冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)」という6つを定め、さらに大と小とに分割することで12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
「大徳(だいとく、濃い紫)」・「小徳(しょうとく、薄い紫)」・「大仁(だいにん、濃い青)」・「小仁(しょうにん、薄い青)」・「大礼(だいらい、濃い赤)」・「小礼(しょうらい、薄い赤)」・「大信(だいしん、濃い黄)」・「小信(しょうしん、薄い黄)」・「大義(だいぎ、濃い白)」・「小義(しょうぎ・薄い白)」・「大智(だいち、濃い黒)」・「小智(しょうち、薄い黒)」
冠位十二階は、それまでの氏姓(しせい)制度による世襲制ではなく、個人の才能や実績によっては昇進も可能になるという画期的な身分制度であった一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは、蘇我氏が従来どおりの「大臣(おおおみ)」として、冠位をもらう側よりも授ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も、蘇我氏の立場にまで一気に踏み込んで改革することはできなかったのでした。
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冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。
蘇我氏を冠位十二階から除外したということは、逆に言えば「蘇我氏に対抗できるだけの人材を育成できるルート」を新たに作ったことになります。また、その位は12段階に細かく分かれていますから、誰が見ても明確かつ客観的です。つまり、長い目で見れば、蘇我氏の勢力を圧倒できるだけの、しかも出世した優秀な人材のみをそろえることが出来るようになるのです。
さらに蘇我氏の立場で考えてみましょう。聖徳太子から「あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ」と言われれば、確かに自分の方が下であると認めるわけにはいきませんから、聖徳太子の深慮遠謀(しんりょえんぼう、先々のことまで考えた深いはかりごとのこと)に気付いたとしても、首を縦に振らざるを得ません。
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おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続けるという、聖徳太子の優秀な政治家としての顔を垣間(かいま)見ることが出来るエピソードですね。
なお、冠位十二階によって当初は「大礼(だいらい、濃い赤)」の地位にいたある男性が、外交における活躍が認められ、後に最高位の「大徳(だいとく、濃い紫)」にまで出世した事実が伝えられています。
その男性こそが、後に遣隋使として大役を果たした小野妹子(おののいもこ)なのです。
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こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和を以って貴(たっと)しとなし」で始まる部分ですね。
これは「我が国にとっては和の尊重が何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか。
聖徳太子によって説かれた精神は、私たち日本人の本質を実に的確に捉(とら)えているのです。1400年以上も昔の政治家の発想とはとても思えませんね。
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また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕して、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまであります。
政務をとる者に対して、憲法十七条は和の尊重だけではなく、仏教への信仰や天皇への忠誠などといった様々な心構えを説くことで、役人としての自覚をうながす内容となっています。
それらはもちろん重要なことなのですが、憲法十七条が素晴らしいのはそれだけではありません。実は、憲法で定められた内容には、蘇我氏などの豪族に対して聖徳太子が巧妙に仕掛けた「罠(わな)」が含まれているのです。
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また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」になることも意味しています。
冠位十二階と同様に、憲法十七条の制定によって、聖徳太子は蘇我氏による横暴や独走を抑え、後の中央集権国家の誕生へ向けての布石を確実に打っていたのです。
「いつまでも蘇我氏の思うままにはさせない」。政治家という職業には、時として誰にも負けないくらいの執念深さが必要なのかもしれません。
なお、聖徳太子は620年に「天皇記(てんのうき)」「国記(こっき)」などの歴史書を編纂(へんさん)しましたが、これらはチャイナなどの対外関係を念頭に、当時伝えられていた「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」をもとにつくられたとされています。
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