この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神天皇の五世の孫、すなわち来孫(らいそん)にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(えちぜん、現在の福井県)から招いて26代の継体(けいたい)天皇として即位させることに成功しました。
継体天皇にはご即位前に二人の男子がおられました。継体天皇の崩御後にそれぞれ27代の安閑(あんかん)天皇、28代の宣化(せんか)天皇として即位されましたが、わずか数年で相次いで崩御されたため、その後は継体天皇のご即位後に武烈天皇の妹との間に生まれた29代の欽明(きんめい)天皇が即位されました。
かくして神武天皇以来の皇統が維持されるとともに、現代にも脈々と受け継がれています。
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朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで527年に反乱を起こさせました。いわゆる「磐井の乱」のことであり、鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村の意見によって任那西部の四郡を隣国で朝廷との友好国であった百済が支配することを認めました。
支配地が減ってしまった任那は次第に衰退し、562年にはついに新羅に滅ぼされました。これによって我が国は朝鮮半島における拠点を失いましたが、百済との友好関係は維持し続けました。
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朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることです。
やがて我が国に仏教が伝来すると、積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部氏や中臣(なかとみ)氏との対立が激しくなりました。
天皇の後継者問題でも対立した蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)のあいだで587年に戦闘が起きると、これに勝利した蘇我馬子が朝廷の実権を独占しました。
なお、蘇我馬子は男性です。当時は「○子」という名前が男女を問わずに用いられていました。馬子の他に「○子」で男性の有名な歴史上の人物としては、7世紀の小野妹子(おののいもこ)が挙げられますね。
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大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗や百済・新羅のみならず、我が国にも大きな衝撃を与えました。
なぜなら、新たな統一国家である隋の誕生によって、それまで大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアにおける政治の情勢が微妙な状態になってしまったからです。
果たして、隋は陸続きの高句麗に積極的に攻め込むことで国力を高めようとしました。一度は隋の攻撃をはね返した高句麗でしたが、依然として危機にあることに変わりはありません。
隋の動向によっては、朝鮮半島がすべて侵略されるばかりか、我が国にも攻め寄せる可能性が十分考えられました。そうなれば、我が国は冊封(さくほう)体制から脱却するどころか亡国の危機を迎えかねないという非常に難しい立場に追い込まれてしまいましたが、そんなピンチに際して、誰しもがあっと驚くような強気の外交を行った人物がいたことで、我が国は大きな危機を回避することができました。
その人物こそが、かの有名な聖徳太子(しょうとくたいし)だったのです。
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