当時のコメの重要な供給地であった台湾や朝鮮を失った我が国は、徴兵や徴用による農家の労働力不足や生産資材の不足などによって、戦時中から続いていた食糧難を悪化させたのみならず、戦争が終結した昭和20(1945)年の記録的な凶作が拍車をかけました。
政府は占領軍に食糧の援助を求めましたが、日本に経済的余力を持たせることを危険と考えた占領軍が、当初は国民の最低限の暮らしすら維持不可能な程度の物資しか配給しませんでした。
こういった事情によって、政府によるコメやサツマイモ・トウモロコシなどの代用食の遅配・欠配が相次いだことから、多くの人々が食糧を求めて、戦後の混乱の中で主要都市の駅周辺の焼け跡で開かれていた闇市(やみいち)へ出かけたり、農村への買出しに向かったりして飢えをしのぎました。
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そんな折に、敗戦直後に臨時軍事費が大量に支払われたり、生活に不安を感じた多くの人々が預金を引き出ししたりしたことによって、日本銀行の対民間貸出しが増加するなど、戦後処理にともなって政府が通貨を増発しました。
物不足で供給が停滞している際に、多数の通貨が市中に出回って需要を誘発したことから、悪性のインフレーション(=ハイパーインフレ)が我が国で進行してしまったのです。
このため、政府は昭和21(1946)年2月に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が金融緊急措置令を公布し、新紙幣(=新円)を発行した後に一週間を期限として手持ちの紙幣(=旧円)と交換させ(これを新円切換えといいます)、それ以降の旧円の流通を禁止しました。
これによって一定額以上の預金封鎖が可能となり、同年2月時点で618億円あった日銀券が、3月には152億円に激減するなど、インフレを抑える効果をもたらしましたが、結局は一時しのぎに過ぎず、通貨の流通量はその後も増大を続け、インフレも進行しました。
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このため、当時の第一次吉田茂(よしだしげる)内閣は経済安定本部を設置し、昭和22(1947)年には資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させる傾斜(けいしゃ)生産方式を採用したほか、復興金融公庫を創設して、電力や海運などを含めた基幹産業への資金提供を行いました。
翌昭和23(1948)年まで続いた傾斜生産方式は、復興金融公庫の融資によって大量の通貨が発行されたことでインフレーションを激化させましたが、生産が上昇したことで、その後の日本経済発展の基礎を築くなど大きな効果ももたらしました。
なお、経済安定本部は昭和27(1952)年に規模が縮小されて経済審議庁となり、昭和30(1955)年には経済企画庁に改組され、平成13(2001)年の中央省庁再編で内閣府がその業務を引き継ぎました。
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こうした流れを受けて、民主革命を目指した日本共産党と産別会議の指導によって全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、当時の第一次吉田内閣打倒をめざし、昭和22(1947)年2月1日を期して鉄道や電信など基幹産業を巻き込んだゼネラル=ストライキが計画されました。これを「二・一ゼネスト」といいます。
しかし、鉄道ストで日本各地に駐留する米軍の補給や相互連絡に問題が生じれば、軍事面で重大な懸念が発生することを恐れたGHQは、占領目的の妨害を理由に前日の1月31日にゼネストの中止を命令しました。
二・一ゼネストの中止は、革命主義的な労働運動を抑制するとともに、後に官公庁職員のストライキを禁止する流れをもたらしました。
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要するに、傾斜生産方式は当時の我が国にとってベストな選択であったともいえるのですが、資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させた実態は、社会主義政策に見られる「計画経済」そのものであるといえます。
実は、重化学工業では計画経済の方が良いこともあったのです。重化学工業の発展当時は、計画的に安く大量に生産した方が、国力が上がる傾向にありました。1920年代末から30年代前半にかけての世界恐慌時代に、ソ連(現在のロシア)が「五か年計画」を成功させたのもその例です。
1932(昭和7)年に成立した満州国の発展もソ連の計画経済を手本としていましたし、1933(昭和8)年にアメリカ大統領に就任したフランクリン=ルーズベルトは、社会主義的なニューディール政策を行いました。さらには、第二次世界大戦の頃までは物量勝負の全面戦争が中心だったこともあり、計画経済の全体主義が世界中で幅を利かせていたのです。
しかし、戦後の復興や冷戦の始まりによって、自由主義国家と社会主義国家の対立が激しくなると、やがてソ連が競争社会について行けなくなり、1991(平成3)年12月に崩壊(ほうかい)しました。なぜソ連は冷戦に敗れたのでしょうか。その理由は色々考えられますが、一つだけ述べるとすれば、同じものを機械的に大量生産するだけでは「新しい発想による技術革新」が不可能だったからです。
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オーストリアの経済学者シュンペーターは「馬車を何台つなげても汽車にはならない」と述べ、経済発展の原動力は、それまでの方法を破壊して新しい方法を創造していく「創造的破壊」の上で成り立つと説きました。
生産性の劇的な向上にはイノベーションが必須ですが、いくつかの既存の事柄の組み合わせを変えて、生産性の少しずつの向上を目指すことは、イノベーション無しでも、自由競争下でいくらでも「改良」によって起こし得ます。
無論、現在の課題はどうなのかはまた別に考えるべきことだというのは言うまでもありませんが、少なくとも計画経済に慣れてしまうと、旧態依然の生産にこだわり、新しい発想を嫌う傾向があります。
この流れは、世界一の軍事国家であるがゆえに極端な制限貿易を行い得たにもかかわらず、長年の平和ボケによって鎖国の状態を守ることが「祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)」であると錯覚し、西洋から大きく取り残されて強制的に開国せざるを得なかった、幕末の頃の我が国と同じであるといえるでしょう。
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