「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを理想とした共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時にGHQの立場からも日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えました。
なぜなら、最終的には我が国が敗北したとはいえ、天然資源もなく、山だらけの我が国が大東亜戦争を何年も戦い抜いた背景に、豊富な経済力があるとアメリカが考えたからです。
「日本が二度と欧米列強に逆らえないように封じ込める」ことを占領政策において何よりも重要視したGHQは、昭和20(1945)年11月6日に、政府に対して四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の即時解体を要求する覚書を発して、我が国への大規模な経済統制に踏み切りました。
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翌昭和21(1946)年8月には持株会社整理委員会が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲り受けて一般に売却するなど、財閥解体の執行機関として活動しました。
さらに、昭和22(1947)年4月にはいわゆる独占禁止法が公布され、持株会社やトラスト・カルテルなどの独占的企業の結合が禁止されたほか、同年7月には、監視機関である「公正取引委員会」が設置されました。
また、同年12月には過度経済力集中排除法が公布され、独占的企業の分割・再編成が行われるようになりましたが、GHQの主導によるこうした動きは、次第に統制が緩(ゆる)められるようになったのです。
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例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改正で独占の制限が緩和されています。
かくして、我が国では財閥そのものは解体されたものの、それぞれの流れをくむ企業の多くがやがて再結集して大規模な企業グループを形成するようになり、その後の我が国における高度経済成長を支えました。
また近年では、平成9(1997)年に持株会社の設立が解禁されたことも受けて、三大メガバンク(みずほ・三菱UFJ・三井住友)のように、グループを越えた企業同士の合併や交流なども行われるようになっています。
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これを受けて、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した「第一次農地改革」を始めましたが、我が国の共産主義化を目論(もくろ)んでいたソ連(現在のロシア)が、対日理事会において「政府の改革は不徹底である」と主張し、GHQによる勧告(事実上は命令)をもたらしました。
被占領国家であり、GHQの命令に逆らえなかった我が国では、昭和21(1946)年10月に第一次吉田茂(よしだしげる)内閣において自作農創設特別措置法が制定され、昭和22(1947)年3月から昭和25(1950)年7月まで第二次農地改革が実施されました。
第二次改革によって不在地主の土地所有が禁止され、在村地主の保有限度が1町歩(約1ヘクタール、ただし北海道は4町歩=約4ヘクタール)に制限されたほか、不在地主はすべての貸付農地が、在村地主は制限を超える部分の農地がそれぞれ政府によって強制的に買い上げられ、小作人に非常に安い価格で売り渡されました。
なお、該当農地の買収や売渡しは、市町村ごとに小作農5・地主3・自作農2の割合で構成された農地委員会が担当しました。また、山林や原野に関しては、農地改革のような強制的な開放は行われませんでした。
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確かに「地主の廃止」は小作人を喜ばせて裕福にしましたから、貧者による「共産革命」が起きずに済んだのかもしれません。しかし、長い目で歴史を見れば、全国の大地主を没落させるとともに、小作人をいわゆる「敗戦利得者」とした「マイナス面」の方が、はるかに大きいとも考えられるのです。
欧米からの侵略を防ぐため、近代国家の建設を進めた我が国では、明治期を中心に全国の至るところに速やかに鉄道網を敷(し)きましたが、こうした芸当が可能だったのは、戦前の大地主との話さえつければ、土地を入手することが容易だったからでした。
戦前の大地主は「国家のために貢献する」という考えが多く、儲(もう)けを考えずに政府に土地を提供する人々がたくさんいたため、土地の売買がそれほど大きな問題にはなりませんでした。
しかし、これが戦後になると、農地改革の恩恵で地主となった元小作農の多くが「目先の利益」にこだわり、まるで「ゴネ得」のように土地問題が絡(から)むことで、国家にとって重要な改革がなかなか進まないという弊害(へいがい)をもたらしたのです。
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しかし、その大地主が没落したことで、地方における富裕層がいなくなるとともに、担(にな)い手を失った地方の文化が絶滅の危機に瀕(ひん)してしまったのです。実際には不徹底で終わったものの、GHQが財閥を解体して我が国の経済力を大幅に削減しようと考えたように、大地主の没落はそのまま地方の凋落(ちょうらく)につながり、都市部との格差がますます拡大するようになりました。
さらには、大規模な農地経営が世界的に主流になる一方で、我が国では大地主が強制的に排除されたことから先進的農業の中核の役割を果たす農家が育たず、結果として我が国の農業が国際競争力を低下させている現状にもつながっているのです。
ひとつの事象に関してプラスの面をことさら強調するだけではなく、様々な面から歴史的事実を眺(なが)めて、そのマイナス面も見極めたうえで我が国の今後に生かそうとする。農地改革について調べれば調べるほど、歴史の大きな流れをつかむことの重要性が実感できるのではないでしょうか。
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これを受けて昭和20(1945)年に労働組合法が制定され、公務員を含めた労働者に団結権・団体交渉権・争議権が保障されたほか、昭和21(1946)年に制定された労働関係調整法では、労働争議の自主的解決のために、労働委員会による斡旋(あっせん)や調停・仲裁の方法が定められました。
昭和22(1947)年には労働基準法が公布され、週48時間労働(当時)や女子あるいは年少者の深夜就業の禁止などが定められるなど、これらの労働三法は、以後の労働者保護へ向けての基本法となったほか、同年には当時の片山哲(かたやまてつ)内閣によって労働省(現在の厚生労働省)が新設されました。
また、労働組合の全国的な組織としては、昭和21(1946)年に全日本産業別労働組合会議(=産別会議)が共産党の指導を受けて誕生したほか、反共の立場の日本労働組合総同盟(=総同盟)も同年に結成されました。このほか、農業では昭和21(1946)年に日本農民組合が結成され、農民運動の中心的組織となりました。
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