我が国初の女帝となられた推古(すいこ)天皇の皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)となってから、我が国のために内政・外交とも大活躍を見せた聖徳太子(しょうとくたいし)でしたが、622年に49歳で逝去(せいきょ)すると、それを待っていたかのように蘇我(そが)氏の横暴が再び始まりました。
老いてなお盛んであった蘇我馬子(そがのうまこ)は、聖徳太子という後ろ盾を失われた推古天皇に対して、蘇我氏ゆかりの地であり、皇室が所有していた葛城(かつらぎ、現在の奈良県)の支配を求めましたが、馬子の無茶な要求に対して、推古天皇は以下のように拒否されました。
「私は蘇我氏の血を引いていますし、貴方(=馬子)は大臣(おおおみ)で私の叔父でもあります。しかし、だからといって公(おおやけ)の土地を私人(しじん)に過ぎない貴方に譲ってしまっては、後世の人に私が愚かな女だと言われるのみならず、貴方も不忠な人間だと悪名を残すことになりますよ」。
このように高い見識をお持ちであった推古天皇でしたが、628年に75歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。馬子もそれ以前の626年に亡くなっており、政治の実権は馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)が握ることになりました。
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舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀な外征や内政の混乱もあって、建国後わずか30年足らずで滅亡しました。そして618年に李淵(りえん)が隋にかわって大陸を統一し、新たに唐(とう)を建国しました。
我が国は、隋と同じように唐に対しても文化の交流をはかるべく、630年に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを遣唐使として送りました。なお、遣唐使はその後も続きますが、ある出来事をきっかけに一時期中断しています。
さて、舒明天皇が641年に崩御されると、その後継(35代)には皇后の皇極(こうぎょく)天皇が選ばれました。我が国で二人目の女性天皇の誕生です。意外とも言えるこの流れは、聖徳太子の子である山背大兄王にしてみれば、今度こそ自分が天皇になると思っていただけに納得がいかないものでした。
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643年、父親である蘇我蝦夷から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自殺するという非業(ひごう)の最期をとげました。ここに聖徳太子の血統は断絶してしまったのです。
あまりの凶事にさすがの蝦夷も激怒しましたが、入鹿にとってはどこ吹く風で、新しく建てた自分の家を「宮門(みかど)」と名付けたり、自分の息子を「王子(みこ)」と呼ばせたりしました。まさにやりたい放題です。
そんな中で、自らの権力に驕(おご)れる入鹿を忌々(いまいま)しげに見つめる二人の人影がありました。彼らは一体誰なのでしょうか。
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蹴鞠は7世紀前半までにチャイナから我が国に伝わったとされており、貴族から武士あるいは一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。
蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で蹴鞠の会が盛大に行われていました。一人の若い男性の皇子が高く鞠を蹴り上げたとき、勢いあまって履(くつ)が脱げて、鞠とともに宙を舞いました。
履は、ある一人の男性の目の前に落ちました。男はすぐに履を拾い上げると、両手でささげるようにして持ちました。皇子の前まで行くと男はひざまずき、恭(うやうや)しく履を差し出しました。皇子も男の前でひざまずき、互いに目を見合わせ、笑みをかわしました。
これこそが、我が国の歴史の大きな転換点となった「大化(たいか)の改新」を成し遂(と)げた二人の男性である、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)の記念すべき出会いだったと伝えられています。
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幼少時から優秀かつ果敢な性格を称(たた)えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王のような目にあうかもしれないという思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられないという強い危機感とを持っていました。
中臣鎌足は代々神事を担当した中臣氏の一族でしたが、我が国で仏教を受けいれるかどうかの問題で物部(もののべ)氏と共に蘇我氏と対立し、以後は勢力が弱まっていました。彼もまた、蘇我氏のやりたい放題をこのまま見過ごしておけないという使命感に燃えていたのです。
蹴鞠の会によって出会うべくして出会った二人は、留学生として隋へ渡り、唐になってから帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)から教えを請(こ)うという形で何度も密会し、蘇我氏打倒の作戦を練り続けていました。
二人は、蘇我氏の一族でありながら入鹿の専横を憎んでいた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き入れることに成功し、石川麻呂の娘が中大兄皇子の妃(きさき)となりました。
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