例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを可能とする技術が農業の生産性を大いに高めたりするなど、帰化人が我が国の産業や文化の発展に果たした役割は大きいものがありました。
また、漢字を我が国に伝えたのも帰化人でした。我が国にはそれまで文字の習慣がなかったのですが、漢字を使用して朝廷の様々な記録などを残すようになりました。
なお、我が国には漢字の伝来以前から神代文字(じんだいもじ、または「かみよもじ」)と称される古代の文字が存在したという見解もあります。
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また、6世紀に入ると百済から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか儒教(じゅきょう)を伝えました。さらに6世紀半ばには仏教(ぶっきょう)も百済から伝えられるなど、我が国の思想や倫理あるいは道徳といった精神的な面において大きな影響をもたらしました。
当時の我が国は、文化の面では確かに大陸や朝鮮半島に一歩先を譲(ゆず)っていましたが、そんな遅れを取り戻すかのように彼らの文化を積極的に受けいれようという姿勢が目立ちました。こういった先人の努力が、やがて花開く我が国独自の文化の原動力になったことは間違いないでしょう。
なお、仏教の伝来の年については「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」などに記載のある「538年」とする説と、日本書紀に記載された「552年」とする説とがあります。
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群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしました。
後期の古墳内部の石室は、従来の竪穴式石室にかわって5世紀の中頃から大陸の影響を受けた横穴式石室がつくられるようになり、6世紀には全国的に広がりました。
竪穴式石室が遺体を埋葬して古墳に封じ込める意味があったのに対して、横穴式石室は遺体を安置する玄室(げんしつ)が羨道(せんどう)によって外部につながっており、いつでも追葬(ついそう)できる仕組みになっていました。
これは、竪穴式石室がひとりの人間を埋葬するための墓の性格をもっていたのに対し、横穴式石室が後から亡くなった者をあわせて葬(ほうむ)ることができるという家族墓(かぞくぼ)的な性格を持っていたこととされています。
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家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味から、故人の生前の思いが込められた内容に変化していったことをあらわしています。
また後期の古墳には、九州地方を中心に古墳内部の壁や石棺(せっかん)に朱色などの顔料を用いた彩色壁画(さいしきへきが)が描かれた装飾(そうしょく)古墳がつくられるようになったほか、7世紀中頃には近畿で天皇の陵墓を中心に八角墳(はっかくふん)がつくられました。
一方、これらの変化が定着したことで、権威の象徴としての古墳の意義が薄れると、大化(たいか)2(646)年には薄葬令(はくそうれい)が出されて墳墓の大きさが身分に応じて制限され、また仏教の普及によって火葬(かそう)が広まったこともあり、古墳文化は終焉(しゅうえん)を迎えました。
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日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の須恵器(すえき)も用いられるようになりました。
また、当時の男性は筒袖(つつそで)の衣に乗馬ズボン風の袴(はかま)を着用し、髪を左右に分けて耳のところで三つ編みなどに束(たば)ねる美豆良(みずら)に結っていました。女性は筒袖の衣にスカート風の裳(も)を着けて大きな髷(まげ)を結い、耳や首あるいは腕などに装身具(そうしんぐ)を身につけていました。
これらの姿は、古墳から出土した人物埴輪にも表現されています。
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春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成されました。
なお、祈年祭や新嘗祭は、皇室の重要儀式として現代においても行われています。また、新嘗祭は明治以後に「大祭日(たいさいじつ、または「たいさいび」)」となり、現在は「勤労感謝の日」として国民の祝日になっています。
当時の人々は、海や山などの自然に神が宿ると信じて自然神を祀(まつ)ったり、祖先の神を祀るための社(やしろ)をつくったりしました。また、心身の汚(けが)れをはらい、災いから免れるために清らかな水に入って体をすすぐ禊(みぞぎ)や祓(はらい)を行い、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)も行われました。
さらには、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽(しんぎ)を判断するという神判(しんぱん)の盟神探湯(くかたち)などの呪術的な風習も行われました。
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