聖徳太子は、自ら高句麗の高僧であった恵慈(えじ)に学び、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんぎょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著しました。
また、この時期に高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が彩色(さいしょく、絵の具のこと)や紙・墨(すみ)の技法を伝え、百済の僧の観勒(かんろく)は我が国に暦法(れきほう)をもたらしたとされています。なお、先述のとおり聖徳太子は恵慈から仏教のみならず東アジアにおける国際情勢を詳しく学んでおり、その後の遣隋使をきっかけとするチャイナとの対等外交を実現しています。
ところで、聖徳太子が摂政に任じられた6世紀末頃から飛鳥の地に天皇の宮殿が次々に造営されました。なかでも603年に推古天皇によって造営されたと伝わる小墾田宮(おはりだのみや)は、先述した隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)が我が国に来訪した際の宮殿とされています。
また、有力な皇族や蘇我氏などの有力な豪族もそれぞれ邸宅を構えていましたが、時代が進むにつれて様々な施設が飛鳥の地に集中するようになり、本格的な宮都(きゅうと)が造営される段階へと進みました。こうした流れが後の藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)などの新都造営をもたらすことになります。
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聖徳太子(当時は厩戸皇子)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続きました。思いあまった聖徳太子は自ら四天王像を彫刻して「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺院を建立(こんりゅう)し、この世のありとあらゆる人々を救済する」と誓いました。
すると、味方の放った矢が物部守屋に命中して戦死し、大将を失った物部軍は総崩れとなって敗退しました。その後、聖徳太子が四天王との約束を果たすために593年に建立したのが現在の四天王寺と伝えられています。
なお、四天王寺を実際に建築したのは世界最古の企業(578年創業)とされる金剛組(こんごうぐみ)であり、現在も四天王寺のそばに本社があります。また、大阪の繁華街として「梅田(うめだ)」「難波(なんば)」と並んで有名な「天王寺(てんのうじ)」は、四天王寺の略称がそのまま地名と化したものです。
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聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また蘇我馬子が飛鳥寺(あすかでら、別名を法興寺=ほうこうじ)を、帰化人(=渡来人)系の秦(はた)氏が広隆寺(こうりゅうじ)をそれぞれ建立しました。
また、聖徳太子よりも後の時代に舒明(じょめい)天皇が百済大寺(くだらおおでら、後の大官大寺=だいかんだいじ、あるいは現在の大安寺=だいあんじのルーツ)を建立したとされています。
寺院内の建物の配置のことを「伽藍(がらん)配置」といいますが、四天王寺や飛鳥寺の伽藍配置が大陸伝来の配置であるのに対して、法隆寺の配置は我が国独特のものとされており、こんなところにも我が国独自の文化への主張が見られます。
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法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、平成5(1993)年には「法隆寺地域の仏教建造物」が我が国で初のユネスコの世界文化遺産として登録されました。
仏教の信仰によって、数多くの仏像が造られました。中でも有名なのは鞍作鳥(くらつくりのとり、別名を止利仏師=とりぶっし)が制作した金銅像(こんどうぞう)である法隆寺金堂(こんどう)の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)であり、チャイナの南北朝時代の北魏(ほくぎ)様式に属しています。
その他の仏像としては、中宮寺(ちゅうぐうじ)や広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう、または弥勒菩薩像=みろくぼさつぞう)、法隆寺の百済観音像(くだらかんのんぞう)や法隆寺夢殿(ゆめどの)の救世観音像(くぜかんのんぞう)などの木像が知られています。
また、美術工芸品としては法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)や中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)などが残されており、それらに用いられた忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう、忍冬=スイカズラ のような蔓草=つるくさ を図案化した文様のこと)は、遠くエジプトやギリシャからチャイナを経て伝来したとされています。
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