これについては、軍事に関する条文などへの部分的な改正は必要であったとしても、現行の日本国憲法のように全面的な改正を、ましてや大日本帝国憲法(=明治憲法)の完全否定までは考えていなかったと、ポツダム宣言の起草者であった駐日大使の経験者のグルーらが後に述懐(じゅっかい)しています。
さらには我が国側も、終戦直後に成立した東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣や、そのあとを受け継いだ幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣も、戦前までの政治体制を改めるとともに選挙法などの個別法さえ改正すれば、連合国側が求める我が国の民主化は達成できると判断しており、基本法である大日本帝国憲法の改正は必要ないと考えていました。
しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)はその政策の大きな柱として、ポツダム宣言に違反し、さらに国際法であるハーグ陸戦条規にも反する「新憲法の制定」を当初から決定していました。しかも、宣言違反をカムフラージュするために、あたかも「日本が自主的に憲法を改正、または起草を行う」ように仕向けることが、当時の基本方針として明示されていたのです。
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松本試案の内容は、前年の昭和20(1945)年の帝国議会で松本大臣が発表した、いわゆる「松本四原則」に基づいていました。その内容は以下のとおりです。
1.天皇の制度の基本原則を変更しない
2.議会の権限の拡大
3.国務大臣の議会に対する責任の明確化
4.自由及び権利の保護の拡大と侵害に対する国家の保障の強化
政府としては、大日本帝国憲法の基本方針を大きく変更する必要はなく、部分的な改正だけでGHQが求める民主化に十分対応できると判断していたのです。
しかし、GHQは松本試案の内容は保守的であると見なして2月13日に拒否通告し、さらにGHQが独自に作成した「マッカーサー草案」を政府に提示しましたが、GHQの高飛車な対応や、草案の内容に対して、松本大臣をはじめとする当時の政府の首脳は、唖然(あぜん、あっけにとられること)かつ慄然(りつぜん、恐れおののくこと)としました。
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