587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を持たれるようになりました。
そんな592年旧暦10月のある日、崇峻天皇にイノシシが献上されました。イノシシをご覧になられた天皇は「いつかこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言されました。
崇峻天皇のお言葉が馬子の耳に入ると、身の危険を感じた馬子は「殺(や)られる前に殺ってしまえ」とばかりに、翌旧暦11月に偽の朝廷の儀式に天皇を誘い出すと、配下の東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて殺害してしまいました。
崇峻天皇は、臣下により暗殺されたと正史に明記された唯一の天皇となりました。なお、主君や親を殺すことを「弑逆(しいぎゃく)」といい、またそのような人の道に背(そむ)く悪い行いのことを「大逆(たいぎゃく)」といいます。
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我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)としました。彼こそが、我が国の歴史を形づくった英雄となった「聖徳太子(しょうとくたいし)」です。
なお、この頃は一時期を除いて奈良盆地南部の飛鳥(あすか)に都が置かれていたので「飛鳥時代」と呼ばれています。
聖徳太子は574年に推古天皇の兄である31代の用明(ようめい)天皇と、馬子の姪(めい)にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれましたが、当時の我が国は内政面及び外交面において非常に深刻な問題を抱えていた、いわゆる「内憂外患(ないゆうがいかん、国内の心配事と外国からもたらされる心配事のこと)」の状態でした。
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この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。
また外交面では、前回(第94回)の講座で紹介したように隋(ずい)が約300年ぶりに中国大陸を統一したことによって、それまで大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアにおける政治の情勢が微妙な状態になっていました。
内政面においても、また外交面においても深刻な問題を抱えていた我が国でしたが、摂政となった聖徳太子は、我が国の置かれた立場を冷静に分析しました。
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また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子は、600年に初めて遣隋使(けんずいし)を送ったほか、高句麗(こうくり)の高僧であった恵慈(えじ)などから東アジアにおける国際情勢を詳しく学びました。
ちなみに、恵慈は熱心な仏教徒であった聖徳太子によって、我が国で仏教を広めるために高句麗から招かれたのですが、仏教を学ぶことは当時の最先端の情報や技術を入手することにもつながりました。
こうして我が国の内政あるいは外交における立ち位置を正確につかんだ聖徳太子は、まずは内政面において大胆な改革を断行することになるのです。
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冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)」という6つを定め、さらに大と小とに分割することで12段階の区別をつけました。また、それぞれの階級で冠(かんむり)の色を以下のとおりに分けました。
「大徳(だいとく、濃い紫)」・「小徳(しょうとく、薄い紫)」・「大仁(だいにん、濃い青)」・「小仁(しょうにん、薄い青)」・「大礼(だいらい、濃い赤)」・「小礼(しょうらい、薄い赤)」・「大信(だいしん、濃い黄)」・「小信(しょうしん、薄い黄)」・「大義(だいぎ、濃い白)」・「小義(しょうぎ・薄い白)」・「大智(だいち、濃い黒)」・「小智(しょうち、薄い黒)」
冠位十二階は、それまでの氏姓(しせい)制度による世襲制ではなく、個人の才能や実績によっては昇進も可能になるという画期的な身分制度であった一方で、蘇我氏は冠位の例外とされていました。おそらくは、蘇我氏が従来どおりの「大臣(おおおみ)」として、冠位をもらう側よりも授ける立場にあったからと考えられています。さすがの聖徳太子も、蘇我氏の立場にまで一気に踏み込んで改革することはできなかったのでした。
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冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。
蘇我氏を冠位十二階から除外したということは、逆に言えば「蘇我氏に対抗できるだけの人材を育成できるルート」を新たに作ったことになります。また、その位は12段階に細かく分かれていますから、誰が見ても明確かつ客観的です。つまり、長い目で見れば、蘇我氏の勢力を圧倒できるだけの、しかも出世した優秀な人材のみをそろえることが出来るようになるのです。
さらに蘇我氏の立場で考えてみましょう。聖徳太子から「あなたは特別だから冠位十二階の位は授けませんよ」と言われれば、確かに自分の方が下であると認めるわけにはいきませんから、聖徳太子の深慮遠謀(しんりょえんぼう、先々のことまで考えた深いはかりごとのこと)に気付いたとしても、首を縦に振らざるを得ません。
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おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続けるという、聖徳太子の優秀な政治家としての顔を垣間(かいま)見ることが出来るエピソードですね。
なお、冠位十二階によって当初は「大礼(だいらい、濃い赤)」の地位にいたある男性が、外交における活躍が認められ、後に最高位の「大徳(だいとく、濃い紫)」にまで出世した事実が伝えられています。
その男性こそが、後に遣隋使として大役を果たした小野妹子(おののいもこ)なのです。
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こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和を以って貴(たっと)しとなし」で始まる部分ですね。
これは「我が国にとっては和の尊重が何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか。
聖徳太子によって説かれた精神は、私たち日本人の本質を実に的確に捉(とら)えているのです。1400年以上も昔の政治家の発想とはとても思えませんね。
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また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕して、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまであります。
政務をとる者に対して、憲法十七条は和の尊重だけではなく、仏教への信仰や天皇への忠誠などといった様々な心構えを説くことで、役人としての自覚をうながす内容となっています。
それらはもちろん重要なことなのですが、憲法十七条が素晴らしいのはそれだけではありません。実は、憲法で定められた内容には、蘇我氏などの豪族に対して聖徳太子が巧妙に仕掛けた「罠(わな)」が含まれているのです。
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また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」になることも意味しています。
冠位十二階と同様に、憲法十七条の制定によって、聖徳太子は蘇我氏による横暴や独走を抑え、後の中央集権国家の誕生へ向けての布石を確実に打っていたのです。
「いつまでも蘇我氏の思うままにはさせない」。政治家という職業には、時として誰にも負けないくらいの執念深さが必要なのかもしれません。
なお、聖徳太子は620年に「天皇記(てんのうき)」「国記(こっき)」などの歴史書を編纂(へんさん)しましたが、これらはチャイナなどの対外関係を念頭に、当時伝えられていた「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」をもとにつくられたとされています。
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事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。
この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝が宮殿に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫びました。
「何だ、この失礼な物言いは!」
「こんな無礼で蕃夷(ばんい、野蛮という意味)な書は、今後は自分に見せるな!」
煬帝のあまりの怒りぶりに隋の役人たちが震え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼しい顔をしていました。
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「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。
国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは何事か、という意味に取れなくもありません。しかし、この場合の「日の出」と「日没」は、単なる方角として使われただけです。すなわち「日の出」が東で「日没」が西という意味であり、煬帝が激怒した理由は別にあります。
それは「天子」という言葉です。天子とはチャイナでは皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号ですが、煬帝は自国よりも格下である(と思っていた)我が国が、この言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。
なぜなら、チャイナの考えで「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
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そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されることになり、皇帝の臣下となって許してもらうようにお願いするという「朝貢(ちょうこう)外交」を我が国も行わざるを得なくなったのですが、こんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、聖徳太子はこれまでとは違う態度によって、すなわち「『皇帝』=『天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨む姿勢を「天子」という言葉で示したのでした。
東アジアの超大国である隋に対して、これまでのように服属するのではなく、対等な立場での関係を希望するという「重大な決意」を聖徳太子は見せつけたわけですが、これは、我が国にとって命取りにもなりかねない、非常に危険な賭けにも思えました。
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隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を度外視した無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のであり、また、その事実を聖徳太子が冷静に見抜いていました。
当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。
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こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから、もしそうなれば、いかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにも、リスクがあまりにも高過ぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否して我が国と敵対関係になるという選択は不可能であり、そうだとすれば、我が国からの国書を黙って受け取るしか手段がありませんが、その行為は「我が国が隋と対等外交を結ぶ」ことを事実上認めることを意味していたのです。
2回目の遣隋使を送る以前から、聖徳太子は朝鮮半島をめぐる動きや隋の現状などを徹底的に調査したことで、東アジアの正確な国際情勢をつかんでいました。その結果、隋が我が国を攻める可能性がゼロに等しいことを見越したうえで、対等外交を一方的に宣言した国書を隋に送りつけたのです。言うなれば、聖徳太子の完全な「作戦勝ち」でした。
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さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。
何と、小野妹子が隋からの正式な返書を紛失してしまったのです。外交官が国書を失くすという信じられないミスに大慌(あわ)てとなった朝廷でしたが、本来なら重罪になってもおかしくなかった妹子は、推古天皇のとりなしによって許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳しく(例えば、同じ「天子」と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに、敢えて「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を許したのも、妹子の苦悩を以心伝心で察したからかもしれません。
さて、煬帝からの返書とは別に、裴世清が我が国からの歓待を受けた際に送ったとされる国書が「日本書紀(にほんしょき)」に記されていますが、その内容は、従来のチャイナの諸外国に対する態度とは全く異なるものでした。
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「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。
朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られないばかりか、丁寧な文面で我が国を褒(ほ)める内容にもなっていますね。
この国書が意味することは非常に重要です。つまり、終始ぶれることなく対等外交を進めた聖徳太子のように、国の支配者が相手国に対して、主張すべきことは主張する態度を堂々と貫けば、たとえ世界の超大国を自負する隋であっても、まともに応じてくれることを示しているのです。
一方、隋からの激しい攻撃をはね返しながらも朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられるが、皇帝たる自分にそのような面倒をかけるな」と一方的に突き放した内容の国書を送りつけています。悲しいかな、これも歴史の真実なんですよね。
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「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮しつつも、それに勝るとも劣らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという、断固たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、これには異説もあり)。
聖徳太子が遣隋使で見せた気概は、隋の我が国に対する態度を明らかに変えました。そこには、国内において「和の尊重」や「話し合いの重視」という柔軟な姿勢を示しながらも、外国に向けては毅然(きぜん)とした態度で一歩も引かず、命がけで取り組むという厳しい姿勢で臨んだ聖徳太子の隠れた業績がありました。
そして、聖徳太子による対等外交の方針はそれまでのチャイナによる「冊封体制(さくほうたいせい、冊封とはチャイナの皇帝が周辺諸国の首長に王などの爵位を授け、その国を統属させる体制のこと)」から脱却するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面で聖徳太子が我が国に残した功績は極めて大きなものがありました。
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我々日本人には、かねてより清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく後ろ暗いところのないこと)を好む風潮があり、それ自体は非常に重要なことではありますが、対外的には全く通用しないどころか、逆に利用されてしまうという危険性すらあるのです。
聖徳太子と高句麗との外交姿勢の違いは、現代に生きる私たちに大きな教訓を残しているといえるでしょう。
なお、遣隋使以後の我が国は、大陸文化の吸収のために朝貢はしても冊封されない国、という立場をとりました。これを「不臣(ふしん)の朝貢国」といいます。これは、チャイナの冊封体制からの脱却を意味しており、聖徳太子の功績の大きさをうかがわせるともいえますね。
また、遣隋使には「文化の交流」というもう一つの側面もありました。608年の3回目の遣隋使の際に、隋への留学生や学問僧として高向玄理(たかむこのくろまろ、または「げんり」)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)、僧旻(みん)らが同行していますが、彼らは大陸の優れた政治制度や仏教文化などを学んだ後に帰国し、来るべき新時代に大きく貢献することになります。
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例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子」と名付けられたという話がありますが、同じように「馬小屋の前で母親が産気づいた」とされるイエス=キリストとの共通性に興味を惹(ひ)かれます。
他にも、幼少時から抜群に有能であったため、10人による全く別々の話を同時に聞き分けることができたということなど、聖徳太子には様々な伝説があるのですが、それらがあまりにも浮世(うきよ)離れしていることを理由に「聖徳太子は実在しなかった」とか「聖徳太子の業績は大半がつくり話だ」などという学説も出てきています。
実は、このような流れを受けたからなのか、我が国の義務教育たる小中学校において、聖徳太子の存在が「消されそうになった」という事実をご存知でしょうか。
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次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)年度から全面実施されることになりました。
しかし、新たに公表された次期学習指導要領の中学社会の歴史的分野において、一般常識的に見てもどうしても首を傾(かし)げざるを得ない内容が含まれていたため、大きな論議を呼ぶことになったのです。
これまで紹介したように、6世紀末から7世紀前半にかけての政治家であり、推古天皇の皇太子でもあった聖徳太子は現代の我が国を形づくった英雄として、およそ1400年もの長きにわたり日本国民に慕(した)われ続けてきました。
ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。
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