朝貢して接近するという、いわゆる「二枚舌外交」を貫き通したのです。新羅によるこうした姿勢こそが、現在の朝鮮半島の情勢を本当の意味で理解する流れにもつながるといえるのではないでしょうか。
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我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。
しかし、実際に7世紀後半には遣唐使が行われないかわりに、遣新羅使(けんしらぎし)が短期間に何度も行われているのです。我が国がそこまでの政策転換ができた理由は何だったのでしょうか。
その背景には、白村江の戦いの後の外交路線を「反新羅」でいくのか、あるいは「親新羅」でいくのかで対立した「兄弟」による骨肉の争いがあったのです。
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